2009年05月29日

tabi0180 岡本太郎「日本の伝統」

なぜこの本を読むのか?

誰しも青春の書というものがあるだろう。私だったら「自分の中に毒を持て」を青春の書の1つとしてあげる。岡本太郎が晩年に記した著作である。

「何だ、これは!」という彼の咆哮は私をとらえて離さなかった。「何だ、これは!」を駆り立てるモノ、そして「何だ、これは!」に駆り立たされるモノの間に芸術が宿っていると解釈しながら、彼が実践する「自らの命を燃やす実存主義的生き方」に共感していた。

その岡本太郎が、日本、そして伝統と如何に対峙したのか?彼にとって「日本的なモノ」「伝統的なモノ」は如何にうつっていたのか?彼の知見を梃にすることで私の考えはすすんでいくと思ったのだ。


自分の中にドク(読/毒/独)をもて

岡本太郎の生き方はクールであり、セクシーである。ただ留意してほしいのは、一見、実存主義は自分を救ってくれるかのように思える事である。

だが、実存主義ほど苦渋に満ちた生き方は他にない。

なぜなら、実存的に生きるということは、人生の価値を自分の主観で定義するしかないからだ。学歴も、ルックスも、地位も、名誉も、資産も、なにも自分を満たしてはくれない。

他者と比べて「より自分は優れているぞ」という感覚を基底とする相対的なアイデンティティは、どれも偽物とされてしまうのだ。自分自身の命を、自分の手で激しく燃やし続けることでしか、自己の存在理由を確認できないのだ。

これは、ほんとうに孤独で、辛い道である。そして、この孤独な道を選び取った者は、命を激しく燃え上がらせるために、苦境へと苦境へと自らを追い込んでいくしかない。この点は岡本太郎も指摘するところである。

何をすればよいのか、それがわからない、と言うかもしれない。(中略)こういう悩みは誰もが持っている。では、どうしたらいいのか。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生き甲斐がわき起こってくるんだ。情熱というものは、”何を”なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんな力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。失敗してもいいから。何を試みても、現実ではおそらく、うまくいかないことのほうが多いだろう。でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることをすすめる。無条件に生きれば、何かが見つかる。だが、必ず見つけようとガンバル必要もない。(中略)遊び心といってもいい。好奇心の赴くままにといってもいいかもしれない。だが好奇心という言葉には何か、型にはまった安易さを感じる。軽く素直に動けばよいということだ。人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、よろこび、新しくひらかれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。P36-37
岡本太郎「自分の中に毒を持て」(青春出版社 1993)


私は、欺きはかる自分に「毒」を持たせるためには、自分を「読」む必要がある。そして毒により己を殺した後には、「独」が残ると考えている。あなたはそれに耐え続けなければならない。それすらも快感であると思える時まで。


幻としての伝統
伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐しみ、味わうことで終ってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉え返すべきだと考えます。P284
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


実存主義という過酷な精神で伝統を捉えると、そこに己を見いだす事になる。

なぜ肉を食べているのか?なぜ漢字/仮名/片仮名を使用しているのか?今、この地点において私を成立させている生活基盤から伝統を捉えていくという方法である。そして、その地平は「あなた」のものでしかありえない。

むしろわれわれは、近代文化を生んだ西欧によって育てられている。(中略)もし伝統というものが、私が先ほど言ったように現在に生き、価値づけられるものだとするならば、ここでわれわれにとっての伝統の問題はすっかり様相を変えてしまうでしょ。
それは何も日本の過去のあったものだけにはかかわらない、と考えた方が現実的ではないか。なにもケチケチ狭く自分の承けつぐべき遺産を限定する必要はありません。どうして日本の伝統というと、奈良の仏像だとか、茶の湯、能、源氏物語というような、もう現実的には効力をうしなっている、今日の生活とは無関係なようなものばかりを考えなければならないのだろう。P274
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


彼はこのような激烈な意見を述べながら、縄文土器/弥生土器/光琳/庭などを考察していく。それは岡本にとっての伝統であったからだろう。私にとって「縄文土器/弥生土器/光琳/庭」は伝統となりえない。無論、あなたにとってもだ。

だが、私と岡本が共有出来る「伝統」があることも感知出来る。

それは何なのだろうか?それは日本というワードで語れるのか?

しかし、とすると、ちょっとおかしい。われわれにとってアクロポリスも伝統であり、ピラミッドも古代メキシコも神殿も中国・殷周の青銅文化、仏教芸術、ゴシック、バロック、ロマンティスム、すべて伝統であるとするならば、じゃあ、伝統なんてものは無えじゃねえかってことになる。
「伝統」とわざわざ区別してよぶ以上、さまざまある中の、ある一定の何か局限されたものを言うはずで、何でもかんでもみな伝統だなんて、そんなら伝でもなきゃ統でもない。その他のもろもろと区別し、局限する何か、ーそれが何かという問題でしょう。P276
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


松岡正剛は「日本という方法」でこの問題を解消しようとしているが、内田は何と名づけるか?ここは未だ言語化されないでいる。

■参考リンク
306旅 『日本の伝統』 岡本太郎
第二百十五夜【0215】
DESIGN IT! w/LOVE
己の命を燃やす実存主義的な生き方





■tabi後記
言葉にすること、過去をつくること。過去をつくること、現在をつくること。現在をつくること、言葉をつくること。
posted by アントレ at 09:34| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月28日

tabi0179 吉本隆明,糸井重里「吉本隆明の声と言葉」

なぜ吉本隆明/糸井重里に出逢ったのか?

吉本さんの仕事をみていると、私はこの人を避けては通れないなあーと思ってしまう。それは、「言語にとっての美とは何か」「日本語のゆくえ」「共同幻想論」といった吉本の著作に反応するという意味でもあるが、私におとずれる「この避けられなさ」は、彼(ら)との出逢いが影響していると思っている。その出逢いは10年前、つまり中学時代に遡る必要がある。

私が吉本隆明を知ったのはいつだったろうか。それは恐らく「ほぼ日」ではなかった。
糸井重里を知ったのはいつだったのか。それも「ほぼ日」ではなかった。

大学に入ってからは「ほぼ日」を筆頭に吉本隆明/糸井重里の言葉にふれることが多くなってきた。彼らの言葉に触ればふれるほど、彼らの言葉を以前から知っているように、自分で考えた言葉であるように思えてきた。

それからというもの「彼らとの出逢いはいつだったろうか」という問いがやんわりとまとわり付いていた。

私にとって吉本隆明/糸井重里は2人で1人である

先の問いは「悪人正機」という文庫本を手に入れたときに氷塊することになった。

というのも、私がこの本を手に取ってパラパラと読み進んでいくと「私はこの本を読んだことがある!」という強烈なデジャブを抱いたからだ。

それは今まで2人の本に対して感じてきたものとは大きく異なった。ロジック上でのデジャブではなく「本当に再読したことがある」という経験であった。

そのデジャブを遡っていくことで、吉本隆明/糸井重里との出逢いの場所に舞い戻る事ができたのだ。その場所で私は、吉本隆明/糸井重里という1組の存在と出逢ったのだ。

その場所は99年5月中旬から00年1月中旬まで「週刊プレイボーイ」において連載されていた「悪人正機頁」であった。およそ10年前の出来事である。(詳細時期はこのページで判明)

どうしてプレイボーイを立ち読みしていたのかは読者の類推に任せるが、当時「悪人正機頁」を必死に読んでいた記憶は朧げながらのこっている。そして彼らが話していたことは、自らの思考の源泉、いや元ネタになっていることが多分にあるのだ。(気付けばレビューする本とは関係ないところへ突き進んでいるが、それもいいだろう。笑)

言葉の一番の幹は、沈黙です。言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人は関係ありません。P31
吉本隆明,糸井重里「吉本隆明の声と言葉」(東京糸井重里事務所 2008)


吉本が語ることに依拠するならば、私はこの書籍(というよりもCD)に対して「とりあえず聴いてみなよ」としか言うことはない。

であるなら「沈黙」となっていたこと、いや「沈黙」しようと思っていたことを言葉に表出してみることにしよう。今回は「悪人正機」というネタ元を参照しながら、私の思考を探っていきたい。


辿り着いたのは、「死」は自分に属さないという考え方

この考え方は12歳の私には幾ばくかの影響を与えた。祖父が亡くなってからしばらくが経っていたが、私の中では依然と「死」がマイブームになっていたことも関連するだろう。私の関心事は「死ぬこと」と「眠ること」の違いであった。

今、睡眠をとってこのまま起きられなかったらどうしようか?今、いる世界が眠っているときの夢でないといえるのだろうか?という問いが僕を躍起にさせていた。

そのようなマイブームをもつ私に「死が自分のものじゃないってことが言える」という語りかけが到来したのだ。そして、それは十分生きるための「抜け道」になってしまった。(ある意味で、この地点で私の哲学は死に絶えたのだろう)

彼の言葉を聞いて、じゃあ結局、生きる価値はどこにあるんだ?と問いたくもなったが、私はそのように問いはしなかった。というのも、その問いは本当に分からない問いだったからだ。だからこそ気軽に問う事も出来なかった。「悪人正機」の中で吉本はこう語っている。

何で価値があるかなんて、分かんないですよ。分からなくても、ある場合には何かに夢中になってるから、その時間があるから、まあ、間に合っているというか、生きてるほうにいるわけだけれど、生きてどうするんだなんて言われても、そんなの何もないですよね。そんなものないし、あるぞ、みたいなことを言うのはおかしいんじゃないかと、逆にそう思いますよね。P23
吉本 隆明,糸井 重里「悪人正機」(新潮社 2004)


あと2つ。

吉本隆明/糸井重里からもらったことを紹介したい。

1つ目は「根底では普通の人をバカにしないほうがいいということ」。
2つ目は「純粋ごっこはもう仕舞いだ」ということです。


人は「自分は、このようにちゃんとしたことを考えているんだ」と強く思えば思うほど、周りの他人が自分と同じように考えていなかったり、全然別のことを考えていたりすると、それが癪にさわってしょうがなくなることがあります。(私はそうでした。そして、そうなることは今もあります。)

でも、それはやっぱりダメなんだと。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、あっち向いてホイで遊んでいたりするってことを許せなくなってくるっていうのは、何かが間違っていると思えることの大切さ。(この訂正感情の先に政治的次元がまっているわけではない)

2つ目の「純粋ごっこ」というのは、この世は全部ひとりひとりであることである。

中学や高校時代の友人とは疎遠になっていく。それは環境下や志向が大幅に変わるのだから仕方がないことだろう。私は「友だちがたくさんいるよ」と安易に発言する人をあまり信用しない傾向にある。

それは根本的には純粋ごっこは終わっているのであって、純粋ごっこで知り合った「友人」が、現在も「友人」として1人以上いる人間は早々いないと考えているからだ。1人以上いる方は、相当に運が良いのだと思います。

デフォルトはゼロだと私は考えている。社会的関係によって自らは創られ、承認され、形作られるが、結局は人は孤独であるというのが芯にある。12から13才にかけて「週刊プレイボーイ」で学んだのは、「結局、人生というものは孤独の闘い」であるということ。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - テレビと落とし穴と未来と。
ほぼ日刊イトイ新聞 -吉本隆明 「ほんとうの考え」
人間が投影された“話し言葉”を聴く悦び
極東ブログ
A man I love to hate - 吉本隆明の声と言葉





■tabi後記
読自の結果がこのような形に逢着することもあるんだと。
posted by アントレ at 18:52| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月27日

tabi0178 井筒俊彦「コーランを読む」

なぜこの本を読むのか?

今を逃したら読めそうにないというのが本音である。以前からコーランを読み解きたいという思いをもっていた。その思いに「コーラン」の訳者である井筒俊彦へ関心が高まりが作用したことが、イスラム教の聖典を読もうと思った理由である。


7行に360P

本書は、岩波書店が主催した全10回のセミナーを記録したものである。コーランを読む前に解説書を手に取った理由は、井筒さんであれば「どんな言語テクストに対して、どんな解釈学的操作を加えるか」ということを主眼にしながらコーランと対していると考えられたからだ。その視点をもったうえで「コーラン」に立ち向かってみたいと思うのである。

セミナーを記録したものとなっているためか非常に読みやすいものとなっている。しかし、その内容は恐ろしいほどに深い。

それは「コーラン」を「読む」とはどういうことなのか?という問いを徹底的に追求してくからである。その姿勢は114章ある「コーラン」の中でも1章7行だけを解説するところからも分かるだろう。この7行にコーランの全てが凝縮されている。その7行を360ページにもわたって解説していく。


コーランはいかなるテクストか?- 成り立ちと構成 -

コーラン(クルアーン)は、イスラーム教の信徒が声を出して読むべきものである。コーラン(クルアーン)は、読誦すべき聖典という意味をもっている。

コーランは始めから1冊の本の形になっていたわけではなく、切れ切れの短い文章が方々に散らばって保存されていた。その理由は、コーランに記録されている神のコトバ、すなわち啓示は約二十年間にわたって、少しずつ、断片的に啓示が下ってきたからだ。

二十年間に渡る啓示は、マホメットの付き人が羊皮紙の切れ端、動物の骨、石、岩、椰子の葉などに書きとめていた。また、文字に書かずに記憶の形で保存したものも相当あったそうです。このような啓示の断片を編纂したのが、第三代目の教皇(カリフ)オスマーンである。

つまり、私たちが「コーラン」という名で読んでいるものは、西暦七世紀の末に編纂された「オスマーン本」ということです。(メッカ期/メディナ期,編纂順序/啓示順序の逆転については「イスラーム文化」などに詳しい)


コーランをエクリチュールの次元からパロールの次元へ引き戻す

成り立ちと構成をおさえたうえで、井筒氏は「コーランをエクリチュールの次元からパロールの次元へ引き戻す作業」を行う。私のコトバにするなら、読書から読話への地平展開である。「コーラン」を「読む」とは1章7行を読むという事である。この7行に全てが凝縮されている。

開扉ーメッカ啓示、全七節ー
慈愛ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
一 讃えあれ、アッラー、万世の主、
二 慈愛ふかく慈愛あまねき御神
三 審きの日の主宰者。
四 汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
五 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
六 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
七 汝の嘉し給う人々の道を歩ましめ給え。


1行1行の解説は本書にゆずるとして、私が関心をもったことを記して行く。

1つめは名前を呼ぶということは霊的実体にふれるということであり、危険な行為であったということだ。その雰囲気は1行目にあらわれる。ユダヤ/キリスト教においては無闇矢鱈に神/サタンの名前を呼ぶ事はつつしまれている。なぜなら「名」を発するという事は、その霊的実体にふれることであり、召してしまう可能性があると考えられているからだ。

そして2行目にみられる「慈愛ふかく慈愛あまねき御神」は、イスラーム教には「ジャマール」(美,美しさ)の精神が底流していること。そして「ラフマーン(普遍性)」と「ラヒマーン(勘定性)」という慈悲があるのである。ここで注目したいのは、「ラフマーン/ラヒマーン(慈愛ふかく慈愛あまねき)」が神を修飾する形容詞ではなく、神の名であるということだ。

そして、ジャマールという精神に対するのが3行目にみられる「ジャラール」(威厳,尊厳,峻厳)の精神である。この精神が反応するのは、人のプロソワ(対自的存在)側面に対する者だ。プロソワをアンソワ(即自的存在)にもたらすことをジャラールは担っているのだ。


コーランの著者は誰なのか?

ここで考えたいのは「コーランの著者は誰なのか?」ということです。

井筒氏がいうように、コーランの著者はムハンマドによって1クッションをおいているが、それでも神のコトバであるという。モーセもキリストも神の予言者であったがアラビア語で啓示をうけたのがムハンマドである。

神とムハンマドにおける啓示にはガブリエルが翻訳的仲介を担っている。つまり、三項関係のパロール構造が成立しているのである。

「審きの日の主宰者」ー最初に申しましたように、これは概念的なレベルでの表現です。醒めたる意識でものをいっている。(中略)けれども、その陰には、別に二つの表現(あるいは意識)レベルがひそんでいる。(中略)レアリスティックな表現のすぐ下に、物語的な意識の次元が、そしてまたその下にはイマジナルな意識次元がひそんでいて、この三重構造体の表面に、「審きの日の主宰者」といういかにも冷静を装ったような表現が出てきているのです。そこまで読みとらないといけない。「審きの日の主宰者」、つまり最後の審判の日にこれを主宰する神のことか、という程度の読み方ではだめなのです。P268
井筒俊彦「コーランを読む」(中央公論社 1991)


ここに私は上記にあるコーランのレトリック構成「リアリスティック/ナラティブ/イマジナル」に注目した。私はこのレトリック構成が、啓示の3項関係にみられた「ムハンマド/ガブリエル/アッラー」に対応するのではないかと考える。

■参考リンク
762旅その1 井筒俊彦『コーランを読む』
762旅その2 井筒俊彦『コーランを読む』
『コーラン』と『コーランを読む』を読む



■tabi後記
大学事務室が私の履修申請ミスに気がつくことが出来なかっため、卒業のハードルが一段高くなってしまった。あらら。善処をして頂いたので感謝を述べたい。

いや、人生何がおこるか分からないが、これだからこそおもしろいとも思う。

司馬遼太郎が「世に棲む日々」にて、

おもしろき こともなき世を おもしろく(高杉晋作)
すみなすものは心なりけり(野村望東尼)

という歌を記していたが、まさにその心が試されるのだろう。良いストレッチである。中原淳さんが引用してくれた私の言葉ともシンクロしますね。
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tabi0177 オマル ハイヤーム「ルバイヤット」

なぜこの本を読むのか?

本書は「内田に何読ませたい?」企画に藤沢さんからレスポンスを下さったものです。正確には、Blogで★★★★★が付いている書籍を勧めて頂いたので、このリストから私が気になったものをピックアップして読むことにしました。藤沢さん、ありがとうございます!

434の4行詩が織りなす世界観 -人生の無常、宿命、酒の讃美-

私が引き留められたのは、最初と最後に編まれた4行詩である。これらの詩からは、人生の無常、宿命を詠っている。そして、その詩にはさまれて「酒の賛美」が詠われるという構造になっている。

一 悲哀を糧として霊魂を苦しむるは、此の厭ふべき地に棲息する人間の運命なり。故に此世を最も早く去れる者は幸福といふを得べく、更に此世に生れ来らざる者は最も幸福なり。P21

二 「永遠」の秘密は汝よりも我よりも隔たれり、宇宙の謎語は汝にも我にも解せられず、汝と我との言葉は幕の後にあり、然れども、若し幕裂けなば、汝と我とは如何になるべき。P21

二一二 我等は生命の書籍より抹殺せられざるべからず、我等は死の腕のうちに息を止めざるべからず、おお心を迷はす捧盃者よ、欣々として我に強酒を持ち来れ、我は土とならざるべかざるが故に。P130

四三四 或者は宗教と信仰とを瞑想す、或者は懐疑と知識との間に彷徨す。忽ち番人は叫んで曰く、<愚かなる者よ、汝の道は此処にもあらず、其処にもあらず>と。P243
オマル ハイヤーム「ルバイヤット」(筑摩書房 2008)


私は初読みの段階で、ルバイヤットを読むことが出来ていなかった。訳のリズムに乗れなかったこと、「酒の賛美」に意味を見いだす事が出来なかったことが大きいだろう。


幾読の果てに創出する意味

ハイヤームが示す「酒」とは何なのだろうか?前提としては、ハイヤームはそこに意味を見い出してはいないだろうということです。それを踏まえたうえで私が考えたのは、「酒」は1つの出口なのではないかということだ。

最初は<神秘的事態>にいたるための「入口」として解釈していたが、どうもハイヤームが示しているのは異なるのではないかと思えてきた。

ハイヤームが示そうとしたのは、すでに入口は閉じられている。そして、私たちは既に出口の目の前にいるということだったのではないだろうか。その出口に何があるかは分からない。出てみなくては分からない。

酒後の世界は飲んでみなくてはわからない。飲まれてみなくては何が起こるか分からない。酒を象徴とするならば、我々は何を飲み,何に飲まれているかという問いが生まれてくる。

■参考リンク
1046旅 オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』



■tabi後記
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2009年05月26日

tabi0176 白川静「漢字」

なぜこの本を読むのか?

日頃から拝見しているDESIGN IT! w/LOVEの日本語ということばを使う日本人という記事に触発されたことが大きい。本記事に興味をもったのは、「ことばと国家」「意味の深み」で論じられる内容と重複するところがあると感じたからです。そこで、棚橋さんの文字観/言葉観に影響を与えている白川静さんの本を手に取った次第です。

私が白川静さんを知ることになったのは、松岡正剛さんの書評であろうと思います。それ以降は、棚橋さんのBlogの記事や松岡さんの書籍を読ませてもらった程度だと思います。


発話社会から文字社会へ-文字によって無意識は生まれたか-

マクルーハンのアイデアに好奇心を思っているためか、本書をタイトルのように紐付けてしまった。

古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。P13
白川静「漢字」(岩波書店 1970)


言語とは「音」であって、漢字などは「表記」であるから、漢字の意味というのは「音」に付属するのものであると考えられる。つまり「表記」は「音」を写し取る性質を持つのである。このような視点で白川さんの漢字研究を辿って行くと、立ち所に混乱を招く。

なぜなら、音を写し取る「表記」に「意味」を見て取ろうとする行為は、部分的な解釈となりうるからである。その解釈を一般言語理論に組み立てることは困難を伴うだろうなと感じる。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与える方向から考察されるのがセオリーであるのだから。

つまり、表記システムとして共通のコード化された状態を「共時システム」として取り出し、そのモデルのなかで音と意味のネットワークを考察するということである。

文字に可能性を見いだしたのは何故なのか?

だが、白川氏は表記である「文字」に可能性を見い出す。彼は、その地平から様々な物語を紡いでいくのだが、私は、喉につっかえた小骨があるため、いまいち「グッ」とこない。ここで白川氏からエスケープすることも出来るのだが、彼が文字にみた可能世界を探究してからでも良いと思う。私の読み込み不足であることは確かなので、白川氏や、その批判的存在である人物。さらには正統的なソシュール/バンヴェニスト/オングという路線を開拓しながら、探究をすすめていきたい。

■参考リンク
第九百八十七夜【0987】
漢字という虚構
漢字は表意文字という話
いまなぜ白川静なのか
漢字―生い立ちとその背景/白川静
299旅 『漢字―生い立ちとその背景』



■tabi後記
先の書籍で大活躍していた「SlimTimer (オンライン仕事タイマー)」であるが、どうも肌感覚にあわない。

私はバイブカードe.ggtimerを使用しているのだが、SlimTimerのようなレポート機能があるほうが望ましいとも思っている。
posted by アントレ at 23:40| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0175 駒崎弘樹「働き方革命」

なぜこの本を読むのか?

先日のtabi後記で書かせて頂いた「内田に何読ませたい?」企画へのレスポンスが数名からありました。本書は、最初にレスを下さった平田さんから勧めて頂いたものです。また、本書以外に「神秘学総論」「バーナード組織論研究」も勧めて頂きました。平田さん、ありがとうございます!


本書が提案する変化は「会社人から社会人へ」

著者はNPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹さん。前著の「社会を変えるを仕事にする」は私の周囲に大きな影響を与えていたが、この「働き方革命」は「社会を変えるを仕事にする」を学生時代に読み、企業人となった方にこそお勧めしたい。

駒崎氏が目指す「働き方革命」は「会社人から社会人」への変化を企図するものである。いや、ここでは「変化」というの言葉は使用するのは語弊があるかもしれない。なぜなら「変化」には犠牲が伴った決断をイメージさせるから。

会社人から社会人からの「変化」はすでに「犠牲が伴わせていたこと」を再統合させる営みである。そして、その再統合には量的負荷の増加を伴うことなく、むしろ低減されることになる。なぜなら再統合過程において負荷処理に対して「質的な変化」が寄与されるからである。このロジックが本書の哲学となっている。


観客にならない「あなた」に送られてたメッセージ

本書を読んで「働き方革命」の未来に共感する一方、その未来が"現実的"な地点に落としことの困難さを感じる方もいると思う。

本書でも言及されているが、会社人は「普段の業務」で手一杯である。3ヶ月ごとの目標設定,360度評価,日々溜まる何十通のメール,日々更新されるプロジェクト情報・・・。

このような緊張が詰まるストレッチ環境は「成長」を求める人間にとって非常に有意義な環境である。だが同時に「こんな忙しい自分」が「ワークライフバランス」など出来るはずがないとうブレーキにもなっている。(「ベンチャー」「経営者」という状況が追加されると、更なるブレーキがかかる)

このような環境が「デフォルト」となっている人に対して、別のデフォルトを理解してもらうことは困難をきわめるであろう。

その困難さは本書の終盤でリアリティーをもって語られる。それは著者自身が、旧友に「働き方革命」を提案する場面に垣間みえる。

「あーそういうの何だっけ。ワークライフバランスとかっていうんだっけ?いるよ、そういうこと言う人。何か自分だけ残業しないで帰って、俺とかがそいつの終わらせなかった仕事の尻拭いするんだよね。僕、キャリアアップのための資格の勉強で忙しいんです、みたいな。やれやれだよ。」
(中略)
「違う、そういうニュアンスじゃないんだ。自分のために、自己中心的に仕事の手を抜いて、自分のために時間使おう、って話じゃないんだ。何ていうか、人生そのものを『働く』として捉えるんだ。『働くこと』と『そうじゃないこと』があるんじゃなくって、食いぶちを稼ぐことも、家族と生きることも、自分のために学ぶことも、全部ひっくるめて『働く』っていう風に考えたらどうか、っていうことなんだよ。『働く』を『他者と自分のために価値を生み出すこと』とするんだ。俺たちは職場であろうが、地域であろうが、価値を生み出せるんだ!」
「はい?働くっていったら会社行ったりすることだろ、普通。」
(中略)
「あのさ、そういのうって、俺たち一般人がどうこう言っても、難しいんじゃないかな?政治家とか官僚とかさ、いるわけだろ。彼らは俺らの税金で食ってんだからさ、ちゃんと働いてもらえれば良いんじゃないのか。何でお前がそんなに熱くなってるんだ。」
(中略)
「おいおい、勘弁してくれよ。高校時代いつも俺のノート見てたお前でも、新聞くらいは読んでるよな?大不況だぞ。この不況でな、明日切られるかも分からない人がたくさんいるんだ。食いぶち稼ぐのに皆精いっぱいなんだ。俺なんて子ども2人抱えている。そんなことを言う余裕が、世の中にあると思うか?」P180-183
駒崎弘樹「働き方革命」(筑摩書房 2009)


本書は、この困難さに対する「解決策」は用意されてはいない。そこに不十分さを覚える方もいると思う。確かに、その気持ちは分かる。しかし、この気持ちを覚える自分をもう一度見つめてる必要があるだろう。

そこで必要な問いは、「あなたは観客になっていないか?」というものであろう。この問いを持つことが出来たら著者の意図は伝わったことになる。一方、この問いをもてずに「解決策」のなさをもって本書を閉じる方は誤読をしたことになる。


変化は常に小さく始まる

もちろん人はそう簡単に変らない。であるならば、気付いてしまった「私」が変わればいいのだろう。そのような「私」が幾多の束になることで「社会に渦巻くブレーキ」を解除させることが出来るのだろう。本書は、そのような可能性を示唆するために書かれているとと感じた。

本書の「革命」という言葉は「むやみやたらな変化」という地点で捉えるのではなく「働く」という言葉が「傍を楽にする」という語源的な地平をもつことの捉え直しをこそ必要としているのだろう。視点のずらしによって得られる「気付き」が「あなたである「私」」の生活に注入されることを祈念しているのである。

■参考リンク
tacanoblog



■tabi後記
友人にアドバイスをもらってレビュースタイルを変えてみました。いかがでしょうか?
posted by アントレ at 21:10| Comment(5) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

tabi0174 リチャード・ワーマン「情報選択の時代」

この偉大な情報化時代とは、本当は「情報に非ざるもの」の爆発、すなわち、データの爆発の時代なのである。強まる一方のデータの猛襲を処理するには、データと情報を識別しなくてはならない。P41

私は、情報の学習全般に適用でき、とくに不安を生み出す要因を減らすのに役立つような、いくつかの原則を採用した。おそらく私の核心にもっとも近いーそしてもっとも根源的なー原則は次の三点である。
(1)自分の無知を受容すること
(2)答えよりも問いにずっと多くの注意を向けること
(3)解決にたどりつくために、反対方向に進むのも厭わないこと P51

学習とは、自分が何に興味をもっているかを思い出す過程と定義できる。学習とは情報の獲得とみなすことができるが、獲得をはじめる前に、まず興味がなくてはならない。興味こそ、あらゆる活動の源泉であり、学習に先立って要求されるものだ。(中略)興味に関して問題なのは、どれを選ぶかということよりも、興味と義務との区別をつけることだ。多くの人が、自分の純粋な興味と、これだったら人間的な面白みを増してくれるだろうと思うものーつまり、本物の興味と、罪の意識あるいは状態ーとを区別できない。P156,160
リチャード・ワーマン「情報選択の時代」(日本実業出版社 1990)


リチャード・ワーマンは、1984年にTED(Tecnology,Entertinment, Design)を設立した方です。「自分の専門領域は好奇心である」と語るように、TEDのキャッチコピーは「Ideas worth spreading」となっている。

TEDは学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物が講演を行なうイベントです。興味深いスピーチばかりなので視聴してみるのをお勧めします。(金曜日にTED TOKYO LIVEが開催されたみたいですね )

ワーマンが提唱する「Understanding Bussiness」というのは、ユーザビリティービジネスと近い内容である。情報デザイン(情報をデザインビではなく情報にデザイン)ビジネスが成立している状況においては、20年前の本書が色あせることはないだろう。今も理解を創り上げる人/情報を編み込む思想はもとめられている。

西垣氏は情報について「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」と定義されていたが、ワーマンは明確な定義をあたえてはいない。

むしろ「情報に非ざるもの」への言及と情報は個別的枠組みにおいて意味生成されるという浮遊性について語っている。「情報」を扱いづらく/可能性を秘めた概念と捉えることが、リジットな定義を拒むことになったのだろうか。20年経過した今、ワーマンが何を考えているのだろうか。

引用文にあるように、私は「無知と学習」について「無知となり学習すること」が大切である考えている。それは「あなたにとっての学習」は教育をされることがなかっただろうし、「あなたにとっての学習」は「あなたの納得感」で試行錯誤されたうえで体得されると考えるからだ。

例えば、学ぶこと=本を読むことであるという考えは「あなたにとって」正しいことではないかもしれません。もちろん比重の問題ではあるのですが、書籍だけの学習は万人にとっての望ましい方法にはなりえないとういことです。この考え方は学習/教育は個別性に基づくという発想であり、その発想は多重知能理論によっています。

再度書きますと、「自分に適した学習方法は何か?」を学習することは大切であり、そこから学びとったものが、あなたにとっての情報」になるのです。

その情報を相手にとっての「Form」にしてあげることが「In-Form」(相手の型にデータを情報化してあげる)の語源的定義になるのでしょう。

■参考リンク
学習とは何がおもしろいかに気づくこと - ワーマン 『情報選択の時代』
第千二百九十六夜 2009年4月28日
LATCH - 5つの情報の整理棚



■tabi後記
「内田洋平に何を読ませたい?」というメールを少しづつ送信している。
読書に偏りが出てきたので気分転換をしたくなったからだ。

内容は、以下に該当する書籍を教えてもらうというものです。

・あなたが読んで良かった本

・内田に読ませたらおもしろそうな本(未読可能)

・読みたいと思っているけど中々読めていない本(高い/歯が立たなそうという意味で)


PCアドレスを知らない方にはお送り出来ていないので、もし「お、読ませたい本があるぞ!」という奇特な方は、コメントかメール(プロフィールに記載)をください。

楽しみにしています。
posted by アントレ at 21:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0173 多木浩二「雑学者の夢」

われわれの読書とは記憶や想起のみならず、忘却をも構成要素とする経験ではないかと考えるようになる。忘却とはわれわれが現実の世界を生きている証拠なのかもしれない。しかし最初に読んだときの理解や感動、あるいは理解の困難を克服しようとした経験は無意味だったのか。そうではないということが、読書という経験の不思議なところだ。たしかに細かい意味や個々の文章は覚えていなくとも、ある書物という意味の時空間を通り抜けた経験は無意識のなかに沈殿している。書物は物体ではない。生きている人間の経験のなかで変質もし、消滅もするテクストなのである。再読することは、埋もれた記憶を掘り起こす行為である。かつて読んだ書物の内容だけを思い出すのではない。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することなのである。読書とはわれわれの生命と離れがたいものであり、世界を認識とも分ちがたいものなのである。P165
多木浩二「雑学者の夢」(岩波書店 2004)


図書館で「グーテンベルクの森」というシリーズを発見し、興味深い企画だと思ったので、先日読んだベンヤミンの解説をされていた多木氏の本を読ませて頂きました。

面白い,役に立つ,考え込む,癒される,運命が決まる,新しい世界が見えてくる….人は本と出会うことで心を強く揺さぶられ,それまでとは違う自分を見出します.書物が織りなす〈グーテンベルクの森〉とは,どこまで深く豊かなのでしょうか.様々な分野を代表する案内人が,書物との関わりとその魅力を自由に語ります.
岩波書店 グーテンベルクの森


多木氏はバルト/ソシュール/バンヴェニスト/カッシラー/ベンヤミンといった経路で言語観を形成することで、「名づけることが人の本質」という創世記にみられる言語モデルとフロイトや井筒氏に近いスタンスで思索をされているようです。グーデンベルクの森を彷徨い歩いた雑学者が垣間みた夢から、彼の生き方が滲み出てくるようでした。

1つのお話したとして考えられたのが、引用文章の読書観を歴史観と読み替えてみることです。ある人の経験は時空間を通り抜け、共持的無意識のなかに沈殿し、生きている人間の経験のなかで変質し、消滅するテクストのようである。そのテクストを我々が再読し、埋もれた記憶を掘り起こす行為が「歴史を読む」ということなのでしょう。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することが歴史なのである。



■tabi後記
選書が偏ってきたので、そろそろ変えていこう。
posted by アントレ at 19:40| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0172 米山優「自分で考える本 情報から創造へ」

通常のハイパーテクスト論ではテクスト間のリンク構造ばかりに目がいっていることが問題なのです。それに加えて、リンクをつけつつ輝きを増していく関係項・ノードこそ主題化しなければならないのです。その一つの関係項・ノードとして位置づきうるものこそが、実は読者だと考えてみましょう。関係項・ノードが輝きを増していくというのは、読書で言えば対象である書物に受肉している思想を、読者の現に今の営みの中に言わば再現することでしょうし、しかも、その際、再現しつつも読者の主観が入り込むことによって、かえって読者そのものの思想を形成することでしょう。P133-134
米山優「自分で考える本」(NTT出版 2009)


GTDとテクスト論と情報論を絡めた異色な書籍です。「一体私は何をやろうとしていたんだっけ?」という問いを持たずに、ストレスフリーな知的生産を行うための仕事/読書術を書かれています。

米山氏が採用するGTDは「片づける必要のあるものはすべて明確にし、それらを、論理的で信頼のおける「システム」の中におさめすっきりとさせること」を目標につくられた仕事術です。

デビット・アレンが定義する"物"というのは「あなたがそれに対する次のステップを決めないままに、あなたの精神的、現実的な世界の中に、あなたが放置しているもの」であり、アレンは、人の意識はRAMにあてるのではなく、それを空っぽにしてディスプレイ(表現/表示)に集中させてほしいという考えがあるようです。

1952年生まれの米山氏がGTDを実践されていることもさることながら、知的生産ツールへの好奇心には驚かされた。

情報カード,Hybercardにはじまった知的生産術が、iGTD,Filemaker Pro,ドラゴンスピーチ,インスピレーション,VoodooPad,PersonalBranといったツールを巧みに使用されるまでになるのだから。

彼が知的生産にこだわる理由は「自分で考える本 情報から創造へ」というタイトルに凝縮されている。情報が存在する場所に到達するための仕組みを考えずに自分の記憶だけを頼りにしていると「当該の本を探す手間によるストレス」「その本の何ページにあるのかを探す手間によるストレス」「書いてある情報を移動させる手間によるストレス」の3ストレスにさらされてしまう。彼はそのストレスを何としても回避しようとし、"物"に左右されることによって発生する「読書そのもののストレス」も減らそうとGTDをはじめたのだろう。

■参考リンク
第六百七十一夜【0671】
哲学・美学・情報学とイタリアのページ



■tabi後記
他者の眼の意義を改めて知る。
posted by アントレ at 18:35| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0171 清水幾太郎「論文の書き方」

私だけの経験ではないと思うが、読んでいる間は、「なるほど」とか、「そうだ」とか、心の中で相槌を打ちながら、一々判って行くけれども、また、読み終わった瞬間、一種の空気が心の中に残りはするけれども、肝心の書物の内容は、輪郭の曖昧なもの、捕えどころのないものになってしまう。日が経つにつれて、それさえ何処かへ蒸発してしまう。糸が切れた風船のように、空へ消えてしまう。(中略)風船を地上に繋ぎとめておく一つの方法、つまり、内容を自分の精神に刻みつけておく一つの方法は、読んで理解した内容を自分の手で表現するということである。読んだことを書くということである。P7
清水幾太郎「論文の書き方」(岩波書店 1959)


彼は「文章には、犯罪に通じるような個人性があると同時に、貨幣に似た社会性がある」という根本思想をもっている。そこから紡ぎ出される言葉/文/文章に響かされた。彼の言葉でいうならば、「無闇に烈しい言葉を用いると、言葉が相手の心の内部に入り込む前に爆発してしまう。言葉は相手の心の内部へ静かに入って、入ってから爆発を遂げた方がよいのである。」ということである。

清水氏は、読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことであると言う。これは、話し言葉には味方の大軍がいると言い換えられる。日常における会話では、言葉が独力で働いているのではなく、周囲に協力者がいて、言葉を補ってくれているということだ。しかしながら文章においては、言葉は常に孤独である。それは言葉だけの世界であり、何処を眺めたって協力者などいやしない。会話において多くの協力者がやってくれた仕事を、一つ残らず、言葉が独力でやらなければならないということである。

己の筆力のみでそれを達成しなくてはならないのです。この達成のためには、日本語に対する甘ったれた無意識状態から抜け出し、日本語を自分の外部に客観化し、これを明瞭に意識化しなければならない。その上では、自らが使用する語彙の「定義不足」と「文と文の接続(詞)」に何よりも気をつけなければならない。

■参考リンク
東京大学で学んだ、卒論研究の進め方
東大で学んだ卒業論文の書き方



■tabi後記
珍しい部類に入ると思いますが、私は卒論は1年時に書き終えてしまいました。けれども時が経てば関心も変化するもの。改めて卒論を書きたくなってきました。
posted by アントレ at 01:17| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0170 大津由紀雄/波多野誼余夫/三宅なほみ「認知科学への招待2」

三宅:「できあがった研究ではなくて、本来はこういう研究をやっていたらいいのではないかというのをしゃべって」というシンポジウムをやったのね、そしたら大学院生ぐらいの人たちから反応があったの。「この人たちがどういうことをやりたくて研究をやっているのかというのが、見えた気がした」研究の裏にあるもの、なんでああいう研究をしているのか、その狙いみたいなもの、それがわかってよかった」んですって。P276
大津由紀雄/波多野誼余夫/三宅なほみ「認知科学への招待2」(研究社 2006)


前書と本書の編集をされていた波多野誼余夫氏の死を偲ぶ鼎談が掲載されていた。後任として編集にあたられた三宅さんは、認知学会のジャーナルにて波多野氏の追悼文を書かかれたそうです。その執筆にあたっての話が興味深かった。

三宅さんは、いたるところに拡散していた彼の研究史を再構成する中で、「波多野氏が研究するなかでベースとしていたものを何だったのか?」という問いをもつことになったそうです。つまり、彼は人生を通じて何をしようとしていたのか?そして何を為すことができなかったのか?という問いをもつことになったということです。その問いに対する三宅さんの見解を答える中で鼎談は進行しています。

私が関心をもてたのは、波多野氏の批判的態度と愛智精神です。彼は、社会構成的に人は発展を遂げていくというイメージをもたれていたため、チョムスキーを始祖とする生成文法に反発的するイメージを抱いたそうです。しかし彼は、それを表にださず(そもそもそういう次元でとらえていないかもしれませんが)、素直に生成文法から学べところを学び、改善できるところは代替案で示し、生成文法を下地にする学者と共に学び合っていたそうです。

私が考えさせたのはは、深い部分での思想/信条対立についてでした。深いことの話ができるのは嬉しいのですが、こういった経験をくれる人々は確固とした知識、認識をもちあわせている者同士でしょう。そうすると深い地点で相手との超えられない壁や、相手の思慮不足を意識(or思い込み)してしまった時の対応が大切になるでしょう。対立や不和については、哲学/教育学的に様々な研究がなされて思いますが、それを自らの生き方に反映させるのは万年の課題。

この本を読んで私がもった問いは、「自分は何かに対立しているのではないか?」「その対立を逃れる為に読書/発言/論理構築をしていないだろうか?」というものでした。深さがない人とは対立傾向(無視に近いかな)にあると思いますが、その深さの理解がロゴス上のものでしかないのが居たたまれなく感じております。

その他の思考形態も可能であることは分かっているが、ロゴスの俎上にのせた対話をおこなってしまう自分がいることを再認識した次第です。



■tabi後記
昨日/今日と更新が滞りましたが元気にやっておりますよ。
posted by アントレ at 00:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月20日

tabi0169 西垣通「続 基礎情報学」

基礎情報学ではAPS(オートポイティック・システム)ではなく、「階層的自律コミュニケーション・システム」という用語を用いる。また、簡単化のためこれを「HACS」と略記する。HACSはヴァレラの提唱した自律システムの概念を踏まえた閉鎖系であり、APSと比較したとき、三つの特徴をもっている。
第一は、単独のシステムではなく、われわれヒトの心的システムと構造的カップリングした「複合システム」であるということだ。この心的システムこそが、対象システムを内側から観察し記述する存在、つまり「内部的な観察者」なのである。
(中略)
第二の特徴は、その名が示すように、階層性をもつということである。(中略)APSの内部にさらにAPSが包含されていることはありえず、たとえば心的システムと社会システムは相互浸透という対等の関係にあると考えられている。(中略)HACSの階層性は物理空間内の包含性ではなく、位相空間内の拘束/制約関係であることに留意しなくてはならない。すなわち下位のHACSは上位のHACSの直接の構成素になるのではなく、ただ上位のHACSに対しその構成素産出のための素材を提供するのみなのでらう。
(中略)
HACSの第三の特徴はその構成素が「コミュニケーション」であることだ。細胞やタンパク質などの物質が構成素になることはない。(中略)すなわち構成素はあくまでもコミュニケーションという一過性の「出来事」であり物質ではないのである。P31-33
西垣通「続 基礎情報学」(NHK出版 2008)


前著でも言及されていた「HACS」(階層的自律コミュニケーション・システム)をDID(ダイアローグ・イン・ザ・ダーク)と触覚的自我ワークショップの体験から感じてみたい。

最近、木曜18時から早稲田で行われている安斎利洋ゼミにダイバーしている(潜り)。「デジタルメディアゼミ」という名がついてるが、実際はクリエイター養成私塾という様相です。

安斎さんが全身全霊を込めて?ワークショップを展開されているので、こちらが表現の火種をとらえて、勝手に創作したるというのが良きスタンスなのでしょう。

さて。先週のゼミではアイマスクをしながら自画像創作を行いました。自画像を自我像と解釈するらば、顔を描く必要はない。

このワークショップの目的は「触覚的自我」を体験するというものである。「触覚的自我とは何か?」という問いが立ちあがってくると思うが、私自身も明確な意味を抱けていない。

そこで、先日参加したDID(ダイアローグ・イン・ザ・ダーク)の体験報告から「触覚的自我らしさ」を感じてもらえればと思う。DIDは「光」という我々の日常生活を支える要素を引き算した環境を提供する。

この環境から学べることは、

・視覚を相対化し、四感が際立つということ」
・匿光(誰からも見られない世界)に快感を見いだせること
・見える/見られるということが不快なことでもあると認知すること

であろう。

鳥も石も木も水も他人も匂いや音や服の手触りによって識別できること、クラヤミ下でも安心感/雰囲気を醸し出すことが可能であることが理解できる。

私はこのことから見える/見えない軸での世界解釈から、聞こえる/聞こえない軸へ、そして触れる/触れられない軸へと感覚の度合いが移行していった。

目、耳、手という認知器官の移動だけでなく、それによってコミュニケーションを発動していたことを内省していくのだ。いきなりだが、ゼミでの制作過程を公開する。

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手のほうが紙を切断しやすいという原初的発見
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とはいえ折れ線が決めればハサミが便利

結果、私の作品。

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私は、この作品を観てしまった人からの問いが欲しい。

・左にあるのはメガネですか?
・KとYは何を意味するのですか?
・右下にあるめくれているものは何か?
・右下にあるのは本ですか?
・その裏にあるのは何ですか?
・左上のメガネの淵はどうしてはみ出しているの?
・なぜ画用紙は半分におられているのか?
・どうして3面になってるのか?
etc・・

全てに意図が宿っています。ただ2パーツ以外は無計画でした。

あるアイデアがあるアイデアを生み、あるアイデアが先のアイデアと繋がっていくプロセスに楽しみを見いだしながら創作が終了する。一番感動をしたのは、創作後に自らの作品をみた時だった。

感動を呼び寄せたもの、それは「大きさ」でした。尺度にしていた「自分の手の大きさ」に驚きをもたらされたのだ。目を尺度にしてあらわれる大きさ、手を尺度によって切り取る世界の大きさの差異に遭遇してしまったのです。

■参考リンク
今週の本棚:松原隆一郎
第千六十三夜【1063】
www.さとなお.com(さなメモ): ダイアログ・イン・ザ・ダーク
MindsetWEB:ダイアログ・イン・ザ・ダークに行ってきた!



■tabi後記
この時間まで起きてるのはまずいなあ。夕食前に60分ほど仮眠をとってしまったのが祟っている。
posted by アントレ at 23:35| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0168 西垣通「基礎情報学」

いまいちどポイントを整理しておこう。第一に、情報の「意味」は、一般には解釈者によって異なる。したがって、解釈者/受信者を等閑視して情報を議論することはできないが、解釈者/受信者は常に「生物」である。第二に、生物はオートポイエティック・システムであり、刺激ないし環境変化に応じ、あくまで自分自身の構成にもとづいて自らを内部変容を続ける。その変容作用こそが意味作用である。したがって情報に関するこういった「自己言及=自己回帰」的な性質を明示しなくてはならない。第三に、意味作用する喚起する「刺激」や、それによって生じる「変容」の本質は、物質でもエネルギーでもない。それは「形」であり、「パターン」である。これら三点から、次のような情報の定義がみちびかれる。情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」である。P27
西垣通「基礎情報学」(NHK出版 2004)


オートポイエーシスを起点にしながら、情報(機械情報/社会情報/生命情報)について考察をすすめる。情報はあくまで非物質的存在であり、実体概念ではなく関係概念である。例えば、爪の細胞自体は常に入れ替わっているが、我々はそれを同じ「爪」として認知している。これは情報が一種の「パターン=形相」であることを示唆している。そしてあらゆる情報は、基本的に生命体による認知や観察と結び付いた「生命情報」である。引用文にある情報の定義は、情報という「作用」ではなく、情報の「担体」に他ならない。前者の定義を与えるのは本書全体に任せたい。

久しぶりにオートポイエーシスというシステム概念にふれたが、これは興味深い理論である。観察者と行為者を分離することにより入出力の不在を発見し、システムに自己閉鎖系を付与するという発想。たんなる自己認識ではなくて自己制作だとするならば、オートポイエティック・マシンには「入力も出力もない」という条件にするのではなく、「出力がそのまま入力になる」と表現するのがいいのではと感じる。

本書や参考リンクに触れることで、構造と構成の関係、構造的カップリング、アルトポイエーシス/オートポイエーシスという概念を連環的に理解することができた。読自を言い換えるなら「オートポイエティク・リーディング」がいいかもしれない。

私たちは、読書過程(ここでは「本」という狭義の読みに焦点をあてている)にて世界の解釈フレームが変わるとき「稲妻が落ちてくるようにビビっときた」「レンガで殴らるようにガツンときた」と感じていると思う(比喩を実経験している人はいないのに。笑)。人はこの瞬間に「線をひく」「ポストイットを貼る」「3色ボールペンでマークする」「PCに抜き出す」etcといった表現をしているが、私にはこの表現が公共的に無視されていると感じる。線を引く行為(傍線でも波線でも構わない!)は、書籍情報に反応した無味乾燥な行為ではなく、オートポイエティックな営みと捉えたい。そこには、構造的カップリングされた情報が存在していると思うのです。

アーティスト(色々な意味を込めて)という生き物は、ある情報(作品)から世界の解釈フレームの変更をせまられる感動を得たときには、感動による稲妻を帯電し、レンガによる衝撃を反発にし、自分自身の創作を始めていくと思うが、私は、人が本に線を引くという表現にアーティストへの灯火をみる。そして、その解釈表現(それは読み手/書き手を越境して)を表象できるウェブサービス/ソフトウェアをつくりたいなと考えるのである。

■参考リンク
第千六十三夜【1063】
ムサ美オートポイエーシス論
永井俊哉ドットコム
情報考学 Passion For The Future こころの情報学



■tabi後記
皆さんのコメント/アドバイス(entrepreneur1986@gmail.com)待ってます。
posted by アントレ at 20:52| Comment(4) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0167 大津由紀雄/波多野誼余夫「認知科学への招待」

大津:先生、そろそろまとめに入りたいと思うのですけれども、認知科学の将来に寄せる夢のようなものを語っていただけますか?
波多野:1つの夢は、すべての科学の上に立つ科学というような考えがあるでしょ?つまり、科学というのは基本的には人間の認知だから、科学というものは全部認知科学の対象になりうる。そうすると全部の科学を取りまとめた科学としての認知科学というのはありうると思うのですけれども、私はそこまで不遜ではない。もう少し現実的な夢としては、科学の専門分化によって失われてきた要素の一部分が認知科学によって回復できるのではないか、ということだと思うのです。P280
大津由紀雄/波多野誼余夫「認知科学への招待」(研究社 2004)


「ほんとのこと」は哲学でしか扱えないが、「やってみたいこと」は認知科学で扱えそうと感じれる招待状。本書で扱われているのは、認知発達、学習科学、比較認知科学、神経心理学、神経生理学、動物行動学、言語の認知科学、心の哲学といった領域である。

認知科学が科学の基礎になりうるかは、科学哲学との寄り添いになるだろう。認知を1つの枠組み(パラダイム)とした時に、その枠組みを措定してしまう認知的傾向を研究する認知科学哲学といった領域であろうか。コネクショニズム/ニヒリズムに解消されないような現象学的な道具立てが必要かと感じました。

私が認知科学領域でやってみたいと思ったのは、協調的読書の可能性を工学的に探究すること。本書に適切な事例が紹介されていたので驚く。

文章を読む過程はそのままでは観察しにくいが、1単語や1文を1枚のカードに印刷し、そのカードを2次元空間に配置しながら読んでもらうと、読みの過程を観察できる。このカード配置を2人で文献を読む際に利用すれば、2人が互いに相手の「読み方」にコメントしながら協調的に読む状況を作り出すことができる。P26
第2章 学習科学 三宅なほみ


本=グーデンベルクの銀河系/私=言語アラヤ識/読書=社会的生命情報と言語的生命情報のカップリング(瞑想的読書体験?)として考察するのだろうか。同時に、パラレル読書下における認知仮定(時間制限有無,偏見有無,目的設定の強度,書籍関連性,)も探究してみたい。

■参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
今の自分がコンバージェンスとダイバージェンスのどちらに居心地を感じるかを見定めておくことが大切。
posted by アントレ at 17:10| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0166 多木浩二「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」

いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うことーこれが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。P144
多木浩二「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」(岩波書店 2000)


写真/映画という芸術作品を起点にして「複製技術時代の一回起性」を論じていく。ベンヤミンは「技術」を第一の技術/第二の技術にわけ、前者がもたらしたアウラの喪失と第二の技術がもたらした遊戯空間の創造を並列に論じている。

礼拝的価値/展示的価値を対立させて、「礼拝的価値=アウラ」と解釈することによって一回起性に重点をおいた思索者としてベンヤミンを捉えることもできるが、彼のユニークさは展示的価値に触覚的可能性を覗きみたところにあるだろう。彼は触覚にはミメーシス喚起と巨大な遊戯空間の同時的開きがあることに迫ろとしたのである。

写真芸術が本質的に志向するのは事物の一回起性そのものである。他ならぬこの自分にだけ垣間見えた世界の一瞬の像を定着させる行為は、その瞬間にどこまでもコピー可能、再現可能、流通可能なデータと化していく。そこで交わされる己の他者と想定する他者からの意味/無意味の反駁合戦がスタートするのである。そこを抜け出す施策として触覚を措定したのは感心するが、本書からは「その触覚」に関する論考は物足りないものとなっている。

■参考リンク
一回起性と写真
第九百八夜【0908】
複製技術時代の教育



■tabi後記
石井君レアジョブをお勧めしてくれたので無料体験を予約してみた。
posted by アントレ at 08:58| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月19日

tabi0165 井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」

「現実」は一つのテクストだ。「現実」は始めからそこにあるものとして、客観的に与えられたものではなく、人間がコトバを通じて、有意味的に織り出していく一つの記号空間である。だが、コトバには、いま述べたようなアラヤ識的基底がある。コトバを、社会制度としての「言語(ラング)」の側面だけに限定して見る人は、コトバの表層構造だけしか見ていない。そこには、慣習的な意味を担う慣習的な記号のシステムがあるだけだ。そしてまた事実、我々は、通常、コトバを主としてこのような次元で使い、理解している。しかし、もし我々がコトバの深層的意味構造に気づき、それに注意を向けるなら、文化の本源的言語性に関する我々の見方は根本的に変ってしまうだろう。(中略)コトバが文化の源であると言う時、我々は、「コトバ」を、このような意味で、社会制度的「言語」表層からアラヤ識的「意味可能体」の深層に及ぶ有機的構造において理解しなければならない。辞書に登録された語の表層的存在分節のシステムが、それだけで直ちに「文化」を構成する、とは考えないのである。P80-81
井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」(岩波書店 1985)


「人間が絶対の事実だと信じて生きている世界は、実は言語によって意味づけられた相対的世界である。だから、言語が違えば生きている世界も変わるのだ。」このような指摘を耳にしたことはあるだろう。例えば、日本語圏では虹は七色だが英語圏では六色であるとら、イヌイットは「雪」というものを100通りの名詞で表現出来るという指摘である。

本書で井筒氏が論じようとしているのはラング/パロールで語る箇所の先。通常の言語学でいう「言語の意味」の外へ出ていこうとしている。井筒氏は「意味の深み」、意味というものがまさに生成する場所を求めていたのだろう。彼が、古今東西の宗教・哲学テキストに光当てるのは、意味生成の現場を見ようとした人々の思索の足跡を探るためである。そこには、空海真言論、易経、ユダヤ教カバラ思想等が含まれている。

■参考リンク
784旅 井筒俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』



■tabi後記
「意識と本質」を読み通せずにいる。井筒氏との並走が終わることに感慨深さがあることや、「彼の仕事から私は何を学んでいるか?」を吟味していることが歩みを遅めている。
posted by アントレ at 23:09| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0164 ポール・グレアム「ハッカーと画家」

物資的にも社会的にも、技術は富める者と貧しい者の格差を拡げるのではなく縮めている。レーニンがYahoo!やIntelやCiscoのオフィスを見学したら、社会主義は勝ったと考えただろうね。だって全員が同じ服を着て、同じような調度を備えたオフィス(というよりブース)で仕事し、お互いを尊称ではなく名前で呼び合っている。すべてがまさに彼が予想した通りではないか。ただ、銀行の口座を見たらびっくりするだろうけどね。P124
ポール・グレアム「ハッカーと画家」(オーム社 2005)


ポール・グレアムのエッセイは数多く公開されている。その中でも「就職なんてもう古い」「本当は上司なんて必要ない」「都市と野心」Paul Grahamエッセイ集を読んでおけば、すんなりと読める本です。グレアムは対象に埋没しながらも、そこから離脱する知性(ディタッチメント)をもっていると思うが、この姿勢は本書よりも、リンク記事のほうに如実に現れるていると思う。

■参考リンク
諸悪の根源は物理的
道具の時間軸
スペシャリストとオタクはどこが違う



■tabi後記
ハッカーでもいい。画家でもいい。起業家でもいい。自信の存在感覚に敏感であること。その存在で世界を分節する方法論を実験によって獲得すること、実験によって該当がないことを観るならば開発すること。その営みに真摯であることを伝えていると感じる。
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tabi0163 入不二基義「相対主義の極北」

クーンのアイデアにも、科学という活動をパラダイムに内在的なものと捉えるという(1)の側面と、パラダイムは転換することによって複数化するという(2)の側面が読み取れる。さらに、通約部不可能性という概念から分かるように、パラダイムは単に複数なのではない。複数のパラダイムは強い意味で断絶している。この断絶性を、相対主義の基本構図の第三のエレメントとしておこう。P24(1)内在化(2)複数化(3)断絶性

ところで、文化相対主義の言説自体も一つの「文化」の内から発せられるし、言語相対主義の言説自体も何らかの「言語」によって表明される。ウィンチの言説自体もある種の「言語ゲーム」に他ならないし、「パラダイム」についての言説も何らかの「パラダイム」において生み出される。相対主義の基本構図には、実はこのようなループが埋め込まれている。つまり、「内在化が行われ、その内在化したあり方が自体が複数化し、しかも互いに断絶している」ことを見て取る視線自体も、さらに何かへと内在化させられて、超越性を否定される。相対化する作業が、ブーメランのように戻ってきて、その作業自体を相対化する。この第四エレメントを再帰性と呼んでおこう。P26(4)再帰性

ヘルダーの場合には、文化や民族による相対性が、神の摂理の絶対性へとつながるという意味で、相対主義は絶対主義へと通じている。一方、認識の「枠組み」の場合には、その無根拠で自律的な絶対性自体が、当の「枠組み」の成立に相対化されるという意味で、絶対主義が相対主義へと通じている。こうして、相対性を追いかけることが絶対性へと、そして絶対性を追いかけることが相対性へと反転する。この点もまた、相対主義という考え方を構成する重要なエレメントである。この第五のエレメントを、相対性と絶対性の反転と呼んでおこう。P32(5)相対性と絶対性の反転

プロダゴラスの相対主義説ー人間尺度説ーは、単なる人間主義ではなく、このような非-知の次元(神的な領域)へと通じていると考えるべきであろう。つまり、彼の「人間尺度説」は、単純に人間を謳歌することや人間の驕りなどではない。むしろ、その非-知の次元こそが、相対主義・懐疑論・ニヒリズムを駆動させているのではないかと思われる。プロタゴラス的な「人間中心主義」は、非-人間主義によってこそ立ち上がる、逆説的な人間中心主義である。これが、相対主義の第六のエレメントである。P36(6)非-知の次元
入不二基義「相対主義の極北」(筑摩書房 2009)


この時に言及してから暫く経ってしまいました。期待どおり、強靭な思考と出逢えた。

入不二氏は「「私たち」は自らを相対化していく無限運動というあり方をしている」という極北を起点にして、「私たち3」と「未生(私たちが未だ生れぬ状態)」という事態を「アキレスと亀とルイスキャロルの三者関係/マクダガードの時間論/クオリア/ネーゲルの実在論」を題材にして輪郭付けをしていく。

まず、入不二氏は相対主義を論じる準備として6つのエレメントを提示する。この6つのエレメントは、相対主義について思考をしたことがあれば考えられるエレメントであろう。ただ、このエレメントに基づいて「アキレスと亀とルイスキャロルの三者関係/マクダガードの時間論/クオリア/ネーゲルの実在論」を論ずることが出来る様に驚嘆してしまった。

私が相対主義を思索するのは些か処方的であった。論が交わされる度に沸き上がる相対主義。痛快な思索をおこなっているときこそ背後から迫ってくる相対主義。深き意味において「一なるもの」を探究する営みに対して、相対主義という道具立てで迫ってくる「安易な知性」に構える必要があると考えているのだ。本書で触れられるところの、未生/運動体/極北は「一なるもの」への探究と通ずるものがあると感じる。

■参考リンク
入不二基義Wiki



■tabi後記
芸大修士生と議論をしているときに時空間が停止した。それは「複製可能性の喚起」という言葉を発話した時だった。その瞬間に全てが停止した。想起するだけで鼓動が速くなる。一体、あれは何だったのだ。本日、調べものをするなかで「アウラ」「複製技術時代」という概念を思い出す。「私のベンヤミン」が生まれるかもしれない。
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tabi0162 井筒俊彦「神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開」

言詮不及。それが神秘家の我々にたいする最後の言葉である。このような体験の内実が哲学の対象となり得ぬことはいうまでもない。人間的ロゴスが思惟となり言語となって発動するところ、そこにはじめて哲学は成立するのであるから。しかしながら、その反面に於いて、哲学と神秘主義とは互いに断ちがたい宿命のきずなによって固く結ばれているのである。おもえば人間とはまことに逆説的な存在である。黙々たる瞑想の秘境に帰融しきることこそ神秘家本来の面目であるのに、そしてこの幽遂な境域に於いて直証された事柄が絶対に言詮不及であることを知りすぎるほど知っているのに、それにもかかわらず、彼はあえてこの言詮不及なるものを知解によって論考し言語によって詮表せずにはいられない激しい欲求に駆られることがあるのだ。人間がもって生まれた形而上学的衝迫の不気味な力がここにある。思惟すべく、かつ思惟し得るものごとを思惟するのみでは足りず、かえって絶対に思惟すべからざるものを、絶対に思惟すべからずと知りながら、しかも止むに止まれぬ衝動に駆られて思惟しようと切なくも焦心する、ここに人間的ロゴスの世にも不思議な運命の道があるのだ。P194
井筒俊彦「神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開」(中央公論社 1991)


第一部に続いて、プラント、アリストレス、プロティノスを神秘主義的観点から捉え直す。ギリシア的思惟の底には、密議宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いてるという直覚のもとに書き上げた論考となっている。

井筒氏は、このパトスの地下の声に耳を傾けることを通じて、神秘主義的実在体験の哲学化を意図している。井筒氏の仕事を俯瞰できる者にとっては、大乗仏教/スーフィズムといった歴史的具体例を通じた「神秘主義的実在体験の哲学化」を把握している。

しかし、「井筒的方法論」なるものが確立される前において彼の仕事は奇妙この上ない視点であったのだろう。本書の言葉をつかうなら、井筒氏は「私のギリシャ」(東洋のギリシャ)を見いだしたということである。彼にとって思想とは永遠不易・唯一普遍な哲学的組織体系してではなく、言語や風土や民族性を軸としてその周囲に現象し結晶する流動的な実存的意味構造体として措定されていたのである。

この多用多彩な各言語文化組織を、つまり言語意味構造体を、形成する無量無数の一語一語こそが例外なく一語の意味単位であり、この意味単位が、対象認識の鋳型として働くことによって、存在単位を(一切の存在者を一切の機能)を鋳造し分節するというものであったのだ。

■参考リンク
1005旅 井筒俊彦『神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開』



■tabi後記
今日は、美と言語の分節関係について思索をしていた。
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2009年05月17日

tabi0161 田中克彦「ことばと国家」

「母語」ということばに私がとりわけこだわるのは、じつは、日本語にはいつの頃からか「母国語」ということばが作られて、それが専門の言語学者によってさえ不用意にくり返し用い続けられているからである。母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属している否かは関係がないのに、母国語すなわち母語のことばは、政治以前の関係である母にではなく国家にむすびついている。P41
田中克彦「ことばと国家」(岩波書店 1981)


本書でも言及されているが、母語との(母)国語との関係を、あたかも実験場であるかのようにうつし出しているのがイスラエル国家である。1948年にイギリス政府によって建設されたイスラエルには多数のユダヤ人が「生まれ故郷」をすてて新設の「母国」へ戻っていった。

しかし、ここで使用している「母国」という言葉が日本語を母語する者にとっては奇妙な感じを抱かせるであろう。世界各地から持ち込まれた多用な言語を話すユダヤ人はイスラエル国民であり、その「祖国」はイスラエル国家であるかもしれないが、「言語的母国」はポーランドやブルガリアだったりするのである。なかには新しく参加した祖国の国語であるヘブライ語よりは「異国の母語」をなつかしみ、手放さない者もいたようだ。

とりわけ関心が向くのは、イーディシュとドイツ語を母語にする人たちの母語への執着である。様々な表現題材にされてきた(されていく)ドイツからの追害を受けた経験をもちながらも、ドイツ語への執着をみせることに関心が向く。そして、この現象は方言/在日朝鮮人にも考えられることである。方言というのは、アイヌ語/琉球語もそうだが、関西弁/◯◯なまりといったものまで含めて考えている。

「日本語」というひとつの言語で用が足りてしまい、隣の国の言葉と日常的に接する機会もない日本人にとっては、言語というのは空気のように身近で透明な存在であり、こうした言語状況は稀であることは意識の片隅にもっているだろう。本書では、ひとつの国家が自国内の多数の言語をある方向に統御していくという、海外では常に目の当たりにさせられる事を例を提示しながら論じている。



■tabi後記
「母語に選択する自由はあるか?」という問いは惹き付けられる感はあるが、些か単純な知性のような気がする。私は「母語は複数性をもてるか?」「母語と思考(表現)に影響関係はあるか?」といったことに関心が向いた。
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tabi0160 大河内直彦「チェンジング・ブルー」

エミリアーニやシャクルトンによる海底コアの酸素同位体比の結果は、氷期に海水の酸素同位体組成を変える巨大な氷床の大きさが、およそ五◯◯◯万平方キロメートルにも及びことを明らかにした。こうした研究の成果がひとつずつ蓄積されて、氷期の気候の姿が少しずつ正確に描けるようになる。P79
大河内直彦「チェンジング・ブルー」(岩波書店 2008)


地球の気候が、過去数万にわたってどのように変動してきたか、そうした変動を引き起こすシステムはいかなるものか、について丁寧に解説した書籍である。本書は、「地球の気候」という複雑なシステムの解明にあたって、物理学や化学、生物学、地質学、海洋学など、さまざまな学問分野の成果が巧みに組み合わされていることが、じつによく描き出されている。海洋地質化学と呼べる学際的なアプローチをリアルに感じる事が出来た。

例えば、、海洋深層水の地球規模での循環の様子を解き明かすにあたっては、光合成で二酸化炭素から有機物を合成するときに働く酵素の性質を使う。気候変動の謎を解き明かすために、人類は持てる叡智を総動員してき。そして、この数十年の間に、古気候変動の実態を解明する研究や、放射同位体を駆使した分析/手法の開発、そして地球各地を掘削する技術が飛躍的に発展したことを描いている。

■参考リンク
成毛眞ブログ
がくの飛耳長目録



■tabi後記
私は、「この領域で表現するのは私ではない」と自信をもって言うために、有能なサイエンスライターの書籍を読むのかもしれない。
posted by アントレ at 17:40| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0159 脇田玲・奥出直人「デザイン言語2.0」

この制作を機会に、「伊東さんのおつくりになる建築は抽象的なのですが、その中に住む人間は、毎日じわじわ髭をのばしていたり、粘液質の汗を流していたり、非常に生々しい身体性を捨象できない存在です。このような人間の身体性についてはどうお考えですか」と質問したところ、「生身に身体は抽象化できない」というお返事でした。
抽象性を追求してきたけれども、実は最近新たに物質性にも注目し始めているとおっしゃっていました。ただし「物質には興味はあるけれども、木肌が気持ち良いというところに帰っていくわけにはいかない」と言われて、なるほどと思いました。ノスタルジックに考えてしまうと、やはりなじみのある物質性の方向に戻りたくなってしまう。しかしそうではなく、私たちが持っている感覚の感じる力を、物質の方にもっと開いていくようなやりかたで、何かを敏感に感じ取っていくということではないかと思うのです。抽象でも、安直な素材志向でもない物質性のとらえ方・・・。伊東さんがそれを「『HAPTICな抽象』」とでも呼ぶかなと言っておられたのが印象的でした。P96(原研哉「HAPTIC」)
脇田玲・奥出直人「デザイン言語2.0」(慶應義塾大学 2006)


SFCで行われているゲストレクチャシリーズ「デザイン言語総合講座」の模様を収録した一冊。本書には、原研哉氏や永原康史氏のようなグラフィックを中心にしたデザインに関わる方だけでなく、ロボティクスの研究家である山中俊治氏、デザインとは異質なところでは日本料理家の柳原一成氏といった、合計12名の方の講演を、「身体性と知覚のデザイン」「メディアのデザイン」「空間のデザイン」の3つのテーマに分けて収録しています。

12名の方が別々に、それぞれの専門領域の話をされているのですが、そこにはすべてに共通する基盤のようなものがあります。それが身体性や人間の欲望を問いつめる所作、人/色/形/音が動くなかに立ち現れることに寄り添うこと、視覚だけでなく五感すべてを考慮にいれる見方であったりします。このような様々な視点が提供される中で、原研哉氏の「HAPTIC」という概念について取り上げてみたいと思う。

物づくりのモチベーションがテクノロジーの側から供給される状態が久しく続いています。「HAPTIC」展は、新素材に駆り立てられるのではなく、人の感覚を発端とする物づくりを意図的に際だたせる試みです。HAPTICとは触覚を喜ばせるという意味。触覚性を物づくりの第一義とした時、どんなデザインが生まれるか。ここでは、22人の建築家やデザイナー、左官士、ホームエレクトロニクスのメーカーなどに依頼し、HAPTICな日用品をデザインしてもらいました。毛の生えた提灯、柔らかいドアノブ、果皮そのままのジュースパック、蛙の卵のようなコースターなどなど、新鮮なプロダクツが誕生しています。テクノロジー・ドリブンではなくセンス・ドリブンの世界をご堪能ください。
「HAPTIC」展


HAPTICとは触覚を喜ばせることであると同時に、そのプロダクツに触れる中で人のセンスを蘇らせるという視点があると思います。(後者は「欲望のエデュケーション」という概念に通じると思います)

引用文にある「HAPTICな抽象」は、「私秘と公共の境目」といってみたり、「色即是空/空即是色の隙間から」という言葉で表現しようとしてみたりした事をズバッと捉えられてしまった気がする。語呂も悪い、抽象って言葉も二押しくらいできそうだが、その余白タップリ感がまた居たたまれない。

■参考リンク
デザイン言語2.0 ―インタラクションの思考法/脇田玲、奥出直人編
デザイン・プロセスにおいて知らないことを発見することの重要性
テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか
デザイン言語2.0「日本料理をデザインする」 



■tabi後記
昨日、NPO法人 Educe Technologiesが主催する「デザインの基礎 ワークショップ」に参加させて頂いた。懇親会を含めて、色々と思索をすることが出来た。非常に感謝している。
posted by アントレ at 17:29| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月16日

tabi0158 ダリル・トラヴィス「ブランド!ブランド!ブランド!」

ブランド構築について理解できない経営者が多いなかで、わずかだが、それについてそっと教えてくれる人もいる。そのなかには感銘するものもある。たとえば、次のような言葉だ。「偉大なブランドとは、完結しない物語なのです。それは、進化し続けるたとえ話です。そして、深遠なもの、神話を理解する根本的な人間の力と結びつくのです。人間は、物事をより高い次元で理解する必要があったのです。われわれは、自分よりも大きな存在の一部にであると思いたいのです。この意識を従業員や顧客に顕示している企業は、何か力強いものを呼び起こすのです」(中略)スコット・ベドベリーやフィル・ナイトにとって、事業は決して無味乾燥なものではない。すべてが理詰めでもない。事業の無形の部分は、建物や機械よりもはるかに重要で価値がある。ブランドをつくり育てていくことがこのうえない楽しみだ、と彼らはきっと言うだろう。P7
ダリル・トラヴィス「ブランド!ブランド!ブランド!」(ダイヤモンド 2003)


アテンションシェアという命題がアテンションを高めた時がありましたが、その時に私が考えていたのは、「誰とも比較されることなく、顧客の中で絶対的価値を持つものは可能か?」という問いでした。物理的に時間を投入していなくとも、その人間の中で比較考慮なく絶対価値をもっているものは「自分であるということ」だと考えたのでした。或る種、ブランドを拒否するもの/成立要件を探ることが哲学であるともいえると思います。

このように語ると「ブランド=常識」と転換できるように思えるが、そう単純にはいかない。というのも、消費活動においては、消費者と企業という関係性が発生し、常識が選択的になるからである。ここで使用する「関係性」とは約束とも言い換えられると思います。つまり、ブランドとは、「顧客に対する約束(契約/密約の束)」であると。この定義は教科書で掲載されるようなものだったりしますが、(tabi後記に定義史を載せました)この文をみて忘れてはいけないことは、約束というのは「2者間」で交わされるということ。

誰に(ブランドターゲット)、何を(ブランドエッセンス/提供価値)約束するか。 その前に、果たして「誰が」約束するのかということを考える必要がありそうです。 コミットメントの主体を明確にして、それを「示すこと」がブランドの第一歩なんだと思います。

逆に考えれば、主体的なコミットメントの「低い」人間や集団にブランドは生まれないということ。 言わんとすることは、 企業というものはブランドオーナーであれ、そして構成員である人間もブランドオーナーであれということかな。 (最後はトム・ピーターズ的になってしまいましたね)

■参考リンク
ブランドって何だろう(1)
仕事メモ カタカナメモ デザイン 10%
真の「ユニーク」とは何なのか。



■tabi後記
パンデミック予兆があるなか、このイベントに参加してきます。

ブランド定義史

「ブランドとは個々の製造者の製品もしくは個々の卸や小売人によって供給された商品を見分けるための手段。ブランドの強さは、消費者マインドにおける選好の程度によっている」Copeland(1923)

「ブランドは、ある販売者あるいは販売者グループの商品やサービスを識別する意図の下に競合他社のものと差別化を図るための名前、名称、符号、図案あるいはそれらの組み合わせである。」AMA(1960)

「ブランドとは、他社の製品やサービスとの違いをはっきりと示す名前、言葉、デザイン、シンボルなど。ブランドの法律用語は商標、ブランドは売り手の一つの商品、商品ファミリー、さらに全商品について、その独自性を示すものである。」AMA(1988)

「消費者はブランドを製品を構成する重要な要素とみているので、ブランド化は製品に価値を付加することができる」Kotler(1995)

「ブランドとは製品である。ただし、同一のニーズを充足するようにデザインされた他の製品とは何らかの方法で差別化するための次元をともなった製品」Keller(2000)

「ブランドは工場でも、機械でも、特許でも、創業者でも、著作権でも、ロゴマークでもない。製品でさえない。製品は工場でつくられるが、ブランドは頭の中でつくられる。ブランドはアイデンティティを示すバッジである。」Travis(2000)

「製品は消費者にとっての便益の束であり、基本価値、便益価値、感覚価値、観念価値の4つの価値階層からなる。基本価値(製品としての必須価値。最低条件)、便益価値(便利で、簡単に使用できる価値)の2つの価値は製品の品質に対応し、良い悪いの尺度で評価できる一方、感覚価値(心地よく、楽しく消費できる価値)、概念価値(品質や性能以外のストーリー性、文化性、意味、解釈が付与された価値)はブランドの生み出す価値であり、これらは良い悪いではなく好き、嫌いの尺度によって評価される。」和田(2002)

「ブランドの3つの役割は1識別機能、2品質保証、3存在感である。」 平山弘(ブランド価値の創造)

「人間には、物理的なモノによって得られる満足感以上に感情面で満たされたいという欲求がある。人間の欲求の根底にある強い願望・衝動を刺激することで、商品と消費者を感情的に結びつけるのがブランドの役割である。ブランディングとは提供する者と提供される者との間の心の感情の共有であり、信頼と対話で成り立つものだ」Marc Gobe(2002)
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2009年05月15日

tabi0157 西田圭介「Googleを支える技術」

Googleの内側を知ったからといってなにがうれしいのか、と感じる人もいるかもしれません。Googleはすでにそこにあるのだから、それをただ利用すればよい、というのも一つの考え方でしょう。しかし、Googleのしてきたことは、コンピューティングの未来の先取りです。さほど遠くない将来、Googleの中にいない私たちにもその未来は届くでしょう。未来に備える。本書の本当の目的はそこにあるような気がしてなりません。P4(本書に寄せて:まつもとゆきひろ
西田圭介「Googleを支える技術」(技術評論社 2008)


この本で記載している「Googleを支える技術」は大きく分けて次の4種類

1) サーチエンジン技術
2) 分散ソフトウェア(と分散ファイルシステム)
3) ハードウェアメンテナンスと電力消費等の解析
4) 開発体制

それぞれ断片的に情報公開されている(主に英語)が、それが論文であったりすると中々アクセスすることが出来ない(背景にある技術も含めて)。本書はGoogleの分散ストレージ(GFS/BigTable/Chubby)、分散データ処理(MapReduce/Sawzall)、運用コスト、開発体制について公開論文を参照しながら解説されています。レビューをするのがいささか遅い感がありますが、先月発表されたAmazon Elastic MapReduceと絡めるとすれば、視点を広げるチャンスになるのではと思います。

Amazonのクラウドサービス(Amazon EC2/S3)は、手元に PC 1台とクレジットカードさえあれば、大規模な並列計算機とストレージを使うことができるというコンセプト。大量の情報のインデックス付け、シミュレーション、データマイニング、集合知プログラミン等をもとにして、世の中に溢れて出ている生データを自分が「意味がある」と思えるように情報を抽出/変換することが出来る。このような大規模計算を分散・並列処理の勉強をしさえすれば、誰もが実行できる時代になった。これを使って何ができるか/できないか、その前にこの「おもちゃ」をいじくりまわすことで何をしたいのか。それらを思慮したうえで(じっくりとではなく、ざっくりと)嵌ってみようかなというのが私の心境です。

Google container data center tour


■参考リンク
ユメのチカラ
Beauty Deeper than the Skin - 書評 - Googleを支える技術
21世紀の「公民」教材としての「Googleを支える技術」
検索エンジンはまだまだ先があると思う
もはや化学プラント? グーグルのデータセンター内部を紹介する動画
「Googleを支える技術」に載っていない日本語検索エンジンの技術
Hadoop 調査報告書



■tabi後記
Eins plus eins ist zwei.Eins mal eins ist zehn!
posted by アントレ at 22:40| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0156 ジュリア・クリステヴァ「ポリローグ」

《ポリローグ》というのは新語です。これによって私が示したいと思ったのは、私たちを成り立たせている「ロゴス」が、ひとつの全体あるいは総体という首尾一貫性をもってはおらずーあるいはもてなくなってー、複数のロゴスへと細分されていくこと、それら複数の論理が、私たち一人一人を突き抜け、現代の世界を複数の記号象徴的実践で満たしているということです。実際、夢をみる《私》、赤ん坊のことばを想像する《私》、ヘーゲルを読む《私》、ジオットやアルトーを解読する《私》ーこれら複数の《私》は、同じ私ではなく、同じことばを話してはおらず、同じ時間を生きていません。このような作業の一つ一つのなかに、さまざまな論理を呼び集めているのです。P3
ジュリア・クリステヴァ「ポリローグ」(白水社 1986)


「テクスト」という言葉は構造主義の登場により大きな変容をみせる。それは、テクストは作者が完結させた自立的なものではないという見方が示されたことだ。この問いが生成されたことは大きな事態である。

「テクスト」を「織りもの」と訳してみるなら、私が読み/書く「テクスト」は「引用の束」にすぎない。この問いに立たされたときに思考の射程は、「生成起源」「生成プロセス」「生成効用」に向かっていくと思われる。

私は、クリステヴァは「テキストに対峙し合う読み手・書き手の存在意識」を志向していたと理解する。その志向から「間テクスト性」(intertextualit )という概念が提唱されたのだろう。私がこの概念に注目したのは、昨今「読み手と書き手に歴史/構造/生命を見出すこと」に関心が向いているからです。

例えば書籍には、参考文献と注釈というのがあるが、そこに掲載される文献の背後には、その人間が読んできた書籍/思考の掲載可能性が失われた結果がある。(予め言っておくと、私はその人間に隠されている汎知を記述したいという欲があるのではない)読み手にも、該当分野に関する知識の有無や、既存にあるパターンをどのように生成し、適応をしているかがテキスト経験を語る上では大切になってくる。

また、新刊書であれば、同時期に数百、数千の「読者」がパターン認識/パターン崩壊を起こしている。そこで生成される情報に関心があるのだ。そして、読み手が書き手に変わるとき、その情報が書き手と交わるとき、書き手が読み手であるときのことに関心は広がる。その中で私が考えてる地平が、【ポリローグ】の共時的実践である。クリステヴァが語るのは《ポリローグ》の通時的事態であり、また《ポリローグA》と《ポリローグB》が交わされる「間テクスト性」であろう。

私は、【ポリローグ】の共時的実践に関心がある。それは、個人が並列的に間テクスト性を操作することにより、意図しない認知(切り口?)が立ち上がることの探究だと考えている。といっても、大概の認知は意図しない事態であるから、意図せざる認知の中において「特別性」を付与する必要がある。

それが「アハ体験」といわれるものなのか、「アブダクション」という切り口で向かっていくことなのかは煮詰めていない。今は数多くのアプローチを鑑みると同時に、独自の傾向性を議論/具象化していきたいと考えている。

■参考リンク
第千二十八夜【1028】ジュリア・クリステヴァ
クリステヴァの<間テクスト性>についての引用
こっくりさん



■tabi後記
すると多重人格/境界性人格に関心が芽生えてくるが、ビリーミリガンの存在を知ったのが高校に入学時であることを思い出すと、この思考/アプローチ傾向に違和感がある。まあ、離れていた思考が「ここ」に立ち上がってきたことに騙されてみよっと。
posted by アントレ at 19:44| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0155 釈徹宗「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」

『妙貞問答』の場合、「キリシタンという新しい宗教を理解させるため」と「キリシタンは従来の宗教とは異なったものであり、しかも最も勝れている」ことを語るために、仏教・儒教・道教・神道と比較したのである。しかし、「比較」というプロセスは、ある特定の宗教体系を理解したり説明したりする手法以外にも、意外な機能を果たす。それは、比較する主体の信仰を成熟させるという機能である。
(中略)
中でも、宗教を比較するということは、それ自体、宗教的行為であり宗教体験である。禅僧としてのトレーニングを積んだハビアンにとって、キリシタン信仰を確立するためには、「比較」は避けて通ることができないプロセスだった。そして、間違いなく、彼にとっては他宗教とキリシタンとを比較すること自体が彼の信仰営為だったのである。P112
釈徹宗「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」(新潮社 2009)


禅僧→キリシタンへ改宗→棄教→「野人」という転変を果した不干斎ハビアン。

神も仏も棄てた先にハビアンがみたものは何だったのだろうか。キリシタン時代に護教論として執筆された『妙貞問答』と、転じてキリスト教批判のために発表された『破堤宇子』(はだいうす)。この両書を総合して、神・仏・儒・基の比較宗教学を史上初めて成し遂げた画期的な書として位置づける著者に関心をもって読み始めた。

ハビアンは、仏教の性向である徹底した相対化を体得したうえで、キリスト教がもたらした絶対の神と救済の信仰に魅了されていった。本書でも紙幅を割いて説明されているが、山本七平も不干斎ハビアンに着目した一人である。彼は『日本教徒』の中で「不干斎ハビアンが提示した宗教への態度と感性は、その後の日本人にとって宗教に対するひとつのモデルとなった」と説明している。ハビアンは、キリスト教のうち、自分のその基準に合うものを採用し、基準に合わないものは、実は、はじめから拒否していた。

「聖☆おにいさん」というマンガがある。私は読んだことがないのだが、このマンガがヒット出来ること自体が日本教徒という枠組みに準拠されるのかもしれない。

■参考リンク
「いきなりはじめる」縁起



■tabi後記
的外れだろうが、ハビアンにはパッチワーク/まかない的な精神を感じる。
posted by アントレ at 18:05| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月14日

tabi0154 茂木健一郎/黛まどか「俳句脳」

「山路来て何やらゆかしすみれ草」という松尾芭蕉の句には、一瞬の自然の移ろいを感知している芭蕉という人間性の他には何もない。しかし、山道のすみれに己の詠嘆を「なにやらゆかし」と預けたことを起点とし、その背後に芭蕉の人生の映し鏡ともいうべき世界が広がり始める。「何もない」からこそ「全てがある」という反作用の法則が名句においては成り立つというのが、俳句という文学の実に宇宙的なところだ。
(中略)
私にはこの営みが「言語の起源に遡る行為」に思えてならない。言語から日常の意味をいったん洗い落とし、その語が生まれたばかりの場に立ち返り、原初の輝きを求める。そんな仕事に思えてならない。いうなれば俳句とは、「言語再生」の技術である。言語の再生産により、自分が感じていること、あるいはその世界観、宇宙観を短い言葉で提示できるという、「文字による技術」なのである。P15-16
茂木健一郎/黛まどか「俳句脳」(角川書店 2008)


私にとって、反復的な内省をせまってくる書籍だった(反省)。分かることは変わるということであるが、分かるには分けることが大切になってくる。

私が分かるためには、何によって分けられうのかに依存しているとすると、私は言語(日本語)を通じて世界を捉えている(分かっている)。そして分けるためには日本語の語彙数/分節数が大切になってくる。私はそう考えていた。

だが、今回の読書を通じて、語彙数/分節数と言語に対する生き方の反省を迫られた。それが、本書でいう俳句的生き方という可能世界についてである。

ここでいう生き方の反省というのは、「ある出来事を記述する語彙数を増やせ」ということではない、どれだけの存在を無感していたか。日本言語語を発する者からメッセージを捉えることに励みすぎている自分への戒めとなることである。また、単なる自然主義に陥ることではないと付言しておこう。

語彙数を増やすいうことの例をあげると、春という季節に思いを寄せる思いを表現するために、「春立ちぬ」「春兆す」「浅春」「春爛漫」「行く春を惜しむ」と言うことができる。桜にしても「初花」が満開となり「花吹雪」して、散り敷いて「花屑」、散った花びらが水面に浮いて「花筏」といった表現が行える。

このように目の前に現れている出来事の感じを表現する為に語彙が多いほど、豊かに、深く認識することができる。この行いも非常に大切であろうが、そこにはキリがない。キリがある/キリがないという軸の中で世界を捉えることは的を外しているのではと気付かされたことだ。そこから俳句的生き方が立ち上がってくる。

俳句的生き方とは、道ばたの花/木々/虫などに焦点をあてるといった話ではない。僕はそこに大きな転換をみた。それは、私がどれだけの存在を無感していたか。(それが私でもあった/でもあるのに!)この気づきが良かったのは、私が日本言語話者のメッセージを捉えることに励みすぎていることへの戒めとならなかったことだ。全面的に肯定したうえで、尚かつ否定でもあったということだ。つまり、軸が変わったということである。

私を単なる自然主義に陥らせるわけではなく、ウィトゲンシュタイン齧りにさせるわけでもない、キリがある/キリがない、言内/言外という軸で世界を捉えることではなく、余白内/余白外という気づきを得たこと。そこから俳句的生き方が立ち上がってくる。

「言いおほせて何かある」という芭蕉の箴言を思い出す。この文字に「言外の余剰」「語りえぬもの」といったメッセージを想起してはならないのだろう。これより先のメッセージは今後の思索の中で示していきたいと考えている。

古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉

■参考リンク
今週の本棚




■tabi後記
本書は☆☆☆☆☆にしましたが、一般的には☆☆☆の本だったかもしれない。改めて、書籍評価はその人間の抱え込むもの/人間の状況によってブレブレになると感じた。再読に意義があるのも分かってくる。
posted by アントレ at 15:49| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

tabi0153 井筒俊彦「神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア」

底なき無の心底に陥没しようとする万物を抱きとめ、これを存在につき還すものであるからには、それは森羅万象の生命の源泉、あらゆる存在の太源、いや「存在」そのものでなければならないであろう。それでは、宇宙的愛の主体としての「存在」は窮極に於いてそも何者であり、かつ人はいずこに求めて、この「一なるもの」に逢着できるであろうか。
この真摯な求問にたいして、自然神秘主義は一つの意外な解答を提出する。すなわち、汝の尋求する真実性は、渾然たる一者としての宇宙そのものであり、そしてその宇宙は汝自らにほかならぬ、と。いたずらに妄情を起し、外に向って真実性を尋ねることをやめよ、散乱の念虜を集定して心に塵累を絶ち、ひたすら汝自らの胸の奥処に神を求め、求めつつ汝の心底をうち破って大宇宙に窮通せよ、と。これがすなわち「汝自らを識れ」という神託の神秘主義的解釈である。P34
井筒俊彦「神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア」(中央公論社 1991)


自然神秘主義がもたらした解答は、多くの素朴な人々を困惑させ、歴史的宗教の信仰に生きる敬虔な人々に恐るべき冒涜にみえたようだ。それも当然だろう。人が直ちに神となり、自然的宇宙がそのまま絶対者となるモデルをとって生きてなどいないのだから。

自然神秘主義に於いては、人間の絶対否定即絶対肯定となり、人間意識は無に帰することによって宇宙意識となるのである。そこから井筒氏は、宇宙的覚者の生々脈動する意識からどのような思想が発展して来るのかを探究する。そして、この自然神秘主義思潮が勃興した背景をホメロスに遡って考察していくのである。

ホメロスをヘシオドスと対比させて、理想/現実,純客観/主観,ディオニュソス/アポロン,内的霊魂/外的霊魂となる。ここまで書いて考えたが、両者を「ホメロス・ヘシオドス的」と一括りにし、ホメロス/ミレトス学派(擬人神/自然)とするほうが構造としては正確であろう。

そして、彼らの対立構造がヘラクレイトス/タレスと発展し、プラトンにおいて調和が計られたが、再度スプリットしてしまう。内的霊魂は宗教(ユダヤ/キリスト教)へ、外的霊魂は科学(アリストレス)へと引き継がれていく。このような構造を感じることができた。

■参考リンク
1000旅 井筒俊彦『神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア』



■tabi後記
なんとなく体力を分解したくなった。

(1)体力の定義
体力とは人間の活動や生存の基礎となる身体的能力とする。主として生存に関与するものを防衛体力とし、主として活動に関与するものを行動体力とする。

(2)体力の分類
防衛体力は、4つに区分される。
1物理・化学的ストレスに対する抵抗力(寒冷、暑熱)
2生物的ストレスに対する抵抗力(菌、ガン細胞)
3生理的ストレスに対する抵抗力(運動)
4精神的ストレスに対する抵抗力(不快)

そして、行動体力も3つに区分される。各能力をもう一段階掘り下げると、7つの力で構成されることがわかる。()には、各体力の測定手法を書いてみた。

1行動を起こす能力
1.1筋力(握力、背筋力)
1.2筋パワー(垂直跳び)

2行動を持続する能力
2.1筋持久力(上体起こし、懸垂)
2.2全身持久力(1500m、シャトルラン)

3行動を調節する能力
3.1平衡性(視覚がバランスを支える、閉眼片足立ち)
3.2協調性(ジグザクドリブル、ボールを的に当てる)
3.3敏捷性(反復横跳び)
3.4柔軟性(前屈)
posted by アントレ at 16:35| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0152 斎藤孝「読書力」

私は自分の大学でのゼミの案内に、「単独者として門を叩くこと」という言葉を掲げている。要するに、つるんで来るなということだが、単独者になるのは意外に難しい。読書をたくさんしている者ほど、単独者となりやすい。自分自身の世界を持っているからだ。読書は元来、著者との一対一の空間で行われる。みんなで読み合わせをすることもあるが、現代の読書では一人が基本である。(中略)自分から歩いて行って門を叩くからこそ、言葉は身にしみ込む。P63
斎藤孝「読書力」(岩波書店 2002)


本書でも言及されているが、読書をする場所を変えることは試みている。実験として行っているのは、場所/時間/身体状況という3つの変数を意識しながらら読むことです。

例えば、身体状況というのは、走りながら読む/競歩で読む/スキップで読む/逆立ちで読む/階段を上りながら読む...といったことである。まだまだ「違い」を見いだせる段階にたっていないが、心拍数やBGMスピードは読書リズムに影響を及ぼしている。

また本書の最後に書かれている読書トレーナー/本のプレゼントも面白い試みです。カウンセリング/コーチングというのがあるように、ブックセラピーからブックコンサルティングという仕事は興隆していきている。

■参考リンク
斎藤孝 おすすめブックリスト



■tabi後記
実験として、特定の友人に読書トレーナーをやってみようかしら。書籍から得るのは、世界の分節パターンであろう。そのパターンを組み合わせること、パターンを見いだすことに「その人間」の自己形成/個性が宿るのではないかと考えている。それは自己分析ともいえるかもしれない。読書前(開心/選書/購入),読書中(前戯/本番),読後(後戯/共有/復習)を分解してアプローチしてみようか。
posted by アントレ at 08:25| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0151 中野京子「怖い絵」

ドガは舞台より楽屋での踊り子たちを好んで描いた。その中にはシルクハットに蝶ネクタイ、夜会服と、黒づくめの紳士たちが、踊り子と立ち話するシーンなども含まれている。ドガの描写は控え目だが、他の画家による絵や石版画ではかなり露骨に両者の関係が示されている。明らかに媚を売る踊り子の様子、まるで娼婦と値段交渉をしているかのような男たちの姿が山ほど描かれ、いかにもそれが日常風景であったかを教えてくれる。(中略)これはつまり当時の人々にとっては一目瞭然だったろうが、現代の我々、バレエを洗練させた芸術を考えている者には、なかなか見えてこない点だ。いやにくっきりした黒が使われていながら、目に入ってこないのだ。ところがこうしたことを踏まえて見直すと、エトワールの首に巻かれたリボンの色もまた、紳士の服と同じ鮮やかな黒で描かれているのが目にとまる。まるで金で縛られていることの象徴のように・・・。P18-19
中野京子「怖い絵」(朝日出版者 2007)


本書には20作品が取り上げられているが、最初に掲載されているエドガー・ドガ(1834-1917)『エトワール、または舞台の踊り子』(1867年,パステル,60×44cm,オルセー美術館)という作品に目が止まった。

中野氏が展開する図像学(iconography)によって私の思い込みが反転させられた。記事を書くために本作品について調べてみると、本書で言及される解釈をしることができるが、普通に生活している限りは出逢うことはなかった。中野氏が「怖い絵」というコンセプトを紡ぎだし、それを世に問うことがなければ、私は解釈に出逢うことがなかったのだろう。

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Quote:『エトワール、または舞台の踊り子』

引用文をみてもらえば分かるように、この絵からバレエの歴史が読み取れる。女性の労働状況、それを支えたパトロンの存在である。ベネッセの福武總一郎は 「経済は文化の僕である」という至言をはなっているが、この言葉には「文化は経済で支える必要がある」ことも含意している。その言葉をリアリティーをもって感じることができる作品ではなかろうか。

■参考リンク
エドガー・ドガ Edgar Degas 1834-1917 | フランス | 印象派
中野京子の「花つむひとの部屋」
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
一つの一つの行為に驚嘆してしまう日々です。「なぜ、このような絵が描けるのか」というものから、「なぜ、このガードレールが出来ているのか」というものまで。視点が広がることは素晴らしいが、怖いものでもある。
posted by アントレ at 08:11| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

tabi0150 ジークムント・フロイト「モーセと一神教」

われわれは、エス論者が同時にひとりのユダヤ人でもあった事実を、心情的に出ではなく、思想史的な条件として、深刻に受け止めなければならない。フロイトがひとりのユダヤ人であった事実がモーセ論における「生命と歴史」の謎に深々と突き刺さっているからである。興味深く、また重要な書簡がある。一九三四年九月三◯日付けのアルノルト・ツヴァイク宛のものである。そのなかの一箇所に「新たな追害に直面して人びとはまた、いかにしてユダヤ人は生れたのか、なにゆえにユダヤ人はこの死に絶えることのない憎悪を浴びたのか、と自問しております。私はやがて、モーゼがユダヤ人をつくったという定式を得、私の作品は「モーゼという男- 一つの歴史小説 -」という標題をつけられました:とある。モーセがユダヤ人であったか、エジプト人であったか、これは現下の文脈ではあまり大切ではない。トーテミズムや人類の強迫神経症すなわちエスの勢いではなく、「モーセという男」が「ユダヤ人をつくった」と言明されていることこそが重要なのである。P258 解題 歴史に向かい合うフロイト
ジークムント・フロイト「モーセと一神教」(筑摩書房 2003)


本書の楽しみは3つある。1つはフロイトによる「ユダヤ人論:歴史のIF」としての楽しみ、2つめは、エス論者であるフロイトが自説を徹底した批判精神で論をすすませていくこと。ここでは、フロイトのイメージがガラっと変化するだろう。最後の、3つめは、自らがユダヤ人であることへの闘争である。フロイトがこの仕事に取り組んでいるときは、折しもヒトラーがドイツ政権を担っているころである。この3つの側面を丁寧に論じてるのが、松岡正剛だろう。久々に唸らせてもらった。

私なりに「ユダヤ人論:歴史のIF」についてまとめると、紀元前14世紀ごろアメンホテプ4世がファラオに即位した。頭に変形があったこのファラオは八百万の神信仰であったエジプト宗教を改革し、唯一神アテンを信仰する一神教、「アートン教」を開祖したのだ。このファラオは首都をテーベから300キロ近く離れたアマルナの地に移し、「新しい住民」を呼び込んで政治と宗教を一本化させたという。(エリアーデは、アメンホテプ4世の宗教を「実際には二神教であった」と評しているが)

ところが、このファラオの治世は17年しか続かず、神官団に説得された次代のファラオは首都を元のテーベに戻した。そして、このアマルナの地に残された人々こそが「ユダヤ人」の祖先だとフロイトはいうのだ。やがて異端の宗教である一神教(アートン教)を信じるユダヤ人たちはエジプト人に追い出されることになる。そして、そのユダヤ人を率いたのがモーセ(エジプト人)であったとフロイトは論じる。また、1つ気になったのは、アメンホテプ4世の次のファラオの名前はツタンカーメンであるということ。あの黄金のマスクを残した若き王である。エジプト王朝/エジプト学に関心をもつかたの気持ちがわかるような気がします。

私は、自らが歴史性に紐付けられた存在であることを知れば知るほど恐怖を覚える。それは自由意志礼賛/制約嫌いからくるのではなく、何かもっと根源的な忌避からきている気分のような気がしている。私の根源に眠るもの、フロイトもそれを探究していたのではないだろうか。

■参考リンク
第八百九十五夜【0895】
成毛眞ブログ
エジプト、ナイルを下る



■tabi後記
やはり1つの書籍を精読するのも良い体験になる。
posted by アントレ at 23:24| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0149 池上高志「動きが生命をつくる」

もちろん、なぜ水が0度で凍るか、ということと、生命や意識の語り方は同じには出来ない。原子・分子だけを役者にしよう、というのが物理フレームの原理主義的な立場だとしたら、より妥当な役者、物理フレーム以外の「中間レベル」を求めてきたのが複雑系である。

物理フレーム原理主義者からは、中間レベルなんかは、人の作り出した方便で精密ではない、ということをいわれる。例えば、リンパ球はばい菌を攻撃する、という中間レベルの記述に対し、実際はリンパ球は別に「攻撃」しない、とするのが物理フレーム主義だ。それは単なる大きな分子どうしの相互作用だという。事実、リンパ球がばい菌を攻撃する、という物語をそのまま乗せてしまったモデル/シミュレーションは、リンパ球という役者の持つ不透明さに細胞免疫システムの本質が隠蔽されてしまって、何故「自己」が守られるのか、というストーリー自体に説得力がなくなってしまう。

一方、ある言葉をきいて女の子が駆け出す。これを物理フレーム原理主義で考えてもらちがあかないのは明白である。ひとつは物理フレームですむものであり、もうひとつは物理フレームに乗っかりつつも、他の役者を立てざるを得ない中間層のストーリーテリングという記述方法が必要だ。生命は後者に属している。P201
池上高志「動きが生命をつくる」(青土社 2007)


理解/認知には、コミュニケーション的/論理的/言語的//感覚的/生命的/.../と広がっていくイメージががあるのだが、池上氏のいう中間層は感覚/生命的理解に寄ると思われる。池上氏のいう「分かり方の模索」に感覚的理解がもてる。

言葉による公共性や普遍性というテーマは、「日本語が亡びるとき」でも喚起されていたが、ここで論じられているのは言語経済学によって消える言語感覚という話ではなかったか。その点で、この書籍には言語によらずして確保される「公共性(分かり方)」を、どのように明示していくかという営みをしているように思えた。明示の地平としてアートを論じる。


渋谷慶一郎+池上高志/「filmachine(フィルマシン)」

■参考リンク
池上高志先生インタビュー
複雑系で迫る躍動の科学
モナドの方へ



■tabi後記
この2ヶ月間は4時-5時に起きていることが多い。太陽と格闘をするのも楽しいものです。僕は、7時半,2時20分,18:30分あたりにショートスリープをとって23時くらいに寝ています。結構、寝るほうですね。
posted by アントレ at 22:04| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0148 網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」

それでは、現在の転換期によって、忘れ去られようとしている社会、いまや古くなって、消滅しつつあるわれわれの原体験につながる社会はどこまでさかのぼれるのかというと、だいたい室町時代ぐらいまでさかのぼれるというのがこれまでの研究の常識になっています。つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階とでは、非常に大きなちがいがある。十五世紀以降の社会のあり方は、私たちの世代の常識で、ある程度理解が可能ですが、十三世紀以前の問題になると、どうもわれわれの常識ではおよびがつかない、かなり異質な世界がそこにはあるように思われます。
いわば、現在の転換期と同じような大きな転換が南北朝動乱期、十四世紀におこったと考えられるので、この転換期の意味を現在の新しい転換期にあたってもう一度考え直してみることは、これからの人間の進む道を考えるうえでも、また日本の文化・社会の問題を考えるうえでも、なにか意味はあるのではないかと思うのです。P14
網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」(筑摩書房 2005)


網野氏は、時代の転換点を見定める上で、文字(伝達)/貨幣(信用)/畏怖(アイドル)/賤視(タブー)/女性(血縁/家族)/天皇といった切り口をもって歴史を縦横無尽に駆け回る。その勢いには素晴らしいものを感じる。また、これらの切り口をはじめとして、網野氏がどのように日本を「読みなおしていったか」については目次が教えてくれる。

――日本の歴史をよみなおす――

第一章 文字について
村・町の成立――遺跡の発掘から/日本人の識字率/片仮名の世界/女性と平仮名/文字の普及と国家

第二章 貨幣と商業・金融
宋からの銭の流入/富の象徴/どうしてモノが商品となるか/どうやって利息をとったか/神仏、天皇の直属民/聖なるものから世俗のものへ/鎌倉新仏教の役割

第三章 畏怖と賤視
古代の差別/悲田院の人びと/ケガレの問題,「非人」の出現とその仕事/特異な力への畏れ/神仏に直属する「非人」/河原者/放免/童名を名乗る人たち/聖別から卑賤視へ/『一遍聖絵』のテーマ/絵巻をさかのぼる/差別の進行/東日本と西日本の相違

第四章 女性をめぐって
ルイス・フロイスの書物から/男女の性のあり方/太良荘の女性たち/女性の社会的活動/女性職能集団の出現/公的世界からの女性排除/穢れと女性,女性の地位の低下

第五章 天皇と「日本」の国号
天皇という称号/「日本」という国号の歴史/天皇の二つの顔,租税の制度/「職の体系」、神人・供御人制と天皇/仏教と天皇/日本列島には複数の国家があった/天皇家の危機/権威と権力/大転換期

――続・日本の歴史をよみなおす――

第一章 日本の社会は農業社会か
百姓は農民か/奥能登の時国家/廻船を営む百姓と頭振(水呑)/村とされた都市/水田に賦課された租税/襖下張り文書の世界

第二章 海からみた日本列島
日本は孤立した島国か/縄文文化,弥生文化/西と東の文化の差/古墳時代/周囲の地域との交流関係/「日本国」の誕生/「日本国」の範囲/海の交通と租税の請負/金融業者のネットワーク/諸地域での都市の成立

第三章 荘園・公領の世界
荘園公領制/塩の荘園/弓削島荘/鉄・紙・漆の荘園,新見荘/銭の流入/請負代官の業務/山臥の代官

第四章 悪党・海賊と商人・金融業者
悪党と海賊/「悪」とはなにか/一遍の教え――都市的な宗教/貿易商人、事業家としての勘定上人/村と町の形成/海の慣習法

第五章 日本の社会を考えなおす
「農人」という語/「重商主義」と「農本主義」の対決/新しい歴史像/飢饉はなぜおきたのか/封建社会とはなにか/西園寺家の所領/海上交通への領主の関心/「重商主義」の潮流
Quote:Reading Diary-MEMO


この中から印象に残った事を列記すると、

・日本の村の四分の三が室町時代に出発点を持っている

・14世紀を超えて15世紀にはいる頃になると、それまで漢字中心の文章からひらがな交じ
りの文章の割合が圧倒的に増える

・天皇という称号が制度的に定着するのは天武・持統朝。日本という国号もそれとセットで7世紀後半に定まった。つまり、聖徳太子は「倭人」ではあっても「日本人」ではない

・縄文時代からすでに日本は朝鮮半島や北のサハリンと交流があった。海は日本の国境ではなく、むしろ東と西をはじめ、いまの日本の国内に複数の国が存在していた

・百姓は必ずしも農民を意味しない。土地をもたず貧しいと考えられていた水呑百姓は必ずしも貧しくはなく、むしろ廻船業を営むなどして裕福である場合もあった

・これまで貧しい村と考えられていた田畑の少ない離島や山奥の村であっても必ずしも貧しいとは限らなかった。むしろ、海路や陸路における要衝の地で栄えている場合も少なくない

・律令国家はすべての民を戸籍に記し田畑を与え、稲による租税の徴収を行おうとしたが、実際はすべての民が農業に従事することはなく、租税も米に換算した別の物資(鉄、海産物、絹や麻など)で支払われることになった。また、律令国家はそれまでの海や河を通じた交易から、陸路による交易へと転換しようとして、都から地方へと延びる真っ直ぐな道を整備したが、しばらくすると海路・水路による交易に戻って、陸路の道は廃れていった

歴史と対峙する時には、いろいろなパターンがあると思う。

・特異点を見いだし、自らを重ねる
・諸行無常を感じ、変化を企てる現在行為を駆動する
・今に残るものを風情よく感じとる
etc

私にとって歴史は、数字でもなければ、特異点を見いだし微笑するためのものも、雑学として語り継ぐものでもない。それは他の人がやっているので任せたい。私にとって歴史は、なぜ、たった今、この場所に、私は存在しているか。この点について光を照射してもらうためである。

■参考リンク
第八十七夜【0087】
NED-WLT
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
昨日からLawrence Lessig「Remix」を読んでいる。
posted by アントレ at 10:20| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0147 勝間和代「読書進化論」

私たちの脳は無限の可能性があり、その可能性を引き出すには、自分でいろいろな経験をすることがいちばんであると私は考えています。しかし、ひとりひとりの時間には限界があります。他者の経験を疑似体験することができれば、人生はより豊かになるでしょう。できれば、本当はすべての経験を著者本人の口から語ってもらうのがよいのですが、互いに時間にも、交友関係にも限りがあり、そういうわけにはいきません。しかも、亡くなった人からはそれはできなくなります。(中略)その人が何を語ってくれているのかについて、本のフレームワークを確認しつつ、著者に対して「ちょっと、ここのところを教えてくれる?」「ちょっと、そこは違うんじゃないの?」というような感覚で、いろいろな本を読み進めていけばいいのです。P91
勝間和代「読書進化論」(小学館 2008)


本書にはmixiの勝間和代コミュニティーの書き込みが多く用いられています。そのことに内容の「薄さ」を感じる読者がいたようです。(amazonに評価を書く方々)

私はmixiコミュニティーの書き込みに転載する行為は「社会実験」として興味深く感じた。それは、ファンのロイヤリティーを高める行為であり、Webか本ではなく、Webも本もであるという執筆スタイルである。発信の形とコンテンツの創られ方としてメディアを区切るのではなく、双方の特性を生かして(実験してみることで)新たな跳躍を行おうとしているのではないだろうか。

毒書読自については以前も書いたが、他者の考えに頼らないで読書をするというのは中々難しいものです。それは、目的をもって読むという行為自体が「何かを得たい」という頼りが入ってしまうからです。

そこで取り入れたのが、15分ごとに読む本を変えるという読書法です。これによって、自立的(3冊を組み合わせて考える自由)/自律的(時間によって本を手放す自由)な読書ができるようになってきた。そして、もう1つの視は、自分はこの著者に「何を与えられるか」という視点でしょう。亡くなった著者の場合は難しいので、Blogなどで「宛先の籠った」レビューをするのがいいのではないでしょうか。

突然話は変わるのだが、最近考えていることとして「読み手⇔書き手の歴史性」がある。それは良き書き手は良き読み手であったし、読み手であり、読み手であり続けること。良き読み手も良き読み手であったし、読み手、書き手になり、書き手となるかもしれないこと。そして同時代的に同一書/関連書を読み込んでいる人々の連環をつくりたいということかな。そして、パラレル読書をしていて感じた事は自分の中に潜んでいるいくつもの自分を認識できるようなツールであったり、読自前,中,後にはどのような情報が巻き起こっているのか、それを何かの形で表現してみたいと考えている。まあ非常にざっくりしたものです。

■参考リンク
琥珀色の戯言
All About ...+Me
読書から用書へ - 書評 - 読書進化論



■tabi後記
まだまだ不正確なのだが「発書→読書⇔見書→感書⇔発自→読自⇔見自→感自」といった構造を描きつつある。
posted by アントレ at 07:40| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

tabi0146 平川克美「ビジネスに「戦略」なんていらない」

人間の人間性を基礎づけているのは、この「絶対的に遅れて世界に到来したことの覚知」です。先ほどの比喩を繰り返せば、「すでに始まっているゲームにプレイヤーとして参加することを通じてゲームの全体をだんだんと理解してゆく」という背理的なありようだとぼくには思えるのです。
ぼくたちが立っているこの場はすでに誰かが作ったものであり、誰かが出した「パス」をそれと気づかぬまま受け取ってしまったという仕方で、ぼくたちはそのゲームの当事者になっている。ですから、そこで行われている交換が「等価交換」であるはずがないのです。それは最初の「贈与」から始まる(人類の歴史と同じだけ長い)連鎖反応から派生した、ひとつの効果にすぎないんですから。
ですから「オーバーアチーブ」ということは、本当はありえないんです。というより「与えられたものと等価のものを返す」という適切なる反対給付が人間にできるはずがないのです。だって、起源よりさらに前の起源(レヴィナス老師の言葉を借りて言えば、「いまだかつて一度も現在になったことのない過去」」)において、誰かに何かを譲渡されたことによって「アチーブする」主体そのものは立ち上げられたわけですから。P239-240
平川克美「ビジネスに「戦略」なんていらない」(洋泉社 2008)


「人間がビジネスをするのではなく、ビジネスをする動物が人間なのだ。」という射程で本書ははじまる。引用文は、著者と内田樹の対話から。

平川氏が問題意識としているのは、ビジネスを「お金」であれ「達成感」であれ、あるいは経営者の自己実現であれ、明確な目的が事前にあるものだとする考え方そのものが、ビジネスをつまらなくさせているという点について。

そこで彼は、ビジネスプロセスを「収益」や「売上」の手段という地位から引き上げて、ビジネスプロセスそれ自体に「価値」を見出すことに論を進ませる。主に扱われのは、「商品の迂回性」と「交換の反復」の2点。

個人の欲望は必ず「商品」を媒介として、迂回的に実現する他はないと平川氏は考えており、それがビジネスの構造であるとする。もちろん迂回的というところがミソである。つまり、評価が確定され続けないものがあるということであり、その評価されなかった部分はつまりのところ「やりすぎてしまう」ということに繋がる。

例えば、自己評価と外部評価の壁。これは、互いが氷山の一角しか見えていないことに起因しているが、この氷山の一角の「一角」を見えるものにしている無数の条件を我々は無意識のうちに排除しているのだ。そして、その排除したものが何かを分からないあまりに、追い求めている。

そして人間が、使用価値を超え出る象徴価値(ブランド)を求めるのは、それを所有することが社会的位階差を表象するからであると。社会的位階差とは何か?それは、「その人にもう一度会わずにはいられない(しかし、どうやったら会えるのか、そのルールがわたしには明かされていない)という焦燥感」のことである。(ex『ローマの休日』のラストシーン)

以上は書籍内容であるが、ここと絡めて思ったことをいくつか書きたい。1つは、我々に潜んでいる投資家的態度と起業家的態度ついて。もう1つは、欲望について。

投資家的態度とは、未来の株価から出発して、現在の投資を決めるというDCF的態度。これに対するのが起業家的態度は、絶えず現在を更新しながら未来を切り拓くという態度。我々人間は、他者の欲望を模倣し、同時に他者に欲望されたいと欲望する存在である。他者と同じでありたいということ、同時に他者とは異なっていたいということ、この2つの欲望をひとつの精神に宿っていることが、我々の観念的欲望を無限に再生産/駆動していく。

まとめると、「上記にみられる複雑な構造を考えながらビジネスをするのは楽しいぞ」という文系教養人による真っ当なビジネス論です。

■参考リンク
カフェメトロポリス



■tabi後記
S.I.ハヤカワ「思考と行動における言語」とスティーブン・ピンカー「思考する言語」が気になる。さあ、どうでしょうかね。
posted by アントレ at 19:14| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0145 小沼純一 編「武満徹 対談選」

武満:明らかに僕が聴いたのは、ジャレットさんの即興演奏、ジャレットさんが創り出している、おっしゃったように暗い闇から引き出してきた音、音楽であったわけだけれど、それはたいへんパーソナルでありながら、何と言ったらいいかな、感じたことを適切に言う言葉ちょっと大げさに響くかもしれないけど、ユニヴァーサルというか、いやもっと宇宙的(コズミック)な、つまりジャレットさんが弾いているってことを忘れちゃうような世界ですね。

それはさっきジャレットさんが言っていた、さらに深く深化していくことによってもう音楽なんか何もないような世界といってもよい。つまりそれは、音楽が満ちあふれていて音楽が見えなくなっているような状態というか、人間はこの宇宙の中では実に小さな存在だけれど、しかしそういう小さなものがこの大きな宇宙のパーツであり、また大きなシステムのなかにあるのだということを感じたんですね。

ジャレット:何という詩人が言ったのかは知らないのだけれど、私の好きな一節に"the more personal the statement is, the more universal it is"(主張がパーソナルであればあるほど、それはユニヴァーサルなのだ.)というのがあります。
武満さんはこの二つの言葉をちょうど今言われたわけだけれど、この詩を読んだからというのではなく、私の経験から、即興の経験から言えることは、それは強力なホースで毎回すべてを洗い流してしまってから、そこに残るものを見るようなことだと思うんです。P157
小沼純一 編「武満徹 対談選」(筑摩書房 2008)


世界でもっとも知られる日本人作曲家、武満徹。一方で「武満徹の名を多くの外国人外交官は知っているが、日本人外交官は彼を知らない」と語られることもある。私も彼の名前を知っているだけ(また、大学受験国語で読んだことがあるくらい!)でしたが、ジョン・ケージ、ヤニス・クセナキスらの音楽家や、谷川俊太郎、大竹伸朗らの芸術家、そして黒柳徹子など幅広い分野の人々との対談をつうじて、彼の人なりと根本思想のようなものが薄らと見えた気がする。

これらの対談の中で私は、武満徹とキース・ジャレットの対談に目がとまった。彼らを熟知していたわけではないが、これを機により知りたいと思わされた。

そう思わせたのは、彼らに通底する哲学であろう。それは、ミクロコスモスとマクロコスモスに対する理解であり、2つのコスモスを「1」にする調和を目指すのでもなく、2つのコスモスを対立させることを目指すのでもなく、ただその融和のなかに佇むということを認識/存在の両方で感じていること。そして、そこに佇む<私>を全力で表現していること。その2点が私を好奇心に駆り立たせた。

Takemitsu:November Steps(excerpt)


Keith Jarrett Solo Concert


■参考リンク
第千三十三夜【1033】
武満徹/追悼小論 ノヴェンバー・ステップスへのジャイアント・ステップス
キース・ジャレット・創造の秘密
Takemitsu Soundtrack Documentary (1 of 6)



■tabi後記
生みの苦しみとはいかなるものだろうか。煮え切らぬ思い、そして表現の壁か。本日も外は熱している。
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2009年05月09日

tabi0144 西林克彦「あなたの勉強法はどこがいけないのか?」

「わからなくならない知識」は、どこが「おかしい」かと言えば、その知識を使っていない点なのです。もう少し正確に言えば、決まり切った使い方しかしていない点です。「わからなくなる危険」を冒していないのだと言ってもいいでしょう。決まり切った使い方しかしないと、「わからない」ことは出てきません。P140
西林克彦「あなたの勉強法はどこがいけないのか?」(筑摩書房 2009)


勉強法に関する書籍がひしめく中で西林さんのスタンスには共感がもてる。本書では、素質と思われるものの大半が能力であり、「素質」があるとわかるにはある程度能力をつけてから判断されるものであると考える。そして、能力がつくことによって得られる「楽しさ」は一定以上のは時間がかかるということを前提としたうえで、ただ単に時間をかければいいのではなく学習質を追求してほしいと願っている。本書は、そのための方法論,考え方を小学校の算数,理科といった身近な事例によって促してくれるのだ。

勉強とは出来ない事が出来るようになる事であると考えられるが、それは無知から既知への飛躍ではない。無知から未知への飛躍なのである。未知に浸る事ができること、自分が何を知っていて、何を知らないのか、またどうしたら知っていることを知らなくすることができるのか。この思考過程が楽しいのである。

■参考リンク
「わからない」を自分の身で引き受けること
「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・



■tabi後記
酒井さんと英語勉強会をはじめました。来週から本格的に開催するのですが、コンセプトとしては「Koten meets Siliconvalley」です。来週は「茶の本(THE BOOK OF TEA)」を英文で読み込んだうえで、その要約/感想をシリコンバレー的にプレゼンする。僕は、茶の本×Amazon Kindleを着想させ、彼は茶の本×Dropboxを着想させるようです。茶室や茶碗という「見方」によってWeb/プロダクトを論じるというのは面白いと思う。
posted by アントレ at 10:24| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0143 ダニエル・T・マックス「眠れない一族」

プリオン病に罹っているいる人のだれと比べても、私はほんとうに幸運だ。何であれ、慣れるだけの時間が十分にあるのだから。帰ろうとする私に、医師は一年後か二年後にまた受診するように、と言う。そうすることもあれば、しないこともある。ときには、何か新しいことがわかるのではないかと別の医師を訪ねてみる。つまるところ、証拠の不在は、不在の証拠にはならないのだから。いつかどこかでだれかが、治療法を見つけてくれるか、少なくとも病名ぐらいを見つけてくれるだろう。私のが病気が何であるにせよ。P334
ダニエル・T・マックス「眠れない一族」(紀伊国屋書店 2007)


著者自身が「眠れない一族」と類似する病気を抱えていること。「なぜ私が病気にならなくてはいけないのだ?」という理不尽さを抱えながら、自分よりも理不尽な病に対峙する一族に対峙していくなかで本書が書き上げられていったことを知り、関心をもった。

本書はプリオン病の謎に挑むメディカル・ミステリーである・登場するプリオン病はすべて致死性で、十八世紀以来、あるヴェネツィアの一族を苦しめてきた致死性家族性不眠症(FFI)、ヨーロッパ各地で大発生した羊の病気「スクレイピー」、二◯世紀前半に発見されたクロイツフェルト・ヤコブ病、二◯世紀後半にパプアニューギニアのフォレ族に猛威を振るった「クールー」、一九八◯年代後半にイギリスで発生して今に至る牛海綿状脳症(狂牛病)などがある。

これらは発生の時期や場所が違うばかりか、遺伝性、感染性、散発性という形態もさまざまで、症状も同一ではない。そのうえ、ウイルスやバクテリアが原因の通常の病気と違い、非生物のタンパク質が原因で、従来のパラダイムが通用しなかった。「遺伝子が生物の形質を決定する」「生物だけが感染を引き起こす」とばかり思っていた人々は、感染性も遺伝性も散発性も持ち、「何ヶ月も何年も無症候性を保」ち、既知の免疫反応を起こさせない、前代未聞の「不死身」の病原体にとまどう。

「プリオンはタンパク質にすぎず、命はない」にもかかわらず、自分と同じ折り畳まれ方のタンパク質をふやしてゆくので、「生存は自らの遺伝子を広めようとする個体間の競争から成り立っている」という、ダーウィンの説に反することを認めるためには大きな思考の飛躍が必要であったのであろう。飛躍の先で佇まいをしている我々に出来るのは、思考の飛躍が要されているのは常のことであり、メタ認知に優れた人間ですらも容易にパラダイム固執をしてしまうという厳然たる事実を心に刻み付けることだけである。

■参考リンク
成毛眞ブログ
狂牛病 - 食人 - 致死性家族性不眠症
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
Amazon Kindleについて深めのリサーチをしてみようかと考えている。
posted by アントレ at 00:23| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0142 岡倉天心「茶の本」

茶はわれわれにとっては、飲む形式の理想化以上のものとなった。それは生の術の宗教である。(中略)茶の湯は、茶、花、絵画を素材に仕組んだ即興劇であった。茶室の調子を乱す一点の色もなく、物事のリズムをそこなうもの音一つ立てず、調和を破る身の動き一つなく、周囲の統一を破る一言も口にせず、すべて単純に自然に振舞う動作ーこういうものが茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことに、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理がひそんでいた。茶道は変装した道教であった。P35
岡倉天心「茶の本」(講談社 1994)


この本をとった(つられた)瞬間にすべてが決まっていた。すごい釣り師がいたものだ。

「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。」といった咆哮から論旨がはじまっていく。

「THE BOOK OF TEA」を手に取った方々(天心がターゲットとした西洋人)は「Tea」についての艶かしい論述を期待していたのではないだろうか。そこでこの出だしである。

次に続くのが
いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
といった記述である。これを釣りといわずして何といおう。とはいえ、釣られたものも釣られたままでは終わらせないのが茶室の美学。天心が述べるところで言うのなら、「出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。」「われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。」ということであろう。井筒氏と比べることは難しいが、天心が目指していたのもまた「精神的東洋」だったのだろう。
 
■参考リンク
第七十五夜【0075】
Publishing [対訳ニッポン双書]『茶の本』に序文を寄稿
39旅 岡倉覚三(天心)『茶の本』
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
明朝は「THE BOOK OF TEA」を素材にして英語学習です。
posted by アントレ at 00:02| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

tabi0141 遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」

遺体の現場とともに生き、日々集められる遺体から新しい発見を繰り返し、遺体を未来まで引き継ぐ。こうした私たちの営みの中心にはいつも動物園や博物館がある。そしてそこから生まれてきた一つの知の体系が、この本の中心をなしてきた、身体の歴史にまつわるいくつもの話だ。もうお気づきだろう。遺体科学は、市民社会全体が創っていく動物園や博物館と切っても切れない関係にある。読者のあなたが、動物の遺体を知の源泉として理解するかどうか、動物園や博物館を未来の科学の中心であると認識するかどうかで、遺体科学の発展の成否は決まってくるのである。P243
遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」(光文社 2006)


些細な記述であったが、遺体科学者の研究精神は参考になる。遺体科学者にとっては、遺体に対峙する前から闘いははじまっているのである。それは、「自分の目の前に1匹の狸がきたとしたら、どこを見て、どう切り込むか、どこに調査報告をするか..etc」を常にシミュレーションしているのだ。なぜなら、遺体発見連絡/遺体確認を行ってから意思決定をするまでの時間が制限されているからである。つまり遺体の鮮度に起因からだ。

彼らの行いを抽象化すると、情報の入れ物と出し物と組み合わせを身体的にパターン化しているのだろう。遺体状況の把握等は美術品・骨董品の目利きのようなもので、明確に状況把握を出来ることではない。私にとっては、彼らが、どのような認知過程を経ているのかに関心が湧いてしまった。

■参考リンク
Homo Ikiataribattus
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
山中俊治さんのブログがクールだ。
posted by アントレ at 23:49| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0140 井筒俊彦「叡知の台座 井筒俊彦対談集」

このセム的存在感覚というものは、東洋思想そのものの重要な一つの基礎であるだけでなくて、西洋文化の深い理解のためにも、どうしても身につけておかなくてはならないものじゃないでしょうか。(中略)「神は死んだ」というニーチェ的なテーゼ、遠藤さん的にいえば、「神は沈黙しきってしまった」ということになるかもしれませんが、そういう状況を、少なくとも思想界の前衛的領野では、みんなが表面的に受け入れて仕事している。ところが、「神は死んだ」と口先で言うことはたやすいけれど、実は、そう簡単なことではない。キリスト教的西洋では大問題です。なにしろ、神の死、神不在、ということは、西洋文化のコンテクストでは存在の中心点がなくなるということですからね。そこには当然、言い知れぬ不安があり、焦燥感がある。脱中心の時代などというと、勇ましくて、いかにも聞こえはいいけれど、本当は大変な危機的状況じゃないでしょうか。P12
井筒俊彦「叡知の台座 井筒俊彦対談集」(岩波書店 1986)


遠藤周作、ジェイムズ・ヒルマン、河合隼雄、上田閑照といった思索者との対談集。どれも素晴らしい対談となっているが、ここでは遠藤周作との対談から引用させて頂いた。

井筒氏は、セム的存在感覚を「真に生きた神、人格的一神にたいする情熱的な、なまなましい信仰をもとにして、それを全存在世界の極点として表象する(その実在をわれわれが信じるか信じないかは別として)、そういう形で存在性のギリギリの原点を表象するということ」と定義する。

この感覚は、イスラーム/新約/旧約の三宗教(及びそれから派生した宗教)に存在する聖的な感覚であり、仏教には存在しない感覚であると語る。井筒氏が考える東洋とは地理的東洋ではなく精神的東洋である。その地平は、日本,チベット,中国をはじめとして、インド,トルコ,ペルシャまで延びる。この広大な範囲において、精神的東洋を直観する土台となっていたのは、彼の言語感覚によるところが大きいだろう。

井筒氏は、徹底的/独創的な思考として注目されるほかに、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語、パーリ語など20ヶ国語を習得・研究し、西洋哲学を徹底して研究した後に、言語と無意識の関連性に関心が向いていったのだという。それが「言語アラヤ識」という考えであろう。

それまでは、パロール/ラングの領域で思考をすすめていたようだ。井筒氏は言語アラヤ識という考えを起点にして、宗教と哲学を結ぶ接点としての「神秘主義」に思考の射程をのばしていく。

東と西との哲学的関わりというこの問題については、私自身かつては比較哲学の可能性を探ろうとしたこともあった。だが実は、ことさらに東と西とを比較しなくとも、現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の地平において考究しさえすれば、もうそれだけで既に東西思想の出逢いが実存的体験の場で生起し、東西的視点の交錯、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成立してしまうのだ。
これは「意識と本質」あとがきにある文章。井筒氏の肩に乗りながら、「読書と無意識と芸術表現」というテーマで思索していきたい。

■参考リンク
553旅 井筒俊彦『叡知の台座 井筒俊彦対談集』
学(ぼ)ぶログ 



■tabi後記
パラレルデットライン読書によって導かれる思考の内的連環構造を進化的なモデルで表現してみたい。
posted by アントレ at 20:32| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0139 丸山真男 「日本の思想」

むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。P11
丸山真男 「日本の思想」(岩波書店 1961)


「日本の思想」自体はは66ページの論文である。論旨は明確であるが、細かな注が多いこともあり現代の新書を読み慣れた人にとっては難解な部類にはいると思われる。日本思想というものは存在したのか?なぜ思想のサラダボールといわれる状況がおきているのか?ササラ型/タコツボ型と思想形成の歩みに対する分類を行っている。

引用文にみるように、日本思想は、流動的伝統であり、精神の内面が構造性をもたない傾向にある。こういった傾向の中で、異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとして用いられたのが「何々即何々」(あるいは何々一如)という仏教哲学の俗流化した適応であった。

このように、あらゆる哲学・宗教・学問を相互が原理的に矛盾するまで「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものがある。それは、こうした精神的雑居性の原理的否認を要請する思想である。近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義だった。

■参考リンク
第五百六十四夜【0564】

posted by アントレ at 01:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0138 西田幾多郎「善の研究」

真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃もこれに向うことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである。P56-57
西田幾多郎「善の研究」(岩波書店 1979)


西田の出発点となる「善の研究」は、彼が30代をかけて書き上げた著作である。金沢の第四高等学校で教鞭をとりながら、徐々に徐々に完成させていった。

本書では「西田哲学=場の哲学」という印象は多く感じられないが、「意識統一による意志」「純粋経験」という言葉を丁寧に丁寧に理論づける姿勢に関心をもたされる。(それを煩わしく思い、言語遊戯だという方もいるだろうが・・)

また、幼少期からの禅体験が用いる言葉にも影響をあたえている気がする。引用文はそんな一説。既にこの時、西田の内には宗教的経験(覚悟)が根ざしていたのだろうか。西田が、そこで観取した「知的直観」をロゴス空間へ落し込もうと苦心する様を読後真っ先に想起した。

■参考リンク
第千八十六夜【1086】
61旅 『善の研究』西田幾多郎



■tabi後記
久々に夜更かしをしている。
posted by アントレ at 00:59| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月07日

tabi0137 ウィルソン・ハーレル「起業家の本質」

恐怖について考えれば考えるほど、恐怖とはそもそも会社設立へと私たちを導いたものと同じものー何か根源的、なかば無意識の欲求、つまり、この世界に自分の印を記したい、自分の足跡を時の砂の上に残したい、という欲求からくるとわかってきます。思うに、本当に恐れるのは、自分たちが単なる大衆の一員となり、人々から忘れ去られてしまうことなのではないでしょうか。P20
ウィルソン・ハーレル「起業家の本質」(英治出版 2006)


起業家を対象にしたビジネス雑誌「インク」の創刊者が語る起業家論です。起業家を農耕/狩猟,サイズ/成長性で分類する視点は改めて参考になったが、購入当初に線を引いた箇所は響かなくなっていた。ハーレルに共感するところが薄くなってしまったのだ。

理由としては、引用文にもある「恐怖」に対する考えが変化したことだろう。私は、「時の砂の上に足跡をのこす」ことや、「単なる大衆の一員になること」への恐怖/危機感がこれぽっちもない。それよりも「砂」や「大衆」といった概念から脱すること。自らが時をつくり、一員という枠を創造することに関心が向いている。同時にまた、それを為せない可能性に対する恐怖もない。(とはいっても、概念創造という意味では同定なのかもしれない)

なんと表現すればよいだろうか。多世界的に生きたいというか、いや、生きている。1つがダメだったら、それで終わりという生き方が原理的にできずにいて、またそれを肯定することができる私をもっており、肯定するだけではなく、もとの「居場所」よりも見晴らしの良い地点へ戻っていける自分が存在していると信じきっている。ちょっと止まらなくなりそうなので、このあたりで終わりにしてみます。



■tabi後記
安斎利洋さんのゼミに参加する。ポリフォニーと絡めて、ポリリーディングという発想を頂いた。
posted by アントレ at 23:47| Comment(2) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月06日

tabi0136 岡田英弘「歴史とはなにか」

くりかえしになるが、世界の変化に法則があるわけでも、一定の方向に向かって進化しているわけでもない。だから、「古代」と「現代」、という時代に分けかたはいいけれども、古代から現代への進化の中間期として、「中世」などというものを挿入するのは、不合理である。まして、未来に世界がとるべき姿があらかじめ決まっていて、それに向かって人類の社会が着々として進化しているなどというのは、あまりにも根拠ない空想であって、とうていまじめな話とは思えない、ということだ。P145
岡田英弘「歴史とはなにか」(文藝春秋 2001)


自らがこの世界に生まれる前にも世界が存在していると仮定したときに、私たちの目の前には歴史が立ちはだかる。宇宙開闢の歴史から、生命誕生の歴史、人類祖先の歴史、経済、宗教、組織、共同体、国家・・・といった様々な概念には「歴史」が紐づいている。

本書では、歴史を「人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、斜述する営み」と定義されている。このような定義で歴史を捉えると、インドとイスラム文明には歴史がないことになる。なぜなら、輪廻転生やアッラーといった人智を超えた概念が文明を貫いているため、人間の認識だけで世界を描くことがそもそもできない。ということは、「歴史」という概念がそもそも冒涜となってしまうのである。

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歴史を成り立たせるには、「1 直進する時間の観念」「2 時間を管理する技術(暦,年代)」「3 文字」「4 因果律の観念」が必要であって、これらの要素が存在/軽視されている集団は少なくはないのだ。一方、地中海や中国文明においては、ヘロドトス、司馬遷という二大歴史家が誕生した。彼らの世界においては、合理的精神(変化/正統性)を文明が有していたから歴史が重宝された。

この他にも、神話の扱い方、時代の区分は、現代と古代(いまとむかし)の二分法しかないということ、そしてその分岐点はどこにあるのかということ、現代と古代は常に移ろいゆくわけだが、いかにして歴史を記述していくのかといった論考が入っているので歴史の学習に気乗りがしていなかった方にはお勧めしたい。

歴史認識というと靖国/北方領土といった言葉で思考がストップしてしまうと思うが、そもそも「歴史とは何か?」というフレームワークから考えることで話にも深みが出るだろう。

■参考リンク
601旅 岡田英弘『歴史とはなにか』
資料室:歴史とはなにか
新しい創傷治療



■tabi後記
この2日間で幾度もブログを更新をしたためか「読書法」に関する相談を幾度もうけた。その場で話をしたところで人の習慣は変わらないので、読書法を教える前に「いかに毒書に陥らず、読書にもっていけるか」を話すようにしている。
posted by アントレ at 22:04| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0135 ミルトン・メイヤロフ「ケアの本質―生きることの意味」

私と補充関係にある対象と自分自身の関係は、椅子とテーブルの関係のように外面的なものではない。それどころか、私はそれを拡張した自己であると身に感じとり、その成長と同一化するのである。だからといって、その関係は寄生的なものではない。私とその対象をともに肯定するという意味で、その対象は自分の一部なのである。そしてケアのあらゆる場合に、私はその相手をある意味で自分の一部として身に感じとるのであるが、こうした経験は、その対象が私と補充関係にあり、かつ自分を完成してくれるものと感じた場合に一層顕著なのである。P125
ミルトン・メイヤロフ「ケアの本質―生きることの意味」(ゆみる出版 1987)

先日、学生団体VOICEのメンバーが近藤正晃ジェームスさんにインタビューにいってきたようです。そのインタビュー内容と本書を絡めて論じたい。

近藤さんは、マッキンゼー社が全世界のクライアントに行った「コンサルタントに求める理想像とは?」という調査結果の話しをしていました。コンサルタントや採用担当者は、地頭が良い人、問題解決能力が高い人といった要件をあげていたのだが、クライアントが一様に答えたのは「ケアリングな人間」という回答であった。

メイヤロフのいうケアリングとは、ケアされる他者の成長を可能とする行動である。しかし、それだけにとどまらず、他者をケアすることにより、ケアする人もまた自身に欠けているものに気づくことから成長するのである。この関係性が成立することで、ケアリングが達成される。そのため、ケアリングとは他者志向的な行動であると同時に、自己志向的行動でもあるといえる。このことから、メイヤロフのいうケアリングの本質は、関係性であるといえる。

人は、子供をもったとき、自分の死を悟ったとき、親の死を悟ったときにMe志向からWe志向に変わると考えた。私はこの状況を「体内に時計が出来る」と表現している。このアイデアはメイヤロフでいう「ケアの本質」に気がついたときと言い換えられると気がついた。



■tabi後記
マキネスティ広尾店にきている。美味しいコーヒ、素敵なスタッフ、電源、無線LANがあるので最高です。
posted by アントレ at 16:21| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0134 セネカ「人生の短さについて」

いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおりに事が運ぶのは一体誰が許してくれるのか。人生の残り物を自分自身に残しておき、何ごとにも振り向けられない時間だけを良き魂のために当てることを、恥ずかしいと思わないか。生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか。有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。P15-16
セネカ「人生の短さについて」(岩波書店 1980)

セネカが自分自身へ書いたエッセイではないだろうか。そう思えば思うほどに言葉が重くなってくる。私たちの世代は120-200歳まで生きるのが当たり前になるかもしれない。その時においては、80歳は人生の折り返しにしかすぎない。しかし、寿命が倍になっても「人生」が2倍にはならない。むしろ寿命に占める人生の割合は小さくなるのではないか。私たちは「主体的に生きる」「自分らしく生きる」という言葉で自己規定する必要はない、「準備の人生」「下積みの人生」という言葉で自己説得する必要もない。

セネカが説いたのは、人生があるのではなく、人生を見いだす人がいるという教えである。人生を見いだすとはいかなることか。そこに明確な文章は存在しないが、自分がなぜ存在してしまっているのかという問いに対してシンプルな感覚を持ち続ける事が大切であろう。

■参考リンク
992旅 セネカ『人生の短さについて』
はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのです



■tabi後記
広尾のJICA広場にてTFT(Table For Two)のメニューを食してきた。
posted by アントレ at 16:10| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

tabi0133 永井均「マンガは哲学する」

私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティーと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。P4-5
永井均「マンガは哲学する」(講談社 2004)


マンガでしか表現できない哲学があるという直観にもどづく1冊。私は、「マンガという表現形式」と「マンガというジャンルが人の情報対峙における与える影響」に関心があったので楽しむことができた。

マンガは、実際には発音が伴わなければならないせりふが文字で書かれるという約束事で成り立っている。マンガを読んでいる物は、それを意識していないからこそマンガを自然に読むことができる。

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文字がつくられ、その文字の発音が与えられているにもかかわらず、私たちの頭の中には なんの発音も発生しない。

後者の視点として、このようなコンセプトが堂々と流通することへの愉快さをおぼえる。本書でも登場する『気楽に殺ろうよ』は、性欲よりも食欲が隠されるべきもので、殺人の権利が売買されるのがあたりまえであるような、別の世界に入り込んでしまった男の話である。

そこでの話しを引用すると『食欲とはなにか?!個体を維持するためのものである!個人的、閉鎖的、独善的欲望といえますな。性欲とは?!種族の存続を目的とする欲望である!公共的、社会的、発展的、性格を有しておるわけです。と、こう考えれば、地球社会のありかたもあやしむに足りませんな!』永井さんはこの立場を、「彼の態度を見ていると、いかなる相対化の理屈も、実はそういう絶対性の上にのっかってしか機能しないことがよくわかるのである」と述べている。相対主義の泥沼、その果ての神秘化、それらの往還といった思考形態を深める意味で「相対主義の極北」を本棚からとりだしてみる。

■参考リンク
格安哲学
走りながらOSを変える
吉田戦車



■tabi後記
以前、銭ゲバの書評をしたことがあるが、私の中では新鮮な書評体験であった。(ドラマが放映されていた時ほどではないが、この記事には常時アクセスがある)マンガ/絵本/俳句/絵画/音楽といった芸術表現にとらわれずにtabiをしてみようかと考えている。

『マンガは哲学する』永井均(講談社)が扱っている作品一覧

■第1章 意味と無意味
藤子・F・不二雄「ミノタウロスの血」小学館文庫『異色短編集1』
藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」「サンプルAとB」小学館文庫『異色短編集2』
藤子・F・不二雄「絶滅の島」「流血鬼」コロコロ文庫『少年SF短編集2』
手塚治虫「ブラック・ジャック」講談社
吉田戦車「伝染るんです。」小学館
中川いさみ「クマのプー太郎」小学館
諸星大二郎「感情のある風景」集英社『夢みる機械』
城アラキ・甲斐谷忍「ソムリエ」集英社
福本伸行「カイジ」講談社

■第2章 私とは誰か?
萩尾望都「半神」小学館文庫 
萩尾望都「A-A´」小学館文庫 
吉野朔実「ECCENTRICS」集英社
士郎正宗「攻殻機動隊」講談社
高橋葉介「壜の中」朝日ソノラマ『怪談』
川口まどか「ツイン・マン」秋田書店
田島昭宇・大塚英志「多重人格探偵サイコ」角川書店

■第3章 夢−世界の真相
高橋葉介「夢」朝日ソノラマ『怪談』
佐々木淳子「赤い壁」「メッセージ」「Who!」フロム出版『Who!』
諸星大二郎「夢みる機械」集英社『夢みる機械』
楳図かずお「洗礼」小学館文庫

■第4章 時間の謎
藤子・F・不二雄「ドラえもん」小学館
手塚治虫「火の鳥−異形編」講談社
星野之宣「ブルーホール」講談社
佐々木淳子「リディアの住む時に」フロム出版『Who!』
藤子・F・不二雄「自分会議」小学館文庫『異色短編集1』

■第5章 子どもV・S死−終わることの意味
楳図かずお「漂流教室」小学館
楳図かずお「わたしは真悟」小学館
諸星大二郎「子供の遊び」集英社『不安の立像』
松本大洋「鉄コン筋クリート」小学館
吉野朔実「ぼくだけが知っている」集英社
永井豪「霧の扉」中公文庫コミックス『永井豪怪奇短編集2』
しりあがり寿「真夜中の弥次さん喜多さん」マガジンハウス

■第6章 人生の意味について
西原理恵子「はにゅうの夢」双葉社『はれた日は学校をやすんで』
業田良家「自虐の詩」竹書房文庫
しりあがり寿「髭のOL藪内笹子」竹書房
坂口尚「あっかんべェ一休」講談社漫画文庫
つげ義春「無能の人」新潮文庫『無能の人・日の戯れ』
ゆうきまさみ「究極超人あ〜る」小学館
赤塚不二夫「天才バカボン」竹書房文庫

■第7章 われわれは何のために存在しているのか
星野之宣「2001夜物語」双葉社
星野之宣「スターダストメモリーズ」スコラ
石ノ森章太郎「リュウの道」竹書房文庫
永井豪「デビルマン」講談社
岩明均「寄生獣」講談社
posted by アントレ at 21:00| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0132 立川武蔵「はじめてのインド哲学」

インド精神史は六つの時期に分けられるが、インド精神が一貫して求めていたものは、自己と宇宙(世界)との同一性の体験であった。世界を超越する創造神を認めないインドの人々が求めた「神」は、世界に内在する神、あるいは世界という神であった。一方、インドは自己に許された分際というものを知らなかった。つまり、自己は限りなく「大きく」なり、「聖化」され、宇宙(世界)と同一と考えられた。もっとも、宇宙との同一性をかちとるために、自己は時として「死」んだり、「無」となる必要はあった。しかし、そのことによって自己はその存在の重みをますます増したのである。
自己も宇宙も神であり、「聖なるもの」である。自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙が自らに対して「聖なるもの」としての価値を与える、すなわち「聖化する」のだということを、何としても証したいという努力の過程が、インド哲学の歴史にほかならないのである。P28
立川武蔵「はじめてのインド哲学」(講談社 1992)


インド哲学は、時間軸、バラモン正統派/非正統派(仏教)、アーリア人/非アーリア人の闘争・融合といった切り口で概観できそうである。

時間軸は立川による切り取りであり、バラモン正統派による思想なのか、正統派の思想の分類は、宇宙原理が、外に存在していると考えるか、存在は妄想と考えるかである。アーリア人/非アーリア人の闘争・融合は、ゴータマ・ブッタが非アーリア系として生まれ、アーリア文化(バラモン文化)と闘争、融合していったところからも分かる。

tabi0132.jpg
立川によるインド精神史の時代区分(1 インダス文明の時代,2 バラモン中心主義の時代,3 仏教などの非正統派の時代,4 ヒンドゥイズム興隆の時代,5 イスラーム支配のヒンドゥイズムの時代,6 ヒンドゥイズム復興の時代)

■参考リンク
インド哲学の話から霊的ヒエラルキアの話へ
意外といけてるインド哲学入門
231旅 『はじめてのインド哲学』



■tabi後記
三冊読自祭では芸が無い。あとひと捻りが必要だな・・。
posted by アントレ at 11:54| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0131 日蓮「立正安国論」

主人と客との対立を「仏法」と「王法」のどちらを優先させるかといったレベルで捉えることは適切ではない。仏法なくして安国もないという点では両者の認識は完全に一致しており、それは議論の共通の前提だった。(中略)客はそれまで法然の信奉者であったように描かれているが、その信仰の内実は法然の説くそれと似て非なるものであった。客は第三段・第四段では、当時が嘉(よみ)すべき仏教全盛の時であるという時代認識を披露している。その上で、「邪説」が蔓延して伝統仏教が衰亡の危機に瀕しているとみる日蓮に疑問を投げかけている。(中略)客の念仏受容は、他の教行を拒否して念仏を専修するという法然的な<選択(せんちゃく)主義>に基づくものではなかった。むしろ念仏も諸行もその価値を等しく肯定した上で、自分に一番ふさわしい教えとして念仏を実践するという、伝統仏教側の<融和主義>を土台としたものだったのである。P28-29 訳者解説
日蓮「立正安国論」(講談社 2008)


全訳注を参考にしながら読み進めた。エックハルト(1260-1328)と同時代を生きた日蓮(1222-1282)の著作。ミチオ・カクから感じた進歩史観とは対極をなすような下降史観を垣間みた。38歳の人間が時の最高権力者に対し、現在の社会状況の考察、状況に対する自らの解決策を自らのの言葉で綴りきった行為は参考に値する。

■参考リンク
立正安国論に見る日蓮のカルト性



■tabi後記
藤沢さんが実践しているパラレル読書を試してみた。15分×12本(3時間)で3冊を読自するというのは容易な試みであることに気がつく。(1冊の時より負荷がない!)松岡正剛の三冊屋というコンセプトとも通底する。
posted by アントレ at 11:30| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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