2008年12月31日

tabi0028 下條信輔「<意識>とは何だろうか」

そもそも、無意識が意識の基盤である理由は、無意識的過程こそが「脳の来歴」の貯蔵庫であるからだと思います。また「来歴」がその影響力を行使する場所でもあるのです。独創的な発見や洞察があったときに、なぜ、それが本人の内側からではなくて、外から来たように見えるのか。そのような問いを前章で提示し、簡単に検討しました。そこでの答えは『身体や世界の事物が認知の外部装置だから』というものでしたが、これに次のようなことを加えることもできます。そもそも、発見や洞察がなされたというのは、その解法を意識できた時点をさすわけです。その前の段階では無意識の水面下で「来歴」が持続的に作用し、意識の「周辺」を形成していたはずです。これが『地』として潜在的に形成されたからこそ、発見が「図」として浮かび上がったのです。そして浮かび上がるにあたって、身体の何気ない動きや、外界の事物への何気ない注意が大事なのも、それらが無意識の過程と重なるからなのですp206
下條信輔「<意識>とは何だろうか」(講談社現代新書 1999)

「サブリミナル・マインド」に続いて読了。

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■ 参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE
120旅 すべての繋がりが意識をうむ



■ tabi後記
ATMで残高確認をしたら、「コンサルフィー」という名目で振り込まれていた。無償だと思っていた仕事だったから、素直に嬉しかった。そして、人は自分が知らないところで頑張っているということを再確認し、気が引き締まる。
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tabi0027 ポール・ クルーグマン 「グローバル経済を動かす愚かな人々 」

このモデルを勉強することによって、多くの人が知っているつもりでいながら理解できないでいる重要な事実を知ることができるからである。このベビーシッターのモデルは、アラン・グリーンスパンがクーポンの供給をコントロールする、アメリカ経済の縮図のようなものである。そこで特に二つの事実を強調したい。最初に、通貨供給量の増加による成長と、長期的な経済の増大要因による成長の根本的な違いである。(中略)不適当な流動性のためのうまく調整できなかったマネー・サプライが、その増大によって流動性が保たれるようになり、問題が解消されたということ、それだけなのである。第二に、このベビーシッターの話から理解できるように金融政策には限界がある。カネが少なすぎるのも問題だが、クーポンを増刷することでGBPを上昇させることができたとしても、ある程度までしかできない。実際、あまり多くのクーポンを刷ることは、会に打撃を与えてしまう。過度の金融緩和政策は逆効果である。P148-9
ポール・ クルーグマン 「グローバル経済を動かす愚かな人々 」(早川書房 1999)


2008年にノーベル経済学賞を受賞したクルーグマンの書籍を読んでみる。すっかり錆び付いてしまった経済学の知識を少しづつ研ぎすましていきたい。

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■ 参考リンク
経済を子守りしてみると。
ケインズ反革命の終わり



■ tabi後記
今年もおしまい。SNSをみていて思ったのは、「なぜ振返るのか?」ということ。

僕は振返ったとしても、そこに足跡があるとは思わない。足跡がありたいと思うからだと思っている。そして、足跡をつくる足はあなたの下にあり、密着している。

「振返らずに駆け出すだけ。」そんな言葉を小学生の時に聞いた気がするが、今でもこの言葉は間違っていると思う。「振返りながら駆け出すのだ。」そんなヤワなことも言わない。

「駆け出して振り切るのだ。」やっぱりこれ。跡などみえない。

先の跡。その後に連なる自分。それを大切にしていく。
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2008年12月30日

tabi0026 マッテオ・モッテルリーニ「経済は感情で動く」

給与が増えたり減ったり、株やギャンブルで勝ったり負けたりするときの人の反応を、「プロスペクト理論」は次のように予測する。絶対水準ではなく、ある水準からの「プラス・マイナス」で(参照点依存型)。利得よりも損失に対して約二倍の価値で反応する(損失可能性)。利得の場面ではリスク回避的に、損失の場面ではリスク追及的に振舞う(その判断は「フレーミング効果」に左右される)。確率に主観的な重みづけが加わる(確率「1」の近くでは「確実性効果」がはたらく)。P135-6
マッテオ・モッテルリーニ「経済は感情で動く」(紀伊国屋書店 2008)


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ダニエル・カーネマンが02年にノーベル経済学賞を受賞した理由となったプロスペクト理論尾価値関数を載せる。初めて読む行動経済学の本としては、適切だと思う。

■ 参考リンク
Homo Economicsの正体 - 書評 - 経済は感情で動く
ECONO斬り!!



■ tabi後記
先日、藤沢烈さんのインタビューにいってきた。ベンチャーの定義、創造的に自らの枠を破壊していく事が印象に残った。正気と狂気の境に切り込もうとする"言葉への態度"に感銘をうけた次第。
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2008年12月29日

tabi0025 松本大 冨山和彦「この国を作り変えよう」

市場経済が個々人の経済的な「エゴ」を基本的に善ととらえるごとく、民主主義政治も個々人の政治的な「エゴ」の主張を肯定することを基本前提としている。これだけの急激な少子高齢化が平和のうちに進展する日本は、今の時代の「最大多数」の幸福と未来世代の「最大幸福」との深刻な相克という、おそらく世界の近代民主政が初めて挑戦する重い課題に直面している。世界レベルで問題となっている環境問題やエネルギー資源の枯渇問題においても、その背後に、いまだこの世に生まれざる世代の声をどう現在の意思決定過程に反映させるかという、近代民主主義制度を確立した時点では想像し得なかった重大な構造矛盾が横たわっているのだ。P159
松本大 冨山和彦「この国を作り変えよう」(講談社 2008)


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彼らの思索に共時性を感じる方は多いと思います。これを鵜呑みにせずに自らの思索をすすめることが、彼らのメッセージをきちんと受け取ることになるでしょう。



■ tabi後記

帰りの電車で小西さんと「何をプリンシパルとして創薬研究をしていくのか?」をディスカッション。欲望に付き従うこと、つまりは自らの生存のためというインセンティブを設計するんだよね。けども、何をプリンシパルにするかという代替案を提示できない歯痒さについて話しあう。「どこまで人間か?」という問いや、生命倫理などを俯瞰しながらも、実践論とかさねあわせていこう。
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2008年12月25日

tabi0024 小倉昌男「経営はロマンだ」

目的が決まる。目標が掲げられる。実現するための方法を考える。経営とは考えることである。でも考えても分からないことがある。そのときはやってみる。やってみれば分かることが多い。そうして試行錯誤しながら前進する。やれば分かるーー私が経営者として体得したことの一つである。経営はロマンである。だから経営は楽しい。(中略)宅急便を考えたとき、単なる一企業の事業ではなく、社会的なインフラになるし、そうしたいと思っていた。思い上がったことだったかもしれながいが、それは私の「志」だった。(中略)どんな人にも良いところがある。結局悪い人はいないと思う。私はどんな人にも親切にしようと心掛けてきたつもりである。座右の銘はと問われたら、「真心と思いやり」と答えることにしている。
小倉昌男「経営はロマンだ」(日経ビジネス人文庫 2003)


小倉さんの礎は、経営者としての父、リベラルな中高生活、戦争経験、闘病生活、キリスト教にある気がします。そもそも大和運輸に正式に入社したのは29歳。子会社、総務部長、営業部長と渡り歩き、東京-大阪間の路線拡大事業を行う。経営を任されたのは47歳からである。その後は三越やコカコーラといった法人企業向けのサービスを縮小し、個宅サービスに集中していく。今の宅急便である。結果として日本有数の大企業に至る。

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■ 参考リンク
小倉昌男 インタビュー
経営者は何によって記憶されるか――追悼・小倉昌男
極東ブログ

■ tabi後記
以前インタビューさせて頂いた鵜尾雅隆さん(株式会社ファンドレックス)が立ち上げメンバーとなっている、日本ファンドレイジング協会の設立発起人となりました。



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tabi0023 芹川洋一「政治をみる眼 24の経験則」

政治の法則というのはおこがましいので、経験則とよんでいる。かくあるべきの「べき論」でも、理念による整理の型でもない。それは現実政治の動きをまとめたもので、政治のリアリズムである。以下に列記した二十四項目をながめていると、日本政治の今の姿がうかびあがってくるのではないだろうか。それをどう考えるかは、有権者である読者一人ひとりの判断だが、この国民にしてこの政治あり、である。つまり、われわれを映す鏡がここにあるということだ。もし、政治がおかしいとすれば、それはわれわれ自身の姿がそうだ、ということでしかない。P12
芹川洋一「政治をみる眼 24の経験則」(日系プレミアシリーズ 2008)


示唆はないが、経験則として割り切って捉えてみる。

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■ tabi後記
我が家の前にカフェがあるのですが、そこのホットケーキがもの凄く美味しかった。これは通うわ。

今年も後5日。年末という力をつかい、平時では行いがたきことをやってみよう。



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2008年12月24日

tabi0022 三枝匡 伊丹敬之「「日本の経営」を創る 社員を熱くする戦略と組織」

シンプルなストーリーの「一枚目」は、現実の問題点への強烈な反省論を単純化して書いたものです。現状の問題の本質はこれとこれだといって、その段階で構造をシンプル化するんです。原因がシンプル化されると、「二枚目」の戦略とか対策のストーリーが単純になってきます。「三枚目」は具体的に担当者と日付の入ったアクションプランです。P217(中略)一枚目の段階で、「自分たちの手に負える大きさにまで問題を分解」しておくことがカギになると思います。今、目の前にいる普通の人々にわかるように、いかに問題を分解し、噛み砕いて説明するか。そのためのプレゼンテーションを作るのに、異常とも思えるほどの時間と労力が使われている。それが、たった一回だけの、絶対に負けることのできない勝負の分かれ目になるんです。そういうことをやって現実の構図をみんなに見せるわけです。「これが問題だよね。ひどいよね。今までまったく見えていなかったけど、どうする?この問題の原因って、元をただせば実は君も関係しているんだよ」といった話に分解することがポイントです。P219(中略)「一枚目」の原因整理のところで、問題を自分の手に負える大きさに分解する作業を、個人の「個に迫る」ところまで行うと、ようやくその反省が起きるんですよ。P225私はそのアーリーウィンを、初めから意図して計画に入れ込めと言っています。何がアーリーウィンなのかを、事前のプランニングの段階で考え抜いて、それを入れ込み、本当にそれが早く出てくるように、行動の優先順序をつけておくわけです。P231
三枝匡 伊丹敬之「「日本の経営」を創る」(日本経済新聞出版社2008)


ひと味違った書籍を描かれる2名の対談。冗長な感は否めないが、1文字1文字がずっしりとくる書籍である。

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本書よりもスマートな抽象化を行うべく、再度、三枝氏と伊丹氏の書籍に目を通していきたい。

■ tabi後記
本日は安斎さん、及部さんとルノアール。学びある話し合いでしたね。仮説を突き進めること、そこには決断がいること。決断なきプロジェクト、計画などありえず、退路を断つことが進路を拓くということ。リーダーは孤独であるが故に完全に自由ということ。ガツンと詰めていきましょう。


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2008年12月23日

tabi0021 山口二郎「若者のための政治マニュアル」

必ず世の中は変えられるという楽観、進歩への信頼がなければ、人間は現実の奴隷になる。しかし、本当に世の中を変えるためには、現実を冷静に見渡し、策を周到に練らなければならない。そのためには、一時の熱狂に踊らされない慎重さと、有益な政策を見極める熟慮が必要である。懐疑的な進歩主義、楽観的な保守主義こそ今の日本に必要な精神である。P198
山口二郎「若者のための政治マニュアル」(講談社現代新書 2008)

いい人なんだろうけど、自身が要求するエビデンスベースの議論が出来ていない。(新書という体裁制約を差引いても。)言葉の定義を見定めずに直進する。思う、思われるという感じを、そうだ、そうなるはずという断定にすりかえる箇所等が転がっていますので。アジテーションじゃ変わらない。再現性があるのが「マニュアル」です。

具体的な箇所を指摘できるのが1つの力だと思うので、そういった意味では本書を読んでほしい。(もしや意図的にやっているのか!)

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上図はノーラン・チャートといわれるもの。アメリカのリバタリアンであるデービッド・ノーランによって広められた政治思想の概念図です。

リベラル=左派(ex 本書)は個人的自由を求める一方、経済的には個人から自由を奪い福祉国家・社会主義を目指す。(傾向にある。)そんな単純ではない。保守=右派は経済的自由を求める一方、個人的自由を奪い愛国心を強要し、家父長制など旧来の価値観を強要する。(傾向にある。)これもそんな単純ではない。笑

リバタリアンの重んじる伝統は、伝統が長年の試練を経ても「なお残っている」ということが、自然淘汰的に安定なした知恵だと「みなして」いる。

つまり、人間が一生かかってたどり着けない<真理>に近いはずであるという、理性の限界(諦念からの出発)があるのだ。(保守っていうのは、本来的にこういう意味なんだろうがね^^;)

■ 参考リンク
山口二郎


posted by アントレ at 19:38| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0020 内田亮子「生命をつなぐ進化のふしぎ」

生物の先生のWebサイトに、「最近では、進化は自然選択による必然ではなく、偶然におこるという考えが主流である」と書かれているが、これは適切ではないだろう。自然選択は「ランダムな変異の出現と局地的環境とその時点での生物の状況に応じたノンランダムな複製」のメカニズムであり、「必然的な変異の出現と必然的な維持継承」ではない。すべては偶然から始まり、さらなる偶然とバイアスが組み合わさって積み上げられてきたにもかかわらず、その歴史を現在から見ると、あたかも現在の機能に向かって必然的に始まり進んできたように見えるものが含まれる、これが生命である。また、最初から合目的的にデザインしていたなら誰も考えつくことは決してないような形や機能も出現する。この多様性の機序ほど、驚異的で感動的なことはない。P19-20
内田亮子「生命をつなぐ進化のふしぎ」(ちくま新書 2008)


ほぼ全ての文に参考文献が銘記されるほど「知の誠実性」が満ち溢れている。感心はするのだが、読みにくい。

そして参考リンクにおいて、「知の誠実性」への誠実性が欠けている事に気がつく。権威に無批判になりすぎていたことに反省。

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■ 参考リンク
読書の記録
めのうら。


posted by アントレ at 18:45| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0019 下條信輔「サブリミナル・マインド」

最後に、前講までで述べた自己知覚・帰属・情動などの社会心理学の分野での諸知見とつきあわせてみると、共通に浮かび上がるわれわれ自身の人間像は次のようなものになりましょうーー「人は、自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」と。P89
下條信輔「サブリミナル・マインド」(中公新書 1996)


今まで読まなかったのを後悔。「認知的不協和」「情動の末梢説」「帰属理論」「知覚的防衛」「閾下知覚」「無自覚の故意」などについて思索することが出来ました。

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何を載せようかと考えた末に、ジョハリの窓を選択。本書には出ませんが、この窓を軸にしながら読み進める「顕在記憶/潜在記憶」、「自己/他者・環境」などを整理出来ると思います。

■ 参考リンク
藤沢烈Blog
情報考学 Passion For The Future


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2008年12月21日

tabi0018 林成之「<勝負脳>の鍛え方」

ぜひ銘記していただきたいのは、人間の記憶はすべて、短期記憶中枢である海馬回でおこなわれているということです。記憶とは、そもそも短時間で消える仕組みになっているのです。私たちは常日頃、一次的な記憶そのものではなく、脳内で再構成されたイメージ記憶でものを考えたり運動したりしているのです。覚えたことをすぐ忘れてしまう、あるいは自分は勘違いが多い、悩んでいる方は多いと思いますが、悩む必要はまったくありません。記憶とは、そういうものなのです。P34
林成之「<勝負脳>の鍛え方」(講談社現代新書 2006)

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新書だからかな。科学的態度が不足してる。引用を示す等をして反証材料を用意しておくなどね。自分で考えを創っていく態度には共感しました。

■ 参考リンク
情報考学 Passion For The Future
asahi.com

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tabi0017 大槻義彦「大槻教授の最終抗議」

そもそも、血液型判断や占いが「A」「B」「O」「AB」に分ける、ABO式血液型だけで行われていること自体、まったく意味がない。血液の「型」とは、血液中の血球がもつ抗原の違いによる分類で、赤血球の抗原抗体で分けるABO式血液型はもっともポピュラーであるが、型分類の一種類にすぎない。赤血球の抗原抗体で分ける方法ならRh式血液型もあるし、白血球の抗原による分類にはHLA型、その他にもMN式、P式など、血液型分類方法は三百種類とも四百種類ともいわれている。さらにいえば、赤血球、白血球、血小板、血漿などに含まれる抗原抗体は何百種類にも上るので、それらの組み合わせで血液型を分けようとすれば、何億通りにもなってしまう。厳密に調べれば、同じ血液型をもつ人間は二人といない。つまり血液型は指紋と同じく、その人固有のものである。
大槻義彦「大槻教授の最終抗議」(集英社新書 2008)


星占い、血液型占いへの批判と日本の科学教育への提言(尻切れ)を行う。早稲田の講義(「科学とは何か」)を入れれば250ページはいっただろうに。残念。


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■ 参考リンク
大槻義彦
「科学者よ、責任を果たせ」 - 書評 - 大槻教授の最終抗議
本当は怖い血液型性格判断



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2008年12月19日

tabi0016 三砂ちづる「オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す」

現代をのびのびと生きているように見える、二十代、三十代の女性たちも、この女性のからだへの軽視がしっかりと根づいています。「別にしたくなければ結婚しなくてもいいよ」「仕事があれば子どもがいなくてもいいよ」という上の世代からのメッセージは、若い女性に一見自由な選択を与えているようですが、そこに、「女としてのからだを大切にしなさい」という大きな落とし穴があることに、あまり気づかれていません。このままほうっておけば、女性の性と生殖に関わるエネルギーは行き場を失い、日本は何年かあとに「総オニババ化」するのではないか、と思われるふしがあります。P6
三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書 2004)


第1章が問いかけでスタートします。煽動する際の典型パターン。中西さんであれば、強烈なファクトで関心を引くんだろうと思います。そこが著者の弱いところ。

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■ 参考リンク
内田樹 『オニババ化する女たち』
内田樹 『オニババ』論争の火中に栗を拾う
情報考学 Passion For The Future
助産婦たちはどこに行った?

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tabi0015 永井均「西田幾多郎 <絶対無>とは何か」

数学の試験問題を解きながら、ふと今朝の車内の出来事を思い出し、それらと無関係に脚にかゆみを感じる時でさえ、それら複数の事象をまとめている「私」などというものは存在しない。存在するのは、数学の試験問題を解こうとしていること、今朝の車内の出来事を思い出されていること、脚にかゆみが感じられていること、そうした諸々のことだけだろう。それなら、なぜそれらはばらばらにならないで、一緒に感じられるのか、と問われるなら、後の西田の用語を使って、同じ「場所」に起こっているからだ、と答えるのはごく自然な発想ではなかろうか。そして、その「場所」を、あえて名づけるなら、「私」と呼ぶのだ、と考えることができる。だから、この場合の「私」は、「私は」という主語的統一ではなく、「私に於いて」という述語的統一なのである。西田自身の比喩を使っていえば、それは、一つの点ではなく、一つの円である、ということになる。P19
永井均『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(NHK出版 2006)

本書にて西田への関心が高まった。ただ今回の目的は永井の<哲学>を用いて思考することである。

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以下の文章を図解したつもりでいる。

「E」を、西田のいう「言語に云い現わすことのできない」はずの「直接経験の事実」だけを特別に指す特別の語だと解釈してみよう。するとウィトゲンシュタインはこう言っていることになる。ーーいや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、初めから「直接経験の事実」という言葉が位置を持つ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味を持つような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。もしそうでないとしたら、恐ろしいことに、あなたの叫び声は誰にも何の意味も持たないのですよ。

西田側は、こう反論することができる。ーーわれわれの共通の言語に含まれる語だって、直接経験の事実じゃないですか。「直接経験の事実」を使った言語ゲームだって、はじめから純粋経験のうえに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声を発することができない(分節化されている音声しか、すなわち言語ゲームの中で有意味なことしかいえない)段階に達してしまうんですよ。言語ゲームの中にきちんと位置づけられているあなたの言葉は、「みんな」からは理解されても、あなた自身にとっては本当は何の意味もないかもしれないんですよ。そっちのほうがよほど恐ろしくないですか?P46-47

もちろん、そうは言える。いや、しかし、そんなことがどうして「言える」のか。そんなふうに純粋経験について一般的に語る「言語」を、西田哲学はどこからどうやって手に入れるのか。この問いがつまり、デカルトが直面しなかった西田に固有の困難から彼がどうやって脱出できるのか、という問いである。答えは一つしかない。それは、純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたから、というものである。「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではありえない。そうではなく、内側からの叫びのような音声を自ずと分節化させる力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによって、なのである。P47
永井均『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(NHK出版 2006)


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tabi0014 永井均「倫理とは何か」序章 1章

この本が対象としている読者は、その内容が何であれ、悪いことをしたくない、できるなら善いことをしたい、という願望を持っていない読者である。その手前で、そもそもそのような願望を持つべきかどうか、なぜ持たねばならないとされるのか、という段階の問題を感じている読者である。P5

アインジヒト:自分の腎臓を商品として売り出しては、どうしていけないのか、とかね。こんな問題はチャチだな。問われるべきは最も根本的な問いは、そもそも「いけない」とはどういうことか。とか、なぜ、およそ「いけない」ことなどが存在しうるのか、とか、そういう問題だと思うね。逆に言いかえれば、一般的に「他人にとって悪い」という意味で「してはいけない」とされることを、人は「してもいい」のではないか、といった問題だ。

裕樹:つまり、結局のところ、そもそも「してはいけないことなんか、世の中に存在しえないんじゃないか」という問題だよね。

アインジヒト:いや、世の中に存在したとしても、それをしてもいいんじゃないか、という問題だな。P19

永井均『倫理とは何か』(産業図書 2003)


本書の読書会がひっそりとはじまりました。全8,9回になるかな。興味ある方は連絡下さい。

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ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ホッブズ、ロック、ルソー、ヒューム、カント、ミル、ベンサム、ロールズ、ローティ、ロージックなどを踏み台にして思索を深めたいと考えていたので、丁度良い機会です。

正義を手段し、幸福を目的とすること自体お粗末で、幸福も手段なんじゃないの?というパートナーの問いはナイスだと思いました。ただ、「目的を手段化する心理的傾向」って無限退行にすすむ可能性があるのと、未来の獲得形質の評価を現在の自分が下すことって何か違うと思っているので、慎重に対処していこうと思う。

訂正 
P 15 6 行目 悪→善

■ 参考サイト
雑記帳
チロリン村の模倣と創造

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2008年12月17日

tabi0013 鈴木光太郎「オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険」

心理学という部屋の掃除をしたくなった。とにかくガラクタが多すぎる。これらをまずは処分することにしよう。そうすれば、なにやらウサン臭さのある学問という心理学のイメージを多少は払拭できるかもしれない。ターゲットにするのは、現代心理学に亡霊のようにつきまとういくつかの神話である。文化人類学者のドナルド・ブラウンは、否定されているのに既成事実として何度もよみがえる人類学の話や考え方を、比喩的に「神話」と呼んでいる。ここでは、心理学のなかのそうした神話のいくつかを叩き割ってみる。もしあなたがそれらの神話をこれまで疑いもせずに真実だと信じてきたとしたら、あなたのなかの常識は音を立てて崩れるかもしれない(私としてはそうなってほしいが)。(中略)本書では、どの章にも、スキャンダラスな事件や出来事が登場する。教科書に載っている理論や実験や知見はすまし顔で鎮座しているが、実はその陰では、さまざまなドラマが繰り広げられている。心理学という科学も人間のなす営為である。だから、おもしろいし、スリリングでもある。ここでは、心理学のいわば舞台裏も見ていただこうと思う。それでは、心理学のなかの迷信や誤信がいくらかでも減ることを願いつつ、オオカミ少女の神話から始めることにしよう。Pまえがき
鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』(新曜社 2008)


大掃除するといったわりには、そうでもない。もちろんオオカミ少女はいると思っていたわけだが。1章(オオカミ少女)、2章(サブリミナル)と最終章を読めば良いだろう。

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丁度いい機会なのでバイアスを簡単にまとめてみた。

■ 参考ブログ
情報考学
asahi.com 書評

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tabi0012 清水勝彦「経営意思決定の原点」

結局、組織の戦略、そして経営とは「意思決定の積み重ね」なのだと思います。しかし多くの場合、組織の意思決定に関しては一回限りの選択のところだけに注目して「胆力」「先見性」「決断力」といった、耳ざわりのよい言葉が闊歩しているのが現状ではないでしょうか。リーダーの資質、リーダーを支えるスタッフの情報量が重要であることは間違いありません。しかし、「スタート」だけではなく、その後どのようにして「決定が実行されるのか」、さらに言えば、「そもそも何をいま決定しなくてはならないのか」「決定時に全く想定されなかった状況にどう対処していくのか」にもっと注目が集められなくてはならないのではないでしょうか。P5
清水勝彦『経営意思決定の原点』(日経BP社 2008)


著者は、個人・グループ・組織における心理的バイアスを概観したのちに、意思決定にみられる「病」の分析をおこないます。

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(1)決められない(優柔不断)、
(2)決め急ぎ(拙速による失敗)、
(3)決めただけ(決定しても実行されない)、
(4)決めっぱなし(意思決定の見直しがなされない)、
(5)決めすぎ(実行途中で次々と変更される)

の5つを取り上げ、それぞれの「病」の背景を解説している。

■ 参考リンク
清水勝彦

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2008年12月16日

tabi0011 中西準子「環境リスク学 不安の海の羅針盤」

私は自分が出す資料からあらゆる思想的な言葉を削ぎ取りました。思想の闘争になれば、いつまでも対立が解けない。出すべきは事実、思想の違いを超えて認めることができる事実、これこそが今の思想的な勢力関係を崩す力をもっている。これが自然科学の強みだ。(中略)こうして私はファクトを出すことにこだわりました。ファクトといっても、その人の目を通して見たファクトであり、それはその人の生き方や思想を反映したものですが、しかし、多くの人にとってもファクトと思えるものがあるはずで、それを出したいと考えました。対立を解きたい。少しでも従来の何々派や何々党などに固定された意見の壁を崩したい。そのためには、自分だけでなく、多くの人にとってファクトと思えることを冷静に抜き出し、発表しなければならない。私はこう考えて仕事をしてきました。現場にも必ず足を運びました。P77
中西準子『環境リスク学 不安の海の羅針盤』(日本評論社 2004)


渾身の最終講義である。徹底的にファクトへこだわり、そのファクトのこだわりからファクトを超える行動へ。それが、リスク推定評価という仕事にうつることだった。大学、学会、役所から村八分にされ、学会誌、マスコミには公表できず、23年間も助手を務めあげた。退官を目の前にした2003年に紫綬褒章を受賞する。

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正直こんなに単純ではないので、各ボックスを細分化していく。リスク評価手法についても考察していきたいと思う。

■ 参考ブログ
「環境リスク学」についてのメモ
ファクトにこだわるということ

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tabi0010 青木 人志「「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人」

価値の体系である法と向き合うことは、社会の中の司法の位置をどう設計するかという問題を媒介物として、究極的にはひとりひとりの価値体系を照らし出し反省することにつながってゆく。それだからこそ、法と向き合うことは、自分と向き合うのと同じくらい勇気が要る。勇気を出して法と向き合おう。ただし、希望をもって。P210
青木 人志『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』(光文社新書 2005)


本論は4章だけであり、議論も表面的。参考文献(ex「日本人の法意識」(川島武宜))にあたるのが良さそうだ。

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「日本人は「法」というと刑罰や罰則を想起し、法と権利という両輪の意識が欠如している」と語られる。税金もそうだと思うが、法律は自らを規制する制御コードでありながら、政府、行政を制御するコードにもなりうるのだ。



amazon書籍紹介より

◆「大岡裁き」の法意識とは?
・裁判所はこわい(いやな)場所である
・裁判官は人格者であるべきだ
・杓子定規でない、柔軟な解決をすべきだ
・金銭を請求するのは、強欲だ
・もめごとは、個人の問題ではなく、みんなの問題である
・勝者と敗者をはっきりさせず、「まるく」おさめるほうがいい
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2008年12月15日

tabi0009 野口悠紀雄「戦後日本経済史」

実は、銀行が産業資金供給の中心になる仕組み(「間接金融」と呼ばれる)自体が、戦時経済の産物である。それまでの日本では、企業が株式や社債を発行して資本市場から直接に資金を調達する仕組み(「直接金融」と呼ばれる)が中心だった。31年においては、企業が調達した資金のうち実に86%強が直接金融によるものであり、銀行貸し出しは14%弱に過ぎなかった。戦時経済の中で、軍需産業に資金を集中させるために、これが大きく変わった。まず、株式による資金調達に対して、配当制限などの制約が課された。他方で、銀行の強化が図られた。その結果、銀行による資金供給は、45年には全体の93%にまで膨れ上がった。戦時金融体制の中心になったのが、日本興業銀行である。また、一県一行主義によって中小銀行が整理され、銀行の総数は26年に1492だったのが45年に61になった。以後、長期にわたって、銀行の総数はほとんど変わらなかった。P35-36
野口悠紀雄『戦後日本経済史』(新潮選書 2008)


連載を継ぎ接ぎした1冊なので、通史になっているわけではない。源泉徴収制度(税制度)への見方が変わったのは良かったと思う。


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■ 参考リンク
池田信夫 blog 戦後日本経済史
Taejunomics 戦後日本経済史。

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2008年12月14日

tabi0008 高島俊男「漢字と日本人」

日本の言語学者はよく、日本語はなんら特殊な言語ではない、ごくありふれた言語である、日本語に似た言語は地球上にいくらもである、と言う。しかしそれは、名詞の単数複数の別をしめさないとかいった語法上のことがらである。かれらは西洋でうまれた言語学の方法で日本語を分析するから、当然文字には着目しない。言語学が着目するのは、音韻と語法と意味である。しかし、音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、という点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊な言語である。音声が意味をにない得ない、というのは、もちろん、言語として健全なすがたではない。日本語は畸型的な言語である、と言わざるを得ない。P243
高島俊男『漢字と日本人』(文集新書 2001)

言葉に携わる人だとしても文章力があるとは限らないのかもしれない。

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「言葉があるからといって文字があるわけではない。」という考えに改めて気付かされた。漢字、仮名、平仮名を生んだ和語という生き物について思索していきたい。

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2008年12月13日

tabi0007 橋本治「日本の行く道」

「日本の未来は子供の未来」で「子供達の今」には「子供達の過去」が詰まっていて、その「過去」を振り返らなければ、(おそらくは)「地球の未来」もないという、そういう三段構えのややこしさが、この本を貫く特徴でもあります。P25
橋本治『日本の行く道』(集英社新書 2007)

地球温暖化を「他人未来」を引き受けることだと考え、産業革命前か産業革命影響が表れた60年代に戻ることを提案している。ネチネチした文章の中に閃光のような文があらわれるが、「なんだこの断定は!?」と思うものも結構出てくる。笑

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答えを出さないという書き方が勉強になる。Aに迫るために、B,C,D,E,F・・・(not A)を論じていくのだ。緻密に緻密に。Not AをAのサブカテゴリーにするか、Aの下流プロセスに位置づけていく事で、Aの存在を際立たせるという書き方をしている。

とはいっても、僕にはAの想定に固執しているように見えた。Not Aに迫るプロセスでAの固執をどれだけ<辞めたか>。その逡巡さが垣間見ることができなかった。そういう文章を図解するのは大変でした。

■ 参考リンク
橋本治「日本の行く道」と布施長春の挿絵
村上春樹と橋本治

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tabi0006 山本七平「ある異常体験者の偏見」

簡単にいえば、われわれは「社会的通念」というものを信じていれば、それで生きていける社会にいるわけである。従って「世の中なぞ絶対に信じない」という人は本当は存在しないわけである。なぜなら、そういう言葉を口にする人は、その言葉が相手に通ずることを、絶対に疑っていないし、この言葉には、みなが信じている「世の中」すなわち社会的通念が確固として存在していることを前提にしているからである。ところが「戦場という『世の中』」は、何一つこういうものはない。特に分断され寸断されてジャングルにこもった小集団などには、基準とすべき通念などは全くなくなっている。こうならなくとも、戦場では、「社会的通念」がないから通常の社会で使われている言葉が、使えなくなってしまうのである。世の中が信じられないとは、本当はこういうことであろう。簡単にいうと、われわれは「女の人が来た」という。これに対して、「いやその言葉は正しくない。君が見たのは一つの形象であり、『女の人』というのは君の判断にすぎない。相手は女装した男性かもしれぬ。君がどう判断しようと相手の実態はそれと関係なく存在する。また『来た』というのは君の推定であって、そう思った瞬間、相手は回れ右をして行ってしまうかも知れぬ。従って、そういう不正確な言葉は使うべきではない」などといえば、全く閑人の無意味な屁理屈である。しかし戦場では否応なしに、そういう言い方にならざるを得ないので、ここに本当に「世の中が信じられない」状態の言葉が発生するのである。P177-8
山本七平『ある異常体験者の偏見』(文春文庫 1988)


「軍人的断言法」とは奇抜な発想である。指示、命令、依頼の言語系統に自ら企図する志向を注入するようなシステムに設計することによって、非論理的な行動を可能にする(してしまった)力があるのか。

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本書では確定要素(定量的)、不確定要素(定性的)と記述されている。戦争をしないで終わる事。つまり相手から負けを宣言して頂くように持て成すのとが良き戦争(戦略)である。

そういった現象が発生するのは、確定要素に基づいた武力計算が行われるからである。もちろん、"エネルギー","精神性","民族感情"といった不確定要素が武力の総和を覆すようなことがあるが、他人の命をつかって他人の命を守る際には、定量性の主軸をずらしてはいけない。至極単純なことを、第一線で戦争体験をした山本の筆致は重い。(自らも称する「異常体験者の偏見」。)

計量主義と設計主義を結びつけ、「悪」という鉈をふりおろすのではなく、何において計量がなされるのか、自らの解釈を拘束している物事は何かを問い続ける姿勢と、問わずにはすまされないシステムをどうするかを考えていくのが建設的であろう。

参考リンク
福耳コラム 事実と判断の切り分け「ある異常体験者の偏見」


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2008年12月12日

tabi0005 内田樹 名超康文「14歳の子を持つ親たちへ」

「超えられない一線がある」というのは事実的認知じゃなくて、本当は遂行的な命令だと思うのです。「超えられない一線」というものを構築せよ、という社会的要請なんですよ、あれは。それを強い言い方に言い換えると、「一線はある」っていうふうになる。(中略)その起源における「作為性」を僕たちは忘れてしまう。人間がむりやり作り出したものを、自然の中にもとからあったものだと思いこむ。(中略)だから、もう一度、人間社会が成立した起源の瞬間まで戻って、「超えることのできない一線が私たちの内部に実在する」ということにしませんか、と(笑)。もう一回身銭を切って、フィクションを再構築しなければいけないんじゃないかと思いますけど。P26
内田樹 名超康文『14歳の子を持つ親たちへ』(新潮新書 2005)

☆☆が続いているので、選書を変えていこう。今回は、同姓のため気になる存在の樹さん。精神科医の名超さんとの対談本である。


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教育論を直には論じずに、身体論やコミュニケーション論を迂回し、チクチクと本質へ迫っていこうとする。

自己語りの依拠におけるトラウマというのは、一人の人間が人格として成り立っているのは、数え切れないほどのファクターの効果であるのに、「実はオレがこんな風になったのは、6つの時にこんなことがあったからなんだ」といような話。

そこに「嘘っぽさ」を感じるのが<エビ>である。それは、「実は、お前がそんな風な人間になっているのは、さっき食ったエビが不味かったからじゃないか(笑)」というようなメンタリティーである。

過去を前未来形で語るとは、承認や敬意や好意など自らの語りに対して解釈を自明としているということであって、そこに<エビ>性は出現しない。

■ 著者ブログ
内田 樹



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tabi日記001 「08/12/11 小松(六本木)での会話」

昨日、親友2名と21:00からディスカッション。テーマは、学習・教育から聖書、マスメディアまで丁々発止に拡散。

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寺嶋君はロジックツリーを脳内にササっと描いてくれるので、抜け漏れ指摘の調子良さがある。ガチッとした論理性と柔和な情緒性をもっているのはレアケース。アナライズポジションの安斎君は熱気味で不調にもかかわらず、議論をキュッとまとめる概念供給をしてくれました。その概念、そして1つの作品である出会いを忘れないために上図を作成しました。
posted by アントレ at 19:04| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

tabi0004 濱野 智史 「アーキテクチャの生態系」

アーキテクチャにせよ、環境管理型権力にせよ、それらは「人に何かを強制的に従わせるもの」という概念規定がなされています。すると不思議なもので、人は「権力」という言葉を聞くと、それに抵抗しなければならないと考えてしまう。それは何か私たちの自由や主体性(自由意志)を奪ってしまっているような気がしてしまう。これを「権力バイアス」あるいは「権力と自由のゼロサム理論」と呼んでみてもいいかもしれません。本書は、少しでもそこから自由になって考えてみたいー少なくとも、何か「悪い人」たちがそのアーキテクチャによるとんでもない支配の方法に着手するよりも前に、自由にその議論を展開し、多様なアーキテクチャのあり方について知っておくにこしたことはない。これが本書のスタンスです。P22
濱野 智史 『アーキテクチャの生態系』(NTT出版 2008)


長々と引用してしまった。本書は情報社会論ではなく、比較アーキテクチャー生態論である。

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記載したサービスは幾度も使用しているため、分類後の腹落ち感覚がある。ニコニコ動画ならぬニコニコ現実と呼ぶべきSekai Cameraが、騒動になったのも記憶にあたらしい。私的な見地からAR(拡張現実)には目をくばらせていきたい。

■ 参考サイト
書評 横浜逍遙亭
iPhoneを電脳メガネにする「Sekai Camera」がすごい件
『攻殻機動隊』『電脳メガネ』どころではない拡張現実感技術の現在



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2008年12月10日

tabi0003 ビル ストリックランド「あなたには夢がある」

私たちは時々鏡をのぞいて、真実を思い出すべきだ。自分は「ほんとうに」生きているのだ!自分の人生は「今」起こっているのだ!私たちは、人生とは夢に描くもので、この世の時間はすべて自分のものだと思っている。しかし、人生ははっきりと把握できるもの、目の前にあるもの、貴重なものという事実に目覚めるまでは、あなたの能力をすべて引き出すような、すばらしい人生は送れない。今この瞬間に起きていることが人生なのだ。この事実を受け入れないかぎり、自分の人生が完全に自分のものにはならない。自分の人生を常に追いかけることになるのだ。P160
ビル・ストリックランド『あなたには夢がある』(英治出版 2008)


「MAKE THE IMPOSSBLE POSSIBLE」の翻訳本です。訳者は、フロレーンス代表 駒崎弘樹さん。

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「他者のために、他者の渇望するものを、自分の心の声にもとづいて、築き上げなさい」
というのが本書のメッセージである。

そして、「常識/幻意識」に捉われること(それすらも抱く事が出来ない人も)から「心識/夢意識(むいしき)」に基づく在り方へ【芸術】が変えていく。

それがストリックランドの事業である。


2002年に『ロング・ラブレター〜漂流教室〜』(原作 楳図かずお)が、放映されていた時に窪塚さんが叫んでいた言葉が胸にのこっている。


「今を生きろ。この一瞬を生きろ。今、一瞬一秒を楽しめ。」


■参考リンク

訳者 駒崎弘樹




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2008年12月09日

tabi0002 甲野善紀・茂木健一郎「響きあう脳と身体」

「それはつまり、「『自由に見える』『自由に感じる』感覚が、いかにして身体という制約から生み出されているのか」という問いの立て方をしなければならない、ということなのだと思います。そう考えると、甲野さんが今おっしゃった「制約を受けているからこそ物語が生まれ、自由が生まれるのではないか」という仮説は、まさにわれわれ人間の存在条件を的確に言い当てていると思います。」P154
甲野善紀・茂木健一郎『響きあう脳と身体』(バジリコ 2008)


桜井 章一 甲野 善紀『賢い身体 バカな身体』(講談社 2008 )と共に読了。

先週から腕立て伏せと腹筋を50回づつ行っているためか、身体が疲れなくなってきた。身体と知性という言葉を考えるにあたっては、自らの身体で空気/筋肉の動きを感じたい。

それが私の思考に及ぼすプロセスを覗きたい。


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僕らは必死に生きているだろうか?

必死とは字義どうり「必ず死ぬ」という視座である。安土桃山時代の職人のように。仕事の出来次第で、信長や秀吉に首を斬られてしまう人間の心模様をとらえられるか。

湿度を感じ、温度を感じ、騒音を、人の声を聞き分け、臭いも感じる。われわれの同時並列的知性をもとに選択肢の判断、行動の原理にすえるような思想を探究していく。


■ 参考リンク
趙州和尚の草履
荒川修作


■ 著者Blog
茂木健一郎
甲野善紀



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tabi0001 神成 淳司, 宮台 真司「計算不可能性を設計する」


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本書は3テーマで構成されている。

・コンピューターの計算限界性と人間の処理能力

・社会システムにおける人間の選択に関する問題

・アーキテクトの寄り添う信念/設計思想




・コンピューターの計算限界性と人間の処理能力

2020年を境にノイマン型による漸進発展と量子型による前進発展の逆転が起きると予測する。つまり、ダブルエッジの創出が起こるということです。そして、纏足(てんそく)から遺伝子操作にみる種の変化を企図する行為は、種の保存原理をベースにしてと考える。


■ エッジA

まず、人間が実施してきた作業の一部にコンピューターを導入することにより、エラー率を減少させる傾向は続いていく。つまり、ある一定の品質が必要とされる部分をすべてコンピューター処理に置き換えていくということです。ここで「人間疎外」という視点にうつらないのが本書の特徴。

■ エッジB

置き換えられていくからこそ、置き換えられないことが見えてくる。そこに、「熟練技術者の可能性向上」をみるのである。


そして置き換え問題には、社会システムにおける人間の選択に関する問題が絡んできます。


「社会システムのコンピュテーション化」は何を目指すかという問いです。amazonリコメンドサービスの延長上にある世界と考えて頂いて良いです。(「マイノリティリポート」よろしくの世界ですね。)


そこで立ち上がる問いは「人間的とは何か?」から「人間とは何か?」ということです。

人間は選択主体をおこなう「私」から、アーケテクチャーの結節点となりアグリゲーターが提示する選択問題を選択するだけの「私のようなもの」になることへの考えを創っていく必要があると言います。


その際に考える視座としては3つあります。


・仕組まれ人

・仕組み人(新しい知識人/アーキテクチャー)

・振舞人(道化師/芸術家)

彼らは後者2つに対し、「人というものの存在に期待する」と発言しています。 人の行為の美しさ、もっと言えば、生命が生きるという行為そのものへの感動を忘れない。 そして、アーキテクトも感動を創出すべき。(⇔煽動、操作への懸念を内包しながら。)


ここで画像のほうへうつっていきます。本論と関係がないところかもしれませんが、私がきになった部分をマトリックスにしました。

・生徒の姿勢を自発/受動

・教師の態度を新規/既存

と区分しました。


我ながらナンセンスなマトリックスが出来上がったと思います。笑


・教育は人為的に成育環境を操縦することで社会化を誘導する仕組み

社会化とは、「自発的に振舞った結果が秩序を産出するように内面化すること」であり、
社会統制(賞罰による直接誘導 )とは異なります。

つまり教育というものは、親や教師が行うのではなくアーキテクトが行うものであるという視点にたっています。

「権力者の誘導じゃないか!」と脊髄反射をしてはいけない。実際にそうなのである。アーキテクチャーが学習環境デザイナーと呼ばれたり、ファシリテーターと呼ばれたりするだけのことです。また彼らも、上位のアーキテクチャー(奪人称性)に浸食されているのですが。

■参考サイト
「計算不可能性を設計する」トークショーダイジェスト
宮台真司と神成淳司のトークショーにいってきたよ

■著者Blog
神成 淳司
宮台 真司




posted by アントレ at 16:24| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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