2009年07月21日

tabi0222 川口盛之助「オタクで女の子な国のモノづくり」

女性的な細やかさや恥じらいの心情と、子供のような好奇心やファンタジー的な世界観が、日本のモノづくりの特徴の下地にあることがわかってきます。女性的で子供っぽい、すなわち「女の子っぽい気質」こそが、日本企業が一連の製品を生み出してきたユニークさの源泉なのです。P213
川口盛之助「オタクで女の子な国のモノづくり」(講談社 2007)


日本企業が開発、製造する製品をリバースカルチャリングすることによって「女性的で子供っぽい」というモノづくりの背後にある精神を汲み取っている。著者のことは、川口盛之助の「ニッポン的ものづくりの起源」という連載記事で知っている方もいるだろう。

子供のファンタジーの世界観
針ですら供養するほど道具に感情移入し(擬人化)、箸や茶碗のように「自分専用」にこだわる道具へのパートナー感覚をもています(個人カスタマイズ)。また、誰もが潰すのが癖になる気泡シートに愛着を持って「プチプチ」という商標名をつけ(病みつき)、自動車の室内の静粛性を完璧にせずエンジン音を効果音にしてしまう発想(寸止め)も卓越しています。これらは、いずれも、日本人が「マシンとうまくつき合うメンタリティを持っているが故の特徴」と言えるでしょう。子供のファンタジーの世界観に近いものがあります。P212

子供っぽさを構成する4つの法則があるという。メモと示唆を交えて書いておこう。

法則1 擬人化が大好き

供養とタンの世界が象徴としてあげられている。いかなる物も供養の対象とするメンタリティーと◯◯タンにより全てが萌え擬人化されるということだ。僕が注目したのは、後者の中に潜んでいる「メタ擬人化」という現象である。メタ擬人化とは、既に擬人化されている対象を更に擬人化(萌え擬人化)することである。

法則2 個人カスタマイズを志向する

著者は、検索のカスタマイズが出来ないかと思案している。例えば、特定人物の検索モードを体験(イチロー検索,部長検索,村上春樹検索・・・)、時間をずらした検索(2年前検索)をすることで、2年前のページしか引っかからない状態をつくる。この空間内でピックアップしたおもしろい記事を「現在ボタン(仮)」で戻すと、その記事を参照してきた2年分の記事が表示されるといったシステムだ。

携帯の未来像として考えられているのは「ケイタイは目玉のオヤジになる」というものだ。つまり、ウェアラブル、ナビゲーション、カウンセリング&コーチングといった機能を備えた、自分を分かっていて良いアドバイスをくれる奴という存在だろう。

法則3 人を病みつきにさせる

これは、ザリガニワークス 自爆ボタンや無限プチプチに代表とされるもである。裂きたくなる、つぶしたくなる、触りたくなるといった、病みつきアフォーダンスを製品に潜ませていると。自爆ボタンにいったっては、自爆機能がないボタンという、押す事だけが目的化された製品となっている。

法則4 寸止めを狙う:
できることをあえてやらないことが、習熟化という楽しみを付与することができるのだ。ディスプレイ行為と寸止め的贅沢の対比。クルマの走行音は、もう消せるにも関わらず、ドライビングサウンドという見せ方によって機能を保っている。

女性的な繊細さや相手を慮る心情
預金通帳すら抗菌処理するほど、日本人は清潔や長寿への貪欲さがあります(健康長寿)。一方では、マネキンまでアニメ風にしてしまうデカダンぶりを発揮します(生活の劇場化)。それでも、周囲への配慮や遠慮の精神を忘れず、腹の虫が鳴くのを抑えるお菓子を作る(「恥ずかしい」対策)と同時に、運転中、隣の車線に割込んだときには、尻尾を振って「ありがとう」と表現する装置を開発しています(かすがい)。(中略)このあたりの特徴は、女性的な繊細さや相手を慮る心情に通じるものがあります。P213

そして、女性らしさを構成する4つの法則がある。

法則5 かすがいの働きをする

法則6 「恥ずかしさ」への対策になる
恥じらい気質という才能から製品が生まれている。用足しの恥ずかしさから生まれた音姫であり、腹の虫の恥ずかしさから生まれたお菓子や、生理用ナプキンの開封音から生まれた製品など。

法則7 健康長寿を追求する
ありとあらゆるものが抗菌される潔癖志向と身体にいいもの(ビタミンなど)を出す電気製品の登場

法則8 生活の劇場化を目指す
象徴例は、ボクといっしょに食べようよ、イーテぃン。

このような8法則から、

法則9 地球環境を思いやる 気配りの文化
法則10 ダウンサイジングを図る ビルトイン化になる、折り畳み

という2法則の記述がなされている。本書には日本人ではなく日本語人という表現がつかわれている。その背景に、角田忠信の理論を用いているのが興味深かった。

同世代の日本語人は、男性的/女性的の軸ではなく両性具有っぽく、大人っぽい/子供っぽい軸ではなく、幼形成熟(ネオテニー)を体現している気がしている。この世代が、どのような製品(未来)を開発/表現していくのか。それはそれで楽しみである。

■参考リンク
書評 - オタクで女の子な国のモノづくり
日本語ということばを使う日本人




■tabi後記
久々の再開。書きかけのレビューが溜まりに溜まめてしまった。僕にとって、読みと書きを分けることは苦行でしかない。
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2009年07月09日

tabi0221 ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」

貯蓄=投資は成長の主因にならない
資金ギャップ・モデルがそのとおりなら、今ではザンビアは一人当たり所得二万ドルの工業国になっていたはずである。しかし現実は、一人当たり所得六◯◯ドルの貧困国である。(この水準は独立時の三分の一である)。ザンビアは資金ギャップ・アプローチの最悪のケースである。ザンビアは多くの援助を受け取ったが、援助が流入する前にかなりの投資率を達成していた。しかし援助が増えても、ザンビアの投資率は上昇するのではなく、低下し投資水準がどうであれ成長はもたらされなかった。P59
ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)


イースタリーは、援助機関が採用するハロッド=ドーマ・モデルにもとづいた資金ギャップアプローチは、発展途上国の成長を生んでこなかったと指摘する。

以下で、資金ギャップアプローチの理論的背景に説明を加えます。

マクロ経済学では、国民総生産は、現在の「消費」と将来の生産能力増加のための「投資」に分けられる(Y=C+I)が、発展途上国では元々の所得水準が低いために所得の多くが現在の消費に用いられ、十分な投資を行うことができない。

だから、国が目標とする経済成長率にとって必要な水準の投資と実際の投資額とのギャップを埋めることが、開発援助の意義であるとされています。(モデルにおいては、貯蓄と投資が一致することを前提に貯蓄率が用いられる)

例えば、ある国において生産量を1単位増やすのに必要な資本への投資額が5であることが知られているとします。

この場合に、目標とするGDP成長率が6%とすれば、必要な対GDP投資率は30%(6%×5)となります。このとき、この国の対GDP貯蓄率が10%だとすれば、対GDP比で20%の投資が不足しているということになります。

そこで、この対GDP20%に相当する額の援助をすれば、目標成長率が達成できる。という論理をつくりあげるのが、資金ギャップモデルなのです。

そして、イースタリーは、資金ギャップ・モデルの前提である「資本への投資額」と「経済成長率」が一定比率の正の相関関係を有するという仮定を批判します。

資金ギャップ・モデルは、設備投資に対して資本が投入されれば、一定比率で生産量が増えると仮定していますが、通常、生産設備への投資を増やしていった場合、限界生産量は当初は増加しますが、以降は少しずつ低下していくことが知られています。

資金ギャップ・モデルでは、その限界を克服するために、発展途上国においては余剰労働力が豊富にあり、企業の生産能力の制約条件は「生産設備の不足」だけであると仮定しているのです。

しかし、発展途上国においては、余剰労働力が豊富にあると仮定するよりは、その生産要素の初期配分のあり方(労働力と設備の割合)に応じた生産技術が「すでに」用いられていると仮定する方が自然です。

そうすると、生産性の制約条件が資本的要素だけであって余剰労働力は遍在しているという仮定は現実的ではありません。これがイースタリーの批判の一つめの理由です。

もう一つの批判は、発展途上国側におけるインセンティブの歪みの問題です。

援助国側の開発援助額決定が資金ギャップ・モデルに従って決定される。そして、資金ギャップが存在する限り援助はなされるということを、発展途上国が知っていた場合どうなるでしょう。

常に資金ギャップを最大化するような戦略をとることが最も自己の利得を最大化することにならないでしょうか?

具体的には、消費を増加させ、貯蓄を抑制する政策を採用することです。意図的にこのような戦略をとることにより、途上国は常に援助を受け取ることが可能になるのです。

概ね、イースタリーは、このような批判を加えた上で、ハロッド=ドーマ・モデルからソローモデルの解説にうつっていきます。

その後のイースタリーの主張は、技術発展と人的資本の蓄積が成長の要因であるということです。そして、そのためには知識の波及と移転が必要だと説きます。私は、イノベーションにまつわる話しは、クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」に触れるほうが説得的であると思います。

債務救済には新政府のコミットを添えて
借入れを増やそうとするインセンティブを避けるためには、債務救済が今後二度と行なわれなくてすむような信頼性のある政策を、債務救済プログラムによって確立するよう努めなければならない。もしこれがむずかしいとするなら、そもそも債務救済の発想自体が問題である。途上国の政府には、いざとなれば債務が救済されることを予想して、借入れを続けようとするインセンティブが強すぎるのである。P191
ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)

支援機関はインセンティブの歪みを是正すると同時に、HIPC側に債務救済にコミットメントがともなう事を確約させ、HIPCに説明責任を求めていく必要がある。

また、国を富ますのではなく、人を富ますという前提を抜きにして経済開発は語れないだろう。人的資本投資が国外への人材流出を加速させることも視野にいれる必要がある。

■参考リンク
Libertarianism@Japan The Elusive Quest for Growth 
サックスとアンジェリーナ・ジョリーの重荷(1)
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (1)
イースタリー講演と日本の開発援助
ハイエクと知的財産権


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■tabi後記
知が広がることよりも、無知が広がることを実感していたい。
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2009年07月08日

tabi0220 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」

Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen !
メフィスト
どんな快楽にも どんな幸福にも満足せず
次々と移り変わる姿を追って 挑み歩く男だったが
哀れなことには最後になって 何ともつまらぬ
空っぽの瞬間を わが手に握っておきたがった。
随分と俺に手を焼かせたが
時間には逆らえず老いぼれて ついに砂の上で往生だ。
時計は止まった

合唱 
時計は止まった! 真夜中のように黙り込んだ。
針は落ちた。

メフィスト 
針は落ちた。<事成れり!>

合唱 
事は過ぎたり。

メフィスト 
過ぎた? 馬鹿な言葉だ
何で過ぎるのだ?
過ぎたも 初めから無いも 完全に同じことだ!
それでは われらが<永遠の活動>はどうなるのだ
造られたものを無へと帰する活動は?
「これにて事は過ぎたり!」ーいったいどんな意味だね?
それならもともと無かったと同然で
その癖 結局は輪を描いて 有ると同じということになる。
むしろそれより俺の気に入るのは 永遠の空虚という奴なのだ。P475-476
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」(講談社 2003)


ギリシャに関するパートでは少々つまづいてしまったが、この本は何度も読むことにしようと決めたときに、全てがスッと入ってくるように感じた。引用したのはファウストが絶命した後、作品も終盤にはいった場面である。

このシーンは、メフィストが契約通りと判断しファウストの魂を奪おうとするが、合唱しながら天使達が天上より舞い降りてくるところだ。その後、天使は薔薇の花を撒いて悪魔を撃退しファウストの魂を昇天させる。

私にはこのシーンが未だに理解出来ていない。一般的な理解は、ファウストが「憂い」に視力を奪われても尚、その意思を捨てずに新しい土地に新しい人々の理想郷を作るおとを惜しまなかったことが救済に値する行為だったという判断です。もちろん真理は闇のなかである。

だが、第一部にも書いたように、ゲーテが対峙したのは「全て」である。その「全て」がこれなのか?と思う。考えとしては、華々しい結末を期待する心性にこたえないということや、メシア的救済といった理解もできるであろう。

しかし、それでいいのか?と思う。私が今のところの理解しているところでは、「それいいのか?」と読者へ想起し続けるための「開かれた結末」だったということだろう。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
Wikipedia ファウスト 第二部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! における「dU」が大切であろう。
posted by アントレ at 20:10| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0219 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 上」

全ての果てにある全て!
天主
よいだろう。お前にまかそう!
彼の精神をその根源から引き離し
もしお前の手におえるものなら
それを好きなように引きずり下ろしもするがよい
そして最後には恥じ入って白状するのだ
心ばえ秀でた人間は 暗くおぼろなる衝動のうちにあっても
自分の踏むべき道を忘れることは決してないものだと。P30
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 上」(講談社 2003)


小説/戯曲を読むということは主張をもとぬことであろうと思う。バフチンポリフォニー理論にもとづいて考えると、「ファウスト」という作品に登場するファウスト・メフィスト・天主・マルガレーテ(グレートヒェン)・学生などの言葉を拾い上げることは控えることになる。

ある人間の発言から何かを論じるのではなく、関係性(場)に起ち現れていること「全て」がファウストという作品なのである。この視点から論じると、ファウストはメタポリフォニーな作品だといえそうだ。なぜならファウストが望むものは『全て』であるからだ。そして、メフィストも<全て>、天主も【全て】を希求している。ゲーテは全ての連なりによって「全て性」を論じているように思えるのだ。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
475旅 ゲーテ『ファウスト 第一部』
Wikipedia:ファウスト 第一部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
古典を読むと、眠りし魔物を呼び起こすことになる。非常に危険な営みだ。スポーツやグラディエーターの世界を体感するようだ。
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tabi0218 池谷裕二/糸井重里「海馬」

絶妙なバランスのうえに成り立つ生活
外界にアンテナを巡らせることは、つながりの発見には必須だ。情報入力のためのアンテナ、これを認識力と言い換えてもよいだろう。入力なくして出力はありえない。そして次に問われることは、認知された情報に、いかに新規な視点を付加するか。言うまでもなく、この過程こそが全行程の律速だ。と同時に、個性顕示の場でもある。P312
池谷裕二/糸井重里「海馬」(新潮社 2005)


インプットを惜しまず、かといってインプットしすぎない。アウトプットを大切にしながらも、根底への思索をないがしろにしない。頑固になることが大切であるが、柔軟性も大切である。このような態度は矛盾である。

だが海馬は、それを好しとする。むしろ安易な統合を好しとしてない。相矛盾する考え、統合と同時にあらわれる対立概念/別概念。これらを並列に飼いならすことを指南しているのかもしれない。

並列に飼いならすことに辟易せず、拍子抜けすることもなく、ただ自らが行なっていることが「そうであるか?」と反省的にいられるかどうかが試されている。「脳」にだまされず、「脳」をだましていきたいと思う。

■参考リンク
ねむりと記憶。
海馬 脳を困らせる旅に出る?


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■tabi後記
久々に多摩市に足をはこぶことになりました。戸籍謄本を本籍地まで取りにいかなくてはいけないことに驚きをおぼえた次第です。確定申告はネットでできるのに、戸籍謄本を共有するシステムはないようです。
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2009年07月07日

tabi0217 玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」

見性から性見へ
「形なき純粋生命が、全人格的思惟を営みつつある主体者に顕になるとき、初めて人間自体の根本転換、すなわち目覚めが実現する」このなかで、主体者はなにか。さらに具体的には何を指すのか。それがブッタのいう業熟体であり、いわゆる人格的身体である。唯識思想のアーラヤ識もこれにつながるが、単に識というのみでは不徹底である。識も何もかも呑みこんでいる身体がここに問われている。P306

存在の統括体が、業熟体であり、人格的身体である。それは、自己意識も、無意識も一切が融けこんでいる、自己存在の根源体であり、自己の自己なるものである。同時に、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの交わりにおいてこそ現われているものなるがゆえに、宇宙共同体の結節点である。私性中の私性と、公性中の公性との、二つの同時的極点である。P307
玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」(講談社 1986)


禅では全人格的な推理および体得を「見性」と呼ばれている。性を見るとは、確かに体得することであるのだが、そのことが問題であると玉城氏は言うのだ。

なぜなら、見性ではどうしても見る主体が残ってしまうからだと。

実際に残って、元の木阿弥の日常の自己に戻ってしまう。そこで玉城氏は、瞬発的/一時的な神秘体験ではなく、持続的なこととして見性を取り扱っていくことにする。

すると、仏教の根底が「性見」にあるかもしれないと思いはじめたのだ。それから十年くらい経った時に「性が見われる」ということを原子経典の文献で抑えたのである。それが「ダンマ」であり、「如来」であり、「アーラヤ識(能蔵、所蔵、執蔵)」と「マナ識」の関係である。

このような根底の視点から法然・親鸞・空海・道元を同質的に論じていったのが本書である。今までは、法然・親鸞は浄土教として連続しているが、空海(真言)や道元(禅)は、浄土教とは異質的なものと考えられてきた。しかし根底から見れば、まったく同質的であるのだ。

■参考リンク
仏教の根底にあるもの NHK教育テレビ「こころの時代」
覚醒・至高体験の事例集 玉城康四郎氏


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■tabi後記
実際のところは、全く消化しきれていない。久々にスゴい学者に出会った気がします。
posted by アントレ at 09:15| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0216 茂木健一郎/江村哲二「音楽を「考える」」

異常が正常になったとき
作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。(中略)それを茂木さんは「自分が傷ついていくこと」と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、「傷ついている」ことそのものを表現してしまったらおもしろくもなんともない。その「傷ついていく」プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。P22
茂木健一郎/江村哲二「音楽を「考える」」(筑摩書房 2007)


作曲とはいわば、ぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続けるものである。

モーツァルトの弦楽四重奏K465《不協和音》冒頭のアダージョは、そういった「闇」の部分をかいま見せている作品である。弦楽四重奏K465《不協和音》は対斜という問題を含んでいる。

Mozart 'Dissonance' Quartet K.465


しかし、ウェールベルンや現代の曲に慣れ親しんだ人たちには対斜や半音階進行などは「正常」なことであろう。私も何の違和感も聞ける。

Anton Webern Fünf Sätze 1


しかし「正常」は「異常」であったのだ。

「異常」といわれる地点へ跳躍したものの軌跡が音楽には存在している。それはジョン・ケージ(「きく」の復権)も、ワーグナー(無調性という時代性の表現であり、12音技法への確かなつながり)もそうであろう。

本書では、マルセル・デュシャン(1回性の創出)も一例としてあげられている。このような視点は、解釈学・系譜学・考古学を実践しているようで心地よいものがある。

John Cage "4'33"


John Cage about silence


Richard Wagner. Tristan - Isolde Prelude


Mozart Piano Concerto No. 9, First Mvt, Mitsuko Uchida


■参考リンク
江村哲二の日々創造的認知過程
想い出


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■tabi後記
Youtubeへの投稿数にあらためて驚いてしまう。
posted by アントレ at 02:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0215 糸井重里「ほぼ日刊イトイ新聞の本」

クリエイターの「まかないめし」を提供してもらう
「あの会社の『幸福感』が好きだから、私はこのクルマに乗るのよ」というようなことを、いまの人たちは、無意識にやっていると、ぼくは思う。P348

つまり、ぼくは、「あらゆる不幸は、全力を尽くせないという悲しみにあるのではないか?」と考えているのだ。逆に言えば、不幸に思える環境でも、全力を尽くすことができたら、ものの見方ひとつで、死ぬ前に「あぁ、面白い人生だった!」とつぶやくことができるかもしれない。
『ほぼ日』は「人が全力を尽くす場を開拓するメディア」になりたいと思うし、すでに読者から反響をもらっているように、「人が全力を尽くすことを手助けするメディア」でありつづけるべきだろうと思うのだ。P352
糸井重里「ほぼ日刊イトイ新聞の本」(講談社 2004)


糸井さんとの出会いはなぜ吉本隆明/糸井重里に出逢ったのか?に書かせてもらったが、「ほぼ日」との出会いは未だに分からない。恐らくは、ネットサーフィンで出会ったのだろう。

このように出会いの起源がモヤモヤしているときは「その物事との出会い方」に焦点をあてたくなります。また、出会い方よりも付き合い方に特徴があるのでは?と考えたくもなる。

私の付き合い方は「ほぼ日」をRSS登録し、ほとんどの記事をスルーするような状態です。(山田ズーニーさんの記事をたまに見るくらい。)

けれど、対談企画が立ち上がってくると様子がかわる。池谷さん、岩田さん、吉本さんなどが、それである。これが「まかないめし」といわれるものであろう。

糸井さんは「ほぼ日」というものを放課後のパワー/退社後のパワーを突き動かすメディアにしたいと語っていた。私は、それを突き動かす役割はサイトにあるのではなくて、手帳をはじめとする物販品が担っていると思っている。

手帳などをつうじて、ほぼ日的幸福感に僅かながらに接触していることが、(近づき離れずという)出入り自由な宗教性が演出されていると考えている。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞
人格というブランド


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■tabi後記
Grameen Change Makers Programに内田も参加することになりました。告知した時は別予定が入っていたため、参加など考えてもいませんでした。

と思っていたら、V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」を読了した後から嘘のように予定キャンセルが発生したのです。笑

ということで「バングラディッシュへ行ってほしいという人生からの期待だな」と錯覚して、応募したのです。行くからには成果出してこようと思います。考えを整理したうえで、旅立とう。
posted by アントレ at 00:29| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

tabi0214 木下是雄「日本語の思考法」

語尾に苦しむ緩衝人
論文のなかで、「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くけれども、じつは「であろう」、「と考えられる」とふくみを残した書き方をしたいのである。これは私のなかの日本的教養が抵抗するのであって、精根において私が逃れるすべもなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう。P105
木下是雄「日本語の思考法」(中央公論新社 2009)


もちろん英語にだって主張の強さややわらげる叙述法はいろいろある。

perhaps,probably,presumably,...というような副詞もあるし、would(やwill)を推量や遠慮の意をこめて使う可能性もある。It seems to me thaat...,I suppose...などという言い方もできる。

だが、欧米人には、論文のなかの推理や主張のような場で、日本語の「であろう」、「と思われる」、「と見てもよいのではないか」に相当する緩衝性のある表現を使う心的習性がないようだ。

こういった推論から、論文などの場で使われる「であろう」は翻訳する手段がない。形式的にぼかした言い方をしてみても<場ちがい>で著者の気持ちは伝わらないーという考えた生まれている。

翻訳不可能性についての話しよりも、自分自身が引用文にある経験をしていることが興味深かった。それは「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くという行為である。まるで「語尾に苦しむこと自体が、ニホンゴを話者の制約である」と宣言されてしまったようだ。

■参考リンク
youngblood


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■tabi後記
八重樫さんとお会いし、彼女が去年書き記した「みること」という論文について話をしました。

論文の流れとしては「なぜ人はモナリザをみたときに「意外と小さかったね」という言うのか?」という問いを起点にし、ベンヤミン(アウラ)→高山宏(ピクチャレスク)→スタフォード(身体の疎外)→荒川修作(建築的身体)を援用しながら、「今・ここ」を論じていている。先験的体験にも、神秘的体験にも回収されない確かな「実感ある見る体験」を探究した素敵な論文だった。
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tabi0213 丸谷才一「思考のレッスン」

問いをもち、問いをそぎ、問いをそだてる
われわれだってホームグランドは持てる。といっても、これは、よく言われる全集を読めというのとは違います。(中略)そうではなくて、自分にとっての主題というか、もっと広い意味でのホーム・グラウンドがあるようにして読む、それはおのずからできると思うんですよ。たとえばフランス革命史がホーム・グラウンドであるような読書とか、あるいは米ないし稲作という問題が自分のホーム・グラウンドであるような読書とか、それが、本の読み方のコツではないかという気がします。P149
丸谷才一「思考のレッスン」(文芸春秋 2002)


人は図書館/大型書店を回遊することによって、自らの「問い/ホーム・グラウンド候補地」を見つけ出すことができる。

あるコーナーで、ふと足がとまってしまう。ふと手にとった本を数ページを読んでみて、「これは!」と思えるものに出会えらしめたもの。その本が、あなたのホーム・グラウンド候補地になるだろう。

しかし、ここからが大事ところである。

「問いをそぎ」「問いをそだてること」というフェーズに入るからだ。

原初的な「問い」は、誰かの「問い」であることが多々ある。あなたの「問い」は、単に無知だったがために「問い=謎」という形をとっていることが大半なのだ。それを前提にしてもっておくことは非常に大切なことです。

なぜなら、最初に抱いてしまった問いを、何か神秘的なものと勘違いして、それを捨て切れない人が往々にして見かけるからだ。そこで執着しないこと。それが問いをそぐことである。

問いをそぎ、それでも残ってしまうものがある。そこから問いとの伴走がはじまる。それが「この問いをいかに育て上げるか?」というフェーズである。

このフェーズでは「比較と分析を大切にしたほうが良い」と著者はアドバイスする。「これは!」と思った著者の本、それと同カテゴリーの本、また著者が参考/推薦している本を読んでいくのだ。こういった方法で50冊ほど読破していくと、自分の中で「キーワード」が湧いてくると思う。

次はそのキーワードに基づいて「インデックスリーディング」をしていくのである。(具体的な方法は、参考リンクをみて頂きたい。)

この域に達した人は、自分の思考方法を編み出してきていると思う。その時になると、教える立場にたつ機会をえているだろう。本書を入口にして、多くの思索家が生みいでることを期待する。

■参考リンク
読書は人間がベッドの上でおこなう二つの快楽のうちの一つ


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■tabi後記
「まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」という主張は、ショーペンハウエルを想起させる。
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tabi0212 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」

アナログ・イミグレイトが世界を変える
人間の歴史における何とも特異な時期が訪れたものである。若い世代が年長者に対して未来にどう備えるべきかを教えてくれる時代が初めて到来したのだ。(中略)ネット世代から学ぶことで、生産性の高い仕事、二十一世紀の学校や大学、革新的企業、よりオープンな家庭、市民が関与する民主主義、そして、おそらくは新しいネットワーク化された社会という新しい文化を知ることができるだろう。P15
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」(翔泳社 2009)


デジタルネイティブ世代の特徴としては:

・現実の出会いとネットでの出会いを区別しない。
・相手の年齢や所属肩書にこだわらない。
・情報は無料と考える。

などが指摘されている(らしい)。また、インターネットオークションなどでは購入にも売却にも積極的な層であるとのこと。

さてどうしたことか。どうも僕の関心はデジタルネイティブにはないみたいだ。というのも、周りでは次の世代がはじまっていると感じているからだ。

読後に思ったことは、デジタルネイティブがあるならアナログネイティブがいるのか?ということ。そして、デジタル国とアナログ国があるなら、互いの国への移民がいるだろう?という考えです。

と思いながら検索をしてみると、すでに論じられていました・・。

アナログネイティブに関しては、アナログ原理主義者とデジタルネイティブという記事があり、デジタルイミグレイトに関しては、アナログなんて知らないよ! デジタルネイティブが開く時代に記載してあります。

しかし。言葉遊びが好きな私としては、ここで「アナログイミグレイト」という言葉を登場させたい。

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アナログ・イミグレイト世代の特徴としては:

・仕事はプロジェクト制を基本とするが、受注先にも個人的な関係を求める
・現実の出会いとネットでの出会いを区別しないが、出会い方を激しく重視する
・相手の年齢やジェンダーや国籍にこだわらないが、良い問いをもっていること重視する

などが指摘されている(らしい)。

また、近隣コミュニティーが志向性に共鳴し合うコーポラティブハウスになっているため、自律的な経済圏が生まれているらしい。最も大事な特徴としては、アナログ・イミグレイトは「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなノスタルジックなものは大嫌い。

■参考リンク
今からやつらに任せろ - 書評 - デジタルネイティブが世界を変える


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■tabi後記
デジタルネイティブに類似する言葉は、ネタとしても使用しないことにした。それは、こういう類いの言葉に限ることではない。誰かが生み出した言葉を無批判に使うほど、自らの思考を制約することはないと考えているからだ。
posted by アントレ at 21:06| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

tabi0211 V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」

意味から意身へ
「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。P27
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


フランクルの名は「夜と霧」で知っている方もいるだろう。本書はフランクルがナチスの強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で自らの体験と思索を語った講演集である。

意味が相対化され、解が納得化された時代において「意」とうのは虚しい。このようなニヒリズムが優勢をしめる中で、フランクルは「意」について探究していく。

「意味から意身へ」というフレーズをつくらせてもらったが、彼が伝えたかったのは「意」を味わうくことではなく、「身」で意することなのだと思う。

つまり色も味もなき「意」(人生=世界)を味わおうとしたり、探そうとしたりするのは笑止千万、荒唐無稽な話なのだ。

未来が無いように思われても、怖くはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのですp28
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


意身とは「私は人生にまだ何を期待できるか」から「人生は私に何を期待しているか」という「イミ論的転回」を遂げたときに生ずるのであろう。

■参考リンク
981旅 フランクル『それでも人生にイエスと言う』


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■tabi後記
つぶやき書評になってしまった。
多くを書くまでもないのだろう。

posted by アントレ at 21:23| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0210 マーカス・バッキンガム「さあ、才能に目覚めよう」

強みの理解が他者の理解を導く
「強み革命」を起こすには、弱点にこだわるのをやめ、人に対する認識を改めることが何より大切だ。人に対する正しい認識を持ちさえすれば、配属、評価、教育、育成などその他の事柄もすべて自ずと正しい方向に向かうはずだ。それをすでに実践している、すぐれたマネジャーが、共通して持っている二つの認識を示そう。
1.人の才能は一人ひとり独自のものであり、永続的なものである。
2.成長の可能性を最も多く秘めているのは、一人ひとりが一番の強みとして持っている分野である。p12
マーカス・バッキンガム「さあ、才能に目覚めよう」(日本経済出版社 2001)


本書は、「才能(強み)」とは、無意識に繰り返される思考、感情、行動のパターンと定義する。ユニークだと思った点は「才能」はなんら自慢すべきものではないという視点である。

一般的に才能という言葉は、持って生まれた「特殊な」資質および素質と考えられている。もちろんこの考え方自体は誤りではないが、才能が宿っているのは「ごく少数の人」と考えてしまうのは誤りなのだろう。

また「強みは常に完璧に近い成果を生み出す能力」とも書かれている。この完璧に近い成果というものが、インパクト勝負になってしまうと「少数」という考え方がつくのだろう。

本書ではそのような「インパクト」を問題とするよりも「満足のいく結果を出すには、あらゆることがうまくこなせなければならないのは嘘」であることを認識することに重きをおいている。

この主張を極端にすれば「オールラウンドはいらない」ということであろう。だが、ここで伝えられていることは「強みが見えれば、自分の(相対的な)弱みもみえてくる」ということだ。強みに気づくことで「餅は餅屋」という考えを理解できる。

この理解が「チーム」で仕事をするということに情熱をもたせるのだろう。

強みはどう表現されるのか?

例えば「人あたりがいい」という表現は何をさすのだろうか?

・一度しか会ったことのない人とでも信頼関係を築く才能があることなのか?
・初対面で相手に好印象を与える才能があるのか?


「自主性がある」とはどういうことか?

・どのような業務を与えられても意欲的に取り組む姿勢があるということか?
・意欲をかきたてられる目標を与えられると、がぜんやる気を起こして取り組むことか?

これと同じようなことが本書で提示される「強み」にもいえる。

テストを行なった人は、包含、社交性、内省・・・といった34の強みから5つの強みが提示されていると思うが、ここで提示された5つの強みは「深堀り」されなくてはいけないだろう。ここで示された言葉から演繹的に強みを理解することが求められるのです。

私は、

1 収集心 Input
2 指令性 Command
3 個別化 Individualization
4 活発性 Activator
5 着想 Ideation

という言葉があてがわれた。

明らかなことだが「この5つが私の強みです」などと語っていては意味がない。この言葉(概念)を踏み台にして、過去の事例(現在の状態)を探っていくことが大切である。

ここで提示された「強み」は想起を促進するためのツールなのであって、語るための強みではない。語るためには、エピソードを誘発するような「問い」が必要である。

テスト実施後に送られてくる「強み」の解説があると思います。その解説を参考にしながら「問い」をつくりだすことが必要です。

例えば、私は以下のように「問い」を設定して、エピソードや習慣化された行動特性(頑張り方の根っこ)を掘り下げて行きました。

1 収集心 Input
・今までどのようなものを集めていただろうか?
・集めたものをどう整理していたのか?
・集めたものをどのように活用していたのか?

2 指令性 Command
・どのような考えを他人に押しつけてきただろうか?
・対決を恐れずに突き進んだことは何だったか?
・自分が強い存在感をもったのは何時だったか?

3 個別化 Individualization
・どのような一般化、類型化に我慢できなかったか?
・どのような人の個性、物語を理解しようとしてきたか?

4 活発性 Activator
・皆が恐れる中で行動を起こさずにいられなかったことはありますか?

5 着想 Ideation
・ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方はありましたか?
・どのように誰でも知っている世の中の事柄をひっくり返しましたか?

皆さんもやってみれば分かると思いますが「示された強み」には「問い」に変換しやすいものとしにくいものがあります。

私でいうなら、1,2,3は変換しやすいが、4,5は変換しにくい部類にはいりました。この部類わけが生じるのは興味深いところです。

つまり「なぜQuetion-Induced(質問誘発性)に差が生まれるのか?」ということです。これから考えてみたいとテーマです。

■参考リンク
これで百戦危うからず? - 書評 - さあ、才能に目覚めよう



■tabi後記
思索のヒントとして「キャリアをつくる9つの習慣」に記載されている、コミットメント系、リレーションシップ系、エンゲージメント系という動機性質はつかえると思った。

・コミットメント系
達成動機(最上志向など)、パワー動機(闘争心)

・リレーションシップ系
社交動機(親和欲)、伝達動機、理解動機、感謝動機

・エンゲージメント系
自己管理動機(鍋奉行)、外的管理動機(ルール志向)、抽象概念動機(内省)、切迫動機(活発性)

とわけられている。
posted by アントレ at 08:44| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

tabi0209 藤井大輔「「R25」のつくりかた」

無意識に辿り着くインタビュー
「ダ・ヴィンチ」時代、作家のみなさんと一緒に、人間の奥深い業のようなものを追いかけていたこともあり、そもそも人間はそんなに単純なものではないと思っていました。パソコンの画面からラジオボタンで調査票に答える、でも、それは本当の気持ちなのか。そのデータをそのまま考察して、「これがファクトです」と単純に分析してしまうのは、あまりに危険なことではないか。人間とはもっとややこしくて難しくて面倒臭い存在のはずではないか・・・。人は簡単に本音を語らない。P41-42
藤井大輔「「R25」のつくりかた」(日本経済新聞出版社 2009)


くらたまなぶ「リクルート「創刊男」の大ヒット発想術」を地で行なったような内容となっている。「M1層のイタコ化」という表現や「帰りの電車で読む」という状況設定から判断した。

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R25をAMIAモデルでまとめてみた。私自身は「R25って読んでいるの恥ずかしくない?」という層にあたってしまうので、1事例として興味深く読ませて頂いた。(参考リンクが充実しています)今後の展開に注目したい。

追記
R25式モバイルは、2005年7月のサービス開始以来、多くのお客様にご支持いただいておりましたが、諸般の事情により、2009年7月30日(木)17時をもちましてサービスを終了させていただくことになりました。
http://r25.jp/b/static/a/static/stn/mobile

■参考リンク
"「R25」のつくりかた" のつくりかた
藤井大輔著「R25のつくりかた」を読んだ!
「R25」のつくりかた
1042旅 藤井大輔『「R25」のつくりかた』



■tabi後記
R25って読んでいるの恥ずかしくない?という層は、どのような本音をもっているのだろうか。
posted by アントレ at 19:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0208 盛田昭夫「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略」

われわれは一技術者にすぎなかったのに、企業的大成功を夢みていたのである。ユニークな製品を作れば大儲けできると考えていた。私はこのテープレコーダーを必ず成功させてやろうと決意した。

毎日チャンスをとらえては人に見せた。トラックに積んで会社や大学に持って行き、友人の家を回り歩き、彼らの話し声や歌を吹き込んでみせた。まるで芸人になったようだ。

機械を回しては人の声を録音し、本人に聞かせてやると、みな大喜びしたり驚いたりした。だれもがこの機械を気に入ってくれた。が、だれ一人買おうという人はいなかった。みんな異口同音に言ったことは、「確かに面白い。だがおもちゃにしては高すぎるよ」であった。

ようやくわれわれは、独自の技術を開発しユニークな製品を作るだけでは、事業は成り立たないことを思い知ったのだった。大切なことは商品を売るということだった。P113
盛田昭夫「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略」(朝日新聞社 1990)


盛田氏は、同じ高価なものでも、なぜ実用価値の無い骨董品が買う人がいて、実用的なテープレコーダーが売れないのかを考えた。

その結果、「買い手にその商品の価値をわからせなければ売れない」ことに気がついた。そして、商品の価値を分かってもらえる人にアプローチをしたのである。それが最高裁判所の速記担当者であった。

娯楽としてではなく実用として認識価値をもってくれる相手へ、商品を売り込みにいくというマーケティングが記されている。ここで感得したことがウォークマンなどのマーケティングへ活かされていったと思うと、彼の原点はテープレコーダー営業にあったのだと考えさせられる。

■参考リンク
Made on the Japanese Soil
895旅 盛田昭夫『MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略』



■tabi後記
やはり、早朝に読むほうがいいかもしれない。
posted by アントレ at 07:08| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0207 魯迅「故郷/阿Q正伝」

自己への期待と共同幻想

希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
魯迅「故郷/阿Q正伝」(光文社 2009)P69


帰郷の船の中で「わたし」は故郷への未練を捨て 「ホンアル」や「シュイション」を始めとする「新しい世代」に期待を寄せる。

だが、この期待は「ルントウ」へ抱いていた期待と同じものであることに気づかされる。そして「わたし」は、他者に期待をかけてばかりで何もしていなかった自分に気付くのである。これが最終場面での大きな「心の転換」である。

引用の部分には 「わたし」 が「他者」へ期待するのではなく 「自己」へ期待し希望の実現に向かって歩き始めようとする意志が表現されている。

この意志は「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」というJohn F. Kennedyが要求したものと類似する。

自剰期待が生む精神的勝利

「結局俺は息子に殴られたようなもの、今の世の中、間違っとるよ・・・」こうして彼も満足し勝利の凱歌とともに去っていくのだ。P81
魯迅「故郷/阿Q正伝」(光文社 2009)


魯迅は「阿Q正伝」において、列強に侵略されながらも中華思想という文化の高さがあることで現実を見ずに、むしろ侵略してくる相手を軽蔑することによって精神的勝利(安定)を保とうとした当時の人々を滑稽に描こうとした。

私は「阿Q」の中に「故郷」の「わたし」から地続くものをみる。それは「偶像崇拝」という事態である。

「故郷」における崇拝対象が「他者」であった。そしてそこから「自分」へとまなざしが移行していった。ここで物語は終わらない。魯迅は更に先をみていたのだろう。それが「阿Q正伝」で描かれる事態である。

人はまなざしの対象であった「自分」を「崇拝」として対象化してしまう。魯迅は目線であったものが、対象へ変わりきってしまうことへ危惧をしたのだろう。私にはそのように感じられた。

■参考リンク
第七百十六夜【0716】
新春プレゼント魯迅「故郷」の感想文



■tabi後記
光文社古典新訳文庫は解説が充実している。例えば魯迅と村上春樹について。「阿Q」の「Q」は中国語で幽霊を意味する「鬼」に通ずるという。そして、魯迅文学の愛読者である、と村上自身が語っている文章が紹介されている。

「Q氏」という人物が登場する短篇小説(「駄目になった王国」)を村上氏が書いていることから、その影響が垣間見えると藤井氏は指摘している。本書刊行後に出版された「1Q84」もまた「阿Q」からきているのだろうか。
posted by アントレ at 06:47| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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