2009年04月30日

tabi0120 松岡正剛「多読術」

だから読書というのは、読む前に何かが始まっていると思った方がいい。それを読書をするときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。だいたい、本はわれわれが読む以前から、「読む本」になっているわけです。
テキスト(本文)がすでに書かれているというだけじゃない。テキストはたしかに読むしかないんですが、それも速読術以外にいろいろの方法がありますからあとで説明しますが、それだけではなく、本の著者やタイトルやサブタイトル、ブックデザインや帯や目次などは、読む前から何かを見せている。そういった、読む前も本の姿や雰囲気も、実はもう「読書する」に入っていると思います。ということは、図書館や書店は、その空間自体が「読書する」なんです。P80
松岡正剛「多読術」(筑摩書房 2009)

前回書いた内容と酷似する文章があったのには驚いた。「読書は読む前から始まっている」とは、まさにそうだと思う。それを前提としたうえで、読書前、読書中、読後の経験を構築することが大切になってくる。

■参考リンク
松岡正剛の読書術【入門】
多読術/松岡正剛
書に遊ぶ - 書評 - 多読術



■tabi後記
藤沢さんの家で安斎舟越野島と対話をした。色々な掘下げがあり、始終ニヤニヤする自分がいた。
posted by アントレ at 00:45| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月28日

tabi0119 ヘルマン・ヘッセ「ヘッセの読書術」

一冊の本に何らかの点で魅了され、その本の著者を知り、理解しはじめ、その著者と内心のつながりをもった人は、そのときにはじめてその本から本当の影響を受けはじめる。(中略)千冊の、あるいは百冊の《最良の書》などというものは存在しない。各個人にとって、自分の性格に合って、理解でき、自分にとって価値のある愛読書の独自の選集があるだけである。だからよい蔵書は注文でそろえることはできない。各人が友人を選ぶときとまったく同様に、自分の欲求と愛に従って、自分でゆっくりと書物を集めなければならない。そうしてできたささやかな蔵書が彼にとって全世界を意味するのだ。P47
ヘルマン・ヘッセ「ヘッセの読書術」(草思社 2004)


ヘッセに読書の原点に戻してもらえた。読書をするということは、知識を獲得することではなく、無知から未知への跳躍なのである。その跳躍というのは文字に対してではなく私に対してなのだ。それが読自の本質である。

僕は、「私」の中に外世界をこえた存在があることに気がついてほしいと思っている。書籍は、その内世界にアクセスするためのキーなのである。そして、書籍選定をするさいに「私」は外世界と内世界の狭間にあらわれてくる。そのときに自分を捉えるんだ。掴めるんだ。読書は本を読む前からはじまっているのである。

■参考リンク
882旅 ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』



■tabi後記
本棚をみる行為が「私」を呼び起こすことにつながるという発想をえた。しかし、それは1つの行為でしかないだろう。
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tabi0118 池田晶子「魂とは何か」

<魂の体質>という言葉が、ある時、私にやって来た。性格、気質というものを、生理学的体質の側から、説明しようとする姿勢を拒否した時、「その人」を言い当てる最も生なもの。あるいは、「人物」の初期条件。言い得て妙である。P37
池田晶子「魂とは何か」(トランスビュー2009)

今日、大学の図書館で本をぶん投げてしまった。(破損しなくてよかった!)哲学専攻の院生が読みそうな本をパラパラみる自分に吐き気がしてしまったからだ。

「そういうことじゃねえだろ」という声が自分から聞こえてくる。

「どういうことだ?」と問い直す。

「いま、ここ、わたし」への「認識、存在、感覚」だろうよ。と私。

そのままふっと声は消え去り、池田さんの本を手にとっていた。

本書を読んで、<原体験>という言葉と<魂の体質>が重なる。私が、幼少期から抱えている問いは、「なぜ「今」、「ここ」において「私」なのか?」というものである。

この3つがサイクルしているので、僕が抱える問いは日々異なっている。このあたりの思考(クロニカルシンク、プレイスシンク、ソウルシンク)が組み合わせられた時に起こる問いのパターンを体系化したい。

■tabi後記
池田さんの身体が消え去ってから2年弱が経つ。池田晶子という「私」は何だったのか。
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2009年04月27日

tabi0117 安部公房「第四間氷期」

「それで?」と私がうながしたのに、頼木があわててうなずき返し、
「ええ、それで・・・その結果、分ったことは、やはり、駄目だということだったのです。」
「なにが駄目だ?」
「つまり先生は、やはりその未来には、耐えられなかったということです。結局先生は、未来というものを、日常の連続としてしか想像できなかった。その限りでは、予言機に大きな期待をよせていらっしゃったとしても、断絶した未来・・・この現実を否定し、破壊してしまうかもしれないような、飛躍した未来には、やはりついて行くことが出来なかった。先生は、プログラミングにかけては、最高の専門家かもしれませんが、プログラミングというのは、要するに質的な現実を、量的な現実に還元するだけの操作ですね。その量的現実を、もう一度質的現実に綜合するのなければ、本当に未来をつかんだことになりません。分りきったことですが、先生は、その点でひどく楽観主義的だった。未来をただ量的現実の機械的な延長としてしか考えていなかった。だから、観念的に未来を予測することには、強い関心をよせられたけど、現実の未来にはどうしても耐えることができなかった・・・」 
「分らんね、何を言おうとしているんだか、さっぱり分らんよ!」
「待って下さい、具体的に説明します。後でテレビでお目にかける予定ですが、先生は、その未来に対して公然と反対の立場をとられたのみならず、しまいには、予言機の予言能力にまで疑いをもち始めた。」
「知らないよ、その過去形をつかわれたって・・・」
「でも、予言機が予言してしまったのですから、仕方がない・・・その未来の実現を妨害するために、約束を破って、たとえばつい数時間前にしかけたように、組織の秘密を暴露してしまうことになるんです。」
「かまいやしないじゃないか。水棲人間をつかった海底植民地なんかに反対して、何がわるい。それだって、新しい条件におけるつまり第二次予言値として、立派な未来じゃないか。そんな馬鹿気た未来を未然に防止するためにこそ、予言機の利用価値もあるんだと、私は思っているな。」
「予言機械は、未来をつくるためのものではなく、現実を温存するためのものだと仰るんですか?」
「ね、そうでしょう・・・」と和田がせきこんだ調子で、割込んできて、「結局それが、勝見先生の考え方の根本なのよ。もう何をいっても無駄らしいわ・・・」
「おそろしく一方的な言い方だね。」こみあげてくる怒りを、かろうじてこらえながら、「なにも、その海底植民地の未来だけが、唯一の未来だというわけではあるまい。予言を独占しようとするくらい、危険な思想はないんだ。それはいつも私が口をすっぱくして注意してきたはずじゃないか。それこそファッショだよ。為政者に神の力を与えてしまうようなものだ。なぜ、秘密が暴露されてしまった場合の未来を、予測してみようとしないんだね?」
「しましたとも・・・」抑揚のない声で、頼木が一気に言った。「その結果、先生は、殺されてしまうことになるのです。」
「誰に?」
「外で待っている、あの殺し屋にですよ・・・」P258-261
安部公房「第四間氷期」(新潮社 1970)

自分がふつふつと考えていた概念が、1つの物語として緻密に設計される様に圧倒されてしまった。間氷期というテーマ設定、それに対する予防事業を描き出したことの圧倒されたのだ。ただし、これは本書のサブテーマである。

メインテーマは、サブテーマが設定される過程にある。それを、僕の言葉でいうと、「質性を確保する為の量化作業に質性が宿ってしまった際の応答」というテーマである。

そのテーマが予言機と予言機プログラマーを一体化させる過程にあらわれている。予言機作成者の行動が予言機に予言されてしまう。その現実に立たされたときに本性が現れる。「断絶の未来」に対して露呈した1人のプログラマーが「保守的な、あまりに保守的な姿」が描き出されるのだ。更に加えれば、彼を裁判にかける研究室メンバーの「革新的な、あまりに革新的な姿」も描き出されるのだ。



■tabi後記
村上龍と同時に買った本書。この2冊を連続的に読めたのは幸せである。連想がふくらんでいく。
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tabi0116 村上龍「五分後の世界」

「ここをどう思う?」
(中略)
「処刑の前にそういう質問をせよという命令だ、自分にもわからん、こういう質問は初めてだ」
一言で言うと、と小田桐は答えた。
気に入った、
「気に入った?」
妙な顔で警備の責任者は聞き返した。

疲れたけどな、でも、あんたは知らないだろうけど、オレがもといたところはみんなひどいおせっかいで、とんでもねえお喋りなんだ、駅で電車を待ってると、電車に近くづくな、危ないから、なんて放送があるんだぜ、電車とホームの間が広くあいてるから気を付けろっていう放送もある、窓から手や顔を出すなってことも言われる、放っといてくれっていってもだめなんだ、自分のことを自分で決めて自分でやろうとする、よってたかって文句を言われる、みんなの共通の目的は金しかねえが、誰も何を買えばいいのか知らねえのさ、だからみんなが買うものを買う、みんなが欲しがるものを欲しがる、大人達がそうだから子供や若い連中は半分以上気が狂っちまっているんだよ、いつも吐き気がしてあたり前の世の中なのに、吐くな、自分の腹に戻せって言われるんだから、頭がおかしくなるのが普通なんだよ、ここは、違う、

「よくわからんが」
警備の責任者はずっと液晶パネルを見ている。
「戦う者はおらんのか?オールドトウキョウなどには九十万を超える準国民ゲリラがいるのだぞ」
誰も戦わねえ、と小田桐は言った。

いやあんたにはわからねえだろうが、オレの言っているのは戦争をするってことじゃねえんだ、変えようとしないってことだ、誰もがみんな言いなりになってるんだよ、
「国連軍にか?」
違う、
「誰の言いなりになってるんだ?」
何も知らないあんたに説明するのは難しいが、子は親の言いなりになってるし、親は子供の言いなりになってる、みんな誰かの言いなりになってるわけだ、要するに一人で決断することができなくておっかねえもんだから、あたりを窺って言いなりになるチャンスを待ってるだけなんだよ、

「半世紀前の」
と、警備の責任者は、液晶パネルから小田桐に視線を移した。
「帝国軍みたいだな」
そして、何度も液晶パネルに浮き出た文字を確認してから、散開している兵士に伝えた。
「こいつの処刑は中止だ」
来い、と小田桐はうながした。
どこへ、と小田桐が聞くと、トンネルへの通路を顎で示しながら答えた。
「地下司令部だ」P119-121
村上龍「五分後の世界」(幻冬舍 1998)

本書の解説が的を得たものとなっていた。文学というものは、読物と小説に分けられるという。その分岐点は、自らのパーステクペクティブに変化を及ぼすか、及ぼさないかの違いであると。読物とは、時として人を驚かせ、混乱させ、おびえさせかもしれないが、そのすべてが結局、読者を安心させることを本質とする作品なのである。

しかし、小説とは、自らの生の遠近法を変えずには受けとめられない力をもった作品である。私は、この解説を読んだ時に、ハッとさせられた。それは小説的体験を評論/哲学の書籍で自分が味わっていることに気がついたからだ。同時に、小説体験を提供してくれる「文学」と深く向き合っていなかった自分を恥じる気持ちも生まれてきた。

■参考リンク
五分後の世界(もう一つの日本)
物語の設計図



■tabi後記
読書空間がひろまると同時に、小説という表現形式の可能性に魅かれはじめた。
posted by アントレ at 21:02| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0115 佐藤徹郎「科学から哲学へー知識をめぐる虚構と現実」

第三者の批判を受けることによって初めて学問の客観性が確保されるのであり、したがってウィトゲンシュタインのように自己の精神に親近性をもつ人々以外は無視するといった態度は、哲学を主観的、秘教的なものにしてしまうという非難を免れないように見える。しかしこういった常識は、(中略)つまり一口にいえば、批判的態度は結局人々の間の相互理解をもたらすということを前提にしている。ところが、人々の間の客観的なコミュニケーションの可能性についてのこうしたオプティミズムこそ、ウィトゲンシュタインが全面的に否定するものである。P54
佐藤徹郎「科学から哲学へー知識をめぐる虚構と現実」(春秋社 2000)


図書館でたまたま見かけて、永井均が「私の哲学観は本書の全面的な影響下にある」と書いていた人だなと思い出した。読んでみて納得。

特に第1章の「科学的<知>の概念を超えて」は、自然科学をやっている人も、数学をやっている人も、哲学をやっている人も、文学その他の研究に携わる人も、つまりすべての学問をする人が読んで何がしか得るものがあると思います。



■ tabi後記
哲学は私秘性のうえに成り立つものであるとするならば、密教とは矛盾をはらんでいる。私秘であること、それを教えるということの境界領域に関心が向いている。
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2009年04月25日

tabi0114 チップ・ハース,ダン・ハース「アイデアのちから」

SUCCESsチェックリストは、上記の枠組みに代わるものだが、より具体的で「知の呪縛」に左右されない点が強みだ。実際、これまでの章を振り返れば、SUCCESsが五つの枠組みと上手く符号していることがわかる。
(1)関心を払う 意外性がある
(2)理解し、記憶する 具体的である
(3)同意する、あるいは信じる 信頼性がある
(4)心にかける 感情に訴える
(5)そのアイデアに基づいて行動できるようになる 物語生がある
ちなみに、右のリストには「単純明快さ」はない。なぜなら、メッセージの核を見出し、できるだけ簡潔にするというのは、主に「答え」の段階のことだから。P333
チップ・ハース,ダン・ハース「アイデアのちから」(日経BP 2008)


SUCCESは「アイデアを人の記憶に焼き付かせる」ためにつくられたフレームワークである。

Simple:単純明快である
Unexpected:意外性がある
Concrete:具体的である
Credible:信頼性がある
Emotional:感情に訴える
Story:物語性

この本の主張は、あくまでアイディアを人に伝えるときのフレームワークを伝えているのであり、アイディア自体を生み出す方法については言及していない。もちろん「非凡なアイデアが伝え方次第で平凡になってしまうこと」「平凡なアイデアが伝え方次第で非凡なものになってしまうこと」を知るうえでは良いテキストである。

SUCCESの要素が重複・相互依存的になっているためフレームワークとしての使いづらさはあると思うが、アイデアを焼きつかせるために、様々な視点(問い)を発することができるという面では有用だと思う。

追記:問いに変換してみよう

Simple:それは小学5年生でも分かる内容か?
Unexpected:それは立ち止まってしまう内容か?
Concrete:それを聞いて脳に絵が描かれるか?
Credible:それは信頼たるメディアにのっかっているか?
Emotional:それは心拍数をあげるか?
Story:それは帰宅後に話したくなるか?

■ 参考リンク
専門家・勉強好きの人が陥る病 知の呪縛
Made to Stick / アイデアのちから



■ tabi後記
先日、小説を大量に購入した。
posted by アントレ at 17:19| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0113 安冨歩「生きるための経済学」

マルクス主義経済理論が、搾取なき交換システムとして提案するのは、人間の理性にもとづいた計画経済である。これを正しく作動させるには、「無限の計算速度」「瞬間的でエネルギーを用いない情報交換」「将来にわたる事前の計画策定に正確にもとづいた経済行為」を必要とするが、この三つはそのまま、相対性理論・熱力学第二法則・因果律の否定を必要とするのである。標準的市場理論とマルクス主義経済理論とが共通に求めるものとは何であろうか。私はそれを人間の自由であると考える。P50
安冨歩「生きるための経済学」(NHKブックス 2008)


本書の流れは、シンプルかつ説得的である。「選択の自由」は計算量爆発と非線形性の前に崩れ去っていくことを説明している。

選択の自由が崩れ去った時に人は、「自由の牢獄」にたたされる。そして、自由からの逃走、プロテスタント的予定説へ導かれていく。

我々は、自動書記や反射や習慣という現象をを受身と捉えるか、創発のヒントと捉えるかを選ぶことができる。

後者は暗黙知とセットで語られる場合があるが、経営学経由でこの言葉を知った人は注意を要する。なぜなら、暗黙知とは、「暗黙の認識処理過程」のことであり、隠れた知識、そして掘り起こせる知識という意味ではないからです。

追記
何かにつけて「創発が起きた!」というような創発ユートピアンには陥らない強さが大切であろう。

■ 参考リンク
池田信夫 blog
経済学と経済のキャズム



■ tabi後記
午前中はSVGTのスキル登録説明会にいってきた。私以外に大学生がいることは想像だにしていなかったので、本当に驚いた。久しぶりに素敵な出会いができた。
posted by アントレ at 16:38| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0112 松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」

農耕牧畜とは、地球システムの物質・エネルギー循環を直接利用する生き方であり、それゆえ新しい構成要素を作って生きる生き方なのである。生物圏の中の物質・エネルギー循環に比較して、その循環の流量は桁違いに大きく、従ってより多くの人類の生存が可能になる。

人間というスケールでこのことを論じれば、この時欲望が解放されたといってよい。以来人類は、大地を、そして地球を「所有」すると、錯覚するようになった。

より多くの人が集団で住むようになり、食糧生産に直接関わらなくて生きられる人が多くなり、さまざまな分業体制が生まれ、人間圏の内部システムの構築に必要な共同体が形成され、その共同体の求心力としてさまざまな共同幻想が作られた。P7
松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」(ウェッジ 2007)

人類は欲望を持つ。それは潜在的に現生人類(ホモサピエンス)という種が分化した時から持っていたのだろう。しかし生物圏のなかにとどまっていた時、その欲望は分をわきまえたものにならざるをえない。

生物圏の食物連鎖に連なるということは、配分されるパイが生物圏の内部での分配により規定され、自分の欲望のままにならないからです。農耕牧畜の開始により、原理的には人類は、それまでのそうした禁欲的な生き方から解放された。

人類は約一万年前そうした選択(これまで何度となく指摘してきたように、生物圏から分化し、新たに人間圏をつくるという生き方)をした。なぜ一万年前かといえば、その頃氷期が終わり、間氷期が始まったからである。間氷期の訪れとともに気候が安定化し、毎年規則的に季節が巡ってくるようになる。季節が巡れば、同じような食糧を定期的に採取することができる。そのことに気付いた人類が、それを自ら栽培しようと考え始めたとしても不思議はない。

その時人類は労働を通じて自然の恵みを採取し安定的に食糧を得るという生き方、すなわち、自らの欲望を満足させる道のあることに気付いたのである。P24
松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」(ウェッジ 2007)


松井孝典との対談相手として岩井克人、糸井重里がでていたので読了。
この3人は私が教養を身につける際の案内人であった。

彼らを見ていて共感するところは、「自分の頭で考え、自分の世界観をもたない限り、自分はここにいる意味はない」というスタンスで生きているところかな。そして、そのために「わかる」と「いきる」をつなげようとしているところ。

岩井氏:
主流派経済においては、欲求(食べたい)と欲望(うまいものが食べたい)が分岐されていない。欲求だけで考慮しても、人口が増えていくと一人当たりの自然資源が低減していく。その欲求にしたがうだけでは「コモンズの悲劇」になってしまうので、それをさけるために私的所有が発明された。それが、外部不経済(乱獲)の内部化(所有権の設定)であった。

しかし松井と岩井は、主流派経済学が、所有権が人間圏で閉じたモデルであること、欲望自体の考察を勘定にいれていないことに限界を感じている。

以下、まとまっていないのでメモ程度に。(いずれ更新されます)

・未来世代の所有権?
・動物、植物、生物の所有権?
・多世界の所有権?

が議論する必要があるかということ。

・資本主義とは私的な利潤の追求を目的とする経済活動
・人はなぜ利潤を追求するのか?
・貨幣があるから
・なぜ貨幣を追求するのか?
・交換可能性があるから
・なぜ交換可能性が必要になったのか?
・価値尺度機能(何でも交換出来る)
・価値保存機能(もっていても腐らない)
・移動容易性(もちはこびやすい)
・交換可能性から貨幣自体を選好ようになった
・なぜ宛先なき貨幣(可能性自体)を求めるようになるのか?
・貨幣の前に法律があり、その前に言語がある。

ということ。

■ 参考リンク
631旅 梅原猛・松井孝典『地球の哲学』
書評 - われわれはどこへ行くのか?



■ tabi後記
更新はしていなかったが読書は習慣されていた。
テキストベースで蓄えることも習慣されていた。
だが、それを人に伝えるために編集しなおすことが習慣されていなかった。

人に言葉を伝えること。
それは著者と読者の繋ぎ目になること。
分かることは変わることでしかないことを伝えきること。

1つ1つの更新をなおざりにせずにいきたい。
posted by アントレ at 15:53| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月14日

tabi0111 伊藤真「憲法の力」

唐突ですが、憲法及び憲法改正にまつわる基礎クイズです。合っているかどうか、○か×か、考えてみて下さい。

1 憲法は、法律の親玉みたいなものだ
2 憲法改正には、内閣及び総理大臣の主導で行うことができる
3 憲法には、国民が守らなければいけないルールや義務が書かれるべきだ
4 憲法は、国民投票で国民の四人に一人の賛成でも改正されることがもある

さあ、どうでしょう。実は1から4までの答えは、憲法学的にいえば全部×です。P8
伊藤真「憲法の力」(集英社 2007)


憲法の根源的な役割は、国家権力に歯止めをかけることであり、国民を縛るものではない。むしろ、日本国憲法は、国民が国家に対して守らせる約束であって、国家が国民に対してするべき約束ではない。

であるならば、

・僕らは何を国家へ約束させているのか?(憲法)
・また逆に、国家は僕らに何を約束させているのか?(法律)

この「約束」のPDCAサイクルへ携わるのが、法に携わることではないかと思います。

■ 参考リンク
日本国憲法
憲法に関するよくある誤解
憲法について知ったかぶりをしている識者を見破る3つのポイント



■ tabi後記
Es ist Regen nach einer langen Abwesenheit.
posted by アントレ at 18:20| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月13日

tabi0110 長谷川徳七「画商「眼」力」

では、いったいどうすれば、本物に出会うことができるのでしょう。真実を見抜く目をどうやって養えばいいのでしょうか。そこにおそらく正解はないでしょう。しかし、こう問うてみてはいかがでしょうか。「なぜ私は本物に出会えないのか」「なぜ私は真実を見抜くことができないのか」と。P210

極論に聞こえるかもしれませんが、私は本物の根拠など、くだくだしく述べる必要などないと思っています。なぜなら、本物とは「まぎれもなく本物」だからです。そこには嘘がないし、言い訳の入り込む隙間がありません。私が画廊なり美術館なりに積極的に足を運ぶのをみなさんに勧めるのは、数多く本物を見ないとわからないことがあるからです。その経験で何がわかるかといえば、くり返し述べてきたように、本物の絵には作家の魂が宿っているということです。P211
長谷川徳七「画商「眼」力」(講談社 2009)


画廊には、
1 場所貸しとしての貸し画廊
2 流通している絵を商品として売買している画廊
3 自分たちで画家を育成している画廊

などが存在している。(死蔵作品を減らすために画商間売買も行われているが)この記事を読むと、画廊のビジネスモデルにも翳りが見え始めていることが分かる。3のインキュベーション機能を担う画廊が求められてくるのだろう。

ベネッセの福武總一郎は 「経済は文化の僕である」という至言をはなっているが、この言葉には「文化は経済で支える必要がある」ことも含意している。

総括としては、本書を読み、日動画廊にいくことをお勧めしたい。

■ 参考リンク
日動画廊
利超える愛と審美眼



■ tabi後記
大学生活もあと1年。悔いのなきよう過ごしていこう。
posted by アントレ at 22:18| Comment(1) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月12日

tabi0109 多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」

デザインというのは一つの専門分野であるというよりは、むしろ人文科学、テクノロジー、政治経済などにおける批評力を個人的に身につけることから来るある態度(世界や仕事に対する取り組み方)のことなのです。P20

まるで現代の人類学者の言葉のような95年の「学生たちへの助言」にも「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批評的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事の在り方を探すための足掛かりにしろということなのだ。P57
多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」(AXIS 2007)


昨日、三鷹天命反転住宅に行ってきた。荒川修作+マドリン・ギンズが建築した住居である。

「死なないための家」こんな命題を掲げて作られた住居に関心をもった。この住居は、体の外側から人間の宿命(=死に向かう宿命)を変えていくために、家を精密な遺伝子のように構成し、形作っている。

荒川が考える「死なない」とは、「死ぬことをさける」ということではなく、「生きていない」ことをやめてみなませんか?思い出そうよ。ということではないだろうか。

これが、この住宅に数十分浸った感想である。

この家は、身体の知覚を呼び覚ます家である。ここに住むことによって新たな身体の行為や動きが生まれ、そしてその動作を毎日知覚することで人間の未知の可能性が開かれる空間。空間には直線が殆どなく、身体の知覚を刺激する曲線が交差している。床の凹凸が私の三半規管への挑戦してくる。笑

荒川修作の住宅を感じながら、カスティリオーニを読了した休日。

以下の、写真から私の体験をトレースしてくれれば嬉しい。

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■ 参考リンク
ひらめく発想のマネジメント力
アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン
"ほんもの"の生活?
視野は広くを意識して



■ tabi後記

Finish!!

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2009年04月08日

tabi0108 生嶋誠士郎「暗い奴は暗く生きろ」

「【人は多くの他力、他人の愛とか思いやりによって生かされている。自力だけで何でも事をなしてきた、これからもそうだ・・・というのは間違い。人は多くの他力によってこその今なのだ】という思い。」P69

「この"ガテン度数"("手に職が有るか無いか度数")という言葉を世に広めたいね。そしてこの度数の低い者は、我々リクルートの人間を含めて「頭を低くして生きる」という姿勢。そう、さあらば、国会議員も評論家も銀行員もマスコミも「自分たちだけでは商売がなり立たない」自覚のもとで頭が低くなり、世の中がまともになる感じがするけど、どうだい」P72

新しい事業は面白い。立ち上げる過程のあれこれも楽しいが、それが成長路線に乗れば喜びも格別だ。だがそれは既に完成している既存事業の利益を使っての行いである。そして既存事業は、おおむね地味で丹念な積み重ねが要求される。そこで言う。

『お互いに「今日のパン」チームと「明日の夢」チームを時々乗り換えながら進もうぜ』と。大切なことはお互いのエールの交換。とりわけ「明日の夢」を追う人達は、「今日のパン」チームに対する感謝の心を忘れてはいけない。その心があれば、新規事業は正しく会社の期待になる。P162
生嶋誠士郎「暗い奴は暗く生きろ」(新風舍 2007)


クリエティブクラスという言葉が流行っていた。

私にとって魅力的な言葉であった。

本書に登場する"ガテン指数"と"他力本願"という概念の前にたたされるまでは。
"クリエティブクラス"への憧景は静かに息をひそめていった。

それは、「両者において価値分別」はないことの知覚である。(今更といわれてしまうかもしれないが、、)私が一面的な阿呆になり、概念の強制熱が高まっていた事である。

本日、その肝を冷やされた。

気づこうと思っていたのかもしれない。
気づたいすら思っていたのかもしれない。

だが、私の自己欺瞞を痛烈に指摘してくれる方がいなかった。
多分いたのだろう。

ただ、指摘される姿勢をあらわせていなかった。
そういう人をさけていたのかもしれない。

今思うことは。


あー両方、楽しそうだなということ。


そこの本質を見極めてこそ、「他力本願」という意味がわかる。ガテンクラスとクリエティブクラスという根のない対立意識はいたるところにあるようだ。

・管理部門とライン部門
・支社と本社
・発展途上国と先進国

etc

本書の言葉を借りるならば、前者は風である。

後者に心地よさ、追い風を提供している。もちろん、彼らに風自体の存在はみえない。自らが動いてい事実をもってしか風の存在は推し量れない。

私は「どのような風」に支えられているだろうか?

この問いを自らへ「そっと」あてはめてみたときに、広がったのは歴史だった。正確にいえば、僕が生まれてから今に生きる道のりである。

・ふらっと立ち寄ったお店
・いずこで生産されたトマト
・理不尽にも怒鳴り散らしてくれた先生
・名もなき僕をひろいあげてくれた助産師

僕は生かされてきた。

そして、生きるときに入った。

そのための力。何かを生かし、守っていくための「力」が必要である。「被ガバナンス能力&君はそうなるな」という精神をもちあわせて生きていきたいと素直に思えた。


posted by アントレ at 19:06| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月07日

tabi0107 ウェンディ・コップ「いつか、すべての子供たちに」

初年度を通して私が自信を失わずにいられたのは、何かに奇跡のように思える。なぜ、ストレスや仕事量に打ちのめされなかったのだろう。必要な資金を集められないなどと考えて、断念しなかったのはなぜだろう。私が持ちこたえられたのは、私のアイデアが持っている力を盲目的に信じていたからだと思う。失敗の可能性が現実的にあるのか、実のところ私には、よくわからなかった。ただ、そうした考えがふと心をよぎったことは数回あった。(中略)でも、そんな疑問を抱いた時期は、ほんとうにわずかだった。一生懸命にやれば計画は実現できると、当然のように考えていた。単純に、そうなければならないのだ。この国には、全国的なティーチャー・コープが必要なのだ。P65
ウェンディ・コップ「いつか、すべての子供たちに」(英治出版 2009)


読了後に友人と「「Teach For Japan」が存在するとしたら、どのような形になるだろう?」というテーマで議論をしました。

TFAにあるがTFJにはない要素として、「スラム街の存在」と「所与のティーチングスキル」があると思う。前者は、「貧困層」に対してというノブレスオブリージュであり、後者は「風とは何ですか。描写はせずに、ただ風とは何なのかを言ってください。」という質問に応えられる知力と説明する能力。

組織の機能としては、

・リクルーティング
・研修
・資金調達
・ティチャーサポート
・ナレッジシェア
・外部リソースの巻込み
etc

があると思うが、僕が考えるに、TFJ成功の秘訣は、「外部リソース(社会的資本)の巻込み」(注)にあると思っている。自分の「母校」にTFJメンバーが関わっていることを知った時に起こる、共感や協力心を駆り立て、リソース活用することである。Web作成/パンフレット作成/イントラ構築などのスキル提供を受け入れる窓口として機能することである。

注 これは和田中にも垣間みれたモデル。

■ 参考リンク
Wikipedia-Teach For America
[第25回] Teach For America
Teach For Americaに関する一考察



■ tabi後記
読後の行動がとわれる書籍でしょう。
posted by アントレ at 16:02| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

tabi0106 濱中淳子「ミドルの自己学習」

自由時間に仕事生活関連で自発的に行う学習のことを「自己学習」と表現する。職業能力開発がOJT,Off-JT,自己啓発の3つから議論されていることは冒頭で述べたとおりであり、本研究で扱う学習も、自己啓発とほぼ同義だといえる。しかしながら、自己啓発という言葉は、ここで使われている以上に広い意味で使われることが一般的であり、誤解を招く危険がある。したがって、本研究では「自己学習」という言葉を用いながら議論を展開していくことにしたい。P89

つまり、「修得」の部分についての説明を、「内容そのものの修得」という語り方をするのか、「手がかりとしての修得」という語り方をするのか、という2つのパターンを抽出された。(中略)「なにかそこから見えてくればいいんですけど」、あるいは「ものごとを見るときの考え方に知的刺激を与えてくれるような。役に立ちそうじゃないですか」。こうした発言は、知識そのものの獲得ではなく、手がかりを得るための学習とみることができる。P94
濱中淳子「ミドルの自己学習」(リクルートワークス研究所 2008)

先日の考察と関係する論文をレビューします。

何事にも、そして、いかなる場所にも学びは内在する。

この前提で思考を始めると、OJT,Off-JT,自己学習,コミュニティー学習(実践共同体)という区分を行って、1つのカテゴリーを強調する態度は控えがちになる。私は、各々カテゴリーの過剰/不足/運用改善を意識するための区分であり、学びの調和を企図するための区分であると思っている。そして、本論文は「自己学習」に焦点をあてた論文になります。

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フォーマルとは、組織によって管理・運営された行動であり、インフォーマルとは、他者に強制されない、個人の自由意志にもとづく行動です。そして、パブリックとは、ひとりで行う活動ではなく、他者とのかかわりの中で行う活動であり、プライベートとは、個人的に展開する活動です。

■ 参考リンク
ミドルの自主的学び
あなたは、社外で自己学習してますか?
企業内外人材育成!?
わずか10%の可能性でも:OJTなのか、OFF-JTなのか?
posted by アントレ at 13:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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