2009年06月30日

tabi0206 デカルト「方法序説」

モウラアウラ

本書の正確なタイトルは、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(序説)、加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」である。

全体で500ページを超えるこの大著の最初78ページが「方法序説」であり、3つの科学論文集の短い序文となっている。

デカルトは、ありとあらゆる書物を読むことで、真理を獲得できると考えていたが、それによって多くの疑いと誤りに悩まされ、自分の無知を知らされることになってしまった。

デカルトは、この旅にあまりに多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまうと考えていた。それは、過去の世紀になされたことに興味をもちすぎると、現世紀におこなわれていることについて往々にしてひどく無知なままになるということであろう。

以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。

旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこに何らかの利点をひきだすことだ。

というのは、各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。P17
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


モウラになるか。アウラになるか。更に言葉遊びをするならば、「モアウラ(More裏)」という言葉生まれてくる。「ヨリウラ」とは「何より」なのか、「ウラ」は何を示すか。メタファーとして思索してみてほしい。

世界が欲する自分の秩序という視点

「餅は餅屋」を感じきったデカルトは、自分の仕事を「全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できうるかぎり真理の認識に前進していくことである」と確信している。
わたしの第三格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。

したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分だと思えた。P38
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


デカルトを還元主義者の一言で片付けられるだろうか?いや、そういう問いではないかもしれない。

私は彼の著作を読むことで「自身にあるデカルト」を気づこうとてもしたのではなく、デカルトが見ていた地平は「還元主義」だったのだろうか?という違和感があるからだ。

もちろん、問いは謎のままである。

■参考リンク
方法序説×方法叙説
哲学書を無心に読むこと……的
困難は分割せよ・・・ルネ=デカルトの教え



■tabi後記
どうも近音異義語(韻)が引っかかるらしい。
posted by アントレ at 22:35| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0205 G・ポリア「いかにして問題をとくか」

われわれは全体の仕事を4つに区分することとしよう。まず第1に問題を理解しなければならない。即ち求めるものが何かをはっきり知らなければならない。第2に色々な項目がお互いにどんなに関連しているか、又わからないことがわかっていることとどのようにむすびついているかを知ることが、解がどんなものであるかを知り、計画をたてるために必要である。第3にわれわれはその計画を実行しなければならない。第4に解答ができ上がったならばふり返ってみて、もう一度それをよく検討しなければならない。P9
G・ボリア「いかにして問題をとくか」(丸善株式会社 1954)


このように数学を教えてもらった生徒は幸せだろう。55年前の本であるが「いかにして問題をとくか 」というプロセスを探究した結果は全く色あせない。55年経過することで、中川氏のような書籍が出来たのだろう。

tabi0205.jpg

今でも価値があると思ったのは、計画立案(方略立案)における「問題の言い換え」であろう。これはクレージーブレインストーミングとしても使われている。

例えば「どのようにして子どもに苦い薬を飲ませることができるか?」を考えてみる際に、「子ども」を「猫」に「苦い薬を飲ませる」を「お化け屋敷につれていく」と置き換えてみる。

この置き換えた問題について、ブレインストーミングを行っていくのだ。その後に、そこで出たアイデアを本来の問題に適用できないかを考えるということ。

このワークはアナロジーを誘発するものなので、本書で扱われている「問題の言い換え」よりも広義になっている。しかし、問題を言い換えてしまうという掟破りは大切な作業であろう。



■tabi後記
この本には出版社丸善としての志が感じられる。この時代、この本を手にとった者は何を議論したのだろうか。
posted by アントレ at 21:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0204 平川克美「経済成長という病」

経済は成長を要求するのか?

経済成長そのものは、社会の発展プロセスのひとつの様相であり、おそらくは発展段階に起こる様々な問題を解決してゆくだろう。しかし、経済均衡もまた社会の発展プロセスのひとつの様相であるに違いない。その段階において無理やり経済成長を作り出さなければならないという呪縛から逃れられないことこそ、私たちの思考に取り憑いた病であると思うのである。P70
平川克美「経済成長という病」(講談社 2009)


本書は、病の診断書ではない。

本書は、新たな正常を提示し、現在を異常とするような提言書ではない。

本書は、抑制をもったつぶやきである。「病だと思うんだけど・・・。どうでしょう?」という語り方である。平川氏の違和感は前書で論じられた内容を引き継いでいる。

ユヌスが言う経済成長には共感するが、マッキベンが触れるような経済成長には疑問をもつ方がいる。

偶然にも先進国に住むことになってしまった者の役割に「貧困の終焉後」の社会/経済の設計があげられるあろう。課題先進国,定常型社会という言葉は、その自体を象徴するものである。

「先進国貧困の終焉」と「後進国貧困の終焉」は異なる。そして終焉後の世界も異なるだろう。各自がこれからの時代性と欲望の変遷を目一杯考えながら、その予期される時代に「予防事業」を図っていくことがもとめられる。

■参考リンク
Joe's Labo
『経済成長という病』。 - 考えるための道具箱



■tabi後記
一人カラオケを経験してきた。声をメタ認知する装置としてつかえそうだ。
posted by アントレ at 20:53| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

tabi0203 猪野健治「山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか」

ヤクザ(任侠道)になるしかなかった人間の存在

山口組が暴対法違憲訴訟を起こした際に弁護団が用意した原告側尋問書案には次の一節がある。

<任侠道に差別はない。彼ら(引用者注・被差別部落出身者や在日朝鮮人、前歴者)の受け入れを拒否するようになったとき、それはすでに任侠道と呼ぶことはできない>

ここでいう<任侠道>がギリギリの土俵際まで追い詰められている。その問題意識が本書執筆へ私を駆り立てた。P265
猪野健治「山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか」(筑摩書房 2008)



元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘は、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、ヤクザの出自は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%であるという見解を示している。(あくまで伝聞資料である)

マイノリティが暴力団員となるのは、差別により経済的な理由で学校に通えなかったり、就職差別で一般的な職に付くことができなかったりしたためというケースが多い。著者は、ヤクザには「かけこみ寺」としての機能があったことを指摘している。

マフィア(暴力団)になるしかない制度改革

しかし現在の状況としては、「任侠道」というセーフティネットは瓦解の危機にある。官憲による改正暴力対策法に影響を受けて「できのわるい」(ハイリスク)人材がリストラされているのである。人材育成機関としてヤクザをポジショニングしてみると、更なる考察が出来るかもしれない。

P.S.
最強組織が成立したのは山口組が「力」をもたなくなったからだろう。

田岡一男が山口組三代目を襲名したのは一九四六年(昭和二十一年)、三十三歳のときである。須磨の「延命軒」で執り行われた襲名式には親代わりとして国会議員・佃良一も列席した。田岡一男は、襲名にあたって三つの誓いを自らに課した。

・組員各自に正業をもたせること。
・信賞必罰によって体制を確立すること。
・昭和の幡随院長兵衛を目指すこと。P79


■参考リンク
第百五十二夜【0152】
任侠は弱し官吏は強し - 書評 - 山口組概論



■tabi後記
何事もですけど。1回じゃ分からないものです。当然ながらですけれど。ただ、やり続ければ分かるかといったら、そうでもないのも現実。明日もやりたいか?といわれて「もちろん」とこたえるならば、やればよい。楽しいかどうか。楽しめそうかどうか。
posted by アントレ at 19:07| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0202 大蔵雄之助「一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯」

気にしているのは再選よりも50年後に何と言われるか

おそらく百人ぐらいの議員は彼女と同じ事をしたかったであろう。一人としてそうする勇気がなかっただけのことである。当新聞は彼女が立場上とった考え方とは全面的に意見を異にする。あdが、それにしても何という勇気ある行為であろうか!今から百年後にこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故にではなく、その行動の故に、記念の銅像に刻まれるであろう。P39
大蔵雄之助 「一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯」(麗沢大学出版会 2004)


ジャネット・ランキンの名を知る人は多くないかもしれない。1888年に米国で生まれ、女性初の下院議員になった。女性の参政権運動を率いた人でもあるから、日本なら市川房枝のような存在であろうか。

生涯を通じて平和主義者として活動し、アメリカ合衆国が第一次・第二次大戦に参戦することに対して、ただ一人両方に反対したことで知られ、ベトナム戦争での反戦活動の先頭にも立った。

68年前、日本軍は真珠湾を攻撃した。それを受けた議会の対日宣戦決議に、一人反対票を投じたのがランキンである。議会は日本への憎悪を燃やし、上院は満場一致で可決し、下院は賛成が388、彼女だけがノーを唱えた。

この反対票で、ランキンは全米を敵に回してしまう。非難が渦巻き「売国奴」のレッテルを張られた。頼みの故郷 モンタナからも「あなたの味方なし」と電報が届く。その後、再選されることはなかった。あの「一票」は散った花なのか、それとも、後世に種子を残しているのだろうか。

■参考リンク
ちょっこっと
映画の街ロサンゼルスで A Single Woman
ジャネット・ランキン - Wikipedia



■tabi後記
ボルダリング終了。この遊戯は、登る経路、登り方について考え、実践することで快感を得る営みな気がする。手足を制約にしながら方略を考えること。最低限の疲労で登ることに関心があれば、やってみてほしい。
posted by アントレ at 17:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0201 高橋昌一郎「ゲーデルの哲学」

判事が、「あなたは、現在ドイツ市民権を所有していますね」と尋ねると、ゲーデルは、それを遮って「いいえ。オーストリア市民権です」と言った。「いずれにしても、独裁国でしたな。しかし、わがアメリカ合衆国では、そのようなことは起こりえませんからね」と判事が言うと、ゲーデルは、「それどころか、私は、いかにしてそのようなことが起こりうるのかを証明できるのですと言った。アインシュタインとモルゲンシュタインは、慌ててゲーデルを制して、一般質問に話題を戻した。一九四八年四月二日、ゲーデルとアデルは、アメリカ合衆国市民権を宣誓した。P155
高橋昌一郎「ゲーデルの哲学」(講談社 1999)


ゲーデルの入門書として評価が高い一冊。ゲーデルの死後に明かされた大量の遺稿から、ゲーデル像を新たに築きなおし、ゲーデルによる神の存在論的証明について、日本で始めて紹介した点がユニークなのだろう。

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


ゲーデルには、ウィーン学団期とプリンストン高等研究所期があると考えられており、後者の時期において、形式化されていない知性を探究するために、反人間機械論や神の存在論へ向かったとされる。

このあたりの文章にふれると、理性主義を貫く神秘学者というようなイメージを抱かされる。自身の思索をガベルスベルガー式速記にまとめあげたことにも関心がむく。

理性の限界が示されたときに、その理性を脱構築(脱魔術)してしまうのは容易い。その容易さに溺れずにいることは大切であろうが、魔術の起源問題に寄り添いすぎずにいることと並走させていたい。

限界の果てに何をみるのか。限界から何が生まれるのか。限界の敷かれぬところへいくのではなく、限界の敷く/敷かれぬという地点ではないところへいくのか。「ところへいく」から離れるのか。「はなれる」などの述語をどう扱うかも射程にはあると思えば、一向に深みがましてくる。

追記
高橋悠治 × 茂木健一郎: 他者の痛みを感じられるかと併せてみるといいかもしれません。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
337旅 『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』



■tabi後記
周囲はボルタリングに嵌っているようだ。事の真偽を確かめるべくRhino and Birdいってきます。
posted by アントレ at 11:51| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月28日

tabi0200 鴨下信一「日本語の学校」

声に出すことからどう声に出すかへ

朗読・音読とは何か、と聞かれたら<文を区(句)切って読むことだ>と答えます。

日本語は世界一美しい言葉です

あなたはこれをどう句切りますか?

ひと息で読めますーいきなり困った答えですが、まあ結構。その読み方を0とします。でもそのほかに、少くとも二通りに句切れます。

1 日本語は/世界一美しい言葉です
2 日本語は/世界一/美しい言葉です

1では「日本語」という言葉に聞く人の注意がいきます。ああ、日本語について話すんだな、ということがはっきりする。文の「構成」、つまり「意味」がはっきりするんです。

2では「世界一」に注意がいくでしょう。こうすると何か「気分」「感情」が入ってくるような気がしませんか。感情が生れるということは、そこに「表現」が存在するということです。この区切り方は「表現」のために句切るのです。(中略)

読み手は<自分で句読点を再構成しなければならない>、これが大事な点です。P18-20
鴨下信一「日本語の学校」(平凡社 2009)


本書は「声に出して読む」ことから「どう声に出して読むか」かへ焦点をあてる。そして、声に出して読むことで見えてくるだろう<何か>、日本語の<何か>を探ろうとしている。

自身の「読書」を考えると、音読でも黙読でもない。速読ですか?といわれるが、そうでもない。(ここを語り出すと時間がかかるので「そうです」といってしまうのだが)

近い感覚では、見つめているといえるだろう。まなざしを送っている。(フォトリーディング的ではある。もちろん、プロの写真家が被写体と対峙する感覚で「フォト」という語彙を使用しているなら)

けれど、フォトリーディングとも異なる気がしている。そう思うのは、フォトするのはテクストではないからだ。むしろインナーテクストである。

目は本を、耳は心を、体は声を、口は言葉に「まなざし」をむけている。諸感覚を分けてるいないことを伝え買った。かといって5感というように統合的ではなく。あえていえば繋ぎ目と繋がるような営み。

■参考リンク
こどものもうそうblog



■tabi後記
tabi200まで6ヶ月強かかったことになる。
年末までに400と決めていたので、予定としては順調である。

振返ってみると、本を読んだ月ほど調子がいい月だった。
6月が不調だったかというと、まだ2日あるので保留しておくが。笑

2009年06月(19)
2009年05月(60)
2009年04月(15)
2009年03月(22)
2009年02月(23)
2009年01月(34)
2008年12月(29)

7月からは60冊/月は保っていきたい。
陰ながら読んでくれてる皆さん、ありがとう。(tabi後記しか読んでくれない方も。)

内田はまだまだ頑張ります。
posted by アントレ at 18:12| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0199 結城浩「プログラマの数学」

語られ方に敏感であること

プログラミング/プログラマという言葉について考えることが多い。

一般的に、プログラミング(Programming)という言葉は「人間の意図した処理を行うようにコンピュータに指示を与える行為」(Wikipedia)と考えられており、「プログラミングをする人をプログラマ」(Wikipedia)と思われている。そして「ほとんどのプログラミングは、プログラミング言語を用いてソースコードを記述することで行われる。これをコーディング」(Wikipedia)という前提があるだろう。

私はこの「語られ方」に違和感をもっている。なぜPro(前もって)-Gram(書く)がComputer Programと捉えられてしまったのか?という問いと、なぜComputer Programという行為がCodingと捉えられてしまったのか?という問いを保っているからである。

ここでは後者に視点をあててみたいと思う。以下はアジェンダを設定するだけなので、問いに答えは見出されていない。

本書を振り返ってみると、「人間は何が苦手か」が浮き彫りになります。そして、その「苦手」なところを克服するためにさまざまな知恵が生まれたのです。

人間は、大きな数を扱うのが苦手です。ですから、数の表記法がいろいろ工夫されました。(中略)人間は、複雑な判断を間違えずに行なうのが苦手です。ですから、論理が作られました。論理式の形で推論をしたり、カルノー図で複雑な論理を解きほぐしたりします。人間は、たくさんのものを管理することが苦手です。ですから、グループ分けをします。(中略)人間は、無限を扱うことが苦手です。

・・・このように、さまざまな知恵と工夫をこらして、人間は問題に立ち向かいます。なんとか問題の規模を縮小し、複雑さを軽減し、「あとは機械的に繰り返せば解ける」という状態に持ち込もうとします。その状態に持ち込めさえすれば、強力な次の走者-コンピューター -にバトンを渡すことができるからです。P238
結城浩「プログラマの数学」(ソフトバンク 2005)


先の言葉に対応させるなら「あとは機械的に繰り返せば解ける」ような問題を定義するのが"プログラム"することであり、それを記述することが"コーディング"であろう。

さて「なぜComputer Programという行為がCodingと捉えられてしまったのか?」という問いに戻ってみよう。この問いに対峙するためには「機械」「繰り返す」「解く」の3点に光をあてる必要がありそうだ。

■参考リンク
結城浩にインタビュー『プログラマの数学』



■tabi後記
何かをしないことで、何かをすること以上に何かを伝えることができる。勘違いを自己産出してあげるようなしつらえを。
posted by アントレ at 17:15| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

tabi0198 野崎昭弘「不完全性定理」

ヒルベルトによって映えるゲーデル

いくつかの公理と、その公理によって証明された定理を使えば、どんなものでも証明できるという数学体系をヒルベルトは望んだ。そして、彼はそれを実現しようと努力したのである。

ついでながら、ヒルベルトののロマンチックな標語「われわれは知らねばならない。われわれは知るであろう」は、ゲーデルの定理からそれが不可能とわかっているいまでも、私の好きな言葉である。特に「知る」というのが「何となくそう思う」とか「暗記する」ということではなく「理解する」ということであって、「納得するまで根拠をと問う」知性にもとづいていることに、私は感動を覚える。P270
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006


誰しも、大なり小なり「ヒルベルト欲」と「ゲーデル欲」があるのだろうと思う。ここではゲーデル欲だけを取り上げる。

・すべてのxyzについて、x+(y+xz)=(x+y)+z
・すべてのxyについて、x+y=y+x
・ある特別の対象eがあって、すべてのxに対してx+e=x

例えばこれが、僕らの生きている系の話であるとしよう。ゲーデル欲は、このようなテンションなのだ。常に「であるとしよう」とする。

話をすすめると、このような系だとeというのは0しかありえない。だからと言って、上記三つの公理が、e=0でしか成り立たない、ということにはならないのである。

ある系では「+」という記号が「×」という意味で使われているとしよう。(クワス算を想起してもらってかまわない)そうなると、e=1である。

また「x+y」が「xyの大きいほう」を表わす系が存在するとしよう。するとこちらもe=1となる。

さらにある系では「x+y」というのが「xyのうち辞典のあとに出てくるほう」という意味だとする。するとe=その辞典の最初の見出し語ということになる。

どうだろうか?

公理というのは系の前提を生み出すもので「実際そうであるかどうかは関係ない」というの「ゲーデル欲」をなんとなく分かっていただけたであろうか。

ヒルベルトは死んだのか?隠れただけか?

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


限界を示せぬものを求めるために、不完全証明をおこなっていく。ヒルベルト欲を満たすために、ゲーデル欲を開放していく。どちらにも振り切らずに、その循環自体の新鮮さを楽しむことが、大なり小なり学びには潜んでいるのだろう。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
書評 - 不完全性定理



■tabi後記
最近のキータームであるベタ認知とメタ認知。これは、ヒルベルト欲とゲーデル欲に変換できるだろう。
posted by アントレ at 01:22| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

tabi0197 入不二基義「哲学の誤読」

哲学の文章は「誤読」の可能性に満ちている

そう、本書は誘惑する。

「誤読」にはどのような可能性かあるのか?

ここであげられているのは4つの誤読である。

1 すべてを人生や道徳の問題であるかのように曲解する「人生論的誤読」
2 思想的な知識によってわかった気になる「知識による予断」
3 「答え」を性急に求めすぎて「謎」を見失ってしまう「誤読」
4 そして新たな哲学の問いをひらく生産的な「誤読」

本書は、大学入試に出題された野矢茂樹・永井均・中島義道・大森荘蔵の文章を精読する試みである。出題者・解説者・執筆者だけではなく、入不二自身の「誤読」に言及したうえで歩をすすめていく。ここでは第二章 <外>へ! ―永井均「解釈学・系譜学・考古学」(ぜひ本文を読んでみて下さい)のみ取り上げる。

「過去の過去性」のとらえかた

「鳥はもともと青かった」という解釈学的な生から始まっていた考察は、一巡りして、「鳥はほんとうはもともと青くはなかった」という逆の解釈学的な意識(自己解釈)に落ち着くことになる。「解釈学的な生→進行形の系譜学→完了系の系譜学→新たな解釈学的意識」というように。内部から始まって、それを外部から視線で疑い、疑いが明らかにしたことに基づいて、それを前提とする新たな内部へと回帰したことになる。P109
入不二基義「哲学の誤読」(筑摩書房 2007)


解釈学、系譜学は過去の過去性を殺すとことで一致する。「系譜学には迂回性があるぶん解釈学より深みがある」と感じてしまうのは「人生論的誤読」であろう。

そして、過去殺しへの抵抗として考古学的視点が提出される。ここで、フーコーを想起するものは「知識による予断」による「誤読」をおこなってしまうことになる。

われわれは、そのように「忘却」のほうを主体にただ黙々と生きているのだとすると、そのわれわれの姿は、解釈学的な生を「物語」だと気づくことなく、ただ端的にその生を生きるだけのあの「彼ら自身」の姿に似てこないだろうか?ただ忘却にまかせて生きている「われわれ」とは、実は「彼ら自身」のことなのではないか?そして、疑いの視線もなくただ忘れながら生きることと、過去の過去性を殺さないように努めることとは、実は一致するのではないか。P131


考古学的視点とは「みつめられない過去」にまなざしを向けるという撞着的な営みであり、その営みすらも忘れることでしか「過去性」には到達できないと語られる。だがその視点では「解釈学的物語」に気がつかない「彼ら」と同じである。またもや解釈学の地平へと回収されてしまう。と著者は解説していく。

ここで「では一体何なんだ!」と叫んでしまうのは、哲学ではない。「どうぞ文学でも宗教でもいって下さい」というコトバがきこえてくる。このような注釈も飽き足りてるかもしれないが。さて「ここから」思考を生み出していくが哲学であろう。

総じてみると「解釈学・系譜学・考古学」は循環運動のように見えなくもなかった。だが本質的には解釈学だったのであり、そして「解釈学」というコトバが生まれない地点へ立戻らされてしまったのである。「この地点に立たされた」ということは、語れるのだろうか。語らないのではなく、語れないことが本質であるような状況では、いかなる発話も「知識による予断」となってしまうだろう。この地点とあの地点(これが過去!)をつなぐものを求めるのか(統合,体系)、単に知りたいのかといわれたら、後者に近いと思う。

■参考リンク
『哲学の誤読』入試問題の哲学的読み
高速道路効果抜群「哲学の誤読」
2002年東大前期・国語第四問「解釈学・系譜学・考古学」



■tabi後記
大学にいる1,2年生はDQNばかり。
元気なら、それもありだろう。
posted by アントレ at 16:29| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0196 クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」

製品がどのような用事をするために雇われているかを理解できれば、そしてうまく片づけられずにいる用事にはどんなものがあるかを知ることができれば、イノベーターは顧客の目から見た真の競争相手を打ち負かすために、製品を用事のあらゆる側面において改良するための、明快なロードマップを手に入れられる。P97
クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」(翔泳社 2003)


「イノベーションのジレンマ」は破壊的な技術革新を受けて優位を脅かされる側の企業に視点を置いていたが、「イノベーションへの解」ではその技術革新で新事業を構築し、優位企業を打ち負かそうとする側に置いている。

この「破壊される側ではなく破壊する!側となって」という立場が本書の特色である。

本書にも書かれているが、抜け目の無い投資家は、企業の既存事業の期待収益率を株価に織り込むだけでは飽き足らず、経営陣がまだ立ち上げてもいない新規事業から将来生み出すであろう成長まで織り込んでしまう。

本書で書かれているのは、この飽くなき成長をドライブさせる「投資家」から逃れる為の成長ではない。実際のところは、本書から「成長(イノベーション)」に対する根本思想は読み取ることはできないが、クリステンセンが教育、医療といった領域で破壊的イノベーションの可能性を思索している事から推察してみるといい。

さて、本書で扱っているトピックは広範である。

どうすれば最強の競合企業を打ち負かせるのか、どのような製品を開発すべきか、もっとも発展性のある基盤となるのはどのような初期顧客か、製品の設計、生産、販売、流通のなかでどれを社内で行い、どれを外部に任せるべきか…というような、きわめて具体的な意思決定の「解」が提出されている。

また、議論の進め方にも関心がもてた。「適切な分類を行うことが、取り組みに予測可能生をもたらすための鍵となることを説明する」という考えをベースに敷きながら、理論が予測できなかったであろう例外や特殊事例を発見しようと真剣に努力している。そうすることによって理論を大きく向上させようとしているのだ。

クリステンセンから破壊的プレイヤーへに送られた問い

新市場型破壊
・これまで金や道具、スキルがないという理由で、これをまったく行わずにいたか、料金を支払って高い技能を持つ専門家にやってもらわなければならなかった人が大勢いるか?

・顧客はこの製品やサービスを利用するために、不便な場所にあるセンターに行かなければならないか?

ローエンド型破壊

・市場のローエンドには、価格が低ければ、性能面で劣る(が十分良い)製品でも喜んで購入する顧客がいるか?

・こうしたローエンドの「過保護にされた」顧客を勝ち取るために必要な低価格でも、魅力的な利益を得られるようなビジネスモデルを構築することができるか?

・このイノベーションは、業界の大手企業すべてにとって破壊的だろうか?

もし一社もしくは複数の大手プレイヤーにとって持続的イノベーションである可能性があれば、その企業の勝算が高く、新規参入者の見込みはほとんどない。


■参考リンク
「場面」 経営戦略コンサルの洞窟
戦略的コスト構造を武器に
UBブックレビュー



■tabi後記
本文もさることながら、注も面白い。彼らの賢さやユーモアが非常にあらわれている1例を紹介しよう。

われわれの知り合いはおそらく気付いているだろうが、ファショナブルなブランド服に身を固めることは、われわれがこれまでの人生で片づけようとしてきた用事ではない。したがって最新ファッションにはまったく何の洞察も持っていないことをここで告白する。おそらく永久に収益性が高いままだろう。われわれに分かるものか。P206
posted by アントレ at 15:34| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0195 伊丹敬之「よき経営者の姿」

私が考える、よき経営者に共通する顔つきの、次の三つの特徴である

1.深い素朴さ
2.柔らかい強さ
3.大きな透明感

三つの特徴は、鍵になる名詞(素朴さ、強さ、透明感)と、そのありようを説明する形容詞(深い、柔らかい、大きな)の組み合わせで表現してある。

一つの名詞だけで表現しきれずにさらに形容詞を重ねなければならない、ある意味で複雑な顔つきである。しかも、形容詞は一見すると後に続く名詞とは逆のこと、あるいは違う筋のことをいっているような語になっている。P18
伊丹敬之「よき経営者の姿」(日本経済新聞出版社 2007)



三枝氏と伊丹氏の対談本で知ることになった本書は、今までに伊丹氏が対峙してきた経営者達を「よき経営者の姿」としてモデル化した内容になっている。

「顔つき」からはじまり「退き際」にいたるまでのプロセスを精緻に描いている。その中でも、私が気になったのは「顔つき」に関する記述である。

伊丹氏は人相見ではないが、出会った経営者の顔には「1.深い素朴さ」「2.柔らかい強さ」「3.大きな透明感」という3つの特徴がみられたという。やはり、名詞と形容詞が相反するような意味をもってているのがポイントであろう。

伊丹氏はこのような表現にたどりついた経緯を細かく説明している。大意としては、「経営はしばし矛盾の中おこなわれる。そのような環境下を泳ぎきる人は、その様相が顔にあらわれてしまうのではないかと。」いうことだ。科学性からは縁遠きこの推論には、確かな納得感がある。

夏目漱石「草枕」の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という有名な文章がありますが、よき経営者とはこのような「住みにくい」人の世を「住みやすく」する人のことを示している。

■参考リンク
よき経営者の姿。 - 考えるための道具箱



■tabi後記
久々に和泉キャンパスの学食を味わっている。知らぬうちに、無線と電源が備えられていた。快適です。
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tabi0194 ジェリー・ポラス他「ビジョナリー・ピープル」

なぜ今の今、私は自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

最近は、自分のしていることを好きになるのが大事、という議論が盛んになっている。しかし、大半の人はそれを鵜呑みにしているわけではない。大好きなことをするのは、いいことに違いない。けれども、ほとんどの人は、現実の問題としてそうしたぜいたくをしている余裕はないと感じている。多くの人たちによって、本当の生きがいというのは、そうあってほしいという感傷的な空想で終わってしまう。P54
ジェリー・ポラス他「ビジョナリー・ピープル」(英治出版 2007)


本書を語るには、この問いだけで十分だろう。

なぜ今の今、あなたは自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

内容を知りたい方は下記が詳しいです。

■参考リンク
ココロにガソリンを「ビジョナリー・ピープル」
ビジョナリーピープルを一気に読んでみた
All About ...+Me



■tabi後記
同じ質問を同時にうけることがあるが、解決はいつも単純です。それは、質問者が一歩が踏み出された時に終わる。私は、一押しを我慢することだけかな。一歩と一押しの順番を間違えてはいけない。
posted by アントレ at 00:03| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

tabi0193 松山太河 編集「最高の報酬」

本書は、石橋さんに頂いた書籍です。ありがとうございました。

今回の読みでは、8フレーズが切り取られました。
(200フレーズあるようです)

photo.jpg

以下に、1つずつ味わいながら写経をおこないました。
この作業を時系列で追いかけてみると良いかもしれません。


僕が今までやってきた仕事の中で一番大切な仕事は、
一緒に仕事をすべき本当に優秀な人物を探すことです。
一人でできない仕事を成功させるためには、
優れた人物を見つけなければいけないのです。P35
スティブ・ジョブズ(アップルコンピュータ共同創業者)

頭のいい人は批評家に適するが、行為の人にはなりにくい。
すべての行為には危険が伴うからである。P69
寺田寅彦(物理学者)

新しいことをやろうと決心する前に、
こまごまと調査すればするほどやめておいたほうがいいという結果が出る。
石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、
おそらく永久に石橋は渡れまい。
やると決めて、どうしたらどうしたらできるかを調査せよ。P74
西堀栄三郎(南極観測隊隊長)

私の事業的信念は、それが世に価値のあるものならば、
数字的に自信がなくとも、
正しく行えば成し遂げられるということである。P81
大谷竹次郎(松竹社長)

何でも思い切ってやってみることですよ。
どっちに転んだって人間、
野辺も石ころ同様骨となって一生を終えるのだから。P108
坂本龍馬

毎年8〜10%の人が辞めていく。
優秀な人が辞めるんだ。なぜかって?
それがシリコンバレーだ。
スタートアップにリスクはないよ。会社をつくる。
製品ができない。利益がでない。お金が底をつく。
終わりだ。それだけだよ。
そんなものはリスクじゃないんだ。P180
スコット・マクネリー(サン・マイクロシステムズ 会長兼CEO)

アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、
良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。
我々は、それをがむしゃらにやるだけである。P187
盛田昭夫(ソニー共同創業者)

人生で犯しがちな最大の誤りは、
誤りを犯さないかと絶えず恐れることだ。P197
エルバート・ハバード(作家)




■tabi後記
「ストレスフリーの書棚術」という本があってもよさそうだ。
posted by アントレ at 22:24| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0192 内田和俊「俺様社員をどうマネジメントするか」

本書は、前書でいう「II 自称勝者(俺様社員)」に焦点をあてたものになっている。

数々の障害を乗り越えながら人は成長していきますが、本人の努力によってしか、それらの障害は乗り越えられません。それは、自分との闘いになりますが、同時にfruitful monotony(実りある単調)との闘いでもあります。しかし、上司や周りの人たちからのサポートがあれば、fruitful monotony(実りある単調)に耐え、モチベーションを持続することができます。P166
内田和俊「俺様社員をどうマネジメントするか」(ダイヤモンド社2008)


「II 自称勝者(俺様社員)」は、明らかに本人の資質・能力に問題があるのに、その事実を直視せず他者や会社の批判に明け暮れる新入社員を指しています。

そのような新入社員をどうマネジメントしていくかが問われている。「言い続けること」がマネジャーの仕事であり、ティンチングをやらずしてコーチングに逃げるべからずというメッセージが主旨となっている。

本書におけるコーチングはGROWモデルを基本にしながら、コーチーを他責型(具体強化),無関心型(期限強化),評論家型(オプション強化)に分類しているのが特徴でしょう。

■参考リンク
GROWモデル(2)ゴール
No,002:俺様社員をどうマネジメントするか



■tabi後記
7/12(日)にサバイバルゲームをすることになりました。気になる方がいましたら連絡下さい。
posted by アントレ at 20:06| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0191 ダン・ケネディ「究極のマーケティングプラン」

どうしてあなたを選ばなくてはいけないのか?

この問いを浴びせ続けることしかUSPヘ辿り着けないと語る。USPを見つけずして、適切な人に適切なメッセージを伝えることはできない。

「焼きたてのアツアツのピザを三十分以内にお届け。遅れたら代金はいただきません。」これはドミノピザのUSPとして紹介されている文章である。これを書き出した後に、いかにしてドミノピザが「腹を空かせた群集」を見つけ方が書かれている。

まずは、他にもいろいろ選択肢があるのに、どうしてあなたのビジネス/サービスを選ばなくてはいけないのか?に答えること。

さいきん、売ってますか?

躊躇せず、売ることを実践するかどうかは、あなた次第であるが、確実に言えることは、本書を読むことにより、売る勇気が身体の中に宿るということである。そのようなエネルギーを与えてくれる本には、なかなかお目にかかることができない。P4(監訳者まえがき)
ダン・ケネディ「究極のマーケティングプラン」(東洋経済新報社 2007)


メッセージを展開するさいは「相手は頑として信じようとしないこと」を頭に入れておく必要がある。その為に、売り物を証明する写真を見せたり、良い証言を集めるといった下準備が必要なのだろう。

この下準備や細かいテクニックに踊らされていては何も意味が無い。この手段があるのは「選ばれる」という目的が達成するためである。そして、選ばれることによって創られる未来を見据えての話である。

■参考リンク
活かす読書



■tabi後記
タイガー・ジェット・シン仕事術というのは、おもしろい考え方だな。「いきなり核心を突いた仕事をする」「前置きなしに本題の仕事に取り掛かること」ということです。

彼は、会場に現れるなりサーベルを振り回し、観客を襲い始める。そのままレフリーの紹介も待たずに、相手選手に攻撃を仕掛け、パイプ椅子で殴りかかったり、噛み付いたりするんだ。この動画でも4:30にて、いきなりターバンで首を絞めはじめる^^:


グレート・カブキ VS タイガー・ジェット・ シン(1/2)
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tabi0190 ミチオ・カク「アインシュタイン よじれた宇宙の遺産」

孤独であること

時間と空間に関わる新理論を生み出し、人類の宇宙観を一変させたアルベルト・アインシュタイン。彼は、1921年に「光量子効果」の発見などの功績に対してノーベル物理学賞を受けた。アインシュタインは1879年3月14日にドイツのウルムに生まれる。

1900年にチューリッヒ工科大学を卒業するが、友人たちは助手として採用されたのに、彼だけは教授から「なまけもの」と決めつけられ採用されなかったの。そして、父の事業も同時期に倒産してしまう。アインシュタインは経済的危機にたたされてしまう。

アインシュタインは、新聞の求人広告を漁り、補助教員の仕事を探しまわっていたようだ。仕事にありついても、校長とあわずに解雇うけてしまう。アインシュタインは餓死寸前まで追いつめられていた。

このような充てが定まらぬ状態で2年近くが経過したころに、学生時代の友人グロスマンが特許局に審査官の口が見つけてくれたのだった。ここから彼の思索活動がはじまる。

アカデミーのグループとともに過ごした日々は、アインシュタインの生涯でもっとも楽しいときだったかもしれない。科学論文を読み、喫茶店やビヤホールでにぎやかに議論を戦わせ、「エピクロスの"楽しき貧しさの何とすばらしきことか"という言葉は我々のためにある」と豪語した。P38
ミチオ・カク「アインシュタイン よじれた宇宙の遺産」(WAVE出版 2007)


「光を光のスピードで追いかけたらどのように見えるか?」

ニュートン、マクスウェル、マッハといった先人が残した思考に後押しされながら、答の出ない難問に取り組み、一人暗闇の中を模索する青年。

ものになるかわからない。果たしてまともに生きていけるかさえわからない。そんな中でも希望を失わず、努力を惜しまなかった若きアインシュタインの孤独の中にこそ栄光はある。その孤独がコトバを生み出しのだろう。

私は頭が良いわけではない。
ただ人よりも長い時間、
問題と向き合うようにしているだけである。

過去から学び、今日のために生き、
未来に対して希望を持つ。

大切なことは、何も疑問を持たない状態に、
陥らないようにすることである。

われわれが進もうとしている道が、
正しいかどうかを、神は前もって教えてはくれない。


■参考リンク
850旅 ミチオ・カク『アインシュタイン よじれた宇宙の遺産』
アインシュタインの孤独



■tabi後記
後輩達が「Grameen Change Makers Program」を始動しました。日本人学生をグラミンへ招いた上で、 現地でフィールドワークを行い、そこから得られた知見を基にしてグラミンにアイデアを提案するという企画です。頑張ってほしい。
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2009年06月21日

tabi0189 茂木健一郎「脳内現象」

並列状態を統合するか運動するか、はたまた

本書は「経験科学的方向」と「私の特別性という唯我論的方向」の2つをどちらも棄てずに、どちらも活かすような方略をたてる。これは注目に値する。それだけに「どのように料理するのか?」に直に関心がいく。

読み始める前に考えるのが「脳内現象」という言葉である。文字どおりに捉えるなら、1000億の脳細胞の相互反応のパターンによって世界はつくらるという考え方であろう。茂木氏の言葉でいうならば「全てがクオリア」である。

茂木健一郎×入不二基義氏トークセッション「脳内現象」刊行記念「意識はいかに成り立つか〜脳と時間をめぐって」)は興味深いセッションである。

このセッションで入不二氏は、「クオリアの中には脳のクオリアも存在しているはずです。そうすると脳はクオリアの中にあると同時に、クオリアを産み落とすものでもある。つまり、心の内は外の脳で生み出され、その脳はクオリアによって生み出される。外が内へ取り込まれ、内側へとりこまれないものとして外があり、さらに内へ、、といったダイナミズムこそが考えることではないか?」と言及する。

完了的理解と無時間的理解


近代科学は近接作用に基いた因果作用で世界が解釈されている。その中で、本書はメタ認知に焦点をあてる。

このようなメタ認知が新たに立ち上がる時、もっとも不思議なことの一つは、立ち上がったメタ認知の対象になっていることが、「そういえばそういう感じは前からあった」というような、既視感を伴って感じられることである。外部から入ってきた感覚情報を認知する場合と異なり、メタ認知の対象になるものは、もともと自分の内部にあったものである。このような対象の出自が、私たちが新たなメタ認知で新たな世界観を手に入れつつも、同時に既視感を感じる理由ではないだろうか。P158
茂木健一郎「脳内現象」(NHKブックス 2004)


メタ認知は「そうだったんだ」という完了の真理認知がなされる。同時に「そういうことになった」「そういうことになることだったんだ」という無時間的な真理に転換するのである。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
戯言1:天気がわるいとは何ぞや?雲の上は晴れている。
戯言2:寝過ぎるとは何ぞや?それだけ記憶は定着している。
posted by アントレ at 21:48| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0188 本多勝一「ルポルタージュの方法」

ルポルタージュの方法に関しては719旅 本多勝一『ルポルタージュの方法』を参考にしてほしい。

ここではルポルタージュ記者の条件にふれたい。ここで記載される条件は「◯◯の条件」とすれば何でもあてはまってしまう汎用性をもっている。

佐々木氏の一文をもじればー「表現せずにはおれない、せっぱつまったもの、ひたむきなもの、不正への怒りさえもっていれば、技法なんておのずと会得できる。技法とは、何も持たぬ者が、ルポルタージュ記者らしく見せる粉飾なのよ。その証拠に、うまいルポ=ライターなんて、みんな二流じゃないか」で、佐々木氏の示した六つの条件をそのままルポルタージュに適用しますとー

ルポタージュ記者の条件

1.感激屋
2.うぬぼれ
3.劣等感
4.ひねくれた心
5.体力・活力
6.文才

P278
本多勝一「ルポルタージュの方法」(朝日新聞社 1983)


6つの条件の中で「2.うぬぼれ」に着目したい。

これは比較における度量衡が下手であることだろうと考える。(本当は上手なのであるが)逆にいえば、「教養ある俗物」として過ごす人は、比較下手(上手)である。

画家なら北斎,セザンヌを度量衡にし、思想ならニーチェやデリダを度量衡にし、起業ならジョブズやゲイツを度量衡にして、、。つまりは、そんなのを初めに比較しとったら「Just do it」にいかないだろということであります。

そこで強調されるのが「うぬぼれ」である。

1.感激屋
3.劣等感
4.ひねくれた心
5.体力・活力
6.文才

が全部備わっていながらもルポを書けない人が多くいたことを述べています。彼らは世界第一級の作品と自らを比較しているのだから、いつまでたっても自分の仕事が恥ずかしくなるであろうと。そして「書く」ことをやめ鑑賞者になっていく。



■tabi後記
毎日更新していると思っていたら夢での出来事だった!それを今気がつく。記事はあるので、徐々に更新していこう。蒸し蒸しとする日も好きである。
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2009年06月17日

tabi0187 小林秀雄「考えるヒント」

「ヒント」とは制することである

「考えるヒント」を読む前に題名について考えてしまう。

考えるヒントとは、

・考えるためのヒントなのか

・ヒントが考えていることなのか

・ヒントを考えることなのか

はたまた・・。

言っておくと、僕は言葉を遊びをしたいわけではない。笑

この本を読み終わってからも「考えるヒント」が意味するところを考えているのである。
書籍自体は、流れるような文体で、縦横に論をはずませる様に驚かされる。

しかし「ここで記された文章は何を意味していたのか?」それを問うてみたいのだ。

読了後に気づいたのは「ヒント」は「制する」という発想である。
こう考えてみると本書はスムーズに読めそうだ。

制するとは何を制するのか?

それは「考える」こと、考えることを制するのである。

どのようにか?それは、単純な論理、二項対立で事をすませないこと。

二項対立が沸き上がってきたら、安易に弁証を企てようとすること。これらの<考えるヒント>を制したい。そのような思いが小林にはあったのではないか。

ヒットラーは権力だけを信じたが、この言葉を深く感ずるか、浅薄に聞き流すかは、人々の任意に属する。彼は政治家だったから。

権力という言葉が似合うのだが、彼の本質は、実はドステフスキイが言った、何物も信じないという事だけを信じ通す決心の動きにあったと思う。ドストエフスキイは、現代人には行き渡っている、ニヒリズムという邪悪の一種の教養を語ったのではなかった。しっかりした肉体を持ったニヒリズムの存在を語ったのである。この作家の決心は、一種名状し難いものであって、他人には勿論、決心した当人にも信じ難いものであったようだ。P121
小林秀雄「考えるヒント」(文芸春秋 2004)


喩えるなら「考えに粘着性」をもたらしたといえる。

概念や概念前の生の状態にある言葉を浮遊させること。対立する概念に出逢わした際に一方に振り切らず、かといって対立を弁証しない。ただ浮遊させ、遊離させておく。そのような概念操作?を実地でしめしながら、それを読者に強いること。それが「考えるヒント」だったのではないか。

■参考リンク
批評トハ
人生というのは思い通りにならないものだが



■tabi後記
今からNPO法人 Educe Technologiesの総会に参加させて頂く。
posted by アントレ at 17:18| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

tabi0186 ジョン・ケープルズ「ザ・コピーライティング」

心を動かすレターは「Benefit」を書いている。

何よりもまず、見出しには「得になる」ものを必ず盛り込むこと。相手のほしいものがここにある、と見出しで知らせるのだ。このルールはあまりにも基本的なので言うまでもないことかもしれない。ところが、毎日のように大勢のコピーライターがこのルールに反しているのだ。P84
ジョン・ケープルズ「ザ・コピーライティング」(ダイヤモンド )


これを理解し、実践するだけでライバルを一網打尽に出来るであろう。

いや正確にいうと「Benefit」を書くためには、それが伴った商品/サービスをつくらざるを得なくなる。実体なきところに言葉はあらわれず、実体なきところに言葉をあてがうと精神が滅ばされる。それでは事は続かない。

言葉の力を知ることになるからこそ、その力を何のために使うのかを自問することになる。そして、その答えは、まさにケープルズが、本書の最後に引用した言葉──「広告とは、教育である」──から読み取れる。

広告を打つということは、数万人に言葉を発する教師であると自覚したとき、私たちは売上を上げることに焦点をあてながらも、よりよい社会の礎となる言葉を、選択することになる。

未来を描くレター

1 それがなんであるか(feature)
2 それを使うとどうなるか(advantage)
3 さらにその結果、その人個人には何がもたらされるのか(benefit)

つまりベネフィットというのは「購入者の未来」が描かれているのである。
「ありそうでなかったこと」・「あきらめていたけど叶えたかった未来」である。

マニュアル販売のサイトを例にとってみよう。

1 それがなんであるか(feature)

このマニュアルは、なんと368ページものボリュームで、その中には儲けるための100種類の方法がこれでもかと書かれています。それがたった2分でダウンロードできます!

2 それを使うとどうなるか(advantage)

このマニュアルには、100種類のインターネットビジネスが詳しくステップバイステップで解説されていますので、あなたは読むだけで、誰よりも早くその全てを理解することができます。

3 さらにその結果、その人個人には何がもたらされるのか(benefit)

このマニュアルに書かれている100のビジネスモデルのうち、たった1つを、そのまま真似してみてください。3日後にはあなたの口座に350万円以上振り込まれていることをお約束します。

「Benefi」tを描く事も肝心であるが、結局は「1にテスト、2にテスト、ひたすらテストすること」ということケープルズの哲学を忘れてはいけない。

今は、コンバージョンレートを測ろうと思えば、いくらでも測る事ができる時代である。ケープルズの哲学をより実践出来るようになった。しかしレートオタクになるのは禁物である。その時は原点にかえることが求められる。

テストをするその言葉にBenefitは描かれているかということを。そのときダイレクトレスポンス広告は、新しい時代における役割を見出すのかもしれない。

■参考リンク
papativa.jp
マインドマップ的読書感想文
活かす読書



■tabi後記
人に語りかける最中に自身を大きく揺さぶる事がある。本日発生した心境変化は強烈なものだった。数秒間コトバが出てこなかったくらい。ソクラテスが聞いた「デーモンの声」を体感した気分である。
posted by アントレ at 22:56| Comment(4) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

tabi0185 岡潔・小林秀雄「人間の建設」

小林:わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。

岡:そうなんです。

小林:そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃったのですね。

岡:そうなんです。

小林:わかりました。

岡:裏打ちのないのを抽象的。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない、そういうのを抽象的といったのです。

小林:それでわかりました。P45

岡潔・小林秀雄「人間の建設」(新潮社 1965)


対話は「数学が抽象的になってしまった」という岡潔のつぶやきからはじまっていく。

岡がこの問いをもったのは、マッハボーイの証明と出逢ったからからだそうです。(証明内容を調べようとして分かったのですが「マッハ・ボーイ」は人名ではなく「むちゃくちゃなことをする人」という意味なようです。40年前は注とかないんだなー。)

本書で記載されているところによれば、あるマッハボーイは「アレフゼロとアレフワンの中間のメヒティヒカイト(無限の強さ(濃度))の集合が存在するか」を考察したようです。

「アレフゼロとアレフワンとの中間は存在しない」と「アレフゼロとアレフワンとの中間は存在する」という2つの命題を仮定し、普通にみれば矛盾するとしか思えないことを無矛盾であることをは証明したと。

岡は数学基礎論におけるこの証明に対峙したときに「感情の満足ということ無しには、数学は存在しない」という考えをもつようになったそうです。

そしてこのように語っています。

その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。(中略)だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。P43


彼は「証明は感情の僕であること」を理解してしまった。(そして、そこで歩みをとめてしまったといえるかもしれない)

デフォルトへの怒り・破壊衝動・落ち着き

彼も指摘していることだが、数学は積木細工のようである。いろいろな概念を組み合わせて次の概念をつくる。そこから更に新しい概念をつくるというやり方が、幾重に複雑にんされている。その概念を素朴に観念に戻して、何に相当するのか、ちょっとわからなくなっていると。

私は、このような特殊な体系をもつ数学に好感をもっていなかった。それはゼロベースで参加できることが気持ち良さだと思っていたからだ。

ある対象に気がついた時点で、うずたかく積まれていると、それを崩壊したくなるのは感情としてであるだろう。アインシュタインが「量子」を感情として認められなかったように、私は小学校1年の時に、「加法」を認めたくなかった。しかし「1+1=2がいやだ、いやだ」というだけで代案をもっていない自分が非常に嫌だったことを覚えている。

今も生きるマッハボーイ

「気持ちいい」・「気持ちわるい」ことの汽水域に佇むのが哲学とあると思えてきた。ある人には「気持ちよさ」を哲学にもとめることは「快楽」をもとめることになる。それは科学になる。「気持ちわるさ」をもとめることは「救い」をもとめることになる。それは宗教になるのだろうか。その中間が存在することを証明するのは、もしかしたらマッハボーイなことなのかもしれない。笑

けれど芸術や哲学は域内で息をするという運動であり、脈打つ形式なのであろう。必ずしも「気持ちいい」ものでないことも分かっている。だが、同時に、その木を登ってみたいという感情も生まれる人はいるのであろう。

■参考リンク
第九百四十七夜【0947】
書評 - 春宵十話



■tabi後記
小雨だったので5kmほど走ってきた。身軽になりたい(自分とアイデアを切り離したい)ので自由大学のコンテストに参加しようと思う。
posted by アントレ at 22:34| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

tabi0184 佐藤雅彦・菅俊一・石川将也「差分」

aとbの差を取ることで、「ある表象」が生まれる。

sabun.jpg

この2枚の絵の差分を取ることで、「もりあがる」という感覚が、我々の内に生まれる。P3-5
佐藤雅彦・菅俊一・石川将也「差分」(美術出版社 2008)


本書は李英俊さんに勧めてもらいました。ありがとうございます。

「差」を取ることで何かが生まれる。
差分とは、隣り合ったものの差を取った時の「脳の答え」である。


このように始まりが告げられる本書は、絵本といっていいのか、差本とでも称せばいいのだろうか。中々、紹介に困る本である。なぜなら、この本が「示されていないことを示すこと」によって成り立っているという奇妙な構図をもっているからです。

人は様々な感覚において差を取りながら生きている。動きが見えるのも、音楽が聴けるのも、物語を感じるのも、味を感じることも、悲しむことも、すべて差をとった結果である。といえるかもしれない。

差分を別の言葉と関連させると、仮現運動になるだろう。映画やパラパラ漫画のように、一つひとつは静止している画像を連続して見ると、それがあたかも動いているように見える。このように実際には動いていないものが、仮に動いているように見える現象を「仮現運動」という。

点から線が立ち上がること

認知科学的に読むならば、この本によって認知の不完全さを露呈した例を数多く採取できるであろう。いや<完全>さを感じるということだろうか。

差分の前に立たされた者は、認知対象を「捨象」し身勝手に「補完」する。それをバイアスと呼ぶか、プライミングと呼ぶかは、あなた次第である。

正直なところ、私にはそこに関心はない。私が関心をもったのは「点」という形が「線」という意味になったことである。点と線をつなぐもの、それはAとBを足し合わせた「+」ではなく、AからBを引き算する「−」にあることである。

■参考リンク
『 差分 』 刊行



■tabi後記
昨日は入不二基義さんの「哲学文献講読演習」(テキストは「転校生とブラックジャック」)に参加させて頂いた。私を含めて学生が6人だけだったので、有意義に過ごす事が出来た。
posted by アントレ at 06:32| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月13日

tabi0183 岡島悦子「抜擢される人の人脈力」

仮説的に生きなければ、あなたの旅ははじまらない

本書は「人脈スパイラルモデル」を築いて行くための五つのステップが説明されている。
この本で、私が感じたのは「仮説的人生」を生きるというメッセージであった。

岡島さんが提唱する「人脈スパイラルモデル」は五つのステップで構成されている。

STEP1「自分にタグをつける」
自分が何屋なのか請求ポイントをはっきりさせる

STEP2「コンテンツを作る」
「お、こいつは」と思わせる実績事例を作る

STEP3「仲間を広げる」
コンテンツを試しあい、お互いに切磋琢磨して、次のステップを共創する

STEP4「自分情報を流通させる」
何かの時に自分のことを思い出してもらうよう、種を蒔く

STEP5「チャンスを積極的に取りに行く」
実力以上のことに挑戦し、人脈レイヤーを上げる


私が感じた「仮説的人生」という考え方は、STEP1「自分にタグをつける」に最も感じるところだった。

本書では、自身を内省すること、その内省に基づいて考えられた「やりたい仕事」を実現するために「今」どんな努力をしているかを説明できる人はそう多くはないと述べられていたが、私はこのような事態がなぜ起きるのかを考えたかった。

この本を読んでいない方でも、自分へのタグづけをしよう、しようと思っていながらも出来ていない人が多い。私はその課題に対して、2つの考えを提示したい。(とはいっても、有効なのは実質1つであるが。笑)

まず1つめは「タグづけをしないというタグづけ」という考えである。この考えは分かる人には分かるようなものなので、詳細は書かない。このような戦略をとる人を「パンタギスト」(Pan-tagist)と呼ぼう。

もう1つの考えというのは「人脈スパイラルモデル」に「STEP0」を挿入すること。

STEP0「限ることは、拡げること」という考えを徹底理解する

本来この部分は、STEP1でおこなわれることだが、私には切り離して考える方がしっくりくる。よくよく読み込んでみると岡島さんも、STEP0を真に受け止めていることがみてとれる。

世の中の皆さんにわかりやすくするために、私は自分ことを「あえて」ヘッドハンターと呼んでいますが、私の仕事の実態は、「人材を切り口とした経営コンサルティング」だと思っています。もっと言えば、真の「経営のプロ」人材を増やすことができるのであれば、自分の業や肩書には、特にこだわるつもりはないのです。「自分の仕事のドメインは自分で定義する」。これが、現在の私のスタンスです。P224
岡島悦子「抜擢される人の人脈力」(東洋経済新報社 2008)


ここの「あえて」がキーワード。

そして「あえて」であることを知ることがSTEP0の意味である。

「あえて」は「相手は全てを理解してくれないのだから、情報を絞る必要がある」という人の認知に根ざした納得から生まれてることではない。

恐らく「人は何者にでもなれる/なれた」というオープンエンドな考え方が根ざしているのだろう。このように「自分は他人の勘違いで形づくられる可能的存在である」という開放的な意味で納得するほうが健康的であろう。

本書では「勘違い」を「買いかぶられる」という言葉で表現をしていたが、この現象は、他人から「◯◯君に△△を任せてみたい。一緒に考えてほしい。」というオファーによって自らが欲していたものが「他者の力を借りてメタ認知」されることをあらわしているように思う。

「自分で自分をタグづける」というのは「他人からのタグづけ」を導く為のツリ
でしかないのだろう。他人の勘違いは、あなたの実力(できる)だけではなく、可能性(できそう)に着目してなされる。真理は常に「そうだったのか」という想起として言語化される。

もちろん、人脈をえるためには「自脈」を感知することが必要であるが、その脈の鼓動を記述する言葉は遅れてやってくる。そして、その言葉を与えてくれるのは他人を迂回することによってであることが多いのであろう。

タグをつけることは、自らの固定化をはかることになってしまう。そのように考えて、その行為を忌避するのではなく「タグをつけることは、新たなタグを生み出す土壌づくり」であると感得したところから、新たな理解は生まれてくるのではないだろうか。

■参考リンク
書評の御紹介:「藤沢烈 BLOG」より
書評のご紹介4:磯崎さんの「isologue」より
書評のご紹介12:渡辺千賀さん「On Off and Beyond」より
書評のご紹介13:小飼弾さん「404 Blog Not Found」より



■tabi後記
Blog再開。更新が滞っていた理由は、学生証が紛失し、図書館で本が借りられなかったからかな。ということにしてみよう。
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2009年06月03日

tabi0182 入不二基義「時間は実在するか」

「なぜ過去があるのか?」

この問いに、さしたる目新しさはないだろう。ここのところ生々しさと嘘らしさを調停するモノに、関心がむおていたので、本書で取り上げられる「見かけの現在」という言葉に良き感触をおぼえた。

校舎が聳える新御茶ノ水駅までに色々な者と車を共にしなくてはならない。私は1駅を過ぎるごとに「この人は誰なのか?」「なぜ、私の目の前に存在しているのだろう?」という驚きを問いはじめてしまう。そして、その驚きの種が「いたるところにあることに」視点がずれると、一気に飽きが覆ってくるのだ。この瞬間瞬間で僕は持続的存在としているらしい、そのことに飽きもある。

持続ゼロで、時間の一定部分ではない「瞬間」においては、どんなものも「動く」ことができないだけでなく、「静止する」こともできないからである。動くことが可能なところでのみ、その否定形としての静止もまた意味を持つ。一定の幅を持った時間の持続においてのみ、その間動くことが可能であり、また、その間静止することも可能なのである。しかし、「瞬間」は、短い時間(時間の一部分)ではなく、時間の限界(リミット)である。瞬間という限界においては、矢は(動くのでも静止するのでもなく)ただ「ある」としか言えない。その「ある」は、「運動」と「静止」の対比以前の「ある」としか言えない。P19-20
入不二基義「時間は実在するか」(講談社 2002)


本書で批判的に検討されることになるマクダガートの時間論は、過去から未来へと動く「今」に視点を置いたA系列の時間と年表のように過去から未来までを一望に見下ろすB系列の時間とに時間を分けて、時間の本質はA系列にあるとする。しかし、A系列は矛盾をもつがゆえに、時間は実在しないという結語する。

B系列は、「順序+時間」という仕方で構成されている。つまり、無時間的な順序関係に、さらに時間がつけ加わることによって、B系列は成立している。その「時間」の部分を提供しているのが、A系列であった。そして、「(無時間的な)順序」の部分に対しては、C系列という呼称が与えられている。P102


B系列は、A系列が前提となり、A系列もまたB系列にもたれている。私は、この構造に対すると、三項をたてる策ではなく、ある言葉で、ある言葉を覆ったときに現れる様相から捉えたくなる。

その様相とは、二項の内に一方であるが、その作動内に対立項を含め、内包することである。「言葉」で「言葉の外」を生み出しつつも、「言葉の外」を<言葉>自らが回収し、さらに新たな<外>を生み出す。その反復が無情に繰り返されるだけだろうか。言葉の分節による網の目にすべてが取り込まれるという発想ではなく。

既知と思われている歴史、油断すると起源に誘惑される自体、それらを招くも、撥ね除けるも1才時に発達的に獲得したという「事実」。その時、分節は全体から局所へと堕落していく。言語論的転回でも何でもよろしい。ただ、この知見もまた分節化の賜物なのである。この不思議な構造に関心がわかずにはいられない。

先ほど、入不二氏の新著を拝見させて頂いたのが、読み手ではなく書き手として対峙せざるをえない文章であった。どうしてこのように書くことができるのだろうか。そのスタンスを引用させて頂きたい。

随想を書くということは、「寸止め愉楽と困難」を内包している。議論の森の奥深く分け入ることを控え、その寸前で立ち止まり、森の在処や入り口を指し示す。その指し示し方・立ち止まり方、その寸止めの形姿に、全神経を集中する。シンプルかつ豊穣に指し示し、美しく立ち止まれるかどうか・・・、それが問題である。寸止めの所作は、独特の困難を伴うけれども、エロティックな快楽をもたらしてくれる。(中略)しかし、このように逡巡していると、随想はいつまでも完成には至らないだろう。どんなに不完全に思われても、どこかで断ち切って終わらせなければならない。現実の中でのこの終わらせ方もまた、「寸止め」という所作なのだと思う。P226-228
入不二基義「足の裏に影はあるか?ないか?」(朝日出版社 2009)


■参考リンク
感じない男ブログ
現実に階梯はあるか? ないか? (1)





■tabi後記
更新過程であるという<弱さ>/直立不動という<強さ>。弱さという強さではなく、リンケラビリティーというニュアンスではないか。
posted by アントレ at 23:34| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月02日

tabi0181 米山優「情報学の基礎」

要するに学問の世界で言えば「永遠真理」への信奉、日常的な世界では日々起こった出来事への絶対的な信頼である。(中略)いずれの場合も背後で起こっていることは、言うなら<時間を止めている>という事態なのである。そこには、過去から引き続いてきているような秩序を超えて別の新たな秩序へと向かおうという眼差しは、もはや無い。<すべては既に終わっている>というところから事柄を始めるようなものである。p8
米山優「情報学の基礎」(大山書店 2002)


米山情報学西垣情報学と「生命性」という点において類似がみられるが「時間性」を所与としないところに相違がある。

米山が潜在的に問おうとしているのは

・時間が「持続」している心理的実在感は「何を」跳躍しているのだろうか?
・論理的実在感は時間を「断続」するさいに「何」を抽象してまうのか?

この2側面ではないだろうか。

すでに存在してしまった仮説。仮説はそれが有効に機能しているかぎりでは仮説でないという逆説的な性格を有している。この<逆説性>のゆえに科学は、真の目的性の探究に関して禁欲を装いながら、似非目的性を排除するかのように実は作用に吸収させ、以て作用性と目的性とを同一視するという不条理に陥る可能性を有している。P44


米山にとって、ある思想/方法に関心を抱く定点は、「Given」に対して「強さ」がみえるか「弱さ」をみえるかなのだろう、それが棄却するまでは、それは仮説とたりえないこと、一切は与えられていると主張することに対する「とりあえずさ」への感度である。

先の問いはこう変換されるかもしれない、

・確かさのあるリアリティー
・どこかに潜むアクチュアリティー

を繋ぐものとは?繋ぐものがあると思わせる誘惑性に毒されているか?

私は、その非実在と実在を紐帯するモノへ関心はいかない。そこに場,編集といった概念装置を導入することにって地平がひらけるように思えないから。心理的納得と論理的説得の同時的存在を希求するということ事態がすでに所与とされている。そうなると自己言及的無限にたたされることになるのだが、そこで終えることは何も考えることにはならない。

そこで、何に対峙しているのか、されそれを見つめたい。

■参考リンク
第六百七十一夜【0671】
アイス・W・フラハティ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」



■tabi後記
Inspiration(Cool+Coollect=Coolect)⇔Exspiration(Cool+Edit=Credit)
posted by アントレ at 23:55| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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