2009年02月28日

tabi0084 粂 和彦「時間の分子生物学」

生物時計は体の中のどこにあるのでしょうか?生物の種類によって異なりますが、動物の場合その中心は脳にあります。人間を含む哺乳類の場合は、脳の中の視床下部にある、視交叉上核(SCN=suprachiasmatic nucleus)という直径一〜二ミリの小さな場所が概日周期の中枢です。SCNはその名の通り、左右の目と脳をつなぐ二本の視神経が交わる部分の、ほぼ真上にあります。ここが生物時計にとっては標準時を刻むグリニッジ天文台にあたります。P32
粂 和彦「時間の分子生物学」(講談社 2003)



視交叉上核一元主義な視点ではなく、それを取り巻くシステム的見方と取っ組み合う必要がありそうだ。

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■ 参考リンク
視交叉上核
情報考学 Passion For The Future
京都大学大学院薬学研究科



■ tabi後記
明日から3月。春も近い。
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2009年02月26日

tabi0083 ジェームズ・アレン「「原因」と「結果」の法則」

人々の多くは、環境を改善することには、とても意欲的ですが、自分自身を改善することには、ひどく消極的です。かれらがいつになっても環境を改善できないでいる理由が、ここにあります。自分自身を改善するということは、真の意味での自己犠牲を払うということにほかなりません。真の自己犠牲とは、心の中からあらゆる悪いものを取り払い、そこを良いものだけで満たそうとする作業です。P28
ジェームズ・アレン「「原因」と「結果」の法則」(サンマーク出版 2003)


引き寄せの法則でも、心を法則にしてしまう。その場限りの決定/成果を、いつでも通用する理論にしてしまう。そして理論を読んで、わかった気になってしまう。

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■ 参考リンク
[書評]すすんでダマされる人たち ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠
反「反知識」- 書評 - すすんでダマされる人たち
DESIGN IT! w/LOVE



■ tabi後記
内容がない本をムリヤリ図解することは良いトレーニングになる^^;
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2009年02月25日

tabi0082 内田和俊「「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか」

「Have」は、持つこと、手に入れることです。資格を取得したり、または目に見えるものを所有することです。「DO」は、すること、つまり、行動です。「Be」は、「Have」でも「Do」でもなく、「Be=あること」、そこに存在するだけで満たされていることです。あるべき理想の姿です。P20
「「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか」(日本実業出版社 2006)


依存しがちな個人が主体的な個人に変化するまでの軌跡/行動パターンが記された書籍。その軌跡/行動パターンを図解した。

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着目すべきところは、「III 分岐点に立つ人」「IV 主体者」を比較した時に前者のほうが成果を出す場合が多いということ。

次に着目したのは、成果を創出する人間の行動パターンは、目標は考えずに、決めることからはじめるということだ。

これは「考える」ことをストップしろといっているのではなく、「考える」初心者がよけいな選択肢を増やすことを憂慮しているのだろう。

例えば、「考えた」結果、「決める」のではなく、「あきらめる」「妥協する」「延期する」という選択肢が生まれ、流されながら選択することへの憂慮だ。(もちろん適切な延期もある)。これは、昨日/今日と就活生と話していて感じたことであった。

彼らの思考プロセスで制約になっていることを思考してみると、2点ほど思い浮かんだ。1つめは、言葉が指示する範囲/視点を複数で捉えていないこと。2つめは、仮説的に考え/検証/修正するというループが回せていないことである。

前者は、悩みが変数化されていないともいえる。例えば、「優秀な人と働きたい!」という文章でとまっていて、「優秀」とは何か?を定義/条件付けたり、「人」の範囲を「優秀な同僚/優秀な顧客/優秀な投資家/優秀な仕入先」と働きたい!と分解していく作業のことだ。

後者は、「就職活動」を1ループで捉えているからかもしれない。PDCAの中にPDCAを幾階層も設けながら、検証/修正することが不得手ということか。このあたりはスキルなのでトレーニングによって習得可能である。

追記
後は語彙力が少ないのも大きいと思ったので、とりあえず新書を50冊読んでほしいかな。4万円ほど握りしめ、池袋/新宿などの大型書店をまわるのがよいだろう。書籍は何でも良い。感性が赴くままに購入してみる。購入した書籍を眺めるだけで立派な自己分析になる^^

■ 参考リンク
ビジネスコーチング:言葉と気づきの日記帳
690旅その1 
690旅その2 



■ tabi後記
ストップウォッチで作業管理をするようになったら、場所を問わずに集中出来るようになった。
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tabi0081 勝間和代「利益の方程式」

経営上の課題としてつくづく感じてきたことは、多くの日本企業では、マネジメントや営業の社内の評価基準が「売上」、あるいは売上の代替となるボリューム指標(たとえば契約数や販売台数、販売戸数など)にとどまっていることです。すなわち、売り上げを上げるために利益を度外視して、無理な働き方や、必要もない仕事を作ってしまっているのです。P14
勝間和代「利益の方程式」(東洋経済新報社 2008)


急増する成果報酬型ビジネスによってROICを意識する経営を促しているが、その意識は顧客獲得コストの一部で行われている印象がある。著者は、その意識を単価/原価/顧客数といった変数においても意識してほしいと考えているのだろう。その意識がムリ/ムダ/ムラ仕事を防ぎ、「ワークライフバランス社会」というビジョンへ繋がる構造になっている。

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■ 参考リンク
【実践!】『勝間式「利益の方程式」』勝間和代
4つのすごい - 書評 - 勝間式「利益の方程式」
仕事術オンライン図書館



■ tabi後記
09年も1/6が経過します。
posted by アントレ at 17:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

tabi0080 グリーンリーフ「サーバントリーダーシップ」

私達は、何かに打ち込む人と狂信者の違いは、無私無欲にあると考える人もいる。しかし、狂信者の多くは喜んで自分の人生を諦める。その違いは思いやりにあると考える人もいる。しかし、狂信者の多くは、他人の苦境を受け入れる、深い思いやりを持っている。信じてほしいが、私は価値のない狂信者を知らないのだ。彼らの価値が好まれない場合もあるかもしれないが、確かに価値はあるのだ。狂信者たちは自分が絶対に重要だと思ったものに、我を忘れるほど関わりを持つと考えられている。(中略)ホッファーの主張によると、コミットメントと狂信主義の決定的な違いは「不確実性」だという。狂信者には迷いがない。つまり、狂信者には答えが見えているのだ。狂信者には、本当に起こっていることが何なのかわかっている。狂信者には計画がある。(中略)グリーンリーフはこうしたことをよく理解していた。コミットメントについて議論したとき、彼はこう言った。「結局、人は選択せねばならない。おそらく、同じ目的や仮説を繰り返し選択するだろう。だが、それはいつも新鮮で開かれた選択だし、いつも不安の影が差している」。そう、いつも不安の影が差しているのだ。P541
ロバート・K・グリーンリーフ「サーバントリーダーシップ」(英治出版 2008)


とうとうサーバントリーダーの原典が訳された。導きながら/尽くす。尽くしながら/導くという止揚をおこなう姿勢がリーダー論の中で冴え渡ったのだと思う。それを図解する過程で「サーバントリーダーシップ」の"止揚"面に注目しているだけではいけないなと自覚した。

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なぜかというと、「何を」導き、「何を」尽くし、「何に」導かれ、「何に」尽くすのかという問いを発する必要があるからだろう。

この図は、フリーライダー/フォロワー/リーダー/サーバントリーダーという序列付けを行ったものではない。ボックスは等価であると考えた時に、自らが、ある状況、相手に対してどういった態度をとっているかを見極めるためのリトマス紙として、この概念が生まれたのだと思い立った。

つまり、マトリックスにおける右上の箱が創造されたことによって、残りの3つの箱が生まれたと。マトリックス創出をアフォードする概念として「サーバントリーダー理論」を捉えていくのが良いと考えた。

■ 参考リンク
お気楽、極楽日記



■ tabi後記
気づけば花粉症もなおっていた。
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tabi0079 永井均「倫理とは何か」 第3章

『社会契約論』は「人間は自由なものとして生まれついたが、いたるところで鉄鎖につながれている」という有名な文章で始まっています。この一文からわかるように、ルソーが提起している問題は、じつはホッブズやヒュームのそれとは違う問題なのです。一七五五年の『人間不平等起源論』で、ルソーは概略以下のようなことを言っていましたーー自然状態においては、人々は互いに独立していて、質素で素朴ではあるけれども平等であり、生まれつきそなわっている自己保存の本能と憐憫の情だけで、十分に生きていけた。ところが、現在の社会状態を見てみよ。人間はいたるところで、人為的な取り決めによって生じた不平等に苦しめられているではないか。この人為的につくられた不平等の原因を究明し、それを克服するための新たな社会契約のあり方を探究するのが、自分の課題であると。P88
永井均「倫理とは何か」 第3章(産業図書 2003)


前回の続きになります。

ルソーは、自身が提示する新たな社会状態の中で、人間は実際よりも価値ある存在であると人から思われたいという欲望を抱くようになる、と言っています。

つまり、充実した人生を生きることが、他人にどう思われるかに左右されるようになると。こうして人間は、偽装を本質とする存在になり、他人に対するまなざしは嫉妬を本質とするようになる。そのような人間観を図解してみた。

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ルソーは、他人の不幸を見る喜び、他人の幸福を見る悲しみ。自分を幸福に見せる喜び、と、自分の不幸を見られる悲しみ。これが市民社会の現実だと喝破した。「人間不平等起源論」や「社会契約論」を書いた後の、「エミール」「告白」「孤独な散歩者の夢想」に関心がある。社会契約を考えきった人間が、いかに社会から追放され/追放していったのか。このあたりをアナロジーで捉えることに学習欲がわいた日々である。

■ 参考リンク
ジャン・ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』
鹿島茂『ドーダの近代史』



■ tabi後記
この読書会も後半戦に突入してきた。読了後の計画も考えながら、突き進めたい。
posted by アントレ at 16:10| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0078 M・チクセントミハイ「楽しみの社会学」

行為への機会が自分の能力よりも大きければ、結果として生ずる緊張は不安として経験される。挑戦に対する能力の比率が高く、しかし依然として挑戦が彼の技能よりも大きいならば、その経験は心配である。フローの状態は、行為への機会が行為者の技能とつり合っている時に感じられ、従って、その経験は自己目的的である。技能が、それを用いる機会よりも大きい時には退屈状態が生ずる。技能の挑戦に対する比率が大きすぎると、退屈は不安へと移行する。P86
M・チクセントミハイ「楽しみの社会学」(新思索社 2000)


挑戦に対して自分の技能があまりに低いとき、人は不安になる。逆に挑戦のハードルに対して技能が高すぎると退屈になる。挑戦と技能のバランスが適切に設定されたとき、人は
フローを体験する。

「挑戦と技能のバランスが適切に設定されたとき人はフローを体験する」という考えは分かっていたが、なぜかしっくりこなかった。

フロー体験は「どんぴしゃ」で体験するのではなく、意識/無意識的な調整が行われているのでは?と考えていたからだ。今回はその一連のプロセスを明示してみた。

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次に必要なことは、どのように環境を認知し、環境を再構成するのかという問いへの応答だろう。

・スケールストレッチ

能力:行為過程における技能の発見

機会:機会を拡張する
単に作業をこなすのではなく、いま行っている定型業務のマニュアル化という機会をもうける。

・シュリンクストレッチ

能力:意図的に能力低下させる
スポーツ等で利き手/足とは逆でプレイすること。将棋,囲碁等でハンディーをもうけてプレイすることがあげられる。結果的に定常能力のスケールにつながるんだけど。

機会:過剰を認識し他者へ依頼する
ここが腑に落ちていない。シュリンクさせないで、能力をスケールさせればいいんじゃない?と思うところですが、機会をシュリンクさせる価値もあるだろうと考えたい。全体的にシュリンクに対する考察が足りてないかな。


■ 参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■ tabi後記
昨日、デットライン読書祭を開催した。その模様はまたお伝えしたい。
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2009年02月22日

tabi0077 大前研一「「知の衰退」からいかに脱出するか?」

最近では、世界のエグゼクティブと言われる人間でも、伝統的な教養をあまり知らない。われわれが古典と呼んできたものを、なぜかほとんど話題にもしない。それで、自然とこちらもそういうアプローチを取らざるをえなくなってしまった。(中略)日本人も古典は読まなくなったが、これは何も日本人だけではないのである。では、かつての「教養」は、現代においてどういう言葉と置き換えればいいのか?どんな話題が、彼らエグゼクティブの共通の話題なのだろうか?

「あなたは、近年の環境問題とその対策について、どう思うか?」
「アフリカのエイズの人たちのために、あなたは最近何かをしたか?」

これらが、彼らがほぼお決まりのように口にすることである。(中略)教養というものの重要な機能の1つは、「知的基盤の共有」である。とすれば、この質問に的確に答えられる「知識」と「見識」あるいは自身の「経験」を持っていなければならない。P404
大前研一「「知の衰退」からいかに脱出するか?」(光文社 2009)


自戒しながら思っていることは、「なぜ?なぜと問わない?」ということだ。そして、なぜを拒む空間を創るやつらとは付き合う必要はなく、付き合い続けたいならば、今すぐにその空間へ「なぜ」の一石を投じてほしいということだ。

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大前研一が21世紀の教養と越境心について論じている。僕は高3の時に大前さんの書籍にふれて、学習意欲を刺激してもらった。彼の視点のおかげで、今の自分が出来上がっていると思う。彼が提示するいくつかの事例は、「学力低下は錯覚である」にて反証されていますので、参考までに。

20世紀の教養は、小林秀雄や丸山真男を読むことだったが、21世紀の教養はダニエル・ピンクやジェフリー・サックスを読みながら、現実で実行することのようだ。この考えには承知する部分があるが、両者を越境するが真の教養者であると私は思っている。

■ 参考リンク
HowTo本に飽きたらこの本がおすすめ



■ tabi後記
ちょろちょろやってきた英語ですが、本日をもって本格化。
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2009年02月21日

tabi0076 ケン・ウィルバー「存在することのシンプルな感覚」

しかしこの「目撃者」とは何か?誰、あるいは何が、すべての対象を目撃しているのか?行く雲、浮かぶ上がってくる思考、眼の前を通っていく対象、これらを見つめているものは何か?誰、または何が本当の「見者」なのか?私であるものの核心にある、この純粋の「目撃者」とは何か?この単純な目撃の意識は、非二元の伝統が主張するところでは、まったくそのまま「スピリット」それ自体、「目覚めた心」それ自体、「仏性」それ自体、「神」それ自体である。P361
ケン・ウィルバー「存在することのシンプルな感覚」(春秋社 2005)


「あなたは誰ですか?」という問いに対して「肉体の眼「心の眼(理知の眼)」「観想の眼(黙想の眼)」という3視点からの紹介をしたい。

誰かがあなたは誰ですかと尋ねた時、正直に、ある程度、きちんとした答えを行おうとする時、基本的にわたしたちはどうするだろうか。いったいあなたの頭のなかをよぎるものは何だろうか?

あなたは、おそらく自分のアインデンティティ(自分とは誰か、ということ)に関して、もっとも基本的と思われる事実、良いこと、悪いこと、価値のあること、ないこと、科学的な答え、私的な答え、哲学的な答え、宗教的な答えを提出するだろう。

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例えば、「私はユニークな人間だ。いろんな能力に恵まれている。いつもは親切だが、時には、冷淡だ。父親であり、弁護士である。釣りと野球が好きだ」というように。このように、あなたの頭のなかに浮かぶいろんな思考のリストは進んでいく。

しかし、アイデンティティをこのように設定しようとする、この思考の進行の底に流れるプロセスがある。それは、あなたとは誰かと尋ねられた時に起こる、非常にシンプルなプロセス(リアクション)である。あなたが自分とは何かを説明しようとする時、実際には何か起こっているかといえば、それは自覚しようとしまいと、あなたの経験の領域のなかに、ある境界線を引いているのである。

そして、その境界のこちら側にある、と感じられるものを「自分」とよび、その境界の外側にあるものは「自分ではない」と呼んでいるのである。すなわち、あなたのアイデンティティは、言い方を変えれば、あなたがどのように、その境界線を引くかにかかわっている。

その境界線はセルフイメージ、心持ちと呼ばれているものだろう。私は、どういった質問を自分に浴びせているかによって境界線はぶれていくと考えている。(It depends on "Self-Quetion-Quality".)

■ 参考リンク
263旅 『存在することのシンプルな感覚』



■ tabi後記
「禅,瞑想とビジョナリスト」の関係付けはおもしろい視点だと思う。
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tabi0075 高橋洋児「マルクスを「活用」する!」

資本主義とは、資本制生産様式を基軸とし他の生産様式(農業・手工業・サービス業などの分野における自営業、"社会主義的"その他の共同体的生産など)を周辺に配置した包括的経済体制、となろう。とりわけ自営業は資本制生産様式のすき間を埋める補完的役割を果たしている。"純粋資本主義"なるものが現実の経済体制として存在したことはない。資本主義は現実には異種な諸生産様式の混在形態でしかありえない。(中略)大事なのは次の点である。経済体制としての資本主義においては資本制生産様式が商品交換を通じて他の生産様式を包摂しているのと同様、資本制生産様式それ自体も商品交換(労働力および生活手段の売買)を通じて家族関係(家庭)を包摂している。資本制生産様式は異質なものに支えられてはじめて存立しうるのであり、異質なものと相互依存関係にある。P45
高橋洋児「マルクスを「活用」する!」(彩流社 2008)


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価値原因を自然(素材)/人工(労働)にわけ、価値認識を事前/事後にわけた。水や金や銅自体に価値があると考えるのが「天然素材一元論(それ自体価値)」であり、素材自体には価値はなく、「誰にとって」や素材に価値を与える主体を考える「生産一元論(用途を見出したら価値)」という視点がある。

しかし、価値が生じるのは交換が行われる時と考えれば生産だけでは仕掛品となってしまうので、「消費一元論(売れたら価値)」という視点が生じるのにも納得出来るだろう。最後の「恊働一元論(合わさったら価値)」であるが、これは各々の労働/仕事が合わさった時に生まれる付加価値のことである。恊働価値というのは算定がしづらく(いわゆるシナジー的な部分)、価値は消費価値から各人の生産コストを差し引いた「余剰」から計算される。



■ tabi後記
今日はすずしかったなー。
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2009年02月19日

tabi0074 堺屋太一「知価革命」

この仕事は、ごく自然に文明論に行き着く。そしてそれぞれの時代と地域の文明の差異の根源を探ることにもなる。私が「豊富なものを沢山使うことを格好よいと感じる美意識と不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」とを育てる人間の「やさしい情知」についての仮説を立ててみたのはこの結果である。P9
堺屋太一「知価革命」(PHP文庫 1990)


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各時代の制約条件と制約突破を概観するうえで適切な書籍ではないだろうか。精神性への傾倒という軸で、中世と現代をアナロジーでとらえる意見がいくつかあるが、本書が起点となっているのかな。

■ 参考リンク
堺屋太一



■ tabi後記
完全に花粉症だ。ティッシュと目薬が手放せない、、。
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2009年02月16日

tabi0073 福澤諭吉 「学問のすすめ 現代語訳」

百回の説明も、一回実例を示すのにはおよばない。いま、自分から官に頼らない実例を見せて、「世の中の事業は、ただ政府のみの仕事ではない。学者は学者として、官に頼らなず事業をなすべし。町人は町人で、官に頼らず事業をなすべし。政府も日本の政府であり、国民も日本の国民である。政府を恐れてはいけない、近づいていくべきである。政府を疑うのではなく、親しんでいかなければならない」という趣旨を知らしめれば、国民もようやく向かっていくところがはっきりし、上はいばり、下は卑屈になるという気風も次第に消滅して、はじめて本当の日本国民が生まれるだろう。それは、政府のおもちゃではなく、政府に対する刺激となる。学術、経済、法律の三つも自然と国民のものになり、国民の力と政府の力のバランスが保たれる。そうすることによって、日本全国の独立を維持すべきなのだ。P59
福澤諭吉 「学問のすすめ 現代語訳」(筑摩書房 2009)


良い仕事。抜粋部分を文語体で記すとこうなる。

百回の説諭を費やすは一回の実例を示すに若かず。今われより私立の実例を示し、「人間の事業はひとり政府の任にあらず。学者は学者にて私に事を行なうべし、町人は町人にて私に事をなすべし、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐るべからず近づくべし、疑うべからず親しむべし」との趣を知らしめなば、人民ようやく向かうところを明らかにし、上下固有の気風もしだいに消滅して、はじめて真の日本国民を生じ、政府の玩具たらずして政府の刺衝となり、学術以下三者もおのずからその所有に帰して、国民の力と政府の力と互いに相平均し、もって全国の独立を維持すべきなり。


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政府転覆ではなくて、政府より市場価値のある事務機能(ex 外交、防衛、治安)、マネジメントモデルを提供することが大事である。そのためにはフィジビリティースタディーが必要となってくる。そういった政府競合可能性のあるビジネスリスト、リストへのチャレンジャー、チャンレジャーへのアタッカーシステムの提供が求められる。

■ 参考リンク
近代的日本国民の青写真 - 書評 - 現代語訳 学問のすすめ
民主制・自由主義・個人主義
「タメグチ」的ガバナンスの歴史



■ tabi後記
探究観が高まる時期です。1日では読めない書籍に対峙することになるので、Blogの更新頻度が低くなります。これはこれで良い傾向。
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2009年02月12日

tabi0072 玄侑宗久「禅的生活」

「うすらぼんやり」には価値判断もなく、好き嫌いものない。その先にはただ廓然無聖のい広々とした世界がひろがる。当然のことながらその状態は言語で表現できない。「言語道断」も「不立文字」も本来はそのことを表現した言葉である。スピノザやキェルケゴールの「あらゆる限定は否定である」というのも同じ主旨だが、それとそっくりのことを唐代の南嶽懐譲は言い残している。「説似一物即不中」というのだが、これはつまり何かだと表現したら最後、そのものの全体性が破れるからそのものではなくなる、ということだ。廓然無聖の世界とは、どうやら理解したり表現したりする世界ではなく、ただ味わうことだけができるものらしい。いわゆる妄想から離れた「悟り」の世界は、意外なことに「うすらぼんやり」という入り口から入るようだ。P50
玄侑宗久「禅的生活」(筑摩書房 2003)

関係づけに苦心するあまりに、雑多さが増し、厳密さが失われている。こういった書籍を読む際には、自分の心をゆさぶったコンセプトをつかみ取り、そのコンセプト間の連関を思考するのが良い。

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点と線とは独立した事象ととられるか/とらえないかという区分ではない。普段捉える点は、ここで使用する「線」に含まれる。点といえば「小さな黒い点」をイメージするかもしれないが、これは線(直線より線分)といえるだろう。ここでの「点」は量子のようなイメージで使用している。

■ 参考リンク
禅的生活のすすめ -玄侑宗久さんに聞く
情報考学 Passion For The Future
他人と比較しない。



■ tabi後記
先日から群馬にきている。伊香保温泉で疲れを癒し、前橋の友人宅でtabiをしている。これから、足利に移動します。
posted by アントレ at 08:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

tabi0071 ジョン・ヒック「宗教多元主義」

概してこれまでは、どの宗教的伝統も排他主義の立場に立って、たがいに敵対しあう宗教的帝国主義であった。しかしこれからは相補的な宗教多元主義の立場に立って、真理に対してはたがいに反目しあう敵対者ではなく、同盟者あるいは朋友として、たがいの存在を認めあうものでなくてはならないだろう。そのためには、これからの宗教間の対話は、これまでのように自分の信仰を中心にしてこれを絶対的な真理として語ろうとする信仰告白的な対話ではなく、ともにその前に立つ「神的実在」を中心にして、これに対してともに充実した覚知にいたるよう助け合うような、真理探究的な対話でなければならないだろう。P272 訳者あとがき
ジョン・ヒック「宗教多元主義」(法藏館 2008)

ヒックは排他・包括主義を否定し、多元主義を論じているが、ヒックの論じる多元主義は「覚知多元主義」である。つまり神的存在(霊的存在)に多元性は適応されない。おそらく、神的存在の多元性を想定出来るのは論理上の話であって、「われわれは真理への覚知しか選択ができないのだから、多を想定しても一の中に組み込まれている存在なのだ」と反論をうけるだろう。

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その点に関しては真摯にうけいれるが、方法競争ではなく探究共創という提案はすんなりくる。固定した存在を確定することは、単一尺度による差が生まれてくるだろう。それであれば、方法共創(方理主義)や探究競争(真理多元主義)のほうがしっくりくる。

■参考リンク
ジョン・ヒック 第千二百二十七夜



■tabi後記
tabiは午前中に行う方が過ごしやすい。
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tabi0070 山岸俊男「安心社会から信頼社会」

本書で紹介した日米比較実験の結果が明らかにしていることは、日常生活のなかでわれわれの行動を規制しているさまざまな社会のしくみを取り去ってしまい、顔を合わせてお互いの行動をほめあったりけなしたりする機会さえ取り去ってしまえば、日本人はアメリカ人に比べて集団主義的に行動しなくなってしまうといことです。さらに、安定した社会関係のなかでお互いの行動を観察して相互に影響を与えあうことのできない環境での、あるいはそういった関係にない相手(つまり他者一般)に対する信頼の基準は、日本人の間でよりもアメリカ人の間で高いことも、本章で紹介した調査の結果から明らかにされています。P49
山岸俊男「安心社会から信頼社会」(中公新書 1999)

■安心
社会的不確実性が欠如した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること
■ 信頼
社会的不確実性が存在した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること

筆者は、「安心」と「信頼」を以上ように定義している。ここでいう期待には「自然的秩序および道徳的秩序の存在に対する期待」という定義が行われている。

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本書では日本が安心社会から信頼社会への変遷過程、適応過程、問題などを指摘している。(そのあたりは参考リンクに任せます。)

これら論点で興味をもったのが、安心、信頼の分類と、「信頼社会の中で安心社会を築くとしたらどうするか?」というと思考実験であった。(「信頼社会を発展させていくとしたらどうするか?」という思考実験はわずかしか論じていないので、補填させて頂いた)

■参考リンク
年始に読んでいた本
安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している
安心!=信頼 - 書評 - 安心社会から信頼社会へ



■tabi後記
ずっと探していた絶版書籍に出会えました。
posted by アントレ at 11:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

tabi0069 神永正博「学力低下は錯覚である」

大学にいると、学内改革の話ばかりである。教育や組織については皆一家言あるのだが、議論が全くかみあわない。かみあわない原因の多くはデータがないことである。あるいはきわめて限定された調査で得られたデータが話をややこしくする。大学教員の友人たちと話をすると、この現象は局所的なものではなく、日本中の大学で起きていることのようである。改革を成功させるのは難しい。欠点のよくわかっている現在の組織から、欠点のよくわからない組織に変えるということだからである。感情的な議論を繰り返した挙句、最悪の選択をしてしまうことは避けたい。議論する時には、可能な限りデータを集める必要がある。地味で時間のかかる作業だが、ここからスタートすることが、結局は改革を成功させる近道なのではないだろうか。多くの大学には、この種の仕事をする専門家がいないが、今後その重要性が増してくるに違いない。P137 あとがき
神永正博「学力低下は錯覚である」(森北出版 2008)


・大学生の数学力が非常に低下している(分数ができない大学生)

・国際的にみて日本の子供の学力が低下している(原因は「ゆとり教育」)

この2点をクリティカルシンキングしていなければ読んで頂きたい。

著者は、

・大学生たちの学力は年々下がっている
・高校卒業生たちの学力は下がっていない

というパラドックスに明快な解答を与えている。簡易に答えると、少子化が進んで高校卒業生が減っているのに、大学の定員は減るどころか増えたからというものだ。

・大学生の数学力が非常に低下している(分数ができない大学生!)

という現象には、大学生の質的変容があるのだ。

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18歳人口は平成4年に209万人にピークを迎え、平成19年に130万人(ピーク時の63.4%)になっている。そして、大学数は昭和61年の465校(短大548)から平成17年に726校(短大488)へと増加傾向にある。(短大の推移をみれば分かるように、大学も淘汰傾向にはいってくる。ここでは入学者まで言及が出来ていない。また海外留学生/海外進学も考慮にいれる必要があるだろう。)これらの影響から進学率は95年40.7%から05年51.3%に達した。

私の親世代で日本大学に入学した人は、現在の東京大学に入学出来るという話をよく聞く。そして、大学院が30年前の大学の役割を果たしているとも。

■参考リンク
この読後感は錯覚じゃないよね?
「学力低下は錯覚である」の補足



■tabi後記
tabi0011 中西準子「環境リスク学 不安の海の羅針盤」と同姿勢を感じる。
posted by アントレ at 19:27| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0068 ゲイリー・ハメル「経営の未来」

実をいうと、「エンプロイー(従業員)」という概念は近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。強い意思を持つ人間を従順な従業員に変えるために、二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、それがどれほど成功したかを見ると、マルクス主義者でなくてもぞっとさせられる。近代工業化社会の職場が求めるものを満たすために、人間の習慣や価値観を徹底的につくり変える必要があった。

・生産物ではなくて時間を売ること
・仕事のペースを時計に合わせること
・厳密に定められた間隔で食事をし、睡眠をとること
・同じ単純作業を一日中再現なく繰り返すこと

これらのどれ一つとして人間の自然な本能ではなかった(もちろん、今でもそうではない)。したがって「従業員」という概念が-また、近代経営管理の教義の他のどの概念であれ-永遠の真実という揺るぎないものに根ざしていると思いこむのは危険である。P163
ゲイリー・ハメル「経営の未来」(日本経済新聞社 2008)

著者に感謝をするには、行動に反映させるに尽きる。数年後に見返される本なのだろうが。ハメルは「すでに起こった未来」を認識するテキストを提出してくれた。

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ポータビリティー、トランスファブル視点の有無が従業員/構成員をわける。組織形態/雇用形態の障壁が緩和/多様になっていけば、ジョブディスクリプション等によって貢献範囲が規定されていく。そこでは、ヒエラルキーではなくコミュニティー視点になるのではなと。会社員ではなく、社会員というセルフイメージを養っておく必要がありますね。

■ 常識となりそうな前提

・経営者よりも社員の給与が高くなる
・プロジェクトメンバー、マネジャーが社外メンバー
・ウィキノミクスマネジメント(ボランティアマネジメントから学べるかと)

■ 参考リンク(多くを学ばせて頂いた。感謝。)
「経営の未来」に従業員の未来を見る
Management Revisited: 経営の未来(再)
681旅その1 ゲイリー・ハメルほか『経営の未来』



■ tabi後記
内田のことを掘り下げたがる人に3日連続でお会いしている。2時間ほど喋り続けていると、発話中の自分に気づかされることが多々ある。インタビューをされることの価値は、場に気づかされるということかな。素敵な時間です。
posted by アントレ at 17:37| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

tabi0067 K.ブランチャード,S.ジョンソン「1分間マネジャー」

若者は「おやじ」のマネジメントのやり方に対して、いまだに十分のみこめないままに言った。「教えてください。例えば部下がどんどんやめるとか、定着性が悪いとか」「そうね。そう言われてみると、人の移動がかなり多いようね」ゴメスさんは言った。「ああ、それだ」 若者は手ごたえがあったと思って言った。「<一分間マネジャー>のところを離れた人たちは、どうなりましたか」若者は知りたがった。「新しい事務所を委せたわ」 ゴメスさんはすぐに答えた。「彼のところで二年も働くと、部下の人たちは『もう上役は要らない』って言い出すのよ。彼は、部下の訓練にかけてはわが社でベスト・ワンね。空席ができて、よいマネジャーが必要になると、いつも彼に電話するの。すると、いつでも、誰かすぐに使える手持ちの駒を持っているというわけ」若者はあっけにとられ、ゴメスさんにわざわざ時間を割いてくれたことにお礼を述べた。P.59-60
K.ブランチャード,S.ジョンソン「1分間マネジャー」(ダイヤモンド社 1983)


気分の良い部下は、よい成果を生む。この一言に本書は集約出来る。それでは、どのようにして人間は気持ちよく働けるのか?本書では、仕事をきちんとやっているかどうかを誰かがいつも気にしてくれていることが大切であると言う。

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つまり「いつでも援助するよ」という人間的には暖かく、「成果だけでなく君の仕事ぶりについても関心を持っているぞ」という仕事に対しては厳しい目線でもって誰かが自分のことを気にかけてくれているということが、仕事にやる気と勇気を与えるのである。この太い幹に幾つかのテクニックが記載されている。

前提となっている問題意識は、「何を何のためにやっているのかが解らないまま一生懸命に仕事をするなんてことは実は誰にもできない」んだということか。

■ 参考リンク
世界のビジネスプロフェッショナル 思想家編
693旅 K.ブランチャード、S.ジョンソン『1分間マネジャー』
『1分間マネージャー』に1本取られた



■ tabi後記
御茶ノ水から神田まで歩いてみた。天気が良くて心地よい。

上記書籍とセットで読むと良いかもしれない。

運輸業のマネジャーは、自分の上司によく言われたことを思い出すそうです。「もし、お前に言われたとおりに部下が動くなら、お前はいらない」上司には、そのアイデアやプランを翻訳して部下に伝え、部下の行動に結びつけ、行動を修正し、目標に向かわせ続ける能力が求められるのです。

・議論が白熱し、盛り上がったのだから、現場も変わったはずだと思っていないか?
・すばらしい計画を立てれば、実行されるものが当たり前だと思っていないか?
・部下全員に「イエス」と言わせれば、次の瞬間から行動が起こると思っていないか?
・よく発言しスマートに話す社員が、ほんとうに会社に貢献しているのか?
・業績の上がらない部下や部署の責任を問えば、彼らは変わるのか?
・会議室で問題が解決すれば、それでほんとうに問題が解決するのか?
・目からうろこが落ちたら、行動はほんとうに変わるのか?
・わかったら、物事は実現するのか? P51
伊藤守「3分間コーチ」(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2008)


■ 参考リンク
思想の実践書 - 書評 - 3分間コーチ
3分間コーチングを、『部下の「やる気」を育てる!』ためにどう使うか?


posted by アントレ at 13:42| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月05日

tabi0066 中川邦夫「問題解決の全体観」

仮説志向には修正が付き物であり、修正すれば一時的に仕事が後戻りする。分かっていてもこれを避けたいのが人情である。しかし、仕事が遅れたり、自分の意見を修正することを嫌って、最初の仮説を押し通そうという態度が単なる保身でしかない。あくまでも仮説志向とは良い答えにたどり着くための方法論であって、そこで立てた仮説に引きずられては全く意味がない。こうしたときには、私がコンサルティングを始めた頃にマッキンゼー社東京事務所長が語った言葉を思い出す。「大きな絵を描け。そして間違っていたら、それを消せるような大きな消しゴムを持て」P227
中川邦夫「問題解決の全体観」(コンテンツファクトリー 2008)


上下巻で6000円だが、「問題解決の全体観」というタイトルどうりの価値ある書籍です。必殺仕事人のこだわりを体験できます(丁寧につくられた書籍ですからね)。

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自分のスキルセットを把握、確認するための副読書になるだろう。戻るべき場所となる書籍かな。補うべきところ、進化(深化)させるところは別の書籍(実践)で行うのが良い。

■ 参考リンク
全体観.jp
「問題解決の全体観」レビュー




■ tabi後記
時間どうりに書評を終えられた。ほっ。
posted by アントレ at 14:03| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0065 松田由幸「デザインサイエンス」

デザインの統合化には、従来デザイナーが行ってきた「外的デザイン」とエンジニアが行ってきた「内的デザイン」の両社を、スーパーデザイナーとも呼ばれるべき人物がひとりで行う「デザイン行為の同一化」と、複数のデザイナーあるいは複数のグループ組織により、明確な分担のもとに協調する「デザイン行為の統制化」の二つが考えられます。P17
松田由幸「デザインサイエンス」(丸善 2008)


デザインサイエンスはプロダクトデザイン、都市・建築デザインといった今日まで細分化されている各デザインの枠を超え、デザインという人間の創造的行為を理論的に説明する新たな科学であると。「デザイン行為の統制化」に向けたフレームワークとして「多空間デザインモデル」を提唱する。

「多空間デザインモデル」についてはリンク先の論文か本書をみて頂きたいが、前提には統合化の三つの視点がある。(1):「造る」と「使う」を統合する(2):「物」と「心」を統合する(3):「最適性」と「創発性」を統合すというもの。

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内的デザインと外的デザインの「統合化」で終わるのではなく、そこから創発する「生命化」に関する(バックミンスター・フラーに漸近するような)考察を行っているのが珍しい。

■ 参考リンク
日本デザイン学会 第55回研究発表大会



■ tabi後記
「読書会」(まだ読書が習慣化出来ていない方の集まり)ならぬ「書評会」(読書は習慣になっているが、まだ定着率×実行率に焦点をあてた読書法が確立出来ていない方の集まり)を細々とひらこうかな。
posted by アントレ at 13:11| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

tabi0064 ジョージ秋山「銭ゲバ」

いつも私だけが
正しかった
この世にもし真実が
あったとしたら
それは 私だ
私が死ぬのは
悪しき者どもから
私の心を守るためだ
私は死ぬ
私の勝ちだ
私は人生に勝った


そうだ
てめえたちゃ
みんな
銭ゲバと同じだ
もっと
くさってるかもしれねえな
それを証拠にゃ
いけしゃあしゃあと
生きてられるじゃねえか P395-6
ジョージ秋山「銭ゲバ 下」(幻冬舍文庫 2007)


銭ゲバのゲバは(Gewalt(独):威力・暴力)の略で、「銭に執着している、ガメツイ」という意味で使われています。しかし、こういった解釈でも勿体無いと。

私は、ゲバの2側面に着目した。信仰対象としての「ゲバ」(外在ゲバ)と、「ゲバ」に心酔する他者を救済(解放)したいと思わせる<ゲバ>(内在ゲバ)である。そして、蒲郡風太郎(銭ゲバ)が外在ゲバと内在ゲバの妥協点を見出すために「自死」という生き方を採用した。それが「人生(=ゲバ)に勝つ方法」だったのである。

内在ゲバというのは、ゲバにゲバしている状態(ゲバゲバ)である。その状態が最もあらわれているのは上巻終わりの箇所。(P494-497)

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銭ゲバと無縁である小畑純子との出会いに、蒲郡風太郎は「真実」を見るのであった。しかし、ゲバの縁からは逃れられなかった。小畑純子も「銭ゲバ」となってしまったのだ。

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作者を模していると思われる、秋遊之助(正義ゲバ)にとって成し遂げられない偉業(=人生勝つ)を蒲郡風太郎が成し遂げてしまった。そして、秋遊之助は鮫島勝利(法ゲバ)、大学伸一郎(愛ゲバ)といった人間とは決して分かり合えぬ悩みを持ち合わせているのである。彼の読者ターゲットは現代に生きる「秋遊之助」ではないだろうか。

結論めいたいことは控えておきたい。本書を起点に各自の思考が発展する事を願いたいからだ。共有出来る事があれば、ぜひ対話を!

■ 参考リンク
[書評]自死という生き方 覚悟して逝った哲学者(須原一秀)




■ tabi後記
素敵なマンガに出会わせてくれた安斎さんに感謝!
posted by アントレ at 18:00| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0063 池田清彦「遺伝子「不平等」社会」

自分でも矛盾しているようなことを言うようですけど、極北のリバタリアン的な考え方によると、「自由」と「平等」を両方ともすべて担保するにはどうしたらいいかと考えた時に、一番極端な事をいうと、さっきいったように、すべてクローンにすればいい。これにより、能力の平等があらかじめ担保される。まあ面白くない世の中ですが。それから、すべての死ぬ時に財産を没収して、生まれた時に財産を平等にわければいい。そうすると、これは能力も財産も人生の出発点で全て平等だから、後はそいつの運と努力で決まる。そうすると、格差があってもそれは一代限りのものだから、べつにどうってことはない。そいつはいくら稼いでも死ねばなくなっちゃうからっていうのが、一番極北のリバタリアンの思想だ。P229
池田清彦「遺伝子「不平等」社会」(岩波書店 2006)


○○尊重から○○絶対の跳躍には敏感であり続けたい。本書から得られた問いは、デザイナーズベイビーの決定権は「親」にあるということだ「子」の自己決定権は考慮されていない。ここの区分と分岐点が大事なところかなと。

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また遺伝と環境(氏か育ちか)という区分は分かり易いが、さして分けれてはいないということ。自らの思考停止を認識した。

posted by アントレ at 15:23| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0062 クレイトン・クリステンセン「教育×破壊的イノベーション」

われわれは皆、学校に大きな期待をかけている。人によって言い表し方はさまざまだが、多くの人が共通して抱いている期待が四つあるように思われる。本書では学校への期待を次のようにまとめた。
1 人間の持つ潜在能力を最大限に高めること
2 自己の利益のみに関心のある指導者によって「操られる」ことのない、見聞の広い有権者による、活気に満ちた参加型の民主主義を促すこと
3 わが国の経済の繁栄と競争力を維持する上で役立つ技能や能力、意識を高めること
4 人はそれぞれ違う考え方を持っており、その違いは追害されるのではなく、尊重されるべきものだという理解を育くむこと P1
クレイトン・クリステンセン「教育×破壊的イノベーション」(翔泳社 2008)


クリステンセンが教育現場に理論(「イノベーションのジレンマ」)適用をしている。教育現場における「無消費者」にアプローチするための考えを記述する。

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MI理論をベースにした教育現場をつくるのは、なかなか難しいなと。理由は2つあって、、自らがMIを俯瞰することが難しいということと、チームでMIの全体観を保証しようと考えても、チームの関係づくりは言語的知能に依存してしまうところがあるからかな。

■ 参考リンク
シロクマ日報



■ tabi後記
久しぶりにいい天気です。
posted by アントレ at 13:51| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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