2009年03月30日

tabi日記002 「09/03/27 学びと創造の場としてのカフェ」

tabi日記も再開していきます!

先週カフェ研究会: 場づくりのサイエンスとアートをめざしてに友人と参加してきました。

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語り合う安斎野島

私が思索が出来たことは、
・「社外の学びを社内で活かす」
・「Fragile Architect(亀裂あるしつらえ)」
の2つでした。

前者については、中原先生のプレゼンで着想を得ました。中原さんが取り上げてたいのは、富士ゼロックスの「他者との「かかわり」が個人を成長させる」という研究結果。(詳細はリンク先を辿ってほしい)

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平日の昼に社外学習を行う素晴らしい方々

ここで得られた発想は、

・平日に社外へ 
出れる 
出れない

・社外の学びを社内で共有 
出来ている 
出来ていない

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という軸で企業を分類すること。分類に対する深堀りは、tabiで行っていきます!

後者は、上田先生が「カフェ的になったとき」が『ルールが逸脱されたとき』であったという発言と、その後のダイアローグで得ることができました。「しつらえが壊れるようなしつらえを行う」という文言は自己撞着的ですね。

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Cafeは「しつらわないものが壊れる」という矛盾に満ち満ちたボックスに位置しています。これは私の理解が足りないからです。

1つだけ付け加えておくと、このマトリクスには「その「場」が閉じているか/開いているか」という視点が抜け落ちています。

「ぷらっと立ち寄った人間」を歓待している/していないかということですね。

■ 参考リンク
カフェ研究会が終わった!: 場づくりのサイエンスとアートをめざして
出会いと創造の場 : 飯田美樹「Cafeから時代は創られる」を読んだ!
クラブ、コーヒーハウス、サロン、カフェ - 学びと創造の場
カフェ研究会終了
"ワークショップ的"とは何か?(ワークショップ勉強会)
posted by アントレ at 19:26| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0105 ショウペンハウエル「読書について」

自分の考えをもちたくなかったら、一番確実な方法は、一分でも空き時間ができたらすぐに本を手に取ることだ。
(中略)
結局のところ、自分自身の根から育った思想だけに真実と生命が宿る。実際に完全に理解できるのは、自分の思想だけだからだ。本で読んだ他人の思想は、他人の食事の残り物、知らない客が脱ぎ捨てた服のようなものである。私たちの内部からあふれ出た思想が、春にいっせいに咲きほこる植物だとすると、本で読んだ他人の思想は、石に痕跡をとどめる太古の植物である。P13

文体は主観的でなければいいのではなく、客観的でなければならない。どうしてその必要があるかと言うと、言葉というものは、著者が考えているまさにその内容を、読者も自動的に想起できるように組み立てなければならないからだ。しかしそれがうまくいくには、思考にも重力の法則が当てはまるということを、著者がつねに意識していなければならない。つまり思考が頭から紙に下りていくのは、紙から頭に上がっていくよりはずっと容易なのである。P131
ショウペンハウエル「読書について」(PHP研究所 2009)

本書は「読自祭 」と共鳴するところが多かった。

私は、「1日1冊の書籍を読むこと」は全くもってスゴいことと思っていない。ましてや、それを推奨しようとも考えていない。この事を意外に思う方がいるようなので、ちょっと説明をする。

私はこういう考えをもったのは、読書家には、毒書家/読自家という分かれ道があることに気づいたからです。それは「生きるために水を飲むようなインプット経験」と「徹底的思索を行える耐性/体力」がついていない段階で、読書が習慣化してしまうのは危険であるという気づきでした。

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上記を満たさない方は、読書をすることによって、他人に思考の道を歩くことのプロになってしまう。その果てには毒書家が待っています。他人に思考の道を歩くことが容易になってしまった現代(検索バカ)においては、読書においても、他人に思考の道を歩くことに慣れてしまいがち。そういった危機意識を明文化してくれたのが本書です。

本来ならば、本すら読まないで思索を行えるのが良いのだが、読書をせずして天才と呼ばれた人間は皆無といってもよいだろう。読書には価値があるが、「本を読んだら、今度は自分を読め」という言葉を認知する必要がある。読書時間の倍の時間をかけて思索をしてほしい。読書自体に価値を認めない方は、自分の思考の道を相対化することを怠っているか、自分の思考を曝すことにより得られる「批判経験」の価値を感得できていないかもしれない。

下記の参考リンクには読自家へ歩むための方法論が銘記されている。参照あれ。

■ 参考リンク
母の名は「不遇」 - 書評 - 読書について
本ばかり読んでるとバカになる
本を探すのではなく、人を探す



■ tabi後記
「Think Straight, Talk Straight(単純に真っ直ぐ考え、率直に言う)」ってのは素敵な指針である。
posted by アントレ at 17:36| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0104 養老孟司「解剖学教室へようこそ」

解剖をやっていた頃、時代には完全に遅れたと思っていたから、遅れることなど、なんとも思っていなかった。いまでも同じである。勝手に時代が動くだけで、解剖に変わりはない。だから本の中身も、いま書いても、さして変わりはないであろう。でももう書けない。なぜかって、解剖をやめたからである。虫の解剖はするが、これはまた別の世界である。今度書くなら、虫の解剖にする。これが面白くて、またやめられない。解剖というのは、じつは面白いことなのではなかろうか。だからしばしば社会をそれを禁止するのであろう。P213 文庫版あとがきより
養老孟司「解剖学教室へようこそ」(筑摩書房 2005)


解剖史から「歴史」へはまる気持ちを考察した。

歴史に関心をもてる人は「どうして、こんなバカをことをやっていたのだろう?」という過去の「前提」(今は存在しない前提)に対し、「前向きな好奇」をもつのだろう。「馬鹿なことをやってたんだね」という棄却姿勢はそこにない。(それはそうだ。今は「その前提」が無いのが当たり前なのだから)

そして、「前向きな好奇」は今に生きる人々を次の姿勢へ誘なっていく。

それは「なんでこんなバカをことをやっていたのだろう?」という問いが、「自分」にも降り掛かってくることの意識である。その問いをもって、過去と現在と未来の視点が混合する。この視点を感得するための歴史なのだろう。

この視点を得ると、後世/歴史において「どう覚えられるか?」「どう問われるか?」という内省を企てる方がでるだろう。一方で、「後世にどう思われるかという意識は無理な推量ではなかろうか?」という思想をもつことで、「諸行無常」の哲学を深める方もいるかもしれない。

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遠近法の導入、系統解剖から病理解剖への解剖目的のシフトが歴史の転換点となっている。もちろん解剖の起源も興味深いのであるが。気になる方には本書を勧める。

■ 参考リンク
解剖仲間8
【誰か教えて】13世紀の解剖図



■ tabi後記
桜が咲いている。花開く前にも、花が散った後にも、それは桜である。「咲く」という一点をもって、桜は理解を得る。人はどういった行為によって理解を得られるだろうか。
posted by アントレ at 15:40| Comment(3) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月25日

tabi0103 中野民夫「ワークショップ」

ビジネスマンとして世のただ中にありながら、少しでもまともな社会をめざしていく、いわば「ネクタイ菩薩」をめざす、などと半ば冗談、半ば本気で友人たちに語っていた。
しかし、大阪支社での営業職から始まった現実の社会は厳しく、「企業社会の変革」など大きな志とは遥かに遠いところで、日々の仕事に追われ、厄介な人間関係に疲れ、よれよれになっていた。「こんなことをやるために生まれてきたんじゃない」と思い悩みながら、「大変なのは承知で就職したはずだ」と辞めたい気持ちを抑えて踏みとどまった。五年半で東京に戻り、大きな競合プレゼンテーションで続けて勝って億単位の金額の規模の大きい仕事をこなしたりし始めると、いつのまにか夢中になってすっかりミイラ取りがミイラになってしまっていた。しかしある時、なぜ就職したのかの初心を思い出すきっかけがあり、このままではまずい、一度仕切り直そうと思い、休職を願い出て、カリフォルニアに留学した。そこで出会ったのがジョアンナ・メイシーだったのだ。P86
中野民夫「ワークショップ」(岩波書店 2001)


第1章「ワークショップとは何か」が参考になる。著者の根本思想をあらわしている図があったので、写経する。

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ワークショップには、スケールとワークショップ中毒という課題があると思います。スケールには家元がワークショップパッケージをつくり、それを検定化するという考えと、ワークショップ内容の記述方式を研究し、波及効果を確保する方法がある。つまりは、遠隔ワークショップです。中毒には、SECIモデルへの考察からヒントが得られると思っています。

■ 参考リンク
第ニ回 小澤紀美子氏×中野民夫氏
中野民夫さんの「ファシリテーター8か条」
知識管理から知識経営へ



■ tabi後記
「子三日会わざれば刮目して見よ」を味わう日々です。
posted by アントレ at 18:59| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0102 竹井隆人「社会をつくる自由」

私の言う「集合住宅デモクラシー」で果たされるのは、自らが社会をつくる主体たることを認識し、自らの「自由」を社会のためにどれだけ制限していくかを決定する政治的過程に関わることである。すなわち、それは他者や社会、あるいは「お上」や「コミュニティー」に隷従することなく、自らを治めることでもある。自ら「責任」を負えぬことなど「自由」であるはずがない。自らの「責任」を自覚できることが「自由」なのであり、そこに「正義」はあるのだ。P144
竹井隆人「社会をつくる自由」(筑摩書房 2009)


人間は、生まれ落ちたその日から「政治(集団意識決定の調整行為」)と切り離されない存在になる。これは、Aristotleが「人はポリス的動物である」という言葉に由来した考え方であろう。

私は、「Political apathy」(政治的無関心)について考えるとき、しばしばこの前提を思い返す。それは、この前提が政治的無関心にとって無力であることを確認するためだ。

私は政治期無関心の解消のために「投票における地域/世代間格差を解消しろ!」と叫ぶことを理想としていない。そもそも解消せざるをえないのか?そもそも「政治」は何を指しているのか?私は、「政治的」関心をもったときの宛先を問いたい。

そもそも投票される「政治」のサイズへ疑問符をなげかけること、ポリスが単一でしかないことに疑問符をむけることを希望している。

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読自内容を煎じ詰めると、「移動の自由がほしい」ということだ。私は、共産主義,社会主義,新自由主義といった主義/主張/制度が存在することは肯定しているが、それを「私」に強制してほしくない。これは、消極的自由という「立場」である。

誤解を回避するためにいっておくが、私は消極的自由を社会に強制したいとは思っていない。気持ちよく生活を送ることを考えると、「社会をつくる自由」がOSになってしまうことを意見しているのだ。その自明さを自明のものとするには「議論」が必要である。(OSがファジー語になっていることは認める。的確なアナロジーをするために学習中です。)

さて、その自明さとは何だろうか?

簡潔に述べるならば、「判断力/思考力が養われた成人は、「社会をつくる自由」,「社会を選ぶ自由」がデフォルトとする」ことです。そのOSにいかなるアプリケーション(共産主義,社会主義,新自由主義)をのせても構わない。

今の社会は、家電量販店で販売されるパソコンのようにデフォルトが肥大化している。不要なアプリケーションがドシドシと搭載されているのだ。

そんなに不満ならアンインストールをするなり、DELLパソコンや自作PCを選べば良いだろうと言う方がいると思う。それが、真っ当な意見である。

社会に目を向ければ分かることだが、インストール/アンインストールする行為に「自由」という言葉はあてがわれていない。こういった社会になれ!ではなく、こういった社会「も」つくれる自由が、「社会をつくる自由」である。

■ 参考リンク
「社会をつくる自由」について



■ tabi後記
自由を得るために、教育という言葉が発生する。教育は強制という形をとるが、短期的強制を回避することによって長期的強制(Ex「自由からの逃走」)を招くことになるならば致し方ない。(もちろん、「自由から逃走する自由」もあります。)私は、そういう判断のもとで教育に価値をおいている。
posted by アントレ at 17:13| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

tabi0101 野田智義 金井嘉宏「リーダーシップの旅」

実績を上げ、人の信頼をかち取り、信用を蓄積していくことは、自分にとってリーダーシップの旅を準備するためにも、旅を始め、継続するためにも有効だ。では、私たちは、この数年で、どんな信用を蓄積したのだろうか。それは、裸の自分として得た信用だろうか。それとも、名刺や所属する組織の肩書によって得た信用だろうか。

信用(信頼)の蓄積には、落とし穴が待ち構えている。手段であるはずの信用蓄積が、いつの間にか目的になってしまうと、私たちは旅に出ることができなくなる。しかも、皮肉なことに、努力家で責任感が強い人ほど、日常に追われ、不毛な忙しさから抜け出しにくい可能性がある。

立ち止まり、自分と対峙し、改めて自分が来た道を振返る。そこに、自分が本当に望んでいたものがあれば、大人になっても夢や志をもつことができる。

現在の競争だけにとらわれていないか。忙しいふりだけをして、「見えないもの」を見ること、大きな絵を描くことを忘れていないか。リーダーシップの旅においては、立ち止まって振り返らないと、見えないものがある。P177
野田智義、金井嘉宏「リーダーシップの旅」(光文社 2007)


本書は、信用蓄積が自己目的化してしまうことを肯定せずに指弾する。中毒者への処方箋は「リード・ザ・セルフ」である。この作業が、 「べき」と「したい」を繋ぐものとなる。

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「Lead the People,Society」をするにあたって、問題のでっち上げへの共感が必要とされている。個人の想いをぶちまけるのではなく、「Sensing Capability」(どのように時代を意味づけ、現前する機会をつかみ取るかの理解)がもとめられるのだ。

■ 参考リンク
私の旅がはじまった契機の本
あなたのまわりに、リーダーはいますか?
わずか10%の可能性でも:OJTなのか、OFF-JTなのか?



■ tabi後記
Sensing Capabilityは

・Inflection Point(時代の変曲点)
アンディー・グローブ(インテル 共同創業者)
・Contextual Intelligence(生きている時代の脈絡を読み取る知性)
ニティン・ノーリア『時代の中に (In Their Time)』

とも言いかえられている。
posted by アントレ at 15:19| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

tabi0100 スコット・ペイジ「「多様な意見は」なぜ正しいのか」

多様性がどういう課題においてより良い結果をもたらすかも定義されていない。そこで第一のステップとして、多様性を定義して、それが恩恵をもたらすと思われる課題を特定しなければならない。例えば家族が心臓切開手術を受けることになっても、肉屋、パン屋、ロウソク職人の集団に胸腔を切り拓いてもらいたくない。当然、練熟した心臓外科医のほうがいいだろう。しかし別の状況、例えば福祉政策を立案する、物理実験をデザインする、暗号を解読する、心臓発作後の治療法を評価するといった場合には、多様性が欲しくなってくる。いつ、そしてなぜ多様性が恩恵をもたらすかを理解することが、本書の目的である。P26
「「多様な意見は」なぜ正しいのか」(日経BP 2009)


今回は問いをえることができたtabiだった。集合知の事例として、イノセンティブなどをあげられることが多い。この事例からは、「多様性がどういう課題においてより良い結果をもたらすか?」を考えるうえで適切である。

課題の要件として、

・解決策が定型化されていないこと
・問いの設定自体がわかっていないこと

と考えていたが、新たな疑問がうかんでしまった。それは、多様性のサイズについて。多様性という言葉をつかうとき、3~8人のイメージをもっていないか?

数千人数十万というような「本当の多様性」はいらないじゃないかと。それは、イノセンティブでソルバーとなるためには、英語が読解でき、Ph.Dクラスの知性をもっていることが必要になってくることからも見て取れる。多様性には土台(エントリーフィルター)がある。

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この図解によって湧く疑問は、「多様性の認定について」です。

例えば(日本だけで考える)、

・東京都
・北海道
・沖縄県
・新潟県
・京都府

これは多様か?

・東京都 男
・北海道 女
・沖縄県 男
・新潟県 女
・京都府 女

これは、多様か?

・東京都 男 22才
・北海道 女 45才
・沖縄県 男 59才
・新潟県 女 14才
・京都府 女 31才

これは、多様か?

・東京都 男 22才 サポーター
・北海道 女 45才 コントローラー
・沖縄県 男 59才 プロモーター
・新潟県 女 14才 アナライザー
・京都府 女 31才 アナライザー

僕らはジオグラフィック,デモグラフィック,サイコグラフィックなどで区分けを行い、そこに多様性(ダイバシティー)という名付けをおこなっているが、何において多様なのか?誰にとっての多様なのか?。それを考えたい。



■ tabi後記
第3回 読自祭をおこなった。
posted by アントレ at 11:40| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

tabi0099 飯間浩明「非論理的な人のための論理的文章の書き方入門」

授業の初めに、私はまず、学生にこう問いかけます。「自分の考えたことを文章にして、読者に間違いなく伝えるには、どうすればいいのか?」これに対する私の答えと、その理由はこうです。「そのためには、クイズ文という、『問題・結論・理由』という形式に従った文章を書けばいい。なぜなら、この形式は、読者と一つの問題意識を共有し、かつ、読者を一つの結論に導くためのものだからだ」
私の言いたいことは、この一言だけです。これで、学生たちが、「そうか、なるほど、分かった。ではそのように書こう」と納得してくれれば、もうそれ以上授業をする必要はありません。P5
飯間浩明「非論理的な人のための論理的文章の書き方入門」(ディスカヴァー 2008)

「クイズ文」というフレームワークを生み出した著者に頭が下がる。

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事例を通じて、問題の立て方、結論の出し方、理由の述べ方を学べる良書です。論理思考を学習する前に、読んでほしい1冊。

■ 参考リンク
名文より明快文 - 書評 - 非論理的な人のための論理的文章の書き方入門


■ tabi後記
今から「Educe Cafe:なぜいま本が愉しいのか?」に参加してきます。
posted by アントレ at 16:05| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0098 内田樹「街場の教育論」

「どうふるまってよいのかわからないときに、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の目的である、と。(中略)自分が何を知らないのか、何ができないのかを適切に言語化する。その答えを知っていそうな人、その答えにたどりつける道筋を教えてくれそうな人を探り当てる。そして、その人が「答えを教えてもいいような気にさせる」こと。それだけです。P120
内田樹「街場の教育論」(ミシマ 2008)


私の目に留まったのは、君子の六芸( 礼 樂 射(弓) 御(馬) 書 数)に関する考察。六芸については、礼についてを参考にされたい。

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著者は六芸のうち四芸( 礼 樂 射(弓) 御(馬))に焦点をあて、教養とは他者とコラボレーションするための作法であるという。専門家とは、「専門用語で通じる」場所(内輪のパーティー)にいる人間ではなく、自分と共通の言語や共通の価値の度量衡をもたないものとコミュニケーションが出来る人間をさしている。ただし、伝統的な教養を復古せよといっているわけではない。大学という場には、このような教養的要素が含まれているのだという主張がなされている。「学際的」「専門家人材の越境」といった言葉に半ば虚しさをもってしまう理由を探るうえで、新たな視点がえられる。

■ 参考リンク
asahi.com [評者]香山リカ
Days in octavarium〜知のカンブリア爆発の果てに



■ tabi後記
関連させると「西洋音楽史」が非常におもしろいです。
posted by アントレ at 14:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0097 阿部謹也「自分のなかに歴史を読む」

先生は長い時間待たせたことを詫び、二人で話しだしました。ところが先生は私がローマ史をやりたいといえば、「それは結構ですね」という具合で、特に反対もせず、かといってそれをやれともおっしゃってくださらないのです。いろいろ話をしているうちに先生はふと次のようにいわれたのです、「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」。そのことばを聞いて、私はもうほかの質問はできなくなり、そのまま家に帰って白紙の状態でふたたび考えることにしました。P18
阿部謹也「自分のなかに歴史を読む」(筑摩書房 2007)


著者にとっては、「ドイツ騎士修道会研究」が「それをやらなければ生きていけないというテーマ」となっていた。上原先生の言葉をうけた阿部さんのメッセージは、「過去の自分を考古学し、現在に自分を工学し、未来の自分を文学する」と変換できるかもしれません。(この表現自体、文学的であるのがミソ。笑)

若い人が丹念に自分を掘り起こしても何も出てこない思うかもしれませんが、そんなことはありません。それは、私たちの意識の奥底に過去がしのびこんでいることを確認すれば分かることです。それは、年中行事のひとつの正月をとっても同じです。誕生日は、過去の再現にほかなりません。僕らが、1年365日を単位として、生まれた日を祝祭するという習慣に「違和感」を覚えたとしたら、そこに学問ははじまる。

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成人になってからの違和感をベースに思考をするのは弱い(健康的ではない)と思ってきた。書籍やニュースなどをベースにアジェンダ設定をするのは、意識的記憶での発動だからなのか。「内なる心」という表現は文学的なきらいがあるが、無意識や前意識などについて知るほどに、15歳までに「私」の志向性はあらわれきっているのではなかろうかと思う。

その時分にいかなる問いをもっていたか。何に違和感をもっていたか。成人した「私」には、それを関係づけることしか出来ない(それを関係づけることが出来るのだ!という意味でとらえている)。

著者の経験によれば。関係づけから、創造までの期間は40歳までに出来れば良いのだよと語っている。ぜひ参考にしてほしい。

■ 参考リンク
書籍内容を知りたい方へ
ちょっとした話



■ tabi後記
非常に暖かくなってきた。いろいろな種が芽生えるころです。
posted by アントレ at 13:50| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

tabi0096 ジョン・スチュアート・ミル「自由論」

この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。・・・文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。P27

この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子どもや法的に成人に達していない若者は対象にならない。……同じ理由で、社会が十分に発達していない遅れた民族も、対象から除外していいだろう。……専制統治は、未開の民族に進歩をもたらすことを目的とし、実際にその目的を達成することで手段としての正しさを実証できるのであれば、正当な統治方法である。P28

人間は支配者としてであろうが、市民としてであろうが、自分の意見と好みを行動の規則として他人に押しつけようとする傾向をもっており、この傾向は人間性に付随する最善の感情と最悪の感情のうちいくつかによって強力に支えられているので、権力を制限しないかぎり、この傾向を抑制するのは不可能である。そして、権力は弱まっているどころか強まっているのだから、道徳的な確信によって権力の乱用に強い歯止めをかけないかぎり、現在の状況ではこの傾向がさらに強まっていくと覚悟しなければならない。P37
ジョン・スチュアート・ミル「自由論」(光文社 2006)


・無謬性の想定は真理を遠ざける態度である
・自分の意見に対してだされうる反論はすべて知る必要がある
・反論と反論へ反反論が論を精緻になっていくからだ
・しかし、精緻さが真理へ到達することはない
・その真理は状況/時代によるものであるからだ
・真理は到達されることはなく、希求する態度に内在している

■ 参考リンク
お互いに不干渉/消極的自由論
リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い
ミル『自由論』新訳と官僚制への批判
ミル『自由論』:悪魔の代弁者
言論の自由について



■ tabi後記
4年ほど前はディベート三昧だった。科学者の態度と科学哲学者の態度を持ち合わせることがバランスのとれた知性であると思う。
posted by アントレ at 11:30| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

tabi0095 ビル・マッキベン「ディープエコノミー」

私は、ここアメリカと世界で、公平に富を配分するべきだという平等の意見には賛成だ(実際、もし関心ごとが成長だけなら、加速させる最良の方法はもっと公平に所得を再配分することだ。それについては説得力のある証拠がある)。そして、いくら指導者が強調しようとも、私たちはこれまでより裕福にはなっていない。そう肝に銘じておくことがきわめて重要だ。それが世の中の、直感には反しているが確固たる事実の一つであり、本書のあちこちで私の主張を支えている。成長は断じて、大部分の人を裕福にはしていない。P. 25
ビル・マッキベン「ディープエコノミー」(英治出版 2007)


1万ドルの悲劇がというものがある、それは成長と幸福の相関関係が崩れるときだ。繋がりと幸福に相関性が見出されてくる。凸凹というのは、GDP,成長率,ジニ係数,失業率などで国力を規定したときに、生じる差である。
格差が固定化するのをふせぐために様々な施策の中で、本書は、グローバルサプライチェーンで食料を流通させるよりも、地域社会で地産地消する食料政策が好ましいという事例を紹介する。該当地に最適な食物を判別することにより、生産価格が下がり、市民間の対話も増える。そして、環境負荷(フードマイレージ)が減る事も示している。詳しくは参考リンクを見て頂きたい。読自祭で作成した図は、コンセプトベースの分類になった。

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「フラット化する世界」
凹を埋めることで凸に近づくようなにすることであろうか。途上国イノベーションなどが言葉として用いられる。
「ぺちゃんこ化する世界」
これはフラット化する世界をネガティブにとらえるている言葉。この様な世界は、凸が成長し、凹がうまるというトリクルダウン的な見方がなされている。
「土砂崩し世界」
凸をけずり凹がうめるという再分配的な見方。
「俺ルール」:凹を凸基準で埋めるな!
経済学的な見方に嫌悪感を抱き、GNH,清貧,全体主義,計画社会主義といった各種各様の自由形態を実行しようとする。

最後はのカテゴリーは半ば強引になってしまった感はいなめない。各ボックスへの考察を深めていく。

■ 参考リンク
経済はだれのために - 書評 - ディープエコノミー
情報考学 Passion For The Future



■ tabi後記
このところ眠気のコントロールが不調である。
posted by アントレ at 23:30| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月13日

tabi0094 梅田望夫「ウェブ時代をゆく」

再読こそが書籍の醍醐味。忘却するという人間らしさに感謝をもちたい。
「群衆の叡智」とは、ネット上の混乱が整理されて「整然とした形」で皆の前に顕れるものではなく(いずれウェブのシステムが進化すれば、そいうことも部分的に実現されるだろうが)、「もうひとつの地球」に飛び込んで考え続けた「個」の脳の中に顕れるものなのだ、私はあるとき強くそう直感した。「新しい脳の使い方」の萌芽を実感した瞬間でもあった。ネット空間と「個の脳」が連結したとき、「個」の脳の中に「群衆の叡智」をいかに立ち顕れさせるか。この部分は確実に人間の創造性として最後まで残ってくるところのように思えた。P17

ウェブ進化は、経済や産業に直接的に及ぼすインパクト以上に、私たち一人ひとりの日々の生き方に大きな影響を及ぼすものなのである。「経済のゲーム」のパワーで産業構造がガラガラと変わるのではなく、「知と情報のゲーム」のパワーで、私たち一人ひとりの心のありように変化を促していく。「もうひとつの地球」の本質はそこにあるのだ。P50

今までは組織への加入は「全人参加」がデフォルトだったわけですが、ネットによってこれは「気持ちだけ参加」が可能になったわけです。そして今後は「気持ちだけ参加」こそ普通になるのではないかと思います」と問題提起した。人間はそもそも多様な能力と関心と知識を持った存在だが、工業化時代の組織では、本来多様であるべき一人の人間の能力・関心・知識の「ほんの一部」を切り取り、その「ほんの一部」をもって「全人」とみなし、「全人参加」をデフォルトとした。ネットはここを突き崩す可能性を提示している。P81

良き「志向性の共同体」作りに多くの人がリーダーシップを発揮するようになれば、無数の営みの中から、「一日五分の善意や小さな努力」を持ち寄る参加者を世界中から惹き付ける創造的コミュニティーも現れるのではなかろうか。P86
梅田望夫「ウェブ時代をゆく」(筑摩書房 2007)


私は「読自祭 」というイベントを毎週おこなっている。読自祭とは「 本を読んだら、今度は「自分」を読め」というコンセプトを実践する集まりである。

対象としているのは、

・読書量よりも積読量のほうが多くなっている方
・1日1冊の本を読んでいきたいと思っている方
・書籍に読まれるのではなく、自分を読むことに関心がある方
・1時間で「利己的な遺伝子」「影響力の武器」「ゲーデル・エッシャー・バッハ」を読めるようになりたい方

です。この会の縛りは、「60分間で書評せよ! 」ということだけ。プレゼン資料は、テキスト,マトリクス,フローチャート,マンガ,etc。

大事にしているのは、書籍内容を網羅的にまとめるのではなく、書籍からインスパイアされたこと、その人間が思考してしまったことを表現することです。 つまり、 書籍を踏み台にして「あなた」の思考を共有することがミッションになっています。

このような事をやろうと思った背景を説明したい。

現在、日本では毎日200冊の出版物が刊行されています。つまり、年間7万冊超の出版物が刊行されていることになります。この刊行スペースでは、 熱心な読書家 でも新刊の1%も読むことはできません。

このような出版環境と相まって、読書に関する本も目につくようになりました。「本を読む本」 という真っ当な読書論や、本田直之さんの「レバレッジ・リーディング」 、 成毛眞さんの「本は10冊同時に読め」 などの用書論が筆頭にあげられるでしょう。

私はこの状況を楽しむと同時に、半ば憂いております。なぜなら、読書の根本である「読自」についてほとんど語られていないからです。

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そもそも「読自」とは何なのだろうか?
それは文字どうり、自分を読むということです。 自己分析と違う点は、(読書を通じて)自分を読むということでしょう。 この考えを言語化するきっかけを与えてくれたのが、 「読んでいない本について堂々と語る本」 でした。

この本を3行でまとめると、

・われわれはたいていの場合、「読んでいる」と「読んでいない」の中間領域にいる。
・ある本について的確に語ろうとするなら、ときによっては、それを全部は読んでいないほうがよい。
・本を読まないことも、厖大な書物の海に呑み込まれないように自己を律するための立派な活動なのだ。

つまり、われわれは常に未読状態であり、 未読状態においては「堂々と語る」ことが非常に大切である。 そして「堂々と語る」ためには「読自論」が必要なのです。

上記を読んで、

・未読状態とは何か?
・堂々と語ることがなぜ大事なのか?
・読自論とは何か?

という問いが浮かんだ方がいると思う。 この3つの問いに、簡単に応じたい。 まず認識してほしいのが、 われわれは、常に「5つの未読状態」にあり、 読書に対して「3つの強迫観念」をもっているということです。 そして、その強迫観念への対処法(4つのコメント法)が習慣となっていないのです。

では、3つの強迫観念とはなんでしょうか?

それは、

・本を読まねばならない読書義務
・読むなら全部読まねばならない通読義務
・語るためには読んでいなければいけないという規範

ということです。

そして5つの未読状態とは、

・ぜんぜん読んだことがない本
・ざっと読んだことがある本
・人から聞いたことがある本
・読んだことはあるが忘れてしまった本
・読んだことすら忘れてしまった本

をさしています。

対処法としての4つの未読本コメントとは

・気後れしない
・自分の考えを押しつける
・本をでっち上げる
・自分自身について語る

となっている。更なる詳細は書籍に譲ります。

読自祭は上記を基本にして、4〜6人が集まる中で知性が創発されています。僕は、こおで生み出される知性を何かしらのツールで構造化できればと思っています。

また、そのツールによって読自祭が各地で行われることを目論んでいる。そして、そのツールが本書で言及される「文系のためのオープンソース(知的生産ツール)」になることを企図しているのです。

■ 参考リンク
梅田望夫『ウェブ時代をゆく』を語る
生命保険 立ち上げ日誌
極東ブログ
「ウェブ時代をゆく」(1) 儲からない仕事がしたい
「ウェブ時代をゆく」(2)ロールモデリング―「よいこと」を抽出する技術
梅田望夫と福澤諭吉
「世界観、ビジョン、仕事、挑戦――個として強く生きるには」講演録
グーグルに淘汰されない知的生産術
読売新聞書評欄連載で選び評した12冊の本



■ tabi後記
ふと、「CQ+PQ>IQ」という式を思いだした。CQとは好奇心指数(Curiosity Quotient)。PQは、熱意指数(Passion Quotient)である。 引用元は「フラット化する世界」。
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2009年03月12日

tabi0093 パオロ・マッツァリーノ「つっこみ力」

愛と勇気とお笑い、これがつっこみ力を構成する三大要素です。どれもが、社会と人生をおもしろくするために欠かせない要素です。つっこみ力の目的は、社会と人生をおもしろくすることにあるのです。正しさをおもしろさに変えるのが、つっこみ力の目的です。これに対して、メディアリテラシーの要素は、論理と批判です。私はずっと疑問に思ってたのですが、メディアリテラシーも論理力も批判力も、その目指すところがわからないのです。P99
パオロ・マッツァリーノ「つっこみ力」(筑摩書房 2007)


メディアリテラシーをつっこみ力という言葉へ変換しただけで、価値がある。彼は「正しさ」はつまらないものであると考え、おもしろさこそが民主主義(多数決)の要諦であるという。

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つっこみは「ボケへの愛」を前提としている。つっこみによってボケは増幅し、(際立つ)、分かり易さを高める。笑いの付加価値を創出して観客の興味をひきつけるのである。それがボケの逃げ道となる。彼は、風刺画,四コマ漫画などにみられる「権威へ歯向かう勇気(政治性)」から笑いの重要性を論じている。

以下は、民主党 小沢氏に関して触発された記事を引用してみよう。

「逮捕された人=犯人」ではない。 刑事捜査原則は任意である。
証拠隠滅や逃亡の恐れがある場合に限って、被疑者の身柄を拘束できる。これが逮捕だ。 しかし、この段階では、被疑者は捜査当局が罪を犯したと疑っているに存在に過ぎない。逮捕された人、イコール犯人ではない。新聞などでよく「捜査当局の調べによると……」と書かれているが、あれもすべてが事実であるとは限らない。あくまでも、警察や検察など当局がそう思っているという程度の話なのだ。 さらに言えば、起訴された被告人というのも、検察官が処罰に値すると思っている人に過ぎない。
裁判で有罪が確定するまでの間は、いわゆる「無罪推定」なのである。
「小沢辞めろ」コールはマスコミの怠慢


「これは前提としてもっておこうよ!」という言葉は、山口氏の現場感から表出したのだろう。

だから、ぼくは納税者の視点での監視が必要だと思うのだ。 その捜査、本当に税金をかける価値があるのか?と。人事異動が近いから、ちょいちょいと被疑者をつかまえて、異動前にとっとと起訴してしまえば手柄になる。そう思っていたら、相手が思わぬ反発をしてきたので「けしからん」。マスコミを通じて、どんどん悪性情報を流してしまえ。検察を批判するような男を総理にしていはいけない! そんな気持ちがどこかで働いていなかったか?
「小沢辞めろ」コールはマスコミの怠慢


呼応するかのように、finalvent氏が注目を集めた。

検察権力が恣意的に正義のツラをして市民社会に介入してくるのを市民はいわば本性として批判しないといけないということ。それは市民の義務にも近いものなんですよ。
toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


世論調査からみる動向では一国の総理になりうる人だった。それを検察権力が市民の手の届かないところで打ち落としてしまったということなんですよ。
toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


それがいかなる「正義」であっても、民主主義というのは、こういう危険な回路を除去しないといけないのですよ。民主主義というのは市民が失敗したら市民が尻ぬぐいをする。愚かさのすっぱい果実をみんなで囓るのです。失敗しないような甘美な「正義」に身を委ねてはいけないのですよ。いかなる権力もそれを市民が「ちょっと待ってね」と制止する回路を組み込まなくてはならない。
toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


これが全体に響くかといわれれば、わからない。
というのも「つまらない」話しだからである。

暗に本件を題材にし、検察官,警察,政治秘書,メディア,民衆を登場させるスキット・コント(各々に「チャラクター性」(欠陥)があると良い)をニコニコ動画で実験放送してみるのはどうだろうか。

■ 参考リンク
404 Blog Not Found
nakahara-lab.net



■ tabi後記
今日は友人の見舞いにいく。
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2009年03月10日

tabi0092 山田ズーニー「あなたの話はなぜ「通じない」のか」

人は、自分でつかんでいきたい生きものなのかもしれない。なぞなぞで、もう少しで答えがつかめそうなときに、正解を言われたら、相手を怨むだろう。謎解きをするときのぞくぞくする感じ、わかったときの、頭にパッと電流が走り、すっと腑におちる爽快感。
正論を拒むのは、人間の本能かもしれないと私は思うようになった。正論は強い、正論には反論できない、正論は人を支配し、傷つける。人に何か正しいことを教えようとするなら、「どういう関係性の中で言うか?」を考えぬくことだ。
それは、正論を言うとき、自分の目線は、必ず相手より高くなっているからだ。P140
山田ズーニー「あなたの話はなぜ「通じない」のか」(ちくま文庫 2008)

「メディア力を高める」とは、少し引いた目で、外から観た自分をとらえ、それを「こう見てほしい」という自分の実像に近づけていくことである。その中で、「自分にタグをつけること」、「問いをスクラップすること」、「信頼される自己証明すること」という方法に着目した。

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自分にタグをつける
・自分がどう思われたいのかを決める
・自分が何屋なのか訴求ポイントをはっきりさせること
・場や相手の状況にあわせて多種類の「タグ」を作成しておく

問いをスクラップする
・興味/違和感をもった言葉(意見)を問いに変換する
事例:「本当のことをしゃべるよりも、私はウソをつく方が恥ずかしい。ウソをついてい
るほうが、本当の自分がでるから」(米原万里「言葉の戦争と平和」)
問い:「ウソは本心を隠すものと思われているが本当か?」
   「本当とウソ、どちらを言うときが、より本当の自分が出るか?
・5W1Hなどの便利な問いをストックする

信頼される自己証明をする
・自分の連続性を語る(過去→現在→未来と語る)
・人や社会とのつながりを紡ぐ(自分→社会→世界)

自己証明(自己紹介)は準備しておくほうが良いです。プレゼンは練習するのに、なぜ自己紹介は即興でやろうとするのでしょうか。私も、日々のタグ更新と問いのスクラップをもとにして、自己証明を改訂していきたい。

■ 参考リンク
「メディア力」への意思



■ tabi後記
文庫あとがきにあった言葉を引用したい。
本書は、私の環境を一変させた。何十社もの出版社の編集者が、手に手に本書を携えて私のもとを訪れた。私が何よりうれしかったのが、私に注がれる理解だった。こちらから「私はこういうものです」と苦心して説明しなくても、本書を読んだ人が、一発で私を信頼し、降るほどの理解をよせてくれた。
一発で通じ合える、これが自由だと思った。P248
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2009年03月09日

tabi0091 中原淳,長岡健「ダイアローグ 対話する組織」

つまり、「対話」が組織変革や組織学習に大きな効果を発揮することもあれば、特定の組織文化や組織理念を長期間にわたって根づかせてしまうこともあり得るということです。組織の改革において、「対話」はたしかに意義深い有用なものです。ただし、それは普遍的な万能薬ではありません。対話の意義について知ることは、対話のポジティブな側面を手放しで称揚することではありません。対話がもたらす「意図せざる結果」についても、しっかりと見据えていく必要があります。P181
中原淳,長岡健「ダイアローグ 対話する組織」(ダイヤモンド 2009)


「ダイアローグ・オン・ダイアローグ」の基軸となる本だろう。ダイアローグの機会がひろがりそうだ。本書から、ダイアローグ分類の着想をえたので、「思考形式」(論理実証モード/ストーリーモード)、「態度習慣」(他律(依存)/自律(内省))の2軸で整理してみました。思考形式については説明が必要なので、本書から引用したいと思います。

「論理実証モード」は「ある物事が正しいのか、間違っているのか」を問い、厳密な分析を通して、物事の真偽を明らかにしようとします。これに対して、「ストーリーモード」とは、「ある出来事と出来事のあいだに、どのような意味のつながりがあるか」を注視する思考の形式です。ストーリーモードのもとでは「物事が正しいか、何が間違っているか」はあまり問題にはならず、むしろ「それは現実味に富んでいるか」「それは、腹に落ちているかどうか」が重要とされます。P52


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それでは、ボックスについて説明します。価値判断を加わえていますが、「分類」として捉えてもらいたい。どれが良い、悪いというものではない。

パッケージダイアローグ
・暗黙知共有
・ナレッジマネジメント
・理念浸透(=モノローグ)

パッケージダイアローグはビジネスフィールドで語れてきた「対話」である。上記の言葉が象徴的な例だろう。暗黙知は、形式知とセットで語られる。「暗黙知をナレッジマネジメントによって、形式知という知恵にしましょう!」などと語られているかもしれない。

ディペンデンスダイアローグ
・社員改造
・過剰適応(洗脳)
・学習棄却の重要性

ディペンデンスダイアローグ(依存的対話)はパッケージダイアローグによって「対話漬け」になってしまった状態。意図がない場合は悲惨であるが、「宗教から布教/洗脳プロセスを取り入れて、経営に活かそう」という意図をもっている方も存在しているだろう。アンラーン(学習棄却)による、過剰適応から脱却が求められる。

セルフダイアローグ
・リフレクション
・省察的実践者
・突貫工事のエキスパート

セルフダイアローグ(自己内対話)は自己啓発に近いだろう。自らの心的傾向(バイアス)や強みを棚卸しする習慣がついている方々だ。「ドラッカーの「プロフェッショナルの条件」がいいよ。」といっていそうである。(哲人政治の現代版というイメージをもてる)セルフダイアローグに長けている方には、自らの対話を場としておこなことが問われているだろう。

ダイアローグオンダイアローグ
・メタ認知
・対話を通じた学びほぐし
・ワークライフラーニング

最後になってしまったが、ダイアローグオンダイアローグ(メタダイアローグ)についてふれたい。デヴィッド・ボーム 「ダイアローグ」を読んだ時の想いをのせてみよう。

「『愛があればすべてうまくいく』と言う人がいる。だが残念ながら、すべてを救う愛は存在しない。だから、もっと良い方法を考えなければいけないんだ。」
デヴィッド・ボーム 「ダイアローグ」(英治出版 2007)


対話の目的は、物事の分析ではなく、 議論に勝つことでも意見を交換することでもない。そして、対話の何よりの障害となるものは、想定や意見に固執し、それを守ろうとすることだ。 われわれは様々な想定(意見)をもっている。想定とは、過去の思考の結果である。 そして人は、想定(意見)と自分とを同一視し、それを守ろうと反射的な対応するかもしれない。

ある人は、何かが問題だという。ある人は、その考えが問題で、こちらの視点からみると「これこそが」問題だという。 そして二人はひとたび離れて、「何が問題なのか考えてみよう」というが、問題だと描写する、思考構造自体が問題を生み出しているのだとしたら、我々はどうするだろうか。

そこで、個人的思考と集団的思考に関する考察があらわれる。ボームは対話における目的を「意味の共有」とする。そして、意味の共有に到ることは、集団的思考を一にすることであり、対話はそこに到るまでのプロセスであるとする。「対話」をおこなうためには「想定(=個人的思考)を保留状態」にする必要性があるとし、集団的思考(=暗黙知)の深層構造を解明する必要があると語るのが本書である。彼が想い描く深層構造は、「いかなる意味を共有してきたか」といことであろう。それは文化であろうか。

松岡さんが書くように、 この著作は、ボームが全体性の回復を叫ぶあまりに部分(断片的)に回収される可能性がある。ボーム自身は、部分と全体を語る言葉(記述スタイル)を探索していたのだろう。

拡散的になってしまったが、一人ひとりが本書から汲み取った「違和感」にもとづいて、ダイアローグ・オン・ダイアローグをおこなっていってほしい。

■ 参考リンク(私がお気に入りの記事をBlogからピックアップした)
僕らは皆、「素朴教育学者」である
社会って、いったい、「誰」ですか?
パネルディスカッション



■ tabi後記
本書にも秀逸なマトリクスがあふれている。
posted by アントレ at 22:02| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月08日

tabi0090 小山薫堂「考えないヒント」

最後は「面白いかどうか」で決まる
結局、僕がアイデアを出す目的は、どうすれば日常が面白くなるかという一点に尽きるように思います。日常の楽しさを加速されたり、際立たせるための作戦の一つ一つが、いろいろな企画のコンテンツにつながっている。
(中略)
僕は何か新しいことをやろうと決めたとき、三つのことを考えます。
一つは、「それが誰かがやっていないか。すでにもうほかの人が同じことをやっているのではないか」ということ。
二つめが、「それが誰を幸せにするのか」。
三つめは、「それが自分にとって面白いか」。
なかでも「それは誰を幸せにするか」ということは特に大切だと思います。P85,101
小山薫堂「考えないヒント」(幻冬舍 2006)


本書から著者の「人の喜ぶ顔が見たくてたまらなさ」がビシビシと伝わってきた。彼の仕事(志事/私事とも言い換えている)から習慣を抽出した。

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習慣が意識習慣か行為習慣かでわけました。そして、その習慣が自己完結している事なのか、していない事なのかでマトリクスにしてみました。

・旅行者気分で日常を見直す
これは第3者視点で物事をみるということである。著者は、熊本県の天草出身のため野生のイルカをみて育ってきた。しかしそれが魅力だと分かるのは、東京に来てしばらくたってからのことだった。

最初はただの田舎町としか思っていなかったが、東京の人が「イルカはハワイにしかいない」と思っていることに気がついたときに、熊本の天草にこそ「イルカが一番いること」に気づいたのである。

物事の良さを分かりたい場合、変に固執せず、意図的に「考えないよう」にする距離を
とってみることが大切かもしれない。

・企画書は一行
「宇宙人に説明するとしたら」という言い換えもなされていた。『お厚いのがお好き?』という番組のコピーは「君はキルケゴールも読んだことがないのか?」であった。

・誕生日プレゼントのように
友人へサプライズを仕掛ける時の気持ちで仕事に取り組んでほしいというシンプルなメッセージである。このワクワク感こそが、セクシープロジェクトの源泉である。

・勝手にテコ入れ習慣
これは大前研一の思考トレーニング似ているところがある。自分が生活するなかで、触れているサービス/プロダクトに対して、「自分だったらこうする/考える」というクセをつけろいうことである。つまり、世の中にはライバル/先生だらけという発想である。

■ 参考リンク
アイデアがドンドンひらめく体質を作る習慣
小山薫堂『考えないヒント―アイデアはこうして生まれる』が
今日から改めること



■ tabi後記
本書の学びを活かして、さっそく銭湯にいってきた。
posted by アントレ at 23:58| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

tabi0089 石黒浩「アンドロイドサイエンス」

時間を節約するということは、すなわち従来人間が行ってきたさまざまな作業を徐々に技術と置き換えていることにほかならない。人間は人間が行う作業で定義するなら、100年前の人間と今の人間は、かなり違った定義になる。100年前は、食料の確保、衣服の確保、移動に多くの時間を費やしており、概ねそれらによって人間とは何かが定義される。
(中略)
ともかくも、人間は、その技術で置き換えられずに残ったものに、人間らしさを見いだそうとしている。いったん技術に置き換えれば、そこは疑問の余地なく人間を規程するものではなくなり、それ以外の部分に人間性が存在すると考える。そして、それは技術開発の進展とともに、人間とは何かという問題をより深く探究し続けているのである。このように思えば、
人間は人間が何であるかをしるために生きている。ー
という哲学的な人間に対する解釈も、それほど疑問なく受け入れられるのではないかと思う。P18
石黒浩「アンドロイドサイエンス」(毎日コミュニケーションズ 2007)


あなたの身の回りにある「ロボット」は何だろうか?

・パソコン
・冷蔵庫
・洗濯機
・産業用機械

などがあげられるだろうか。

ロボット (robot) とは、人の代わりに何等かの作業を行う装置、若しくは「人のような」装置のことである。
wikipedia:ロボット

この定義に納得感をもつ人は多いだろう。1738年、パリの科学アカデミー で自動「アヒル」が公開されたのがロボットの開闢であった。同じころ日本では、「からくり人形」と呼ばれる "自動人形" が登場する。それから300年が経過した。




筆者によると、このアンドロイドを見て、「これは人間じゃない」と気づくまでに平均2秒かかるようだ。そして、その気づきをを4秒、5秒に伸ばすのは途方もなく難しいことである。

ただ、意識レベルで「これは人間じゃない」とわかっていても、無意識レベルではどうだろうか。人間じゃないからモノとして扱っているのかといえば、違う。

簡単にたたくこともできないし、触るのも躊躇する。実は無意識には人間だと思っているのではないか。人間は意識の部分では高感度のセンサーをもって厳密に見分けているが、人間らしい姿には自然に反応してしまうということだ。

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人間は、食料確保や衣類の洗浄や乾燥等が代替された結果、何をしているだろうか?

自分の生活を振返れば、起きているほとんどの時間をテレビやインターネットを使った情報処理活動や、人との対話という情報処理活動に費やしている。

作業の自動化によって、「暇」をみつけることに成功した。そして、その「暇」は「人間らしさであると考えていた事が「実はロボットできる」という発見作業」に費やされている。(この傾向性を悲観していない、むしろ楽観だ)



この画像はCGである。驚きをもたない方はいないだろう。同時的にSekai Kameraというサービスに注目があつまっている。拡張現実と拡張先の精密さが生活に浸透するころには、さきほどのアンドロイドも同列に機能してくるのではないか。

■ 参考リンク
心の領域
2011年「ゲーム」は質的転換を迫られ、作り手は入れ替わる



■ tabi後記
第1回読自祭が催された。非常に刺激的な環境である。
posted by アントレ at 12:21| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月06日

tabi0088 山田ズーニー「おとなの小論文教室」

ズーニーさんへ
お返事ありがとうございました。「愛するものを手放しなさい」。とてもショックな文章でした。
あの相談メイルを書いたあと、彼に手紙を書いたのです。
書き始めて、本人に渡すまで5日間。書いては寝かせ、読み返し、書き直し、書いては寝かせ、読み返し、書き直し。手紙を寝かせるということは初めての経験です。
そしてこの5日間は『要約』の作業でした。
要するに?
私が彼に伝えたいことは何なのか。
最初の手紙は言い訳のオンパレードでした。読み返すと嫌気がさしてきました。そして書き直します。こんどは、相手の気持ちを動かそうとする下心が丸見えの演出がかかった手紙。
(中略)
結局、自分が手紙の中で一番強く書いたのは「あなたを取り戻したい」ということではなかった。そういう諦めの悪い願いは持っているけれども「あなたが自分自身のまま変わらないでいてほしい」ということを書いた手紙になりました。

「あなたがあなたらしく生きる道を
私が塞いでいるのであれば
それは私自身がそれを許さない」と。

それが一番の想いだと自分で気づけたので落ちつきました。P69
山田ズーニー「おとなの小論文教室」(河出文庫 2009)


ほぼ日の連載はみていたのに、彼女の魅力に気づいていなかった。彼女のメッセージをつうじて、人との接し方を再考させられた。


今回は図解ではなくショートエッセイでまとめます。


要約によって

世界は要約で出来ている

要約をひもとこうとする者などいやしない

それが分かっているだろうか

分かってもらわなければ

それで終わりなのだ

あなたの人生は他人に決められる

あなたの人生は完全に他人に決められる

悲観する必要はない

あなたには出来る事がある

1つだけ

それは他人の"動機"を創ることだ

動機とは他人の次の行動を創ることだ

動機はあなたへの印象も形づくる

良き印象は他人の行動を創りつづける

あなたの人生は完全に他人に決められている

しかし、他人の"動機"は創ることができる

何によって

あなたの要約によって

密度濃く

相手が動きたくなる

機会を提供する

そんな文章表現をしていこう

じょじょにじょじょに

■ 参考リンク
いま書き始めることが世界を変える〜『おとなの小論文教室。』



■ tabi後記
図解だけが全てだろうか。表現手段はいくらでもある。実験をしていこう。
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2009年03月03日

tabi0087 ダミアン・トンプソン「すすんでダマされる人たち」

ギデンズによると、現代人はいやおうなく「自己の再帰的プロジェクト」にかかわることになるという。(中略)現代に生きる私たちは、自分がどういう人間かという選択をたえず迫られる。しかも、毎日のように新たな可能性が出てくるから、やっと選択しても、またすぐ改訂しなければならない。つまり、私たちはいつまでも未完成の「仕掛品」なのだ。(中略)実際、語るべきことは山のようにある。職業、性的性向、政治的な見解、人生観や宗教的な信念に関して幅広い選択の自由があるのは好ましいことだ。しかし、選択するからには、まず自分がなにを信じるか決める必要がある。「現代人は昔の人が意識せずにやってきたことでも、はたと立ち止まって考えなければならない」とバーガーは書いている。「古今東西変わることのない疑問、すなわち『自分になにがわかるのか』に対する答えは、自信のない不確かなものになった」。P173-4
ダミアン・トンプソン「すすんでダマされる人たち」(日経BP社 2008)


解説はtabi0017 大槻義彦「大槻教授の最終抗議」が行っている。

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以前、藤沢烈さんに「判断基準をいかに定めるか?」という話をきいた。

決断=判断基準(クライテリア)×選択肢(オプション)

判断基準を 見出すまず第一の方法は、判断をする際に「判断基準」と「選択肢(オプション)」を区別することであると。判断基準/選択肢の分離をするためには、A4の紙を二つに区切り、片方に基準を書き、片方にオプションを記す習慣をつけるのが大切。もしそれで解決がつかない場合は、判断基準が決まっていない場合が多いの、基準を決めるのを三ヵ月後などに設定し、その間に徹底して情報収集すること(選択肢を増やす)ことであると教わった。

判断基準が定まりにくい現代においては、ギデンズがいうように「自己再帰的な状況」に立たされる。本書で扱われる反知識(カウンターナレッジ)にすすんでダマされるのは、「自己再帰的な状況」に苦しむ人たちだ。彼らは判断基準を得たいがために向かってしまうのだろう。

また、選択肢を増やす前に、理論武装で「判断基準」つくりきってしまう人は、試行が億劫/恐怖する傾向にある。Just do itだ。

私が思うに、いきなり判断基準(法則)を見つけようとすると悩むことになるので(演繹的決断)、選択肢を増やす事によって判断基準が生まれることを知ったほうがいい。(帰納的決断)。選択肢を多量に浴びる中で、「違和感」や「好奇」を抱くことがある。それを面倒がらずに、言語化していくことが、判断基準獲得のスタートラインにたつことなのだろう。

■ 参考リンク
[書評]すすんでダマされる人たち
反「反知識」- 書評 - すすんでダマされる人たち



■ tabi後記
只今、読書会が終了しました。
posted by アントレ at 13:35| Comment(2) | TrackBack(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0086 宮台真司「14歳からの社会学」

社会学は、「公的(みんな)」という考えが成立するには2つの条件が必要だと考える。1つは「何が『公的』か」「誰が『みんな』か」について、それに関係する人たちの「合意」があること。そしてもう1つは、「コミットメント(熱心な関わり)」があること。かみくだいていうと、まず「誰が『われわれ(みんな)か』ということについて「ぼく」も「君」も「合意」していなければいけない。その上で「『われわれ(みんな)』が生きていくためにこれが大切なんだ」という「コミットメント」がないといけないわけだ。P13
宮台真司「14歳からの社会学」(世界文化社 2008)


14歳のためではなく、14歳からのとなっているのが興味深い。

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行為功利主義:どんな「行為」をすれば、人が幸せになる(=功利)か
規則功利主義:どんな「規則」が、人々を幸せにするのか

主意主義:この世には不条理や理不尽が満ちている
主知主義:人間の知識はすべてをおおえる

「「世界」はそもそもデタラメである」
の際に、併せて論じます。

■ 参考リンク
『14歳からの社会学』 本当にみんな仲良しなのか?
『14歳からの社会学』 社会におけるルールの正当性
『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート

■ tabi後記
ただいま読書会に参加しております、
posted by アントレ at 11:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月02日

tabi0085 池上彰「池上彰のメディア・リテラシー入門」

先日、ドイツの児童用の世界地図を入手しました。世界各国の特徴が、可愛いイラストで描かれています。日本はどう描かれているだろうかと思って見ると、そこには忍者、芸者、富士山、お相撲さん、広島のキノコ雲が描かれていました。現代の日本に忍者と芸者!思わず絶句してしまうのですが、私はここで考えました。待てよ。ドイツで日本はそう見られていると知って私たちは憤怒するけれど、では、私たちは、ドイツといったら何を思い出すだろうか、ということです。ソーセージとビールしか思い出さないのではないでしょうか。これが。「ステレオタイプ」な見方というのです。P7
池上彰「池上彰のメディア・リテラシー入門」(オクムラ書店 2008)


リテラシーというのは本来は「読み書き能力」のことを指していました。印刷技術の発達によって、文字情報が多くの人に共有された時代に、情報を正しく受け取るための技術として考えられたのです。

文字に書かれた情報には、直接体験を、いわば完全に離れた形での間接体験として受け取れる特性があります。このような情報を受け取る時に、リテラシーという技術がなければ、部分的な間接経験(さらに編集が行われた)に翻弄され、情報を正しく受け取ることが出来なくなってしまいます。

リテラシー技術の獲得によって「事実は限りない多面体であること。メディアが提供する断面は、あくまでもその一つでしかないということ。」を常に意識すること出来るのです。

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上記は、いわゆる「リテラシー論」です。世の中の大半はこのような論で満ちており私はその現状に怒りををもっています。笑

リテラシー論はいいます。情報を多面的に情報を捉え、自分が接している情報が部分でしかないことを常に認識しながら情報に接する必要があると。

僕はあえて、「しかし」と言いたい。

なぜ、一面的な情報に頼ってはいけないのか?
そもそも、正しく受け取るとはどういうことか?

こういった論には、相対感/部分感を僕らに与えはしないか?つまり全体があることが前提となった思考である。ある真理が前提とされるメンタリティーが潜まれてはいないかということです。(相対的でしかないのだからというニヒリズムに心を奪われてはしまうかもしれないね)

私はここで、「誰にとって」を考えることが急務であると考える。それが「リテラシーの宛先性」を問うことに繋がる。あなたは、伝える側のリテラシー、受け取る側のリテラシーというものを考えたことがあるだろうか?

相手にとって大事なことは何か?自分の大事なことは何だったか?

各人には、自分の人生を織りなす大事なことがある。あなたにもあれば、私にもある。人は、自分の大事なことを分かってもらいたい、分かってほしい、理解してほしいという欲望がある。

だが、その欲望は聴き手にとっては関係のない話である。それがあなたにとっての大事なことと重なるのか。(大事なことであるかもしれないと思えるか?)この一点が、何にもまして大切なことである。つまり、話し手の大事なこと/受け手の大事なことのお見合いが情報リテラシーの本質である。その擦り合わせには経験と判断基準がいる。好きな女性のタイプがいるように、あなたが好きな/欲している情報のタイプを知ることが最初のステップ。

■ 参考リンク
2chを見る前に、、頭のおかしな人には気をつけましょう
あなたが正しいと思っていることが間違っている26の理由
レポートのコピペがダメな理由とそれを防ぐ意外な方法




■ tabi後記
posted by アントレ at 23:58| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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