2010年03月22日

tabi0343 藤井直敬「ソーシャルブレインズ入門」

他者へのリスペクト、ヘリテージへの畏敬
わたしたちの脳は、認知コストバランスと社会的制約の両方からの制約を積極的に受けることで、わざと自由度を残していないのかもしれません。エネルギー効率という点で見れば、制約に従う生き方は脳のリソースをほとんど使わない最適な生き方だからです。社会的な制約は、ともすると人の創造性を奪う大きな問題のように見えますが、視点を変えれば、一人一人のエネルギーコストを下げることで、社会全体のオペレーションコストを下げるという利点があるのかもしれません。P50
藤井直敬「ソーシャルブレインズ入門」(講談社 2010)


認知コストの押しつけあいのしくみが社会的駆け引きの原理であるという著者の見方が面白い。何かを考える、行動規範を変えるというのは、脳に負担がかかる。だから、上司や強者は、部下や弱者に問題解決の認知コストを払わせる。人間にはもともと自分の認知コストをできるだけ少なくすまそうとする圧力があるようだ。

敷衍すると認知コストが低い状態が幸福という見方ができる。

社会ルールは社会全体の認知コストを減らす。その問題についていちいち考えなくてよくなるからだ。「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」=リスペクトも、相互の信頼によって認知コストを減らす効果を持つと著者は考える。リスペクトを持ってくれている相手は、自分の利益を気にかけてくれているので、考えるべき変数が少なくなるからと。

個人的にはECoGを用いて脳活動を計測するという新しい試みが興味深かった。藤井さんのグループの研究を記述した章は、未来への胎動の確かな手応えに満ちており、今後の展開を期待させるものがある。

■参考リンク
茂木健一郎 他者に対する「リスペクト」
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
久方ぶりに更新。
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2010年03月01日

tabi0342 南直哉「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」

而今(しきん)の運動様式を経歴(きょうりゃく)と言う

而今はSikinという。Jikonでもなく、Nikonでもなかった。前後も古今も過去も未来もない。ゼノンのパラドックスが想定する「時間」もない。入不二基義「時間は実在するか」は参照出来そうにない。いよいよ私の頭を1つもって、思考を強いられることになってきた。本にすがり付く習慣がついてるわけではない。なので恐れも、不安もない。

本書における『正法眼蔵』読解のポイントをもう一度整理しておきたい。ポイントは四つである。

その一、つねに変わらず同一で、それ自体で存在するものとして定義されるもの、それは仏教では「我(アートマン)」と言われるが、他に「実体」と呼ぼうと「本質」と呼ぼうと、はたまた「神」「天」と呼ぼうと、こういうものの存在を一切認めない。

その二、あるものの存在は、そのもの以外のものとの関係から生成される。これが本書における「縁起」の定義である。

その三、我々において「縁起」を具体的に実現するのは、行為である。関係するとは行為することであり、行為とは関係することなのだ。

その四、「縁起」であるはずの自体を、「実体」に錯覚させるのは、言語の機能である。と、同時に「自己」は言語内存在として構築される。

以上四点が、本書が提案する『正法眼蔵』を通読する場合の基本原則である。P78
南直哉「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」 (講談社 2008)


しかし、この心の揺れはなんだろうか。もう一切依頼すべきことがないという感覚。それは自らをもって依頼を生み出さざるをえないという創造意欲の裏返しだろうか。而今(しきん)で生きるとは何だろうか?それは生きられるのか?生きているといえるのか?言語機能からは脱落して、非言語機能に依頼するのも手出し、言語機能が構成されていく流れに依頼をしていくのも手だと思いつつある。

■参考リンク
tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」
tabi0314 岩田慶治「道元との対話」
tabi0315 中村元「龍樹」



■tabi後記
3月に入りました。

>>

今福龍太「ここではない場所 イマージュの回廊へ」一つの都市の体験の背後には、つねにかならず別の都市の経験や記憶の痕跡が付着し、ときにはその記憶の方が、現実の都市の表層の蚕食して生き生きと現れだす。「都市」を経験するとは、畢竟、そうした重奏する記憶の召喚と、連鎖的に現れる無数の異なった都市的イマージュの喚起の行為にほかならない。P2
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2010年02月25日

tabi0341 ハワード・ジン「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」

負の伝統を鮮やかに暴き出すことにより、英断は下されていく
もしも政府を<改変もしくは廃止>することが国民の権利だとしたら、当然政府を批判することも、国民の権利にふくまれるだろう。

また、昔からの国民的英雄の過ちを指摘しても、若い読者を失望させることにはならない、ともわたしは考える。英雄だと教えられてきた人物のなかにも、尊敬に値しない者がいるのだという真実を語るべきなのだ。P8
ハワード・ジン「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」(あすなろ書房 2009)

本書は1492年のコロンブスのアメリカ発見から2006年のブッシュ大統領の時代までの裏アメリカ史である。アメリカに憧れている人々はもとより「アメリカ人」自身が衝撃を受ける内容であった。しかしそれは、まさしくもう一つのアメリカの顔であり、強者からだけ見ていては歴史の真実は分からないことを私たちに教えてくれる。

コロンブスのアメリカ大陸到達は、先住民族(インディアン)の虐殺と、白人による領土拡大の始まりであり、それに伴う労働力の不足を補うためにアフリカから黒人を奴隷として連れてきたことが、その後アメリカ社会をゆがめ蝕み続ける人種差別問題の発端となった。

また、アメリカ独立宣言は人間の平等と生命、自由、幸福の追求の権利を謳い、民主主義の勝利宣言だと考えられているが、実は少数の富裕層の既得権益を守る宣言であり、先住民、黒人、女性は守るべき対象とされていなかった。

アメリカ史の実態は国内的にはインディアン迫害と奴隷制と身分差別を機軸とする暗黒、対外的には覇権国家として侵略という暗黒の歴史の連続だったのだ。

著者のハワード・ジンは世間的に人気があるから、個人的に溺愛しているからアメリカを研究対象と選んだのだろうか?いや、そうではない。むしろその対象を批判的に再検討すれば自分自身の思考を深めることができる。そのような確信があるからこそ、その対象を選び取ったのだった。

そして、負の伝統を鮮やかに暴くことによって後世の人々に適切な知識を与え、それを基にした判断力を養ってもらいたい。この2つの思いが、彼の研究生活を支えてるのだろうと思うような内容であった。

■参考リンク
"westory" - 書評 - 学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史
弱者が見たアメリカの本当の歴史書評





■tabi後記
今年中にアメリカを経験してこようと思います。
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2010年02月24日

tabi0340 今福龍太「群島ー世界論」

「大陸」という概念に対抗する「群島」というわけではない。その語り方。
いまを覆う、外なる、内なる廃墟。海洋交通によって開けた「近代」という前進する歴史の逆説。海を統括することで大陸原理による世界支配を数世紀にわたって続けた国家の逆説。それらを痛苦とともに負って、歴史を海の姿に反転させること。陸上に具現された秩序や体系ではなく、海面下に沈められていた統一と共鳴関係を歓喜の記憶の波打ち際に浮上させるために。海の凡例
今福龍太「群島ー世界論」


大陸島と大洋島という地理学的イメージは、想像力の場においては、分離と再創造という運動性として認識される。島は、大陸からみずからを分離することで「無人島」として生まれ出、その島の創造のエネルギーを繰りかえす力が、より独立した始原的大洋島の出現を促す。すなわち、「島についての想像力の運動は、島を作り出す運動をやり直す」のである。P79
今福龍太「群島ー世界論」


インディアンや琉球の民における世界は、所有という観念が、無私の贈与がもたらすコミュニケーションへの信頼によって裏打ちされていた。そこで所有することは、寄りつくものをいただき、ふたたびそれをどこかに向けて与えてゆくという行為の連鎖にほかならなかった。

群島世界では、異人はその世界に神話的贈与をもたらす「寄留者」であり、汀に流れ着く異物もまた異世界からの神秘的な「寄留物」「寄物」として深い信仰と崇拝の対象にさえなった。茅ヶ崎をはじめとする日本の「浦」という地勢には、海上の道などの考察がある。

■参考リンク
森のことば、ことばの森
今週の本棚:沼野充義・評 『群島−世界論』=今福龍太・著



■tabi後記
海から陸をみつめるという視点はとても面白い。

坐禅会(3/6 17:00-3/8 11:00)の申し込み完了。起床午前4時 朝晩坐禅 昼は作務、提唱、入浴有り 午後9時消灯。無言の空間にて己から湧き上がる声を聴く時間になりそうです。http://bit.ly/aEfKrr

フリード/ハンソン「小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則」計画はただの予想。利益を上げる方法はあとから見つけるのはNと。ワーカーホリックはヒーロー感覚を楽しんでいるだけ。などの経験談を語る。昼間の仕事を副業にし、平日の数時間/週末を本業にする術も説かれている。
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2010年02月22日

tabi0339 小坂井敏晶「責任という虚構」

規範という錬金術
責任という虚構。大切なのは根拠の欠如を暴くことではなく、無根拠の世界に意味が出現する不思議を解明することだ。どうせ社会秩序は虚構に支えられざるをえないから、より良い虚構を作るよう努力すべきだという意見もある。しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは私の方なのだ。道徳や真理に根拠はない。しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活はありえない。虚構としての根拠が生成されるとともに、その恣意性・虚構性が隠蔽される。人間が作り出した規則にすぎないのに、その経緯が人間自身に隠される。物理的法則のように客観的に根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。これが本書の自らに課した問いだった。P257
小坂井敏晶「責任という虚構」(東京大学出版会 2008)


我々は結局、外来要素の沈殿物だ(と言い切れるときもある)。私の生まれながらの形質や幼児体験が私の性格を作り行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず外部にすり抜ける。犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないか。どうして私に責任が発生するのか。(と問いたくなるときがくる。)

アイヒマンリベットも知ってはいました。人間の自由意志に関連する書籍も幾多と読んできましたが、それらの書籍をベースにした上で世の中と「必死」に接合しながら思考する著者に感銘した次第です。

■参考リンク
障害・介助・ベーシックインカム
翻訳・戦略ブログ
arsvi . com



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

ヴェルナー「べーシック・インカム 基本所得のある社会へ」必要最低限の所得をすべての国民に支給し、人はそれぞれが意義あると観る仕事をする、という構想。労働と所得の切り離しが消費と創造の世界を生み、労働/雇用創出至上主義からの脱却が「不安のない社会」を形成すると説く。

ヴェルナー「すべての人にベーシック・インカムを―基本的人権としての所得保障について」前著は対談本で、本書が単著となっている。財源(付加価値税)や移行過程における社会福祉の扱いなどについて精緻に論をすすめている。

山住勝広/エンゲストローム 「ノットワーキング 結び合う人間活動の創造へ」活動システムにおけるコラボレーションの創発を促すために「結び目づくり(knotworking)」と名づけることが出来る、新たな活動の形態やパターンに焦点をあてた。http://bit.ly/cISNCW

フルフォード「世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン」ベンさんの本を立ち読む。彼はキャラ立ちしてるよね。amazonをみて、09年も精力的に活動されていることを確認。これからもスコトーマ外しに尽力してもらいたい。http://bit.ly/avLjnl

高城剛「オーガニック革命」何を食べるかは単なる趣向やライフスタイルを超えた、アイデンティティの根幹に関わる問題であるとし、自分の健康の先に、自然環境の健康があることを説く。ファーマーズマーケットと出る度に @yusuke51 かあと思いながら読んでました。侵入された!
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2010年02月21日

tabi0338 今福龍太「身体としての書物」

メディアとしての身体、書物としての身体
「書物というイデア」という言葉で、われわれは事物と精神性の統合体としての本というものを想像してみたい。それこそ、書物の本質的な存在様態にちがいない、という直観があるからです。「身体としての書物」というテーマは、「書物というイデア」というテーマと表裏一体のものだと言っておきましょう。P20
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


今福はイデアとは形而上学的な観念や理念ではなく事物と精神性が等号で結ばれるような何かを指す用語であると提示する。その上で「書物」の「BODY」(本質/身体)を探求していく。

持続の書物という言い方で、川を下り、川の流れに全身を浸すようにして『水滸伝』やエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、E・R・クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』といった大部の古典を読むことの根拠を問いかけている。グリッサンは、我々はそこでは霊媒状態にあるのだと思う、と言っています。
(中略)
そして、我々がそこに求めるのは、なによりもまず、今日我々に必要な全体性(トタリテ)の先駆的徴候である。我々はそこに不変数をマークし、どうしてこれらのテクストがそれを予兆したのかを知りたいと思う、とあります。「不変数をマークする」とは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ということでしょう。さらに、それは自分自身の言葉の占いと呼ぶ行為だ、つまり自分自身の言葉の前兆を読む行為だ、ということ。持続の書物を読むことの意味をグリッサンはそのように考えるわけです。P303
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


私が解釈したことは。今福の仕事が辿り着いたのは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ための予行訓練が「書」で行われていたこと!を発見した営みであったいうことである。この点において、素晴らしいさを感じる。

■参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE 身体としての書物/今福龍太



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

松岡正剛「侘び・数寄・余白 」「文」は記憶する 目の言葉・耳の文字・舞の時空・音の記譜-インタースコアとインタラクティブシステムの歴史/日本美術の秘密 白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし/「負」をめぐる文化 正号負号は極と極。いづれ劣らぬ肯定だ-引き算と寂びと侘び

竹沢尚一郎「社会とは何か―システムからプロセスへ」タイトル負けしている。しかし、社会の発明/社会の発見/社会学の発展を網羅し、「世界システムの中で相互規定しあう存在が、自律的に内的に発展している構造とみなされるようになったのは何故か?」という問いへ移行する様は面白い。

関根 康正 (編集) 「<都市的なるもの>の現在」:社会の<中心>に位置する都市と<境界>に位置する都市。過ごす場所としての都市と生きられる場所としての地域。

シリングスバーグ 「グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学」主訳者の明星聖子(カフカ研究者)の解説が面白い。彼女にとっては、嬉しくも悲しい予言の書となった。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。という意味において。外国文学研究者は文学作品の理解が主目的であって学術版編集行為という「文化のエンジニアリング」には関心がない。その無関心さが編集文献学の空洞化に寄与したと言う。明星は解説においてすら「この仕事を好きでやったのではない」と語る。では、何故が彼女を駆り立てたのだろうか。

田坂広志「企画力」人間と組織を動かす力。立案ではなく実現を志向とする営みであり、一人歩きする紙(推理小説)を創ることの気概を説く。具体的には、掴みの起動、ビジョンの追い風、戦略/戦術/行動計画による構造を要件とする。

アレクサンダー・ゲルマン「ポストグローバル」私たちはこれから、『遅くなっていくこと』に慣れていかなければならないのではないか。能、文楽、花火、武術、香道、染織、流鏑馬、日本酒造り……と好奇心に赴くままの体験報告。
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2010年02月20日

tabi0337 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

他者とは「異なる論理空間」の別称にほかならぬか
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえわれわれは、論理の限界にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
5.62 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語れられえず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
5.621 世界と生とはひとつである。
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)P115-6
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(岩波書店 2003)


論理空間とは、現実世界をそこに含むような、可能な状況の総体である。『青本』にはウィトゲンシュタイン哲学の根本洞察が垣間見える。

「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」

また、『論考』以前に書かれた『草稿』において独我論はすでに芽を出している。

歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。
世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。人間の体
はしかし、とりわけ私の体は、世界の他の部分、つまり動物、植物、岩石、等とともに、世界の一部である。


本書の訳者でもある野矢は「『論理哲学論考』を読む」において、現象主義的独我論と存在論的独我論という言葉を用いている。

そして、存在論的独我論について一歩足を踏み込むのがこの問いである。

「いま現在の論理空間において構成された動作主体としての私の通時的同一性と、論理空間の変化に応じて寸断される存在論的経験の主体たる私との関係」

記憶。

その1単語において、自我の同一性を担保できると思える方も少ないだろう。

ここでも立ちはだかるのが「時間」という事態である。

永井均の「独今論」や入不二基義「時間論」に興味をもつのは当然のことなのだろう。この2名もウィトゲンシュタイン哲学に「支配」された者であるのだから。

■参考リンク
第八百三十三夜【0833】03年08月07日
続:同一性・変化・時間
341旅 『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均
342旅 『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン






■tabi後記
Twitterに没頭した数カ月であったが、そろそろBlogに戻ってこようと思う。そして、次は「アナログ」へ向かっていこうと思う。
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2010年01月18日

tabi0336 伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」

旅は日常か非日常か、それとも。
世界一周をよく「自分探しの旅」などと表現する人がいる。
私はこの「探す」という言葉が女々しく嫌だった。

「自分探しするくらいなら、理想の自分を思い描いて、それに向かって『自分作り』したらいいのに」などと、屁理屈をいつも頭の中でこねていた。

そんなアンチ・自分探しの私でも、この旅行で新たに自分の嫌な部分や、逆に柔軟な部分を発見したのかもしれない。

不本意ながら、世界一周は究極の自分探しだったんだと思う。自分を探していたというよりも、自分自身とずっと対話していた。P214
伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」(ポプラ 2009)


コンテクストが変わることによって開示されるコンテンツに察知しやすい体づくりが最近の関心だったりします。〈変化〉は巨視、微視、意識、無意識に起こり続けていますから(その「起こり続け」もまた同様である)、彩度/精度/強度をもった<思考>をしていくために旅というものを活用している。さて次は自分の体をどこへ投げやろうか。

本書をこのような文脈で読みすすめていったときに思ったのは「自分」が限定的な世界にいること(そして「いてしまったこと」)の自覚と、◯◯としてもあれたかもしれない自分の自覚(とはいえ、◯◯としてあっていることの自分)、この2つの振り子の中に佇む「自分」を探求することが旅なのではないかということです。

>>

3ヶ月前に旅にまつわる10の名言(といわれるもの)に対峙することで、「旅」という言葉にチューニングテストを行っていました。

以下には、納得するもの、首をひねるもの、理解不能なものがあると思いますが、各自で「旅」という言葉と距離感をはかってみてほしい。その立ち位置を記憶し、半ば忘れ去りながら考えてみるといいかなと思います。

>>

人生とは旅であり、旅とは人生である
中田英寿


旅というものには、条件があるんです。それは「戻ってくる」ことです。戻ってこなかったら、「蒸発」と呼ばれてしまうでしょう。ですから、「どうやって戻ろうか」をずっと考えながら旅をすること、それが旅なんですよ?
三浦じゅん


旅するおかげで、われわれは確かめることが出来る。たとえ各民族に国境があろうとも、人間の愚行には国境がない。
ブレヴォ


旅の最大の悦びは、おそらく事物の変遷に対する驚嘆の念であろう。
スタンダール 


辛い時もあるさ。でも独りになるには、旅が一番だからね。この間も話したように、僕は孤独になるために旅をするんだ。長い間の孤独の生活から、春、このムーミン谷に帰って来た時の喜びは…なにものにもかえがたいものだよ。
スナフキン


旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
ブッダ


ウチは田舎だったから郵便局にハガキを買いに行くのさえも『旅』だったよ。
リリー・フランキー


ロバが旅に出かけたところで馬になって帰ってくるわけではない。
西洋のことわざ


「旅」にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと。
リルケ


旅の本当の意味は、俗な言葉だが「自分を発見する」ことにある。
山下洋輔


>>

10月に1ヶ月ほど東南アジア(タイ/カンボジア/ベトナム/ラオス)へ、先日まで2週間ほど上海近郊(上海/南京/蘇州/杭州/紹興)へ足を伸ばしていました。時折考えていたのは「旅」に非日常性をもたせることでも「日常」を美化するためでもなく、自然なものとして旅をとらえたいということです。

中田さんは、人生は旅という非日常性を醸し出しながらも、その旅は人生であるという日常への着地を表現されています。そこに「人生/旅」の二重性をみるのは難しくないでしょう。

三浦さんの言葉には、童歌「とおりゃんせ(通りゃんせ)」にある「行きはよいよい 帰りは怖い」に類似する趣きを感じます。

「どうやって戻ろうか」というのは、どこに戻ろうかという話しではなく、どのような体裁をつけようか/どの面下げて帰ろうかという話なのかもしれない。バックパッカーが背負っているのは、荷物ではなく出発としてきた場所/関係なのだろうか。

ブレヴォ/スタンダールは、文化,言語,時代が異なるにつれて普遍性と特殊性への嗅覚が鋭敏になることを強調しているのだろうか。これは旅の非日常化を試みているように思う。

スナフキン/ブッダは、旅をある目的にしている。前者は一人になるためであり、後者は師をみつけるためであると。私には、一人になることと師をみつけることは表裏にあると思っている。それは、無私になるというコインにのせることによって。

リリー・フランキー/西洋のことわざには、旅の日常を垣間みることができない。リリーさんには、距離/無人という変数が組み込まれると旅が成立するという前提がある。

そしてことわざには、何が人を変化させるのか?という逆説的な問いと、そもそも変わったというための「差分」どり自体に不可能性をみているのではないか?これは時間という概念への問いであろう。

リルケ/山下洋輔は、シンプルであるが、一定の納得を得られる言葉ではないだろうか?

■参考リンク
本当の修学旅行
【必見?】はあちゅうの世界旅行記が半端ない件



■tabi後記
そもそも「旅」という言葉をチューニングしようと思ったのは、

・旅で一番のトラブルは何だったか?
・旅で一番インパクトのあったことは?
・旅でカルチャーショックだったことは?
・旅が終わって、次に何をしていくのか?
etc..

そもそも「旅」にいくと、こういったことが問われるのは何故なのか?と思いはじめたことが契機でした。そして結論をいってしまえば、こういった質問を浴びることが常であるような生活をする必要があるなあと思いはじめたのです。

それは、他人のアテンションを振り向ける言動や情報発信をしていくということではなく(結果的にそうなってしまうのだろうが)、旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのでしょう。
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2010年01月13日

tabi0335 クリス・アンダーソン「フリー」

有料からの逃走、およびフリーのコストについて
ほとんどの起業家は、需要な価格弾力性が常に存在することを前提にしています。つまり、売るものの価格を下げれば下げるほど、需要が上がるはずだと考えます。これが罠なのです。彼らは、「月々わずか二ドル」というビジネスプランを用意すれば、収益チャートが右肩上がりになるはずだと期待するのです。

しかし、実際は売上げを五ドルから五◯◯◯◯万ドルに増やすのは、ベンチャー事業にとってもっともむずかしい仕事ではありません。ユーザーになにがしかのお金を払わせることがもっともむずかしいのです。すべてのベンチャー事業が抱える最大のギャップは、無料のサービスと一セントでも請求するサービスとのあいだにあるのです。P84
クリス・アンダーソン「フリー」(日本放送出版協会 2009)


クリス「フリー」は商売根性を奮い立たせるという意味において良書であり、無料の正当化に与する書ではない。社会に新たな価値/文化を問いながら持続性(収益性)から逃げずに事業運営をしたい方は読んでみてほしい。

ここでいう「フリー」というのは、マネタリーコストにおける無料であり、心理コスト、エネルギーコスト、タイムコストなどが「フリー」になっていると主張するわけではない。

非貨幣市場における「フリー」は評判と注目を得るために行為する人々にもとに成立している。個人的には「「有料」であったという知覚態度を獲得するためにどうするか?」という視点を深掘っていく契機になりました。

■参考リンク
価格を捨てる勇気
「無料」だからこそ「最高品質」になりえる<無料>の逆説





■tabi後記
南京、蘇州、杭州、そして紹興と移動してまいりました。到るところにマクドナルド、KFC、スターバックスが待ち構えています。
posted by アントレ at 19:30| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0334 ロン・ロバート「ダイアネティックス」

ロン・ロバート「ダイアネティックス」(new era 2000)の要約を掲載する。

存在のダイナミック原則とは、生存せよ!である。

生存には4つの領域が存在し、これらの領域は生存のダイナミックと抑制力の比率によって左右される。

生存のダイナミックは、自己(とその共生体)、セックス、集団、人類によって規定されており、これらは生存的な行動様式という。

生存の絶対的目標は、不滅、すなわち無限の生存である。

人間はこの目標を、さまざまな形で追い求める。一個の有機体として、または精神、名前、子供、自分が属している集団を通じて、あるいは人類と子孫、自分の共生体、さらには他の人々の共生体を通じて追い求めるのである。

人間の心は、四つのダイナミックのすべてにのっとて知性を発揮する。
知性は問題を認識し、提起し、解決する能力である。

しかし、ダイナミックと知性は、エングラムによって抑制される。

エングラムとは、肉体的な苦痛あるいは感情的な苦痛と、その他すべての知覚を含む「無意識」の時間であり、分析心が経験として利用できるものではない。

再刺激とは、現在の状況がある状況と似ているために、その過去の記憶に対する反応が引き起こされること。リターンという想起能力(反応心)が分析心を乱しているとするならば、その乱れている「7」を取り除く必要がある。(この「7」の意味することは本書で確認頂きたい)

それが反生存と同情のエングラムである(ソニック、ノンソニック、ダブインによるチェーン)、この逸脱された状態からクリアになることを目的とされた思考の科学がダイアネティックスである。



■tabi後記
80%書き終わっている書評が何個かあるので、それをアップしていこう。
posted by アントレ at 16:47| Comment(1) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0333 ジョナサン・コット「奪われた記憶」

私たちの記憶はなぜ存在するのだろうか?
あなたはなぜ、私たちが本来の真の自分を忘れているとお考えなのでしょうか。また、どうしたら私たちはそれを思い出せるのでしょうか。

M(トマス・ムーア)グノーシス主義的な質問ですね。グノーシス主義者たちは、心は彼方から地上にやってきた後、自分たちがどこからやってきたのかを忘れてしまうと言っています。ですから彼らはこう問います。私たちはどうしたら思い出せるのか?どこに兆候があるのか?グノーシス主義者たちは、私たちは時どきメッセージを受けとると言います。夢は、私たちの記憶の、私たちが本質的に何者であるかということの源であるという人もいます。そして、それは何千年もの間、問われてきた問いなのです。P178
ジョナサン・コット「奪われた記憶」(求龍堂 2007)


「ショシンタブレ - 0からやりなおしたろう - 」

planA-syosinsya.jpg

こんなタイトルで妄想企画書もどきを書いたがことがありましたので添付しておきます。

概要:

この習慣っていつ身についたのかな?

あなたは、そんな思いを抱いたことがあるだろうか。


どうして歯を磨けるようになったのだろう?
どうしてがゴミ箱にゴミを捨てるようになったのだろう?

ショシンタブレは、あなたが抱いた問いにこたえてみせます。

そのためには、
あなたにとって当たり前になっていることを消してしまう必要がある。


それがショシンタブレが提供するサービスです。

詳細:

ショシンタブレは、記憶をリセットするのではありません。

習慣消去によって生じるであろう、初心。


その初心がありもしない方向へ帰着するのを見守るサービスです。

私たちは初心者志望の味方です。

歯をみがけなくなったら、あなたの生活は歯みがきに挑戦する生活にかわります。人は習慣に飼いならされ、それが出来なかったときへさかのぼることが出来ないようです。

ショシンタブレはそれを可能にしようと思うのです。

あなたが歯みがきだけが抜け落ちた生活をするとどうなるのだろう?

記憶は消しても、体が覚えているかもしれませんだがそれもまた新たな発見でしょう。
そのような発見こそが、ショシンタブレたる者の試みなのです。


開発責任者談話:
情報を蓄えることによって選択の習熟・成熟を計っていこうとする世の中の流れにのりたくない。この天の邪鬼さだけが開発の起点でした。MIB社が志しているのは未熟への道です。もはや未熟でもないのかもしれない。行為が欠落したまま生活は行なわれるかもしれないから。

■参考リンク
極東ブログ [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)



■tabi後記
MIB社は粛々と成長しているようです。21日のゼミには潜ってみよう。
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2010年01月11日

tabi0332 レーニン「帝国主義論」

「帝」「国」の止揚。帝はどこへ?国はなにへ?
一般的に、あらゆる定義の意義は、条件付きで相対的なものである。したがって、定義に頼るばかりでは、ある現象が完全に熟した段階で周囲とどのような結びつきをもつかを全面的に把握することはできない。そのことを承知した上で、帝国主義の五つの特徴を含んだ定義をすればよいだろう。

(一)生産と資本の集中化が非常に高度な発展段階に到達し、その結果として、独占が成立していること。
(二)銀行資本と産業資本が融合し、その「金融資本」を基盤として金融寡占制が成立していること。
(三)商品輸出ではなくて資本輸出が格段に重要な意義を帯びていること。
(四)資本家の国際独占団体が形成され、世界を分割していること。
(五)資本主義列強が領土の分割を完了していること。

帝国主義とは、特殊な発展段階に達した資本主義のことである。その段階に至ると、独占体と金融資本の支配が形成され、資本輸出が際立った意義を帯びるようになる。また、国際トラストが世界分割を開始し、資本主義列強が地球上の領土の分割を完了する。P175
レーニン「帝国主義論」(光文社 2006)


93年前に本書が予言したことは現在の世界で起きているようにみえる。内容を一言でまとめるなら「肥大化した金融資本が世界を分割支配し、国家を動かす」というもの。

だが、レーニンがみていた20世紀初頭の帝国主義は、産業資本主義によって蓄積された資本が工業や農業として植民地に投資されるもので、そのためには領土の再分割が必要だったが、現代の帝国循環はアウトソーシングなどの形で行なわれるので、領土を奪う必要はない。この意味で、ネグリ=ハートのいうように、現代は帝国主義ではなく「帝国」なのかもしれない。

この新しい「帝国」の特徴は、資本が工場のような直接投資に限らず、投資ファンドによる企業買収のような形で、収益最大化を求めて世界中を駆け巡ることだ。日本の資本効率の低い企業がねらわれるのは典型例である。

■参考リンク
レーニン『帝国主義論』と現代世界
産業資本主義と金融資本主義
なぜ資本主義はいつも国家独占的なのか
新帝国主義論



■tabi後記
上海日誌:

初日の昼は、ステイ先の近くの韓国料理(ING)へ行きました。復旦大学と上海財経大学の学生が頻繁に利用するお店で、25元で豚肉の甘辛炒め+白米を堪能した。375円なので結構高めでした。同様の物はコンビニ(LAWSON)で8元です。

この近辺は何千人規模で留学生寮があるため、彼らをターゲットにした商売が盛んである。例えば、 MTB/ロードバイクを販売する店が構えてある。

ボロい商売の構造へ迫っていきたい。GIANTが一台2000元ほどで売られている。原価70%と仮定すると、1日3台/30日営業で54,000元の粗利になる。賃貸料は8000元ほど、人件費は2名を10時間常駐させても6000元の人件費(10元/H)なので、40,000元の利益になる。

この形式で3店舗経営をすれば、15万元ほどの月間利益になる。商材を化粧品やバックを変えて、月に3-5万元ほどの収入を得る中卒や高卒の方々が相当程度いると考えられた。3万は日本円で45万円、物価を反映させると120万円/月くらいの感覚であろう。

上海市内の主要大学は、復旦大学と上海財経大学と上海交通大学と上海大学であるが、他にも専門学校のような大学が20個ほど出来上がってきている。中国の大学進学率は20%であるから、大卒者は珍しいことになる。

ただ、中国人の見方としては「大学生は将来有望ですね!」というものではなく、新卒でも5000元ほどの収入しか得ることができなく、就職口が確保するのも危うい状況なので、中学/高校を卒業し引越業者/タクシー運転手などの職で7000元ほどの収入を得ている者が多くいると聞く。

上記重労働の旨みについて考察してみる。中国のタクシー運転手は、タクシー会社から1台を2名でレンタルする。24時間勤務を交代交代でこなしてく勤務体系だ。営業費用は、1日あたり420元で、ガソリンと洗車は個人負担であるから、損益分岐は500元あたりである。

初乗りが12元なので、50人(平均20元)ほど接客をすれば500元/日ほどの利益になる。月15日勤務で7500元の収入である。客数でいくか、単価でいくかは運転手次第であるが、上海浦東空港から市内まで150-200元なので、往復3回こなせば7500元は稼げることになる。

次は風俗のケース。サービス体系は本番あり/なしの2ラインになっており、価格は150元/50-100元と分かれている。多くの方は150元コースを採用していますが、売春がバレたら重罪は必至である。店主と公安で取引関係が出来ているので、摘発されるずに済んでいる。

私が取材をしたところは、取り分は店主が6割、女性が4割になっていた。私が話しをした店主は人柄が大変良い方だった。収入を推察してみよう。仮に4割の取り分だとしたら1行為で60元になる。

20日勤務で1日5人の相手が出来るとすれば6000元の収入になる。生活する上で、ギリギリのお金である。私の友人が「あなたを買うとしたら、いくらでいいですか?」と聞いたところ3500元/月で十分ですと答えたという。過酷な労働環境における嘆息をきいた気がする。

タクシーと地下鉄を駆使し、様々なところに行ってきた。中でも印象に残ったのは、新天地と田子坊である。両者とも数十店舗が密集した1つの「町」のようになっている。前者は、欧州資本が主導で、後者は日本資本が主導である。

田子坊は密かに有名になりつつあって店の半分以上が日本人オーナーである。前者は観光スポットと非常に有名であり、新天地周辺の土地価格の高騰ぶりがすごかった。恐らくオフィス用だと思うのだが、200平米で1000万元ほどであった。

5年で投資コストを回収するには16万元(240万円)/月で貸さないといけない。現地でお会いした学生は、6000元で同じ広さのマンションをシェアしているらしいので、外資系企業をそそのかさないと難しい価格帯かもしれない。

次は中国の大学入試です。大半は、高考の点数で決まるといっていい。日本でいうセンター試験のようなもの。この点数は後々まで影響を及ぼすようです。彼は◯◯省で3番の成績だったなど、まるで日本の国家公務員1種試験のようです。

中国の大学(復旦大学しか存じないが)は記憶重視型のテストが多いため、地名や人名などを中国語で覚えることに留学生は苦労する模様。反対に、記述型のテストになると、物事を考えるという側面で留学生が優位になるようです。

北京、清華、復旦の学生は中国語、英語、第二外国語(日本語が多い)のトリリンガルが大半です。文理を問いません。これから会う子も三ヶ国語に、高度なプログラム技術を持ち合わせています。背景としては、卒業要件としてTOEIC900クラスの英語が必要とされていることが挙げられます。

日本では詰め込みの是非が問われることが多いですが、主体性なき詰め込みのおかげで、数百万人のトリリンガルが出来上がっていることの脅威を感じました。創造性の重要さを噛み締めながら、私が中国語/英語に十分な能力がないことに多少苦渋しております。

話しは戻りますが、ここ最近の復旦大学留学生でも、MARCHを辞退して、こちらへ留学するケースは2,3人のもようです。大学から海外留学をするとなると、80%程度はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどの英語圏への留学でしょう。

その中で私は、非英語圏への留学が高まることのではと考えています。フランスやドイツや韓国などではなくインド(英語)や中国(中国語)やアフリカ諸国(フランス語)、南米諸国(スペイン語)などです。

日本の大学に進学する時点で将来は危険である。日本の大学は内容ないのに、学費や生活費は高いから行きたくない。どうせ留学するなら成長が期待できる新興国/途上国へ早期関わっていきたい。日本語と英語は出来て当然であり、もう1つの言語を身につけるために留学をしていく。このように思っている高校生がいるんじゃないかと思いつつあります。

最後に日本人留学生についてです。彼らの98%は消去法で中国へ留学に来ているようです。主観的統計なので、信憑性は期待しないで下さい。主に、ISI国際学院や鴎州などが斡旋をしているため、中国/九州地方(山口、福岡、広島など)から上海に来ている学生が多いです。関東出身者は長野県の子がいたくらい。

3年前までは、日本人で復旦大学に入るのは偏差値50前後の人たちが主だったようです。当然ながら大学の勉強についていくことが出来ずに、基本的には5-6年間通う人が大半のようです。

蛇足ですが、海賊版DVD(24やプリズン・ブレイク)が格安で手に入るため、生活リズムを崩してまでDVD中毒になってしまう人が多いとか。また、東京のように学外活動をする人がとても少ないようです。

そもそも中国の学生は勉強(GPA)が第一のため、単位で必要なインターンシップを除いて、外部で自己研鑽するという習慣がない模様です。さて、話しは戻りますが、ここ最近の復旦大学留学生は、MARCHを辞退して、こちらへ留学するケースが多くなっているといいます。

大学から海外留学というと、80%程度はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどの英語圏への留学でしょう。その中で私は、非英語圏への留学が高まることのではと考えています。

フランスやドイツや韓国などではなくインド(英語)や中国(中国語)やアフリカ諸国(フランス語)、南米諸国(スペイン語)などです。日本の大学に進学する時点で将来は危険である。日本の大学は内容がないのに、学費や生活費は高いから行きたくない。

どうせ留学するなら成長が期待できる新興国/途上国へ早期関わっていきたい。日本語と英語は出来て当然であり、もう1つの言語を身につけるために留学をしていく。このように思っている高校生がいるんじゃないかと思いつつあります。

以上、色々と雑記しましたが、みなさまの知識/経験に照らし合わせて訂正/追加すべき箇所がありましたら、教えてください。それでは出掛けてきます。
posted by アントレ at 12:26| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月02日

tabi0331 竹内靖雄「国家と神の資本論」

「無」政府(政府を感じさせない)のために何ができるか
文明にふさわしい「良い政治」は、「民の害にならぬことをする政治」であり、もっと正確にいえば、それは「民の害になることをしない政治」を意味する。民主主義であるというだけの理由ですぐれた政治であると思うのは根拠のない迷信であろう。P51
竹内靖雄「国家と神の資本論」(講談社 1995)


オバマ氏は大統領就任演説で「我々の政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、それが上手く働いているか」という表現をされていたが、上手く働くというのは、ある事業仕分け人の力が優れていることでもなければ、戦略提示することでもない。さも「無」政府(政府を感じさせない)かのように振舞うことである。それがWorkしている証拠。

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話しは変わるが、日本は高齢者比率25%(4人に1人)という社会が実現されようとしている。平成20(2008)年では高齢化率が最も高いのは島根県で28.6%、最も低い沖縄県で17.2%となっている。このまま、医療技術の進歩と過剰医療で寿命がさらに延びると、やがて高齢者の割が3人に1人(2035年)、2人に1人(2060年)となる時代が来るだろう。

社会はこのような老人大国が到来することに憂鬱になっているようだが、どのようにして問題を先送りせずに解決/予防するかが大切である。対処する変数としては、もっと人がたくさん死ぬようにして平均寿命を大幅に引き下げるか、子供をたくさん生んで若年人口の比率を高めるかする以外にない。前者は論外であるとされ、後者も非現実的であると思われている。

では、この課題にアプローチしていくか。以前このテーマを考えていたときに浮かんだのが、「死を受け入れる欲望をもちやすい社会」という前者へのアプローチであった。そこで「楽死」ということ概念が考案された。

詳細は機会があれば話すが(それは、関連する書に出会ったときであるが)、この言葉で私が提案したことは「高齢者」のパラダイムを変換ということであった。後期高齢者という年齢による「老」のズラシではない。愛され老人になることでも、要介護認定されることでもない。介護と育児の同時性、介護と学習の同時性という一石二鳥の仕組みをつくることであり、医療行為の尊さを消失させることであった。

ここで考えたことは、先日話題になった琴坂さんの記事に色濃く反映されている。この記事では「では、どうするのか?」というところは書かれていないが、その問いにこそ起業家は応えるべきなのだと思う。それは政策でも言論でも構わないけれど、事業をもってして応答する者が待たれている。

国という固まりの上に存在する、企業という固まりに取って有益な人材は、国ではなく企業に優遇される。強い国に所属しそれに認められ続ける人材は生き残る。世界に認められる「お金」という力を持つ人々は、それが世界の成長にあわせて成長していくことで、特に日本の衰退に影響される事は無いのである。かれらにはそれほど大した問題(少なくとも死活問題では)ではない。
構造的に不可能に等しい挑戦


そもそも、日本に生まれただけで、大した努力もせずに楽しく暮らせると思っている若者は、世界を見て、貧困を肌で感じて、そこから這い上がろうとしている自分たちと同年代の若者の力と、情熱と、信念に触れるべきとも言える。

毎日15時間労働して、ろくに楽しみもせずに、月に5万円もかせげず、しかもその半分以上を家族に送金しているような若者が、世界には五万といる。ニートが出来るような日本は、まだまだ皮下脂肪の固まりであり、それに安住してしまっているのである。
構造的に不可能に等しい挑戦


■参考リンク
ローカル化する日本〜日本が“アジアの辺境”になる日
日本の強みは東京にある
小浜逸郎ライブラリ



■tabi後記
3日夜まで栃木 宇都宮へ農作業や温泉を堪能していきます。4日から16日までは上海近郊へ旅立ちます。
posted by アントレ at 06:52| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月01日

tabi0330 マキアヴェリ「君主論」

まきゃべりずむ?
17 冷酷さと憐れみぶかさ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか
たほう、人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち絶ち切ってしまう。P99
マキアヴェリ「君主論」(中央公論新社 1995)


25 運命は人間の行動にどれほどの力をもつか、運命に対してどう抵抗したらよいか

わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。P147
マキアヴェリ「君主論」(中央公論新社 1995)


目的のために手段を選ばないでいい。マキアヴェリズムという言葉ほど誤解されてきた言葉はめずらしい。マキアヴェリは「目的のために手段を選ばないでいい」などと一度も書いておらず、『君主論』のどこを読んでもこのような論旨が展開されていない。

むしろ本書を読む限りでは、マキアヴェリは徹底した手段志向であると感じる。彼の論理階層に徹した文章を読めば理解出来る。君主をターゲットにしたビジネス書を読み終えた気分です。

■参考リンク
第六百十夜【0610】2002年09月02日
390旅 マキアヴェリ『君主論』



■tabi後記
入不二さんの書籍あたりから運命論を押さえてみようかな。
posted by アントレ at 17:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0329 岸田秀「ものぐさ精神分析」

幻想と現相の調停をはかる源層はあるか、もしくは原装か
突然奇妙な言動をしはじめるとはたの者には見えるが、発狂した者の主観としては真剣なのであって、これまで無理やりにかぶせられていた偽りの自己の仮面をかなぐり捨て、真の自己に従って生きる決意をしたときが、すなわち発狂なのである。外的自己と内的自己との分裂が悪循環的に進行し、外的自己が内的自己にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達したとき、それまで内奥に隠されていた内的自己が、その圧迫を押しのけて外に表われたのである。内奥に押しこめられて現実の世界との接触を絶たれていた内的自己は、当然のことながら、現実感覚を失っており、妄想的になっている。だから、当人が真の自己と見なしている内的自己にもとづく行動は、はた眼には狂った、ずれた行動と映る。逆に内的自己から見れば、現実の世界に適応し、妥協しようとする外的自己の行動は真の自己を敵に売り渡す行為である。P24
岸田秀「ものぐさ精神分析」(中央公論新社 1982)


本書内で唯幻論を明快に説明しているのが「国家論」「性的唯幻論」「時間と空間の期限」の3論考であると思う。岸田氏は動物と比べて人間の本能はどこか歪んでしまい、補正して生きるために文化や自我が作られた。そして、補正のために幻想を作り出す機能は今でも続いていると語る。

■参考リンク
1086旅 岸田秀『ものぐさ精神分析』



■tabi後記
posted by アントレ at 16:23| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0328 河合隼雄「中空構造日本の深層」

中空は骨抜きにあらず、中空は円環にあらず、中空は・・・
文化比較を行う上で重要なことと考えてきた、父性と母性という観点に焦点をしぼること、多くの対象者に接して統計的な結果を基礎とするのではなく、少数の人にできるだけ深く接して、そこから得た自分自身の感覚を大切にすること、というものであった。そして、自分のいわば主観的体験を大切にしながら、それを補填したり、是正したりするものとして、既にフィリピン文化の研究として出版されている文献を参考にすることにした。それと、文化の底層をなしているもの知るために、フィリピンの神話や民話を読むことにしたのである。P237-8
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)


本書のメインは1章にある。ここで行われている河合氏の考察は『古事記』の冒頭に登場する三神タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、イザナギとイザナミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、神話の中でほとんど無為の神としてしか扱われていないということである。

アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在になっている。これはいったい何なんだ?という疑問であった。

その疑問が立ち上げる前に、河合氏は科学知と神話知がどのように織りなされてきたかを思索しており、そこで感じたことが中心の欠落である。河合氏がこのような認識をもった上で、取り組んだ仕事が中心を埋める作業ではなく、むしろ徹底して中心を「空」にしてく作業/確認であった。

フロイトは、よく知られているように、自分の精神分析学上の発見を、コペルニクス、ダーウィンのそれと類比している。つまり、彼の考えが世に受け入れられないのは、「人間の自己愛に対する重大な侮辱」を意味しているからであると考える。まず、コペルニクスは、地球が宇宙の中心に位置しているという人間の信仰を破壊し、従って人間がこの世界の中心に存在する主人であるという自負を破壊した。続いてダーウィンは人間が動物以外の何ものでもないことを明らかにすることによって、人間のみが他の生物と異なるという考えを破壊してしまった。これに加えて、フロイトは先に「エス」について彼の意見を紹介したように、人間は実のところ「エス」によって生かされているのであって、自分自身の主人公さえもあり得ないと主張したのである。これら三人の天才の力によって、人間は自分を世界の中心におく世界観をまったく打ち壊されてしまったのである。P15
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)


天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三神は、海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の海幸・山幸のことはよく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話にはほとんど語られない。

このことから河合は日本神話は中空構造(中ヌキ)をもって成立しているのではないかと推理し、である。河合は『古事記』の叙述にひそむ神話的中空構造としてズバリ抜き出したのだった。

tabi0327.png

河合氏は日本の深層が中空構造をもっていることを、必ずしも肯定しているのではない。そこには長所と短所があると言っている。そこでこんなふうに説明した。

[1]中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。

[2]日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存しうる可能性をもつのである。

河合氏はこのような推理のうえで、日本が中空構造に気がつかなかったり、そこにむりやり父性原理をもちこもうとすることに警鐘を鳴らした。

■参考リンク
第百四十一夜【0141】2000年10月2日 
199旅 『中空構造日本の深層』 河合隼雄
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
日本の神話では、正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで『合』に達することがない。あくまでも、正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっていると考えられるP46-47
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)
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tabi0327 川島武宜「日本人の法意識」

所有と共有の合間に在する、資本を飼い慣らす作法
もちろん、西洋の諸社会においても、道徳や法が社会の現実の圧力に抗しきれず、これに対応して調整をおこない妥協する、という現象は、実際には不可避である。それにもかかわらず、意識や、思想の上では、当為と存在との二元的対立が絶対視され、したがって現実への妥協ないし調整は、日本社会におけるように「なしくずし」にではなく正当性の信念をつくりだすための種々の操作をともなって、抵抗ののちに、断続的な形態をとってあらわれるのを常としているように思われるのである。P45
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


本書において「近代化」という言葉は、支配=服従的な社会関係(或いは集団)の解体と「自由平等」な個人のあいだの社会関係(或いは集団)の成長を意味している。別の表現をもちいれば、特定個人的且つ情動的な制裁の退化と非特定個人的且つ理性的なサンクション(特に、法的サンクション)の成長ということである。

川島氏は、「文字の次元における法」の近代性と、「行動の次元(法の機能)における法」の前近代性とのずれを認識した上で、どのような制度設計が可能となっていくかを提案していく。

日本の伝来的な権利意識のもっとも基本的な特色は、その内容の不確実性・不定量性ということ、および、それと関連しているところの・権利をめぐる規範と事実の分裂・対立が稀薄であるということ、であった。いま、以上に述べたような所有権の意識を、そのような権利意識の基本的特質に照準点をおいて再構成するなら、次のように言うことができる。すなわち、右のような所有権の意識においては、その時その時の事実の状態が権利の規範的内容に影響を及ぼすのであり、したがって、そこでは事実と規範とは明確に分裂し対立しておらず、事実と規範とは、はじめから妥協することが予定されており、言わば「なしくずし」に連続しているのである。P85
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


川島氏は「入会(いりあい)」という概念の重要性についてが指摘している。
入会とは地域住民が一定の範囲の森林や原野や漁場について、そこから発生する資源(木材、薪、魚など)を共有することである。
川島氏は「入会権」の研究をつうじて、それが日本人の共同体構築技術の根幹にかかわるものであることを解明した。この箇所に、ソーシャルキャピタル/パブリックドメインといった概念を連関させてくる人もいるのだろう。

所有物についてどのような行為もなし得るということは、現代においては、所有者である以上当然であるように見える。しかし、このことは近代法(資本制社会に固有の法)の歴史的特質にすぎない。近代以前の社会では、土地、山林、原野、河川等については、それぞれの『物』の性質・効用に応じて、またそれぞれの主体に応じて、限定された異る内容の権利が成立したのであり、(・・・)そうして、それらの権利は言わば並列的に、ひろい意味での『所有』と呼ばれていた(たとえば、地代徴収権者は上級所有権 Obereigentum 或いは直接所有権 dominium directum をもち、地代を払う耕作権者は下級所有権 Untereigentum 或いは利用的所有権 dominium utile をもつというふうに)。だから、一つの物の上に重畳して、いくつもの『所有権』が成立し得たのである。P65
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


このようなあいまいな所有権意識というのは、私的所有権を「所有の原基的形態」とする社会においては、原理的に排除されている。私たちの社会はすべてのものが「個人の所有物」で埋め尽くされている。個人が私的に所有することができないし、するべきでもないものをどのようにして他者と共有するか、その「やりくり」の技術を錬磨してゆくことを通じて、ひとは市民となっていくと考えられている。

■参考リンク
第二百六十七夜【0267】2001年4月10日
仕事納めはラジオ
tabi0010 青木人志「「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人」
313旅 『日本人の法意識』 川島武宜
日本人の法意識について〜21世紀の日本法は如何にあるべきか〜



■tabi後記
入会に付随する「技術」に前近代的を覚えてしまうのは、私たちがネットワーク技術に包囲されているからだろう。単なる「入会(いりあい)」の提唱ではなく、「入会2.0」を実装することが急務となっているのだろう。自身が出来る範囲で実装に励んでいく。
posted by アントレ at 12:29| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0326 P・F・ドラッカー「仕事の哲学」

仕事/経営/歴史/変革の哲学を10の言葉に編み直しました

変化を観察しなければならない。その変化が機会かどうかを考えなければならない。本物の変化が一時の流行かを考えなければならない。見分け方は簡単である。本物の変化とは人が行うことであり、一時の流行とは人が話すことである。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


社会生態学の仕事とは何か。それは、通念に反することで、すでに起こっている変化は何か、流行の言葉で言うところのパラダイム・チェンジは何かを問いつつ、社会とコミュニティを観察することである。次に、その変化が一時的なものでなく、本当の変化であることを示す証拠はあるかを問うことである。そして、もしその変化に意味と重要性があるのであれば、それはどのような機会をもたらすのかを問うことである。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


我々は、どこに最終的な問題解決への道があるかを知らないという前提でスタートしなければならない。したがって、不統一、多様性、妥協、矛盾を受け入れなければならない。我々は、一つのことだけは知っている。計画屋の絶対主義的二者択一からもたらされるものは、専制しかないという事実である。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


現存する仕事はすべて正しい仕事であり、何がしかの貢献をしているはずであるとの先入観は危険である。現存する仕事はすべて間違った仕事であり、組立て直すか、少なくとも方向づけを変えなければならないと考えるべきである。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


あらゆる活動にリスクが伴う。しかも昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが、明日をつくることよりも大きなリスクを伴う。イノベーションに成功する者は、保守的である。保守的たらざるをえない。彼らはリスク志向ではない。機会志向である。成功したイノベーションは驚くほど単純である。イノベーションに対する最高の賛辞は、「なぜ、自分には思いつかなかったか」である。
P・F・ドラッカー「変革の哲学」(ダイヤモンド 2003)


優先順位の決定には、いくつかの重要な原則がある。すべて分析ではなく勇気にかかわるものである。第一に、過去ではなく未来を選ぶ。第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。第三に、横並びではなく独自性をもつ。第四に、無難で容易なものではなく、変革をもたらすものを選ぶ。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


現代社会では、もはや直接的な市民性の発揮は不可能である。我々が行えるのは、投票し、納税することだけである。しかし、NPOのボランティアとして、我々は再び市民となる。社会的秩序、社会的価値、社会的行動、社会的ビジョンに対して、再び直接の影響を与えられるようになる。自ら社会的な成果を生み出せるようになる。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


経済開発こそ、我々の時代の中心的課題である。だが今日にいたってなお、我々は誤解したままである。経済開発とは、貧しい人を豊かにすることであると思い込んでいる。我々の課題は、貧しい人たちを生産的にすることである。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


今から二〇年後あるいは二五年後には、組織のために働く者の半数は、フルタイムどころか、いかなる雇用関係にもない人たちとなる。とくに高年者がそうなる。したがって、雇用関係にない人たちをいかにマネジメントするかが、中心的な課題の一つとなる。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


人口が減少する豊かな先進国のすぐ隣に、人口が増加する貧しい途上国がある。人の流れの圧力に抗することは、引力の法則に抗することに似ている。それでいながら大量移民、とくに文化や宗教の異なる国からの大量移民ほど、危険な問題はない。最も深刻なのが日本である。定年が早く、労働市場が硬直的であり、しかも大量移民を経験したことがない。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


■参考リンク
「経営者の条件」まとめ







■tabi後記
経営の未来を予見するドラッカーは自身の思想が衰退期に入ったことを宣言したのだろう。
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tabi0325 池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」

初心か欲望のエデュケーションか、それとも・・・
人間はオリンピックで世界新を出したり、月にはじめて行ったり、科学的新発見をしたり、新技術を発明したりすることに、実に過大な評価を付ける、ヘンな動物なのである。ほとんどの動物にとっては、新しいことは善い生涯からの逸脱である。P28
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


人はエクスタシーをもとめ、そしてそこに帰着すると満足して安住せずに、飽きる動物である。

規範力が弱くなれば、それから逸脱することは容易である。しかし容易に逸脱できれば、逸脱によるエクスタシーは弱まってくる。だから、あなたがエクスタシーを感じるためには、社会的な規範はもう当てにできず、自分で自分固有の規範を作る他はないのである。P36
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


やがて、規範は形だけものとなり、誰もが信じることができる(できた)物語は消えてゆく。いな、はじめからそんなものはなかったのだ、と立命することによって生じてくるのが「我」というものではないだろうか。

嫉妬を正当化するために道徳をもち出すのは、どんな場合でもつまらぬことだ。あなたはどんな規範でも選ぶ事ができる。それはあなたの恣意的な権利(勝手)である。しかし、他人があなたと異なる規範を選ぶのを阻止する、超越的な(絶対の真理としての)根拠はどこにもないのである。P109
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


基準設定までの修行として今を捨てる者にとって「我」眩しい。その光に鏡をあてるか、合成素材として用いるかが態度といえるものであろう。

所有は一見、人と物の間の従属関係に見えるけれども、実は人と人の間の物をめぐる排除関係なのである。他人がいない所では、所有という観念は発生しない。他人とはもちろんコミュニケーション可能な何らかの規範を共有した他者のことである。全く規範を共有しない人々の間では、所有などという観念は無意味である。P200
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


ここには著者の意図しないところで「我」の一貫性を転覆させるような文言が隠されている。私的所有という神話が解体された世界において、思想とビジョンを設定できるのだろうか。設定するという未来への所作に変更企てることが必要であろうと思っている。有り体に言えば、編定するか。

■参考リンク
モノクロ珈琲:『正しく生きるとはどういうことか』



■tabi後記
2009年は素敵な読書年度でした。そして、元旦から読書会をはじめています。2010年は更新頻度を若干減らしながら、再読した本や、長く付き合えそうな本を公開していきたいと思います。
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2009年12月12日

tabi0324 福岡伸一「世界は分けてもわからない」

個人という幻想、一貫という妄想
私たちヒトは全身の細胞をすべて数えるとおよそ六十兆個からなっているといわれています。しかし、ヒトひとりの消化管内に巣くっている腸内細菌の数はなんと百二十兆〜百八十兆個にも達していると推定されるのです。つまり私たちは自分自身の三倍もの生命と共生しているわけです。その活動量たるや尋常なものではありません。

私たちの大便は、だから単に消化しきれなかった食物の残りかすではないのです。大便の大半は腸内細菌の死骸と彼らが巣くっていた消化管上皮細胞の剥落物、そして私たちが自身の身体の分解産物の混合体です。ですから消化管を微視的に見ると、どこからが自分の身体でどこからが微生物なのか実は判然としません。ものすごく大量の分子がものすごい速度で刻一刻、交換されているその界面の境界は、実は曖昧なもの、きわめて動的なものなのです。P82-83
福岡伸一「世界は分けてもわからない」 (講談社 2009)


鈴木健「Divicracy: Dividual Democracy 〜近代個人民主主義から分人民主主義へ〜 」Ustream(45:00から)で拝見した。

プレゼンの中では、分離脳やリベットやジョン・C・リリーのイルカ/鯨の話を用いて「Dividual」という概念を補強されている。「胃」による投票を行うという発想は、そういった背景による。本書の動的平衡も、分人民主主義というものを支える思想になるだろう。

彼女の視線は私におそらく赤い光の粒子を投げかける。彼女の視線に気がつかない私の眼に、ごくわずかな光の粒子が入ってくる。斜めの方向から私の網膜の周縁部に。視細胞はその粒子を鋭敏に検出し、信号はすばやく視神経を伝わって脳に注意喚起をもたらす。私はおもむろに顔を上げて光の方向を見る。彼女の視線はまっすぐにこちらを貫いている。ほんの一瞬、眼と眼が合う。彼女ははっとしてその美しい髪を揺らしながら視線をはずす・・・。P34
福岡伸一「世界は分けてもわからない」 (講談社 2009)


■参考リンク
読書の記録
All About ...+Me
活かす読書



■tabi後記
今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもない。

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2009年12月08日

tabi0323 三浦俊良 「東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図 」

空海にとって東寺講堂二十一尊像は宇宙だったのか
人間はいつも崖っぷちにたっているんだと。崖っぷちにたって明日もわからない、一寸先もわからないところにたっているのが人間なんだということです。明日もあさってもあるとおもうのが問題なんです。ちゃんと生きているということは、目標に向かって命をかけ、そして願いを込めてやりとおすこと。「信に死して願いを生きる」ということです。
(中略)
ひとりひとりが独立者です。独立者の集まりが、仏教でいう運命共同体、つまり僧伽(さんが)なのです。P361-362
三浦俊良 「東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図 」(祥伝社 2001)


空海の風景を探るために、東寺を訪れました。

空海は774年6月15日に、讃岐国(香川県)多度郡屏風ヶ浦で生まれ、父は多度郡の郡司の佐伯直田氏(他の説もあるが)、母は阿刀氏の出身で、のちに玉寄御前といわれる。空海は幼名を真魚といった。15歳から阿刀大足のもとで学業に励んだのち、18歳で大学に入学するが、1年で大学を飛び出してしまう。

僕は、大学を飛び出した793年から空海が「日本」に帰ってくる806年までの期間に多大な関心を寄せている。周知のとおり、空海は恵果を引き継いだ。密教の教えを伝える伝法阿闍梨は、龍猛、龍智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海となる。これを真言宗伝持八祖という。

恵果は、805年12月15日、空海と出会ってからわずか半年後に入滅される。この半年間に、空海と恵果の間で交わされたのは何だったのか。灯明が消えかかるときに一瞬大きく燃え上がる輝きに似ている半年間。大学も日本も仏教も、様々な概念を飛び越えていったトラベラーとして空海を探求していきたいと思っている。



■tabi後記
平安京は桓武天皇によって794年11月22日に遷都されたが、ここの朝堂院は10年前に建てられたばかりの長岡京(平城京が遷都したところ)の建物が移築されていること知った。奈良に偏在する「せんとくん」は批判的な素材を提供してくれる。「「京」の変遷」ということも関心がある。
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2009年12月06日

tabi0322 西岡常一/小川三夫/塩野米松「木のいのち木のこころ」

宮大工、彼らは、寺院建築に山の命を生き移す者
弟子のなかにも早く覚えたいからといって本を読むやつがいる。鉋の刃はこうしたほうがいい、こういうときはこうすればいい、って書いてある。そいつがそのことを仲間に話すわな。みんな、なるほどと思う。言葉っていうのは便利で、なるほどと思えばそれで自分ができる気になるからな。俺にも聞いたようなことを質問してくる。しかし、俺は言葉では教えんよ、やって見せるんだ。しかし本で覚えたことは自分の手でやっていないから、俺が手本を見せてもなかなかわからんわ。そういう意味で本を読んでも無駄や。それどころかそんなことに気を遣い、意識するだけ上達は遅くなる。棟梁が俺に手紙をくれて、「心を空にして指導教示を受け入れる様に」って書いてあったけど、そのとおりなんだ。P293
西岡常一/小川三夫/塩野米松「木のいのち木のこころ」(新潮文庫 2005)


西岡常一にとって寺院建築とは千年近い山の命の形を変えたものだった。

西岡常一や弟子の小川三夫の言葉を噛み締めれば噛み締めるほど、彼らは希有な仏教信者なのだという思えてくる。彼らは、その生き方こそが神官に近いのかもしれない。

法隆寺の棟梁といっても、毎日仕事があるわけではない。そのような仕事のないときには農業をやって食っているのだという。「宮大工というのは百姓大工がいい」というのは、彼が農業専門学校に通わされたことに起因していると思う。(その推挙をしたのが彼の祖父である)。

神官として生まれついて定められた信仰の派生に宮大工があるのだろうか。

■参考リンク
一生を、木と過ごす。宮大工・小川三夫さんの「人論・仕事論」。「これでも教育の話」より。
[書評]宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)
見知らぬ世界に想いを馳せ



■tabi後記
金曜、土曜と奈良・京都を探索しております。法隆寺には行かないと思いますが、三十三間堂/興福寺/東大寺/東寺などは圧巻とするものがありました。
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2009年11月21日

tabi0321 内田樹「子どもは判ってくれない」

開かれた身内

タイトルは「子どもは判ってくれない」にしましたが、以下は「大人は愉しい」と「知に働けば蔵が建つ」からも抜粋しています。

「街場の教育論」,「14歳の子を持つ親たちへ」,「ビジネスに「戦略」なんていらない」なども関連する書評となっていると思います。

今回は保留にしましたが、「日本辺境論」を読んだ際には「内田樹」さんについては論じてみたいと思います。

鈴木さんと話していていちばんスリリングなのは、私が「自分の個性」であると信じていたもののうちのかなりの部分が、「同時代的状況のしからしむるところ」であり、それに含まれないものだけが、ぎりぎりの「自分のユニークさ」だということが分かるからです。
(中略)
「おれはだんぜんこう思うんだよね」と断言するときの「思い」のうちの、どれほどのものが「状況」や「風土」や「階級」や「ジェンダー」や「ハビトゥス」に起因するものであり、どれほどのものが「おれ」自身に由来するものであるのか。それを考えると、なかなか「論争」なんかできやしません。P27-8
内田樹/鈴木昌「大人は愉しい」(筑摩書房 2007)


「他者の痛みを知れ」というような言葉は、いま政治的な場面においても一種のクリシェとなっています。「おまえは他者の痛みが分かるのか?」というようなかたちで政治的恫喝を加える人に出会うと、私はいらだちを覚えてしまいます。「他者の痛み」はその前ではいかなる政治的な大義名分も無効になるような、ある種の「逃れの町」のような原理として語られるべきものではないでしょうか?
(中略)
私が戦後責任論者に対していだく違和感は、「他者の痛み」から政治的価値を演繹するという手法そのもののうちにある種の「倒錯」を感じるからなのです。むしろ「他者の身体の痛み」は政治的価値を相対化してしまうものではないのでしょうか?P50


同学齢かどうかをモノサシにして、江口は「ホッと」したり、「シット」したり、態度を変えている。つまり、学齢が違う集団は、彼が自分の仕事の質を査定するときの参照項としてあまり意味を持っていないのである。
(中略)
自らの位置を知るために、もっぱら同学齢集団を参照し、年齢が上下に離れている人々は「競争」の対象として意識されない傾向。私はこれを「江口寿史現象」(勝手に名前を借りてすまない)と名づけることにする。P42
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


正論家の正しさは「世の中がより悪くなる」ことによってしか証明できない。したがって、正論家は必ずや「世の中がより悪くなる」ことを無意識的に望むようになる。
「世の中をより住みやすくすること」よりも「自説の正しさを証明すること」を優先的に配慮するような人間を私は信用しない。
私が正論を嫌うのはたぶんそのせいである。P81
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


人間の多面的な活動を統合する単一で中枢的な自我がなくてはすまされないという考えが支配的になったのは、ごく最近のことだ。「内面」とか「ほんとうの私」とかいうのは近代的な概念である。
知られるとおり、「内面」は明治になってはじめて出現した。(文学史の教えるところでは国木田独歩の「発明」である)。だから、江戸時代の侍にはもちろん「内面」なんかなかったし、当然にも「アイデンティティ」なんかありはしなかった。P89
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


「今の自分の考え方」は「自前の道具」のことである。ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。P104
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


例えば、「国家は幻想である」と断定する人々がいる。まことにご高説のとおり、たしかに国家は幻想である。しかし、「国家は幻想だ」と説く思想家も、その理説をアメリカの大学で講じるために飛行機に乗るときには「菊のご紋章入りのパスポート」を携行することを忘れない。
「貨幣は幻想だ」と断定する人々もいる。まことにご高説のとおり、たしかに貨幣は幻想である。しかし、そう書いたはずの思想家が、ご高説を開陳した書物の印税収入の受け取りを拒否したという話を私は寡聞にして知らない。
「幻想である」と言うことは簡単である。
しかし、「幻想である」とこちらがいくら断定しようとも、当の「幻想」は何の痛痒も感じることなく、相変わらず繁昌し続けるのはいったいどうしてなのかという、より困難な問いに答えることはたいへんにむずかしい。P131
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


Kさんの要約によると、「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
(中略)
それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。P194
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。P330
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


おおかたの人は誤解しているが、ニートは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。彼らは資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。
あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義的思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが、資本主義の名において、論理の経済に従って、「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するように至ったのである。P33
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


私たちが問題を立ててそれに解答するというのは「問題を解決できることが暗黙裏にはわかっているが明示的にはわかっていない」状態から「明示的にわかった」状態への移行という時間的現象なのである。
私たちは「解答できることがわかっている問題」しか取り扱うことができない。けれども「解ける」ということは飽くまで「暗黙裏に」わかっているすぎないのであって、解いてみせるまでは解けるということは明証的にわからないのである。P159
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


■参考リンク
横浜ほんよみ生活
体系的な知識とは
愛読書・・・内田樹氏「子どもは判ってくれない」







■tabi後記
今夜は、渋谷慶一郎 × 平野啓一郎対談を聞きにいってきます。
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2009年11月20日

tabi0320 小島寛之「使える!経済学の考え方」

数学を信じられるか、ではなく、数学に信じられるか
ぼくは次第に、彼らとの議論を時間の無駄だと感じるようになりました。彼らの希求する「自由」や「平等」というもの自体は、とてもうるわしく、手放しで「入信」してしまいたい気持ちにはなるのですが、頭の別の側では、何の論理的な支柱もない議論への警報が鳴り響きました。論理なく無批判に信じることを自分に許すと、危険で暴力的なでたらめな思想によってマインドコントロールされてしまうことになりかねない、高校生ながらそういう強い警戒心が芽生えたのです。

それ以来、ぼくは「自由」、「平等」、「正義」といったものを議論することを自分に封印してきました。封印していることさえも忘れるほど長い年月にわたって遮断していました。ところが、プロの経済学者として、ピグーやハルサー二やセンやギルボアやロールズの議論に出会って突然、心に貼られた「魔よけのお礼」がはがれることになったのです。とりわけ、ハルサーニやギルボアのように、完全に数理的な研究者だとみなしていたい学者が、その背後で「平等」の問題を解こうという気概を持っていたことは、新鮮な驚きでした。P232-233
小島寛之「使える!経済学の考え方」(筑摩書房 2009)


・なぜ経済学を学ぶ者が、数学を学ばなくてはならないのか?

その問いに対する真摯な応答が示されている。そして私は、この真摯なる応答によって経済学を学ぶことを辞めようと(とりあえず)決めた。何も私がやる必要はない、という積極的な意味においてである。

経済学は、GDPを「幸福」そのものと捉えていると思われている(思われがちである)。けれど、私が知る経済学者たちは(少なくとも書物においては)、そのような安直姓をもちあわせてはいない。

彼らは、幸福=お金ではないことを当然視したうえで、この2項においてオーバーラップする「部分」もあるので、一旦は代理品としておこうというコンセンサスを持っているのである。(とはいえ、そのコンセンサスが一旦の留保であることを絶えず参照することは、多大な認知的負荷がかかるので、留保は忘却の彼方にいってしまったりもする・・)

このような前提を持った上で、経済学は幸福を効用で測ることにしたのである。効用関数とは「特定の個人の内面」に依拠するものであって、すべての人間に共通のものだとは仮定されていない。効用という概念が発生したのは、19世紀後半にメンガー,ワルラス,ジェボンズらによって「モノの価値とは何か」という問いが発せられたからであろう。

それまで、この問いに対しては、労働価値説や生産費説などがコンセンサスとなっていた。彼らはそのような環境下で、限界効用(及び、限界効用逓減の法則)を見出したのである。

限界効用とはもう一歩外に踏み出すと仮に想定したときに消費が与えるはずの効用のことである。もちろん、限界費用逓減の法則が、効用の個人主義性に関しては保留とされているが、それを差引いたとしても発展モデルを提供したという意味で「歴史」がはじまった。

いささか回り道となってしまったが、私が経済学を学ぶことを辞めようと思ったのは、著者が「なぜ、経済学では数学を用いなければならないのか?」という問いに対して書かれた3つの理由に全面的に同意したからである。そして、納得感をもってしまったからこそ、辞めようと思った。

・数学は、非常語(情緒性の低い)を用いるので、人の情動のようなものを適度に遮断し、冷静な思考を促す。

・数学は、少なくとも理想状態では成立するような例を与えることができる。

・数学は、論証されれば、形式論理上では誤りがないことが確認される。

私には「形式論理上で」という箇所に違和感がある。ゲーデル,ヴィトゲンシュタイン,クリプキなどの仕事を参照するまでもなく、私は数学というものへ信仰を持ち合わせることはできていない。この部分は、岡潔・小林秀雄「人間の建設」,野崎昭弘「不完全性定理」,十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」にて多少の体験的告白をしているので参照頂きたい。

■参考リンク
数理は有利 - 書評 - 使える!経済学の考え方
小飼弾さんの書評に恐れ入るの巻
恐怖のリフレー・ザ・グレートの巻



■tabi後記
久々に安斎ゼミに参加してきた。発想が湧き上がる。6章/最終章が必見である。貨幣保有から得られる効用は、モノを買うことに対して、買うタイミング、何を買うといったことを留保することができるという効能、それが流動性の効用である、と解釈した。
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2009年11月18日

tabi0319 茂木健一郎「脳の饗宴」

統計描写に誠実であること/現象への補助線/前提原理のメス
「反応選択性」の概念は、ニューロンの活動の特性を特徴づける上では、それなりの有効性を示してきた。その一方で、そもそも、神経細胞の活動からいかにして意識を生まれるのかという第一原理にかかわる問題においては、「反応選択性」とその背後にある統計的アプローチはほとんど有効性を持たない。
その本質的な理由の一つは、統計的手法の基礎となっている「アンサンブル」概念が、意識を生み出している神経細胞ネットワークの構造的、因果的な拘束条件を反映していないという点にある。P21
茂木健一郎「脳の饗宴」(青土社 2009)


港千尋、渡辺政隆、布施英利、池上高志・郡司ペギオ-幸夫との対話が纏められている。茂木氏のラディカルな問題意識が存分に展開されている。中でも、茂木健一郎/池上高志/郡司ペギオ-幸夫「意識とクオリアの解放」が刺激的な対話だった。

池上氏がリベットの実験(触覚刺激のほうが脳への直接刺激よりも先に感じること)を例に挙げて「物理学で言うところのエンピリカル・サイエンスと脳科学で言うところのエンピリカル・サイエンスというのは違うね。カウンター・ファクチュアル(反事実的)なものを扱えるところとか。」という提起から、生命/意識の本質へ迫り始める。

茂木 世界がどうしようもない形で進行してしまっているという事実はあって、それを記述するのは物理主義でかなりうまくいっている。だからどうしようもない形で世界が進行してしまっているという事実を、どういう風にお前のモデルが引き受けているのかがわからない。P218

郡司 留保というのは、さっきも言ったように、ある個物を自明な個物であると知ることと、「わたし」が指定しているんだということとが、両義的にあること。前者をaと書くと、後者は{a}と書けて、つまり要素と集合の混同を意味している。でも両者の差異は、決して要素を集めるという複数性に依拠しているわけじゃない。複数性や別の可能性、他でもあり得たという提示の仕方ではなく、個物を指しながら、個物の外部に言及すること、それが留保だと思う。P222


郡司氏は、外部が(別の可能性が)、アクセスしやすいという問題と、常に問題を解決する方法がアクセス可能(オープンエンド)というのは次元の違う問題で、後者は生命の本質だと語っている。

統計的描写に限界を感じながらも、その記述された現象をどのように還元するか(補助線)を引くかという「ダーウィン的」仕事や、「留保性」という際と際の中に潜みながら構造把握につとめていく姿勢を垣間みることができた。

■参考リンク
茂木健一郎 クオリア日記
Another Heaven



■tabi後記
先週からプログラミング(PHP/Processing)を習い始めた。これが最後の挑戦になると思う。
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tabi0318 若松英輔「井筒俊彦-東洋への道程」

地球化における円柱たりえる思考
プラトンは『国家』で詩人を追放した。芸術を憎んだからではない。哲学の祖が拒んだのは悪意ある虚構だ。詩人は啓示の通路でなくてはならない。詩人が自分を語り始めるのに忙しく、天啓の伝達者という任を忘れたとき、詩人は「共和国」から追放された。
現代、追放されるのは詩人ではない、哲学者ではないか、『神秘哲学』を読むとそんな作者の声が聞こえてくる。古代ギリシアにおいて「彼らはいずれも哲学者である以前に神秘家であった」と井筒俊彦はいう。彼がいう神秘家とは、瞑想者のことでも神秘論者のことでもない。啓示と理性の間に生き、自らを世界に捧げ尽くす人間にほかならない。
そんな彼が、詩霊の声に耳を傾けることなく、哲学者を研究しているというだけで、ためらいなく自分を「哲学者」と呼ぶ人々と同じ意味で、自身を哲学の徒だとは認識していなかったとしても、超越との繋がりを遮断した営みを哲学だと認めていなかったとしても訝る必要はない。P105
若松英輔「井筒俊彦-東洋への道程」(「三田文学」2009冬季号)


三田文学の井筒俊彦特集が入手困難のため、藤沢さんにお借りして読了しました。井筒氏のエッセイも関心をそそられたが、「読むと書く」の編者をつとめられている若松英輔氏の文章には刺激を受けた。

グローバリゼーションというワードを「地球化」という言葉に翻訳し、その言葉を井筒氏の文脈に落とし込むと、新たな地平が開けるような思いがした。引用文でいうところの、啓示と理性の間の生きるための言葉として解することが出来たからだろう。

短期間ながら東南アジアに「武者修業」に行き、表層面における普遍性/異質性を存分に感じた。しかし、私が切実としたかったのは旅の行程で何度も読んだ「意識と本質」と、この目の前に立ち上がっている「どうしようもない存在分節」との重ね合わせであった。重ね合わせでも無いか、溶け合わせであろうか。そもそも、この違和感の解消方法自体への模索であり、その方法を希求する構造への関心であった。

これから「意識の形而上学」「読むと書く」を創造的に誤読していきたいと思う。その後に、私法による私見を示してみたいと思う。本書は、そのための契機を与えてくれる冊子であろう。

■参考リンク
839旅 井筒俊彦『語学開眼』



■tabi後記
本業と副業(明日の夢/今日のパン)に曖昧ながらも分別を持てるようになったのは大きい。
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2009年11月17日

tabi0317 阿部公房「他人の顔」

仮装と仮想
人間の魂は、皮膚にある・・・文字どおり、そう確信しています。戦争中、軍医として従軍したときに得た、切実な体験なんですよ。戦場では、手足をもぎとられたり、顔をめちゃめちゃに砕かれたりするのは、日常茶飯事でした。ところが、傷ついた兵隊たちにとって、何がいちばん関心事だったと思います?命のことでもない、機能の恢復のことでもない、何よりもまず外見が元通りになるかどうかということだったのです。P29-30
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


45年前に突きつけられたテーマは今もカタチを変えて伏在している。心理的/社会的アイデンティティーとなるものは、脆いものか、操作性があるのか、適応されるのか、いかにして飼いならすのか。これはZEN/SEX/LSD/BMIと連環してくれるテーマであろう。

むろん能面に、ある種の洗練された美があることくらい、ぼくにだって理解できないわけではなかった。美とは、おそらく、破壊されることを拒んでいる、その抵抗感の強さのことなのだろう。再現することの困難さが、美の尺度なのである。P82
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


1つの方途として「美」へ着目しているのだが、よくある「美の礼賛」とは違った視点を与えているように思われた。その差異は、礼拝性から破壊性へのずらしであり、浸透性から弾力性へのずらしもであると思う。

でも、もう仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。とうとう尻尾を出してしまいましたね。仮面のことではありません、あなたのことです。仮面は、仮面であることを、相手に分らせてこそ、かぶった意味も出てくるのではないでしょうか。あなたが目の敵にしている、女の化粧だって、けっして化粧であることを隠そうなどとはいたしません。けっきょく、仮面が悪かったのではなく、あなたが仮面の扱い方を知らなさすぎただけだったのです。P267
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


表皮における「仮」性と「真」性の対比から、裏皮における仮と真へ移動していることは着目したいが、私の中で妻のメッセージは「No meaning」である。理由を語れる地点は立てていない。無意味なのではなく、無・意味なのである。

■参考リンク
Taejunomics 安部公房、他人の顔。



■tabi後記
このBlogは「言語スタイル」を試行するための場所にしようと思っているので、しばらくは「分かりやすい」とは到底言えぬ記事が多くなると思います。
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tabi0316 プラトン「国家」

彼は望んだ。思惑を排した真実を観る者を。
人々はこう主張するのです。― 自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。

これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは、けっして積極的な善としてではなく、不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。げんに、それをなしうる能力のある者、真の男子ならば、不正を加えることも受けることもしないという契約など、けっして誰とも結ぼうとはしないであろう。そんなことをするのは、気違い沙汰であろうから。P106-7
プラトン「国家(上)」(岩波書店 1979)


永井均「倫理とは何か」で言及されていた「国家」を読み通した。トラシュコマスとグラウコンとソクラテスの対話には「幅」がある。この振り幅をプラトンが演出していると考えると、彼の記述技術への関心が湧き上がってくる。

上下巻を通じて「正義とは何か?」という論点について対話がなされていたわけであるが、その論点は政治的主張の中に立ち消えになってしまったと思われる。プラトンが政治的身体をまとってしまった背景には「ソクラテスの死」という壮絶な思考要請が潜まれているのであるが・・。やはり、その経験が残ってしまっている。思惑として。

ギュゲスの指輪に対する応答の弱さに比して、哲人政治の教育プログラムへの熱の注入から、社会契約の根拠と哲人が政治家にならねばならぬことへの論理的な徹底が不足しているように思われるのだろうか。

そこでもし彼が、ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして、もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら、どうだろうーそれは彼の目がまだ落着かずに、ぼんやりとしか見えない時期においてであり、しかも、目がそのように馴れるためには、少なからぬ時間を必要とするとすれば?そのようなとき、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上へ登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を開放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?P100
プラトン「国家(下)」(岩波書店 1979)


彼が背負った「ソクラテス」はここに表出する。洞窟の比喩。これは自らの体験的告白でらい、洞窟自体への嘆きでもあったのではないだろう。

洞窟は常識であり、識を常としてしまう、人間の恒常的認知性への承認と伴に、そこを逸脱したいという哲学的反逆心の萌芽であろうか。

■参考リンク
ITTOKU TOMANO’s Website
第七百九十九夜【0799】
永井俊哉ドットコム





■tabi後記
2400年前に使われていた「イデア」は、4段階くらい底が深いのかもしれない。彼は観えていたことは想像できるだろうか。
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tabi0315 中村元「龍樹」

相依性という企画
縁起は常に理由であり、空は常に帰結である。無自性は縁起には対しては帰結であるが、空に対しては理由である。すなわち縁起という概念から無自性が必然的に導き出され、さらに無自性という概念からまた空が必然的に導き出される。「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけの順序は定まっていて、これを逆にすることはできない。P242
中村元「龍樹」(講談社 2002)


著者は、従来西洋の諸学者はこの「中論」第二章をみて、ナーガールジュナは運動を否定したと評し、ギリシアのエレア派のゼノンの論証と比較をしていたことを紹介する。そして、両者の論理を詳細に比較するならば、類似を認めることは困難であると語る。その根拠として、ナーガールジュナは自然的存在の領域における運動を否定したのではなく、法有の立場を攻撃したことをあげている。

龍樹(龍猛菩薩)は、法有(説一切有部)ではなく法空を説き、無常の中に潜む恒常(形而的有)をも攻撃の対象に当てていった。

我々は「〜がある(ない)」という形式の規定と、「〜である(ない)」という存在の規定を、言語志向性としてもちあわせている。形式/存在、肯定/否定を連立させていくと、「がある(ない)」こと「がある(ない)」、「である(ない)」こと「がある(ない)」、「がある(ない)」こと「である(ない)」、「である(ない)」こと「である(ない)」という16種類の規定がある。私は、このマトリクスをどのように扱っていくかが、1つの言語技術であると思ったのである。

■参考リンク
第千二十一夜【1021】
414旅 中村元『龍樹』



■tabi後記
旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのであろう。
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2009年11月16日

tabi0314 岩田慶治「道元との対話」

自分の中の秘密を点検していくこと
自分自身にとっては、人類学のフィールドワークと『正法眼蔵』の探究とは、やはり、別のことではなかった。私にとっては、異民族と異文化のなかで経験をつみ、それらについてしらべることが、もう一冊の『正法眼蔵』を読むことであった。フィールドワークがそのままで私の座禅であった。(中略)私はフィールドワークにしたがいながら、異国の山河大地、草木虫魚が、そして人間生活の諸相が語りかけてくる問題を、自分で納得のいくように解こうとしただけである。P7
岩田慶治「道元との対話」(講談社 2000)


23日間の東南アジア生活の最初3日間をこの本で過ごしていました。

手足などの「かたち」にこだわらずに、闇となっていく自分を座禅と人類学の視点から内省した本となっている。

つい最近まで、調査地でのベットの具合など考えたこともなかった。しかし、心身のやすらぎ、やすらぎのなかでの発想ということの問題性に気づいた途端に、さまざまな民族のなかでの経験が、一挙によみがえってきたのである。昼の、右往左往している自分ではなくて、夜の、しずけさのなかの自分。あれも知りたい、これも知りたいと知の探究にまぎれこんでいる自分ではなくて、自分自身の内部に自己解体をとげて自分というものの輪郭を失おうとしている自分、その自分の方がほんとうの自分に近いのではなかろうか。そこからの発想の方が、机を前にして、ねじり鉢巻で、無理矢理に考えだされた理屈よりも真実に近いのではなかろうか。そう気づいたのである。P24
岩田慶治「道元との対話」(講談社 2000)


このような発狂と興奮の最中に知が萌芽してくるのだなあと我事ながらに読み込むことが出来た。Blogにしたためるほどに言葉が浮かんでこないでいる。

私が本書から得られた視点は、私の秘密を点検していく作業には幾多の道筋があること。その道筋に真実になること。そして「而今の山水は、古仏の道現成なり」という言葉において生活するということ。この3点であると思う。

■参考リンク
ぼくらは少年演出家



■tabi後記
地理的に移動することが「他人の関心(一番インパクトあったことは?,カルチャーショックは?といった質問群!)」を集めるのはなぜなのか?そして、日常から、そのような関心を集めていないのは何故なのかということだろう。
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2009年10月19日

tabi0313 島田裕巳「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」

生煮え神秘主義者が社会と関係を結ぶ事態の一般的考察
中沢は、ゴジラがくり返し回帰させるものは悪夢を生む抑圧の機構ではなく、心の奥底に潜む、失われた「根源的な自然」の記憶にほかならないと言い、ゴジラをもう一度私たちの手に奪還して、それを創造しなおすべき時がきていると述べている。そして、市場やネットワークを踏みにじりながら、私たちの内部に失われた深さの感触を蘇らせる新しいゴジラが、ふたたび海中から浮上してくる姿を自分は想像すると述べて、「GODZILA対ゴジラ」を締めくくっている。P100
島田裕巳「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」(亜紀書房 2007)


中沢は、地下鉄サリン事件の直後、ある元信者に対し「ね、高橋君。オウムのサリンはどうして(犠牲者が)十人、二十人のレベルだったのかな。もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね・・」と言い放った過去がある。

その発言の前には、「宗教とは狂気を持っているものなんだ。そのことに高橋君は気づかなかったの?」と言ったという。その発言に高橋が驚いて、「人を幸せにする、人を救うものを宗教というんじゃないですか?人に苦しみを与えるものが宗教だなんて、僕は聞いたことがないんですけど」と聞き返した。すると中沢は、「歴史的にみてもいろんな戦争を起こしているし、宗教って、そもそもそういう凶暴性を秘めているものなんだよ」と答えたという。上記の発言への批判に対して、彼からの応答は未だにない。

現在、中沢氏は多摩美術大学 芸術人類学研究所の所長を務めながら、ほぼ日くくのち学舍などに顔を出されている。

私は、上記の発言に対しては、価値中立である。そのような凶暴性が自身の内に存在するのは素直に認められる。しかし、発言への批判は「倫理」という底の軽いものではない。むしろ、その不徹底さをこそ批判の俎上にあげる必要があるのではと思う。

さて。島田氏は、中沢氏と旧知の友であった。著者自身もオウムに関する書籍を刊行されており、これらの問題に携わる中で様々な体験をされてきた。

そのような経緯を考えると、本書の意味も深みをもってくる。島田氏は、自身のブログで執筆経緯と刊行後のあとがきを書かれている。

これまで私は30冊以上の本を書いてきたけれど、今回の本を書くという作業は、これまでとは明らかに違った。この本は是非とも書き上げなければならないという強い思いをもちながら書いたことは、これまでなかった。『オウム』には、それに近いものがあった。けれども、今回の方がはっきりとしていた。本が売れようと売れまいと、どう評価されようと、そんなことはいっさい関係がない。とにかく、書き上げなければならないのだと思いながら、私は書き続けた。その意味で、この本は私にとって特別な本なのである。
『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』刊行後の「あとがき」


底が抜けきらない神秘体験、そして社会変革と結びつけない神秘体験。政治性と神秘性の重ねあわせ、ないしは氷塊。非常に大切な論点だと思われる。

■参考リンク
極東ブログ



■tabi後記
明日からアジアを体験してくるわけだが、持っていく書物は「意識と本質」「意識の形而上学」「道元との対話」「龍樹」「国家」にしました。書を持って、旅に出てきます。旅に出て、書を読むかな。
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2009年10月18日

tabi0312 三谷宏治「発想の視点力」

「発想の原理」を発想する。そして、それを感想する。
KJ法でもそうだが、せっかく面白いアイデアがあっても、ヒトはグルーピングという作業の中で、それらのトンガリを落とし、丸めていってしまう。グルーピングとは共通項を探すことなのだから、カード3枚を集約すれば、そのグループの名前はそれらの最大公約数にならざるを得ない。
そうではなく、100のアイデアが出たなら、グルーピングせず一番尖ったものを選び、それを分析して本質を見極め、そこから拡げ組み合わせて新しいアイデアを創り上げることが大切なのだ。発見し、選択し、分析し、組み合わせる。それが正しく発想するためのステップだ。発散と収束、ではない。P5
三谷宏治「発想の視点力」(日本実業出版社 2009)


発散と収束ではなく、「発見、選択、探求、組み合わせ」から発想が生まれるというのは、三谷さん独特の発想だと思う。発見が重要で、そのためには、「比べる」と「ハカる」という視点が重要だという。また、収束では単なる収束ではなく、観想が必要だという。

「正しく決める力」を筆頭に、三谷さんの本が素晴らしいのは、普通のマーケティングの本が「理論→事例」で終わるところを、「理論→事例→抽象化」という手順で説明しているため、納得感が高いことだ。

8月末に三谷さんの家に伺った際に「疑わしきは、測れ。問題は何を測るか。」という言葉を体感させられた。時あるごとにこのフレーズがリフレインしているこtもあり、周囲からのFBによって習慣レベルに落ちていることを感じてきている。

丁寧にハカっていると、やっている人と、やっていない人の差が明瞭になるばかりか、やっている人の中での差異も明瞭になってくる。やはり、本当のプロは、ちゃんとハカっている。自分のカンを信じず、重さや厚さや意味を、ちゃんとハカろうとしている。人間の感覚が、実はいい加減だと骨の底からわかっている。それでいて人間味に溢れている。



■tabi後記
Twitterから逃避するようにBlogに帰ってきた。10/20から11/11東南アジアにいってきます。
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2009年10月10日

tabi0311 NHK取材班「『空海の風景』を旅する」

ZEN/SEX/LSD/BMI
司馬遼太郎が作品のテーマに掲げた「天才」の成立条件とは、一体なんだったのだろうか。その回答が、ようやくおぼろげながら見えてきたように思った。

「空海」とは、限りなくゼロであり、無限だということである。枠外しということである。本当の意味での平等とは、自分が向き合う人をある枠付けしたフレームから見ている限り果たしえない。国家であり、民族であり、宗教であり、性別であり、貧富である。私たちは自分のアイデンティティーを語ろうとするとき、何らかの枠の範囲内にある自分の所属性に頼ろうとする。しかし、その所属性が引き裂かれているマイノリティーの人々も大勢いる。
(中略)
もとより、文字通り枠を外して生きることは困難だ。外側から規定されたアイデンティティーではなく、みずから「おまえはいったい誰なんだ」という絶望的な問いを絶えず自
分に突きつけながら生きてゆくしかないからである。

それを行なおうとしたのが、実は空海だったのではないか。
枠とは、実は外側にあるのではなく、自分の心の中にある。

自分の表皮を一枚一枚めくって削ぎ落としていった時、私たちはたまらない不安におちいる。そして、ふたたび皮をまとって自分と他者を区別し、差別する。人にとって、自分の心の枠を外そうとすることは、みずからの崩壊につながるほど恐ろしいことなのだ。

その不安な作業を、終生、行なっていたのが空海ではなかったかと思う。「天才」とはまさに、その不可能にたえず挑んでいった人間だったのではないかと思える。P362-364
NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中央公論新社 2005)


執筆時期を考案すると、司馬遼太郎は「坂の上の雲」にて日本という国家を書くかわたらで、「空海の風景」のおいて「国家」という枠を外れた人物像を想像していたようだ。

本書は、2002年1月4・5日にNHKスペシャルでテレビ放映された『空海の風景』の制作秘話がスタッフによって執筆されている。プロジェクトが発足してからしばらくして、「2001.09.11」が起きた。そこで問われたのが「なぜ今空海なのか?」ということだった。そして、1976年に司馬遼太郎が描いた「空海の風景」から25年以上が経過した「今」において、どのように空海を描くのか。

本書では、空海の今、そして司馬を通じた空海の今という2つの「今性」を抱え込んだプロジェクトとなっている。複数の時を超越しながら発見された世界観を体感する上では、非常に有益な論考となっている。その中でも私が注目したが「空海と性欲」についてであった。

空海は自分の体の中に満ちてきた性欲というこの厄介で甘美で、しかも結局は生命そのものである自然力を、自己と同一化して懊悩したり陶酔したりすることなく、「これは何だろう」と、自分以外の他者として観察するという奇妙な精神構造をもっていた。この一事で空海は他の若者とまったくちがう何者かとして奈良の大学に存在した。P103-104
NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中央公論新社 2005)


この時の空海の哲学は、後の最澄との関わりにおいて如実に反映されていると思わされた。

想起されるのは、最澄が頼みこんだ『理趣釈経』借覧を拒否したときの空海の姿だ。空海は、この経典が男女間の性交の無自覚的な奔放につながることを警戒していた。たんに欲望を肯定するだけではなく、欲望をみずから自在にコントロールできる境地に達するためには、文字面の理解のみでは不可能とし、そのためには厳しい修行を通じて身をもって経典の真意が体得されることが必要だと考えた。密教に全身を投じる覚悟のない者が、その思想を断片的に吸収、引用することは、薬を猛毒に変えるように、きわめて危険なことと自覚していたと思われる。P299
NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中央公論新社 2005)


先日「LSD: Problem Child and Wonder Drug」というドキュメンタリー映画を見た。この映画は、LSDの発見者、アルバート・ホフマン博士の100歳の誕生日を記念に2006年、1月11-13日にスイスのバーゼル市で開催された「国際LSDシンポジウム」を撮影したものである。

私は、ZEN/SEX/LED/BMIというものを1つの系の中で論ずる可能性を考えてみた。それは意識変容の経験というものではなく、意識変容技術を飼いならす技術という地平での話しである。その話をするためには「倫理」という言葉では扱える範囲が狭すぎる。恐らく「アート/哲学」に対する根本的理解と突発的行動を合わせ持つことでしかものが飼いならせないと思ってきている。これはいよいよ楽しくなってきた。

■参考リンク
241旅 『『空海の風景』を旅する』 NHK取材班



■tabi後記
明日は円覚寺で坐禅会です。
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2009年10月09日

tabi0310 山本冬彦「週末はギャラリーめぐり」

画廊は無料の美術館
私は今美術館に飾ってある作品が当時、町の画廊に飾られていたと仮定して、自分はそれを買っただろうか?という「買う(所蔵する)」モードで見るようにしています。買うというモードで観ることで現代のギャラリーで見る作品だけでなく、既に美術館に収まった歴史的な作品も選択肢となるわけで、時空を超えた自分だけの空想コレクションを楽しむことができるのです。P143
山本冬彦「週末はギャラリーめぐり」(筑摩書房 2009)


美術館に行くと一番混んでいるのが、入り口の作家の略歴と解説ボードの前でしょうか。そこには、過去の知識や成果をトレースすることによって「◯◯展」を見たという実感を得るためのイニシエーションが交わされているように思ってしまいます。

そこには本当の鑑賞家ではなく、単にキュレーターが決めた通りの観光コースを見学した旅行者を見ているような気分です。評価の定まった作家、人気の作品というのは当然専門家が選んだものであり、その意味で価値のあるものには違いありませんが、それでは単なる追体験に過ぎないのではないでしょうか。

自ら主体的に「鑑賞」したいならば、無名との対峙、そして「見る」という安全地帯における楽しみよりも一歩踏み込めな「買える」スタンスに立てる場所にいくのが望ましいのではないか?そして、著者は、そのためにこそ画廊は開かれていると説明されています。

あなたは「買って手に入れたい」、「盗んででも自分のものにしたい」、そのように思える「モノ」に最近出会えていますか?心をかき立てるような情熱的で創造的な消費行為を行なっていますか?そのようなメッセージを本書の底流には感じます。

それらの「所有」「消費」という欲望が、なぜ湧き上がってくるのか?この作品に執着する私は何者なのか?このような自己省察の機会としても、ギャラリー巡りをすることは有意義なのかもしれません。本書で紹介されている画廊巡りコースや展力というサイトなどを利用して、町へ飛び出してみるのも良いかと思います。

■参考リンク
はるレポート
久恒啓一の「今日も生涯の一日なり」



■tabi後記
本書は長谷川徳七「画商「眼」力」を生活に落とし込んだ本だと思います。天気は快晴。
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2009年10月07日

tabi0309 湯浅誠「どんとこい、貧困!」

日本に生まれたという「溜め」を生かすには
”溜め”とは、「がんばるための条件」で、人を包み込むバリアーのようなもの。 お金があるのは、金銭の”溜め”があるということ。 頼れる人が周りにたくさんいるのは、人間関係の”溜め”があるということ。 そして、「やればできるさ」「自分はがんばれる」と思えるのは、精神的な”溜め”があるということだ。

誰もが同じ"溜め"をもっているわけじゃない。"溜め"の大きさは、人によってちがう。

たとえば、お金持ちの家に生まれて、両親がいい人でやさしく、頼りがいがあって、自分も自信満々、いつだって「自分はできるさ」と思えるような人は、お金、人間関係、精神的な”溜め”が全部そろっているから、大きな”溜めに包まれている。

逆に、お金のない家に生まれて、両親も仲が悪く、自分のことなんてかまってくれない。自分も、いつもどうしても「どうせおれ(私)なんて…」と思ってしまう人は、包んでくれる”溜め”が小さい。P45〜46
湯浅誠「どんとこい、貧困!」(理論社 2009)


「反貧困」を掲げる彼らの活動は、ぼろぼろになってしまったセーフティネットを修繕して、すべり台の途中に歯止めを打ち立てること、貧困に陥りそうな人々を排除するのではなく包摂し、”溜め”を増やすことであるという。

本書を読む限りでは「自己責任論」を否定して、最低賃金や生活保護などの「ナショナルミニマム」を引き上げるよう政府に求める、伝統的な「ものとり論争」を感じてしまう。もちろん、そういった側面だけが彼らの全てではない。無謬性の想定はなく、建設的な姿勢もみられる。

しかし、それを差引いても「溜め」を分配することに視点が行き過ぎるあまりに「溜め」の視点が狭くなっている。

こういう事後の裁量的再分配が横行する社会においては、誰も財を築こうとしないだろう。これは深刻な私有財産権の侵害だ。もし日本が「経済的に成功すれば公権力がやってきて収奪する」ような不公正な社会だと認知されれば、そのような「後出しジャンケン」を嫌う資本が海外流出し、より深刻な不況を生むだろう。

あなたが起業家だったら、日本で起業するか? あなたが投資家だったら、日本に投資するか?
非正規雇用問題:「ババ抜き」ゲームをやめればいい


上記の記事を読んで、自らが想定しているものをフラットにしてみよう。その上で「溜め」について考える。本書でいう「溜め」というのは、アマルティア・センのいう「Capability」のことであろう。「Social Capital」や「ハビトゥス」などを連想する方もいるかと思う。

確かに、生まれながらによって獲得している「溜め」があるのは事実である。これを反論することは出来そうにない。

だが、溜めを分配せよ!というのは視点として狭いのではないだろうか。私が一読する中で考えていたのは、溜めがない中に「溜め」をみることだった。

例えば、本書で取り上げられる「貧困層」の中で読み書き計算が出来ない人は少ないだろう。これは「溜め」ではないだろうか?世界には読み書き計算が出来ずにいる人は五万とおり、それらを教育する者も不足している。

生活保護が数万円もらえることは世界的にみれば「溜め」である。手当による年収100万円というのは、日本国という最低限の生活をするコストが高い場所にいると貧困になってしまう。しかし場所を移せばどうだろうか?

以上のことは、弱者を甘やかすのではなく、弱者を成長させる仕組みをつくるには(例えばグラミン銀行のように)どうすればいいかという思念の過程である。

今の私が思い浮かぶアイデアは、ホームレス、ワーキングプアといわれる貧困層を、「海外で活躍する人材」として途上国へ送り込むことだった。カンボジアやバングラディッシュにおいては、彼らの教育水準や所得水準は十分に「溜め」がある状態である。

初期投資として30万円を渡航費と現地語の修得のための貸出しを行い、途上国で教師などの仕事について頂く。現地で稼ぐ収入(教師/通訳/その他)から利率を乗せて返還してもらうという仕組みである。

この人材育成/派遣は、もし実現出来るとしたら外交的にも優れた政策ではないか。一人でこのような想像をしていた。ワーキングプアではなく、教育者として途上国に派遣する事業を行なう。住む場所がなく、家族等の身寄りがいないというのは、ある視点でみれば「失うもの/背負うもの」がないということであり、最上にフリーな方々なのではないだろうか?

繰り返して言う。【あなた】がやるべきことは「差別反対」と叫ぶことではない。被差別者を自ら雇い、ボロ儲けすることだ。

雇用差別などという問題は存在しない。そこにアービトラージの機会があるだけである。【あなた】がすべきは、「差別」の告発ではなく、「被差別者」(とあなたが考える人たち)を雇って、自らボロ儲けすることである。それが社会の変革になる。
雇用差別という問題は存在しない


私には高等教育まで無償化したところで、中国をはじめとした労働者にコストで勝てるとは到底思えない。また、世界水準で創造的な仕事をする人材に「全員」がなるとも到底思えない。

であるならば、自らの「溜め」よりも下にいる層に対して、貢献するモデル。自己重要感を獲得できるように「雇用」をするのがよいのではと考える。

■参考リンク
池田信夫 Blog 反貧困―「すべり台社会」からの脱出
雇用保険制度は失業率を底上げしている



■tabi後記
ざっくりしたアイデアなので、建設的にデータや実現可能性を模索してみたいと思う。
posted by アントレ at 12:28| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

tabi0308 開高健「ベトナム戦記」

ルポルタージュ、それは内面の戦争
銃音がとどろいたとき、私のなかの何かが粉砕された。膝がふるえ、熱い汗が全身を浸しむかむかと吐気がこみあげた。たっていられなかったので、よろよろと歩いて足をたしかめた。もしこの少年が逮捕されていなければ彼の運んでいた地雷と手榴弾はかならず人を殺す。五人か一〇人かは知らぬ。アメリカ兵を殺すかもしれず、ベトナム兵を殺すかもしれぬ。もし少年をメコン・デルタかジャングルにつれだし、マシン・ガンを持たせたら、彼は豹のようにかけまわって乱射し、人を殺すであろう。あるいは、ある日、泥のなかで犬のように殺されるであろう。彼の信念を支持するかしないかで、彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。しかし、この広場には、何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。P168
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


ベトナム社会主義共和国は、面積 32万9241km2(日本の約90%),人口約8520万人(2007年)で、国民の約90%がキン族(ベト族)で、その他は50以上の少数民族が存在する国でラウ。宗教は約80%が仏教徒,キリスト教(9%),その他はイスラム教,カオダイ教,ホアハオ教,ヒンドゥー教となっている。

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1887年から1954年7月にディエンビエンフーの戦いでフランスが敗北するまで、フランスの支配下になったインドシナ半島東部地域である。ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退し、独立戦争は終結した。

同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。そして10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。それ以来、この「南北ベトナム」は世界の象徴として語られ始めるのである。

あとで私はジャングルの戦闘で何人も死者を見ることとなった。ベトナム兵は、何故か、どんな傷をうけても、ひとことも呻かない。まるで神経がないみたいだ。ただびっくりしたように眼をみはるだけである。呻めきも、もだえもせず、ピンに刺されたイナゴのように死んでいった。ひっそりと死んでいった。けれど私は鼻さきで目撃しながら、けっして汗もかかねば、吐気も起さなかった。兵。銃。密林。空。風。背後からおそう弾音。まわりではすべてのものがうごいていた。P168
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


私は《見る》と同時に走らねばならなかった。体力と精神力はことごとく自分一人を防衛することに消費されたのだ。しかし、この広場では、私は《見る》ことだけを強制された。私は軍用トラックのかげに佇む安全な第三者であった。機械のごとく憲兵たちは並び、膝を折り、引金をひいて去った。子供は殺されねばならないようにして殺された。私は目撃者にすぎず、特権者であった。私を圧倒した説明しがたいなにものかはこの儀式化された蛮行を佇んで《見る》よりほかない立場から生れたのだ。安堵が私を粉砕したのだ。私の感じたものが《危機》であるとすると、それは安堵から生れたのだ。広場ではすべてが静止していた。すべてが薄明のなかに静止し、濃縮され、運動といってはただ眼をみはって《見る》ことだけであった。単純さに私は耐えられず、砕かれた。P169
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


■参考リンク
ベトナム・ハノイに行ってきました。



■tabi後記
本を読んで分かることは部分的かつ一面的であることは、人並み以上には感じているつもりである。それでも読むのはなぜだろうか?それは、実際に東南アジアに行く,見るという「経験主義」に振り切らないための防波堤なのかもしれない。ただし、知識の確認作業として「現地」へ行くのではない。外的確認→外的統合→崩壊→内的統合→内的確認が起きるのではと企図している。
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tabi0307 三留理男「悲しきアンコール・ワット」

博物館という権威を壊す事実
一般に、現在のカンボジアとベトナム両国の関係は、これまでになく蜜月関係にあるといわれている。ベトナム戦争時代はともにアメリカと戦った盟友であり、カンボジアのポル・ポト恐怖政治を終わらせたのもベトナムである。歴史的にはそのとおりなのだが、一般のカンボジア人は違った見方をしている。彼らはいまもなお、植民地(フランス)時代と同じように、常にベトナムが上で、カンボジアが下、一番はいつもベトナムでカンボジアは常に二番の位置に固定されているような気がしているらしいのだ。P79-80
三留理男「悲しきアンコール・ワット」(集英社 2004)


カンボジア王国はインドシナ半島にあり、国民の90%以上がクメール人(カンボジア人)である。言語はクメール語(カンボジア語)、宗教は仏教(上座部仏教)である。面積は18万1035km2で日本の約50%、人口約1338万人(2008年)となっている。

1884年にフランス保護領カンボジア王国となり、1953年にカンボジア王国としてフランスから独立する。1970年のベトナム戦争の影響を受けて勃発した内戦は、1991 年にパリ会議が開催されるまでの約22年間の長きに及んだ。

そして、1976年から約3年間に渡って続いたポルポト政権の独裁政治および虐殺という歴史を経て、「東洋のパリ」と呼ばれていたほどのカンボジアの文化や社会は荒れ果ててしまった。

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カンボジア政府によると、カンボジアにはアンコールワットの他にも仏教やヒンズー教の遺跡が1000ヶ所以上あり、文化財がたくさん残っている。しかし、植民地支配や内戦など不幸な歴史が折り重なり合い、盗掘が相次いできたらしい。

古くはタイのアユタヤ朝との戦いに敗れてアンコールワットの美術品が戦利品として持ち去られたし、フランスの植民地支配時代にはアンコールの仏像の美しさに魅せられた不心得なフランス人達が遺跡から仏像を切り取ってフランスに持ち帰るなどした。

第二次大戦後に独立を果たしたものの、貧しさのために盗掘はエスカレートし、内戦期やポル・ポト派が国を支配した時代には公然と文化財がタイへ持ち出され、世界中に密輸された。1993年にポル・ポト派とフン・セン派で停戦合意し、その後はカンボジアに平和が訪れ、遺跡の盗掘も止むかと思われたが、事態はそう単純ではないようだ。

というのも現政権の政府軍は、断続的にポル・ポト派を吸収するかたちで成立しており、軍の要職をポル・ポト派の元幹部が担っているらしい。従って地方によっては政権の力が及ばず、賄賂を握らされた軍人達が盗掘を黙認しているケースもあるそうだ。

ここで考えるのは、文化財があるべき場所は、遠い先進国の博物館のガラスケースの中なのか、愛好家の管理の行き届いた金庫の中か。筆者の三留さんは、違う、と言う。

「その地から出土した物は、基本的にはその地に戻すべきではないだろうか。」P161

仏像は寺に、ギリシャ彫刻はアテネの山に、アンコールの文化財は、アンコールの森のなかに。その情景を守ろうとしている人たちの闘いぶりを伝えて、ルポは終わる。この問いは「博物館」という権威にヒビを入れるものとなるだろう。そして読者は思考を迫られる。

話は転じて、このような内戦からの復興・発展に向けて、社会をリードする役割は若者に期待されている。それは、カンボジアの人口の構造としてそもそも若者が多いことに帰すると考えられいるからだ。

同国の人口の70%は、30歳以下であり、52%は18歳以下である。その中でも、国内で一番歴史が深く唯一の王立大学である王立プノンペン大学(Royal University of Phnom-Penh)と、国内で企業に優秀な人材を輩出している国立経営大学(National University of Management)に在学する人たちが注目に値するのだろう。

■参考リンク
portal shit! : 悲しきアンコール・ワット
窪橋パラボラ
東京外国語大学東南アジア課程
カンボジア地図からの旅行
タグふれんず



■tabi後記
降りしきる 雨をかき分け 見初め合う

最近、俳句を何個かつくっているので、載せてみました。
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2009年10月05日

tabi0306 柿崎一郎「物語 タイの歴史」

それは、自分のなかの歴史を読ませるか?
実はタイの歴史を辿っていくと、「世渡り上手」なタイの姿が見えてくる。山田長政がアユッタヤーで活躍した理由は、タイ人であろうと外国人であろうと能力のある人物を登用する伝統がアユッタヤー時代から存在したためである。独立を維持できた理由は、タイに関心を示す列強の勢力を極力拮抗させて、一国がタイ国内で権益を持ちすぎないように調整したバランス外交の成果であり、その過程では領土の割譲というパイを行使して、身を小さくしてでも国を守ろうとした。さらに、第二次世界対戦ではタイは日本の「同盟国」となったものの、括弧付きの「同盟」であったことから戦後に日本と同じような敗戦国としての扱いを受けずに済んだ。P5-6
柿崎一郎「物語 タイの歴史」(中央公論新社 2007)


タイ王国は、東にカンボジア、北にラオス、西にミャンマーとアンダマン海があり、南はタイランド湾とマレーシアと面している。国土はインドシナ半島の中央部とマレー半島の北部であり、面積 51万4000km2(日本の約1.4倍),人口 約6283万人である。

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タイ王国:タイの基本情報 - General Information of Thailand

本書は、タイの視点を一国史として捉えるのではなく、周辺地域の歴史や世界史との関係性を重視して描写しながら、タイのナショナルヒストリーを批判的に検討するものとなっている。教科書としては良くまとまっており、多くの資料を編集した労苦には尊敬の念を示したい。一方で、まとまった通史ほど平凡なものはないことを再認識させられる。

恐らく、素材の繋ぎ方に価値があると思うので、楽しさを感じる事ができないのだろう。それは旅にも言えることだろう、ガイドブックや口コミや遺産などを「既知」のものを舐め回すような確認作業には楽しみは宿らないであろう。

僕の繋ぎ方としては共時的に生きる同世代が何に違和感(潜めた問い)をもっているかということ。そして、読書を初めとする知的生産生活から「思考の裏側」を垣間みるということかもしれない。そうなると「大学」というものが1つの象徴として立ち上がってくる。タイであれば、チュラーロンコーン大学チエンマイ大学の方々などだろう。彼らが何を考えているのか、思考の深層、違和感の陰部を対話することが出来たらと思っている。

■参考リンク
タイ王国の歴史
バンコク旅行で学んだこととかをまとめてみる
『ホテルバンコクにようこそ』 下川 裕治



■tabi後記
メールではなくTwitterやmixiボイスで呼びかける方が、思ってもいない角度から情報が飛び込んでくる。グーグルとTwitterはリアルタイム検索で激突するかなどから示唆がえられるかもしれません。
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tabi0305 藤巻 正己/瀬川真平「現代東南アジア入門」

植民地空間から国民国家へ、そして民族空間へ
日本においては、東南アジアの華人に対して、依然として「華僑」・「中国人」という見方がされがちである。しかし今日、東南アジアの華人の中で、東南アジアを仮住まいの地と考え、また中国のことを「祖国」「我国」という言い方をする者はほとんどいない。また、今でも中国本土の祖先の出身地と送金や手紙のやり取りなどで定期的なつながりを維持している華人はきわめて少ない。P52
藤巻 正己/瀬川真平「現代東南アジア入門」(古今書院 2009)


1943年以降から「東南アジア」という言葉が使われはじめたが、初めて文字として登場したのは1839年のハワード_マルコムの旅行記であった。当然の事ながら日本からみた「東南アジア」は「東南」ではないので、戦前は南方、南洋というように曖昧に呼んでいた。本書で際立つのは、ASEAN諸国における華人の構成比が無視出来ないほど存在することへの示唆である。

・シンガポール(華人77%,マレー人14%,インド系8%)
・マレーシア(マレー人53%,その他土着民族12%,華人27%,インド系8%)
・ブルネイ(マレー人67%,華人18%,イバン人・ドゥスン人など先住民族5%)
・タイ(タイ人系75%,華人14%,マレー人,クメール人,山岳少数民族)

以上の4カ国においては、多民族国家という点だけではなく「東南アジア空間」においては投資,貿易,労働などによって華人を筆頭に常時、人間/民族が移動をしている。

また、イスラム,仏教,キリスト教を初めとする宗教の渾然一体となっており、物理空間、精神空間、時間意識が住み分けられ、混ぜ合わせれている。ASEAN10の面積・人口・宗教・言語・政治体勢が記載された画像を添付する。
ピクチャ 1.pngピクチャ 2.png

このような世界の中で、どのような思考、生活が発生しているのだろうか。分けても分からない社会の中で、自律的に生活が営まれている「背後」にあるもの、もしくは「内部」にある仕立てを探ってみたいと思う。

■参考リンク
新世界読書放浪
ASEAN日本統計集



■tabi後記
最初から、東南アジアという言葉、行き先を国名で呼ぶこと自体に違和感がある。国ではなく文明でとられるというあり方もあるが、僕としては「同じ」を探っていきたい。それは深層的なことかもしれないし、言語的なことかもしれない。差をつかまえて、分けいることは一線を越えると大いなる価値があるが、それを認めたうえでも、分類とは距離をおいていきたいと思う。
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tabi0304 鶴見良行「東南アジアを知る」

包丁を持って旅に出よう
台所という場は、学者の仕事場である書斎よりも、学者にとってより豊かな発見の場所である、と私は考えています。料理好きの私は、包丁をたずさえて東南アジアを旅しているのですが、台所で料理させてもらうことは、食というかれらの暮らしの一つの実質に近づけるだけでなく、女衆の労働も観察できます。包丁と台所は、文化人類学的なアプローチにとって、まことによき切り口だと思います。P156
鶴見良行「東南アジアを知る」(岩波書店 1995)


どこの国であれ、書かれたものをはじめとする文字史科は、生活に余裕がある"エライさん"が残したものであり、歴史認識のこのまぬがれがたいゆがみを克服するには、宮本常一のような「歩く学問」が必要であると説かれている。主に、自分で歩いて現場を見ることと、自分で作業に加わってみることの二つに焦点をあてながら自らの「東南アジア」を綴られている。

このように情報になりづらい「周辺」に意識を向けるのが、鶴見氏のスタンスであった。さて、私にとってのアジアは、どのような切り口になるだろうか。本書を読みながら、いくつか思うところがあったので、その大枠をとらえ次第、出発しようと思う。

■参考リンク
1199旅 鶴見良行『東南アジアを知る 私の方法』



■tabi後記
組織の時代は終わったと分かっているのに、なぜ組織に個人は居着いてしまうのか?この矛盾を解消するのが、これからの働き方なのだろう。
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2009年10月04日

tabi0303 旅行情報研究会「バックパッカーズ読本」

恐れずに。しかし、気をつけて。
バックパッカーの旅を最も適切にいい表せるのは「貧乏」ではなく「自由」というキーワードだ。現地に着いた瞬間から、どこへ行くにも、なにをするのも自由。自分で好きな場所に好きな宿を探し、チケットを取って行きたい待ちに行く。見たい国へと旅をする。いつ食事を取ろうが、観光しようがしまいが、すべては旅行者の自由なのである。P1
旅行情報研究会「バックパッカーズ読本」(双葉社 2007)

今更バックパーカーに興味が出てきた私には、事前準備、危険対策、様々な交通モデルプランから各国/旅人のデータまで、最低限必要な知識が網羅的に編集されていたので分かりやすかった。

普段から、日々の生活が東京のいたるところでも行なえるかのか?を実験しているのだけれど、最近そこまでの差異が見えてこないことに不満を抱いていた。関西や四国や沖縄といった国内の旅行にいくよりも、海外に出ていってしまった方がトータルでは後者の方が安く上がってしまう可能性があることに気がついてから興味がわいてきたのだった。

同時に読ませて頂いた「週末アジア!」は、現役サラリーマンの著者が、週末にアジアを旅して得られた体験と情報がまとめられている。

週末だけで海外旅行なんてもったいないしなぁ・・・と迷うのが普通の思考感覚なのかもしれないが、少しでも行きたいという気持ちがあれば、思い切って行っちゃったほうがいい。ソンクラーンに参戦してみて、改めて強くそう感じた。どんなに短期でも旅であることには変わりがなく、短期だからこそ強烈に残る記憶をたよりに、ここまで書き進めてきた。たとえ仕事が忙しくても、行こうと思えば週末だけでもアジアには余裕で行ける。問題は、行こうと思うどうか、なのだ。P223
吉田友和「週末アジア!」(情報センター出版局, 2008)


乗継便の関係で、週末海外旅行をするならば、中国・韓国よりもタイやマレーシアに飛んでしまった方が現地に長くいられる。このような環境が整えられてきてからは、高城剛の「サバイバル時代の海外旅行術」にみられるように、アジアや世界を歩きながら、新しい時代を考え/仕事をしていく人が当たり前になっていくのを感じている。

■参考リンク
1140旅 旅行情報研究会『バックパッカーズ読本』
1148旅 吉田友和『週末アジア!』





■tabi後記
ネックとしては、1ヶ月分の本を持っていくのは荷が重いこと、そしてBlog更新の環境がえられるかということだろう。本はスキャンしてデジタル化してしまえばいいと思うが、ネット環境はいかんともしがたいか。
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2009年10月03日

tabi0302 牟田淳「アートのための数学」

脈絡づくりまでの象牙期間
人間の耳に聞こえる音の範囲があります。20Hz~20000Hzくらいの範囲の音の高低が、だいたい人間に聞こえる音です。音の波の速さである音速を仮に340m/sとすると、式3.1から、波長にして1.7cm~17mの音が人間に聞こえる音ということになります。これは可視光の波長(380~780nm)と比べるととても長い波ですね。P43
牟田淳「アートのための数学」(オーム社 2008)


昼と夜では明るさは1億倍も変わっているのに、人間はその違いに気がつかずに生活を送っている。(とはいってもルクスという照度尺度による驚きでしかないのだけど)

何の脈絡もなくサイン、コサイン、タンジェントとやるよりも、ドレミと一緒に三角関数を習った方が飲み込みやすい。デシベルと対数の関係など、あやふやだった知識も生活の話題と紐付ける事で上手く整理される。

プログラマの数学にもみられるような説明態度が本書にもみられた。分かりやすさを提示するためには、分かりにくいことを徹底する期間が必要であると考えている。分けるの魔力に吸い寄せられることでお素晴らしい作品を書く人もいるし、分けずに繋げることで「分かる」をつくる人もいるのだろう。

■参考リンク
厚木と中野ではたらく准教授・牟田淳の奮闘日記
オブジェクト脳@kcg



■tabi後記
日本が示す大小はとても面白い。例えば、不可思議(10^64)無量大数(10^68),刹那(10^-18=クオーク)六徳(10^-19)虚(10^-20)といったものだ。
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tabi0301 堀井憲一郎「落語論」

読書もまた落語ではないだろうか
落語はきわめて個人的な体験である。これがどうしようもない出発点である。そこにいろんな可能性が秘められており、絶望的な評論の限界がある。落語の評論は、すべて嫉妬から生まれる。落語は音楽である。また落語は言葉で綴られる芸能である。(中略)落語を評論するものにとって、落語は言語になる。演者にとって落語は音であり、観客にとっても音である。でも、ごく一部の「落語を家に持って帰って振り返りたい"執着する者"」にとってだけ、言語なのだ。ここのところにまず評論の悲しい出発点がある。P160-161
堀井憲一郎「落語論」(講談社 2009)


堀井氏の語り方は、実に巧みである。語りの隘路を提示しながらも、自らも語りの世界に身をおいている。言語的執着で抜け落ちるもの示しながらも、己の執着(嫉妬)をあらわにしていく。このような自己撞着な態度が落語なのかもしれない。

確かに落語は言葉だけに絞り込むと論じやすい。だからほとんどの落語論が、『落語で語られたこと』をもとに展開されているのだ。(みなさんがお気づきのように、それは落語だけに言えることではない)

そして残念なことに、その方向で精緻に語られれば語られるほど、落語の根源からずれていく。落語は、常にそういう“近代的知性の分析”の向こう側にいると著者は語る。ではその向こう側とは何だろうか?

堀井氏は、落語は“厄介な存在である人間”をそのまま反映したものであると語る。そもそも矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語であると。その矛盾の中に、或る種の「系」を発見してしまい(勘違いをしていまい)、その概念的魅力を執筆まで忘れない人間が「論」をするものなのだろう。ロゴスへのパトスと、パトスへのログスが垣間見える書籍である。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
このブログをどうしようか考えている。僕は、1日1~3冊読んでいることを表現したかったわけではなかった。読書家と思われる事が最も避けなければいけないところだから。
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2009年09月23日

tabi0300 傳田光洋「第三の脳」

皮膚に魅了されて・・それはヒフミと一二三
視覚と聴覚の世界がテクノロジーの発達で無限に広がっても、私たちは皮膚が感じる世界から逃れられない。(中略)視聴覚が築き上げた人間の社会でも、皮膚感覚は暗黙知として大きな意味をもっています。眼で見た世界では説明がつかないことが、皮膚から考えると理解できる。皮膚が見る世界に思いをはせ、皮膚が語ることに耳を傾けることが、今の私たちに必要だと信じます。P217
傳田光洋「第三の脳」(朝日出版社 2007)


子どもの頃からタオルケットやガーゼの肌感覚が忘れられず、未だに愛用しているものが何点かある。そのような生活的事実を思うにつけ、皮膚が生命と環境との物理的境界ということを超えているのでは?と思うようになってきた。

また、DID・触覚的自我タッチアートのワークショップ経験を通じる中で、思考する素材としても「皮膚/触覚」というものへの魅力も湧き上がってきている。

書籍においても、肌感覚の良い本,悪い本が存在する。ページのしなやかさや、古本にみられる独特のやわらかさ、大型本固有の重量感など。視覚を引き算したあとに足し算されてくる感覚がある、その感覚は脳に思考だけは追いついていけないところが間々あるような気がしている。その気は、どのように思わされてしまったのか。なぜ芽生えてしまったのかと問われると、いささか言語化に苦労する。

■参考リンク
手作りスキンケアから現代思想まで
MyPlace
BOOK LOVERS Vol.250 神田昌典



■tabi後記
細々とはじめて300記事に到達しました。tabi300と「第三の脳」は若干かけてみた。笑
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2009年09月22日

tabi0299 プラトン「メノン」

「◯◯とは何か?」とは何か?
ソクラテス:とすると、君みずからの認める事柄から帰結するのは、結局、いかなる行為でも徳の部分をともなえば、それがすなわち徳にほかならないということなのだ。なぜなら、正義をはじめ、そういったひとつひとつのものは、徳の部分であると君は主張するわけだからね。
ーなぜぼくがこういうことを言うかというと、つまり、全体として徳とは何かを言ってくれというのが、僕の要求だったのに、君は徳そのものが何かを言うどころか、どんな行為でも徳の部分をともないさえすれば、それが徳であるなどと主張する。あたかもそれは、徳とは全体として何であるかを君がすでに言ってしまっていて、君がそれを部分部分に切り分けても、ぼくにはすでに理解できるはずだといったような調子だからだ。

だからね、親愛なるメノン、ぼくは思うのだが、君はもういちど振り出しにもどって、徳とは何であるかという同じ問をうける必要があるのだよーもし徳の部分をともなうすべての行為は徳であるということになるならばね。なぜならこれこそ、すべて正義をともなう行為は徳であるとという主張の意味するところなのだから。ーそれとも君には、もういちど同じ問が必要だと思えないかね?ひとは徳そのものを知らないのに、徳の部分が何であるかがわかると思うかね?P40
プラトン「メノン」(岩波書店 1994)


学習想起説に紙幅をとられており、徳の考察、及びそこから派生するイデア、イデアへ到達するための道筋については生煮えとなっている。「国家」への布石となる書籍として読ませて頂いた。

学習想起とは「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」という考えで、魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのであるというものである。

徳は教えられるものか?資質として得られるものか?というメノンの問いに対して、ソクラテスは「そもそも徳とは何か?」という問いを発していく。確かに大切な問いである。だが、この問いによってソクラテスが探求しようしたのは何だったのか?と考える。それはイデアである。この一言で片付けるのは見当違いであると思う。

そもそも「◯◯とは何か?」とは何か?、◯◯に入るのが徳にせよ、創造性にせよ、リーダーシップにせよ、本書でいうところの「たまたま降りてきたもの」なのだろうか。その事を「天啓」や「神の導き」ともいえば、「ひらめき」や「まぐれ」という言葉も宛てがわれている。

■参考リンク
メノンの問いとソクラテスの問い
プラトン「メノン」におけるメノンのパラドックスと想起説
407旅『メノン』プラトン



■tabi後記
10月はアウトプット月間にしてみようか。そのための読みだめをしておこう。
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tabi0298 ダニエル・ピンク「ハイコンセプト」

紙ナプキンに書き殴られたアイデアは掘り起こされるか?
電気照明は一世紀前には非常に珍しいものだったが、今ではごく当たり前のものである。電球は安い。電気はどこにでもある。ロウソク?誰がロウソクを使うのだろう?しかし、使う人はたくさんいるらしい。アメリカでは、ロウソクは年間24億ドル(3000億円弱)規模のビジネスである。照明用という論理的な必要性を超えたところに、最近の豊かな国々で見られるようになった「美しさや超越への欲求」があるからだ。P78
ダニエル・ピンク「ハイコンセプト」(三笠書房 2006)


本書は、左脳/右脳という分類ではなく、左脳主導思考/右脳主導思考という傾向性を提示する。そして、これからの新しい時代には一人ひとりが自分の仕事を注意深く見つめ、次のことを問う必要があると提案している。

1.この仕事は、他の国ならもっと安くやれるだろうか?
2.この仕事は、コンピュータならもっと速くやれるだろうか?
3.自分が提供しているものは、豊かな時代の非物質的で超越した欲望を満足させられるだろうか?

ピンク氏は、この三つの質問が成功者と脱落者とを分ける指標であるという。海外のコストの安い労働者にはこなせず、コンピュータが人よりも速く処理できないような仕事に集中し、繁栄の時代の美的・情緒的・精神的要求に応えられる個人や組織が成功することになる。本書は、全脳思考とも通底するテーマであり、これからの働き方にも影響を及ぼした内容であろう。

■参考リンク
雇われない働き方とは?米国にみる企業とフリーエージェントの新たな関係
『フリーエージェント社会の到来』要約
zuKao Daniel H.Pink著「ハイコンセプト」



■tabi後記
本書を読んだ頃は、イノセンティブ(Innocentive)が話題に上がっていた。アイデアと自分自身をさらけ出し、影響力と資金を受け取れるようなスポットは意外に少ない。
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tabi0297 キャロル S.ドゥエック「やればできる!の研究」

学びはギフト、それは自己を手放すことの返礼。
問題なのは、そのこしらえようとする自己ー全能で、強くて、良い自己ーがこちこちマインドセットになりがちなことだ。だんだんと、そのような固定的な資質を本来の自分であるかのように思いこみ、それを確認することで自尊心を保とうとするようになる。マインドセットを変えるにはまず、その自己を返上する必要がある。P239
キャロル S.ドゥエック「やればできる!の研究」(草思社 2008)


本書は、「自分の能力や知能に対する信念」(知能観/マインドセット)こそが、後続する学習のあり方、その後の人生のあり方を決めてしまうという説を展開する。

本書で扱う知能観は、「FixedMindset」(こちこちマインドセット/固定的知能観)と「Growth Mindset」(しなやかマインドセット/拡張的知能観)の2種類に分かれている。

「Fixed Mindset」を持つ人は、自分の能力は固定的で、もう変わらないと「信じている人」は、努力を無駄とみなし、自分が他人からどう評価されるかを気にして、新しいことを学ぶことから逃げてしまう。

それに対して「Growth Mindset」は、自分の能力は拡張的で変わりうると「信じている人」 は、人間の能力は努力次第で伸ばすことができると感じ、たとえ難しい課題であっても、学ぶことに挑戦する。

Mindset Schoolを主催する安斎さんは、Fixed Mindset(こちこちマインドセット)を「うぬぼれマインドセット」と「あきらめマインドセット」とFixedする場所によって分類されていた。

私が興味を持ったのは「本気で努力するのが怖い」という表現である。Growth Mindsetの持ち主は、潜在能力が開花するのには時間がかかるのを知っているが、Fixed Mindsetの持ち主は、一発/一瞬で「成否」を決めてしまうがあまりに、物事に本気で取り組むことを避けるという指摘である。ここには、鷲田氏が書かれている「「待つ」ということ」に関する論考と通底するものがあるだろう。

■参考リンク
キャロル=ドゥエック著「やればできるの研究」を読んだ!
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!



■tabi後記
未来が出現する瞬間を、刻々と待ち仰せている。
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2009年09月21日

tabi0296 重松清/茂木健一郎「涙の理由」

視覚を奪う涙。その危険をさらすことによって、私は何を得ようとしているのか?
茂木:今日、重松さんとお話しして、インターネットに象徴される日本、現代の流通や情報化、そういうものに対する対抗軸が涙であるという、大切な発見をしました。しかも、その涙は、安易な借り物ではなくて、自分の人生の一回だけの、生の奇跡の中で、命のパズルがカチッとはまった瞬間に流れる自分だけのかけがえのない涙です。
(中略)
重松:涙は、平穏なもの、平板なものに、突発的に生まれる、風穴みたいなものです。その風穴にも、さまざまな風穴がある、俺は、この対談で辿り着いた、「自分だけの涙」というものに、ものすごく惹かれました。小説は、宿命的に、一人でも多くの人に届けるためのものだから、最大公約数的な涙を作ったほうが、もしかしたら流通しやすいかもしれない。けれど、少なくとも物語の中の登場人物に流させる涙は、その登場人物にとっての「自分だけの涙」を流させなければいけないし、「自分だけの涙」は、読者自身の自分だけの涙にも届くんじゃないかなと、改めて信じる。信じたくなった。P248
重松清/茂木健一郎「涙の理由」(宝島社 2009)


物理学者のリチャード・ファインマンは、妻のアイリーンを亡くした時に涙が出なかったという。しかし、それからしばらくして、街中を歩いていて店のショウウィンドウの中にきれいな服が飾られているのを見て、「ああ、アイリーンだったらこんな服を着たがるだろうな」と思った瞬間に、もうこの世にはアイリーンがいないのだと気づいて、号泣したと、自伝『ご冗談でしょうファインマンさん』にある。

すぐれた映画や小説もまた、私たちを泣かせるが、自分自身の人生のさまざまな要素がそろって凝縮した時に流れる涙は、天からの贈り物であって、一つの奇跡である。それは、一生に一回訪れるかどうかもわからない不意打ち。このように語る茂木氏はこの対談の過程において、ずっと「インターネット」への対抗軸を探していたようです。

もちろんインターネットはすばらしいものであり、これからもヘビーユーザーであり続けると思う一方で、それだけでは危うい、なにかが失われると感じていた。そして、その対抗軸が、単に「身体に還れ」とか、「自然に親しめ」ではいけない、とも思っていたと語っています。

茂木氏は、カウンターポイントはそんなに簡単には見つからないと思っていたが、重松氏と向き合っている中である感触を得た。それが、さまざまなものがはまることによって初めて流される、「私の人生だけの涙」というものだったのだ。



■tabi後記
TOKYO FIBER '09 SENSEWARE展に参加してきました。
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2009年09月20日

tabi0295 中沢新一「三位一体モデル」

少子化してしまった現代
ひとつには、安定した同一性をおびた秩序をつくりだそうとする「父」の原理。もうひとつは、「霊」という増殖原理。そして、それらを媒介する「子」の原理。キリスト教では、以上の三つの原理をを組み合わせ、しかも、それらが絶対にはずれないようにした。そのうえで、この構造を、世界で起こることを理解するためのモデルにしようと考えたのです。P50
中沢新一「三位一体モデル」(東京糸井重里事務所 2006)


増殖し、不安定で予測不能な「霊」は、私たち人間の世界にかならずつきまとっています。そして、これを「神(父)」がコントロールしようとしている。神は、安定性や予測可能性の原理によって霊のはたらきを管理しようとする。

そのさい、人間の世界に、神の意思を媒介する原理が必要となってきますが、それが「子」の原理となります。科学は「父なる真実」を実験や試行錯誤をつうじて伝える「子=科学者」たちによって、「知(霊)」が知を生んで増殖してゆく。

このように、現代の「父」(超国家,宇宙)において増殖する「霊」(科学的知と貨幣(信用))を媒介する「子」が(トランスヒューマン)となっていかなければいけないのだろう。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - 『三位一体モデル』を読んだ人たちに聞きました
1048旅 中沢新一『三位一体モデル』



■tabi後記
未だ、霊と子の取り扱い方が理解出来ていない。私には、次の時代の父や霊はすでに語られているように思う。であるならば、今の時代では「悪霊」と取り扱われていることを「聖霊」と見立ててしまう「子」が必要だと思う。
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2009年09月19日

tabi0294 神田昌典「全脳思考」

新たな時の駆け抜け方-逆算から夢中へ-
私の見解では、情報社会とは、情報を収集・整理することが付加価値となる社会。それに対して知識社会とは、収集・整理された情報から生み出された新しい気づき・アイデアを実際に、行動に移すことが付加価値となる社会だ。P28
神田昌典「全脳思考」(ダイヤモンド社 2009)


逆算思考では心からの行動は生まれにくい。あなたの行動も、そして顧客の行動も。たとえ行動が発生したとしても、それは比較型の行動になってしまう。この世界に必要なのは。絶対的に指名(使命)されるような行動である。本書は、どのようにしたら心からの行動、真実の行動が発生していくのかを突き止めていく。

このような思考/発想プロセスを事例を交えて解説されているとこから読み取れるのは、真実の行動は、逆算的(数値/直線的)に現実と未来を繋ぐのではなく、夢中的(物語/曲線的)に現実と未来を混合していくことから生まれるということである(もちろん併用である)。

amazonを見ると様々な視点から評価がなされているが、私は☆が1つだろうと5つだろうと、それは重要ではないと考えている。なぜなら「評価」という行為自体をメタに見ているからだ。そのメタ視点は、本書でも紹介されている4つの思考レベル(U理論)を応用することである。

2.jpg

レベル1や2の段階(Downloading(コピペ的)Factual(事実的))でないと「量的な評価」というのは出来ないものだろう。このような視点をもつことが本書の「評価」と付き合う事であり、「評価自体」と付き合うことなのだろう。Empathetic(共感的)Generative(創造的)として理解をしている人間と付き合っていくことが、行動としての知識社会を生きていけるのではないだろうか。

■参考リンク
【スゴ本】「全脳思考」神田昌典
1247旅 神田昌典『全脳思考』




■tabi後記
今から、日本教育工学会 第25回全国大会 ワークショップ(6)障害を乗り越える(造形)ワークショップと身体・メディアの可能性:光島貴之のタッチアート・ワークショップ- 見えない学びを見えるようにするに参加してきます。
posted by アントレ at 17:02| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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