2009年08月31日

tabi0275 中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」

ワークショップは創造と解体。0から1を生み出し、1を0へ戻していく。
どんなに自らが提供する商品やサービス、ブランドが所与のものであっても、それらを中立的な存在として徹底して位置づけ、ここから開発対象となる商品やサービス、ブランドのコンセプト、デザイン、コミュニケーションなどにアプローチする。「つくって、さらして、振り返る」というアクティビティを繰り返しながら、参加者は自らの「まなざしの革新」を通して、徹底してコンセプト、デザイン、コミュニケーション等の可能性に近づこうと努力する。このようなアクティビティを繰り返した結果、クライアント側・受注者側を含めた参加者全員が「学ぶ側」に位置するようになる。これが良いワークショップである。P31
中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」(宣伝会議 2006)


一般的に、ワークショップの役割は4つに分類されてきた。(参考:中野民夫「ワークショップ」

・自己啓発系
・身体解放系・身体表現系
・社会的合意形成型
・創造力開発系

この本で扱うのは4つ目の「創造力開発系」のワークショップ。私がこの本を手にとった理由は、ブレインストーミングとワークショップの類似性、差異、その組み合わせを考えたかったからです。

この本から得られた仮説としては、ブレストは「コラボレーションのプラクティスではない」ということ。それは、個々の貢献と場の貢献と違いとも言えるかもしれません。何人か集まってのブレストは「プロトタイプをつくるためのプラクティス」ではあっても「コラボレーションのプラクティス」ではないのかもしれないということ。

本書では「中立変異の蓄積」「拘束状況の緩和」を進化のダイナミズムの源泉と位置づける「木村学説」の隠喩が用いてワークショップが説明されています。

すでに価値の決まっている「1」をどのように「10」にしていくかを考えるのではなく、中立的な「0」の蓄積から、参加者がワークの体験を共有していくプロセスで「1」を発見していく。

もしくは、同じワークの共有を通じて、すでに価値があるとされる「1」をもう一度見つめなおすことで解体しながら、それを再度中立的な「0」に戻し、それから再創造のプロセスにのせていく。こうした「解体と創造」の場がこの本で論じられるワークショップ。

ワークショップは、「ワークショップ的」という形容詞に身を潜める事で、あらゆる場所に侵入しています。(本書でも「ワークショップ・バブル」と書かれていたが)この本にも「ワークショップ的」な事例が多数紹介されている。その中で私が面白いと思ったのは「ピクニカビリティ」という言葉でした。

以下に引用してみます。

「ピクニック」というコンセプトには、強力な「イデオロギーの漂白力」があるのだ。東京ピクニッククラブでは、そのことを「ピクニカビリティ」という造語で呼んでいる。これは基本的にはピクニックしやすい都市やピクニック・スキルを身につけた人のことを評価する言葉だが、もうちょっと抽象度を上げて語るならば、ピクニックとは、自由にスタイルを与える行為であり、ピクニカビリティとは、いわば「自由の力量」を表わす尺度のような概念だともいえる。

「拘束状況の緩和」は、私の考えでは、場の持つピクニカビリティを高めることである。ピクニックとキャンプの違いをご存知だろうか。ピクニックは本来社交の場であり、ホストとゲストがない平等な集会である。だから煮炊きのような労働を誰かに課すようなことはしない。これに対してキャンプは軍隊の行動スタイルが基盤になっており、設営や炊事といった労働とその役割分担を通じて仲間意思を共有しようとするものだ。拘束状況のアレンジメントを遊ぶタイプのレジャーである。

私はピクニックが優れてワークショップ的であると思う。逆かもしれない。ワークショップがこなれてファシリテーターを必要としなくなった時、それはピクニックのように自由で楽しい雰囲気になる。どんな人も参加し、それぞれが理解可能なように語り、新たな「発見」を共有する場となるだろう。P132
中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」(宣伝会議 2006)


■参考リンク
Blog@Yui はてな出張所
DESIGN IT! w/LOVE ワークショップ―偶然をデザインする技術/中西紹一編著
DESIGN IT! w/LOVE 新しい発想、技術の導入時に問われるプロデュース力



■tabi後記
雨降る中、情報デザインファーラムに参加してきた。情報デザインは、分かりやすく伝えるためではなく、良い体験をつくるためにある。いい言葉です。
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2009年08月30日

tabi0274 入山映「市民社会論」

ボランタリーの失敗という思考軸
ここで錯綜しているかに見える議論の整理を試みると、とりあえず論点は先の公益法人制度の問題点に対応して、四つに分かれていることがわかる。
その一は法人成立にあたっての許可主義と、それと表裏一体の関係にあった指導監督体制の問題。
その二は、法人法定主義を採るわが国の法体系のなかで、これまでの「公益法人」に代わるものが必要か否か。必要ならばどのような法人類型を構築するかという問題。
その三は、どのような活動を営む法人に対して、どのような税制上の優遇措置を講じるのか。その理由は何かという問題。
そして最後に、既存の公益法人のなかで、いかがと思われる存在はどのようなもので、それをどのように淘汰するかという問題。さらには将来にわたりそのような存在の発生を阻止することは可能か、という問題である。P140
入山映「市民社会論」(明石書店 2004)


市場の失敗と政府の失敗を補う希望の星としてのNPOという見方は「社会起業」という言葉の登場によって、徐々に盛んになっている。 「市民セクターの可能性」と題した議論はこれまでも連綿と続いてきた。レスター・サラモンの「ボランタリーの失敗」という理論は、その中でも急進的なものといえるだろう。

本書では、官民、公私といった「当たり前」に使用される思考軸に対して、懐疑の目をもちながら、この次の可能性を探っていく。副題が「NPO・NGOを超えて」となっているのにも納得がいく。

私が興味を持った点は、正統性(legitimacy)の問題と答責性(accountability)の問題である。そして、市民組織と民主主義は3重の意味で関係がないという議論である。

正統性の問題とは、市民社会モデルには、かつて選挙によって選ばれた人々が行っていた決定を、選挙によらない主体が行うようになるという「民主主義的欠陥」を指摘されることである。

答責性の問題は、影響力を行使するNPO/NGOが引き起こした結果に対して「政治的責任を追及する実効的手段」がないという問題である。この2つは、表裏の関係といっていいだろう。

そして、市民組織は民主主義とは1重の意味で関係がない議論について。

まず第一に、組織そのものの目的はいかようにでも反民主主義的でありうるということ。アルカイダもKKKも、はたまたオウム真理教も市民社会組織である。 第二は、組織運営が民主的になされる保証がないということ。成員がそれに同意し、望むならばどのような独裁的・非民主的な運営も可能であるからだ。そして第三は、多くの市民社会組織が部分利益を代弁するという性格をもち、ごく一部の社会階層の利益を極大化し、それを固定する機能を十分に果たしうること。この3つを射程入れながら、市民組織と民主主義については考える必要があるだろう。

■参考リンク
社会変革ベンチャーキャピタリスト ータイズ財団



■tabi後記
戦後初、2大政党における政権交代がなされた。民主主義を採用する国としては、今までが異常な事態だったのだろうか。事態の行く末を見守ると同時に、国家というレガシーシステムを移管するためのプログラミングをしておこう。
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tabi0273 加藤秀治郎「日本の選挙」

投票はどこから来たのか、投票は何か、投票はどこへ行くのか
選挙制度の議論のパターンをみると、教育問題とよく似ているところがある。まず、誰でも口が出せるし、それを直接の専門とする学者の意見があまり尊重されないことである。また、思い込みの強い議論が多く、意見のことなる人の間では有益な討論がなされないのも似ている。
(中略)
さらには、思想的バックボーンに無頓着な議論が多いことも似ている。多様な教育制度にはそれぞれ理念があるのだろうが、あまりそんな話は聞かない。選挙制度でも平気で思いつきのような改革案が出されてくる。P4(はじめに)
加藤秀治郎「日本の選挙」(中央公論新社 2003)


小選挙区制は安定した政権(二大政党)がつくれるが死票が多い、比例代表制は選挙民の意見を正確に反映しかつ死票がないが小党分立で政権が安定しない・・etc。選挙制度の報道は同じことを繰り返している。

このようなメッセージの裏には何があるのか?そもそも選挙制度とは何か?そして選挙制度はどうなるのか?本書は選挙制度の話は、上記の報道だけでは片付けられないことを教えてくれる。

もともと小選挙区制と比例代表制は根底にある理念が異なっている。選挙制度を論じるには、まず依って立つ政治理念を明確にしなくてはならない。オルテガ・イ・ガセトは「大衆の反逆」にて「民主政治は、その形式や発達の程度とは無関係に、一つのとるに足りない技術的な細目に、その健全さを左右される。その細目とは選挙の手続である。それ以外のことは二次的である。もし選挙制度が適切で、現実に合致していれば、何もかもうまくいく。もしそうでなければ、他のことが理想的に運んでも、何もかもダメになる」と語っている。

90年代の政治エネルギーの大半を選挙制度改革費やしたかに思えるが、井堀利宏氏の「世代間選挙区」のような発想が根源的に議論されたのだろうか。そして、その議論は我々に届いているのだろうか。

以前から、一票の格差に関する話題はことかかない。住居地域における1票格差の議論は徐々に顕在化してきている。また、シルバーデモクラシーといわれる世代間1票格差も注目を浴びている。一方で、誰も当選させたくないけれど「あの人だけは当選させたくない」という意思表示をするための負の投票権(マイナス投票)という考え方も上がってきている。

このように多様な側面がある「選挙制度」について考える日が、人生に1度くらいあっても良いだろう。投票はどこから来たのか、投票は何か、そして、投票はどこへ行くのだろうか。

■参考リンク
選挙の前に読んでおきたい本&目を通しておきたいWebサイト



■tabi後記
ブライアン・カプラン「選挙の経済学」では、大多数の有権者は、市場メカニズムを過小評価し、貿易の利益を過小評価し、労働の価値を過大評価し、経済をあまりに悲観的に見通す傾向がある。こうしたバイアスが存在するために、私たちはわざわざ間違った政策を選び、民主主義を台無しにしていると論じている。

近年は、政党や個人といった縛りではなく「政策」をベースにして投票を行なおうという声が上がっているが、どのマニフェストも判を押したように同じ構図になっている。「両政党の違いよりも、政党内部の違いの方が大きい」という指摘は、1つの迷言として考えておきたい。
posted by アントレ at 14:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0272 山口昌男「学問の春 <知と遊び>の10講義」

文化の創造性は危機に直面する技術
「ポトラッチの社会学的基礎」というセクションの最後に、「ポトラッチのような術語は、ひとたび科学的用語のなかに受け入れられてしまうと、たちまち符牒にされやすく、人々はこの言葉を使いさえすれば、もうそれである現象の説明がついたように思って議論をやめてしまいがちな、そういう言葉の一つのなのである」(p.142)と書かれている。使いやすくて意味的な根拠がなくなっても使い続けられる言葉を、ブランケット・タームと英語ではな言う。ブランケットというのは毛布だから、何でもくるんじゃうということ。大風呂敷というわけではないんだけれども、ポトラッチにはその恐れがあるということで、ホイジンガは注意を喚起している。P251
山口昌男「学問の春 <知と遊び>の10講義」(平凡社 2009)


ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」を通じて、人々とその暮らしを、そして万巻の書物を、学ぶことの愉しみを体感する講義録である。ホイジンガを起点にしながら、ヨセリン・デ・ヨングを中心にしたライデン学派、デュルケーム、モースを中心にするフランス社会学やレヴィ=ストロースなどを比較的に扱っていく。山口氏は、このような文化比較が、文化創造、解釈に繋がっていくと話す。

この講義の結びでは、われわれの世界がそうはならなかったもう一つのもの、もう一つの姿、オルタナティブな世界について、われわれが知覚を、情報をもつということの大切を説かれています。そこには「失われた世界の復権」というメッセージが込められており、未知のテーマに肉迫する学びのスタイル、あるいは知の迷宮での発見法的なさまよい方を教える姿勢が垣間見えた。

■参考リンク
読み出すと止まりません、山口昌男『学問の春』



■tabi後記
飛行機で五時間以内で行ける国の言語を一つくらいやっておくことと良いよ、というアドバイスをポロッと話せる人はそう多くないだろう。
posted by アントレ at 08:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月29日

tabi0271 梅棹忠夫 編「文明の生態史観はいま」

日本はアジアには属していない、というよりアジアなんて存在しない。
大陸ではなく、海に関心を持ちましょう。海は日本のもともとのふるさとです。海に戻りましょう。海というのはどこのことでしょうか。(中略)大陸へ行くには西に向かって同緯度をたどってゆくわけですが、こんどはそうではなく、南北の同経度連合を考えようというのです。太平洋の諸島を結びあわせた太平洋国家連合というゆきかたがあるのではないでしょうか。日本、インドネシア、ミクロネシア連邦、フィリピン、パプア・ニューギニア、オーストラリア、さらにニュージランド、これらとの島峡国家連合を本気になって考えないといけません。P220
梅棹忠夫 編「文明の生態史観はいま」(中央公論新社 2001)

著者は世界における日本の位置付けを熟考し、東洋・西洋という慣習的区分を乗りこえ、ユーラシア大陸を高度な近代産業文明の段階に達した第一地域、およびそうでない第二地域とに区分する。

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Osuga Blog

そして、日本をユーラシア東側における唯一の第一地域として、ユーラシア西側の西欧諸国と並行的に進化してきたというのだ。第一地域はその特徴として、封建制の存在と早い時期からの市場経済の発達があげられ、第二地域はその特徴として、古くから文明が栄えて専制的帝国を築いたが、封建制を発達させることなく、絶えず遊牧民による破壊的圧力にさらされ続けたことがあげられる。

この理論から考えられるが、中国人とアラブ人の行動様式に多くの共通性があること、日本人と西欧人とに共通する資本主義・市場経済への適応度の高さの指摘などがあるだろう。

「文明の生態史観」がもたらした意義は、東洋と西洋という二分法を放擲させたこと。 単一進化論の神話を破壊したこと(唯物史観では、狩猟ー遊牧ー牧畜と段階説を考えるが、生態史観においては、気候適応しているだけだと考える)。そして、封建社会が日本と西欧にしかなかったということを指摘したことであろう。

以上は「文明の生態史観」についてのレビューであるが、本書のユニークさは「文明の生態史観」出版後に、どのような批判や論理が追加されたのかということ視点が加わっていることだ。その中で特に焦点が当たっているのが、同緯度ではなく同経度というパラダイム転換である。

渡辺利夫「新 脱亜論」で指摘されていたように、日本はもともと海洋国家であるが、西の大陸にばかり関係を持とうとしてきた。最初に大陸に手をだして大やけどをしたのが663年の白村江の戦いで、新羅と唐の連合軍に対して百済と日本の連合軍がこの川で激突し大打撃をうけた。二回目が、秀吉の朝鮮出兵、三回目が日清、日露、日中の大陸出兵へと続いていく。

梅棹氏は、このような西の大陸での痛手や自らのフィールドワークを通じて「アジアというのは、そんなになまやさしいものと違います」という考えをもたれた。アジアの大陸的古典国家は、どろどろした人間の業がいっぱい詰まっているところであり、日本人のようなおぼこい民俗が手をだしてうまくいくものと違うと語っている。



■tabi後記
ガイア的視点にかけると言うのは簡単である。本論のようなクレイジーなことを説得的に語られるような人でありたいと思う。その一方で、観念誘惑には鈍感でもありたい。
簡略していえば「文明は装置系=制度系」であり「文化はそのデザインの問題」であるということになる。そして人類は、人間=自然系としての生態系から、人間=装置系としての文明系に進化してきた。その移行は連続的であり、現代文明といえども多分に生態的要素を残している。P155
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2009年08月28日

tabi0270 くらたまなぶ「リクルート「創刊男」大ヒット発想術」

ちゃんと生活しながら、喜ぶ。驚く。怒る。不思議がる。
マーケティングは「人の気持ちを知る」と訳した。「いい気持ち」ももちろん参考にするので、この訳はこれでOK。しかし、マーケティングの究極の目標は、「人の嫌な気持ちを知ること」だと思っている。今とりかかっているこの市場で、このテーマで、この対象者が、
「もっともアタマにきていることは何か」
「うんざりしていることは何か」
「あきらめてしまっていることは何か」・・・。
それさえ見つければ、それを言葉にすることさえできれば、金脈を掘り当てたようなものだ。まだ商品に手を触れていなくても、サービス内容を検討していなくても、である。P103
くらたまなぶ「リクルート「創刊男」大ヒット発想術」(日本経済新聞社 2006)

ビジネス書の中で最も影響を受けている本かもしれない。手に取ったキッカケは、御立尚資「戦略「脳」を鍛える」の参考文献だったためだ。

私がこの本から学んできた事は「予断を排すること」と「無私になること」である。ビジネスを通じて、こういった学びが出来そうだと知ったのは良かった。その時の私は、目が爛々としていたことだろう。なぜなら「民俗学」や「人類学」や「哲学」に関心を持っていた人間が「ビジネス人類学」という可能性を発見したのだから。
相手がふと口ごもる、言いよどむ、視線をそらす、話題を変える・・・。それを自分の目や耳で確かめて、自分の口でキャッチボールしてみないと、なかなか「不」の核心をつかめない。何でも一人でやるっていう意味じゃない。プロジェクトが何人いても、それぞれが他人まかせにしないという意味である。当事者意識を持って、それぞれがみずから「不」をつかみとる。偉いか偉くないかも、知識も経験も性別も年齢も関係ない。個々人の手ごたえが重要だ。P104

まるで心理カウンセラーやFBI捜査官のようである。ここで示されている、くらた氏の人間観察の根底には「属性の誘惑に負けちゃダメだ。」という思いがある。そんなワナにはまったら「夢」を見つけることなんかできないのだ。

例えば、「関西人ちゅうのは簡単にカネ出さへんで〜」「30代は買わないでしょう」といった「属性の誘惑」である。まとめる集団がデカくなるほどまったくのウソではなくなってしまう。つまり、何を言ったって当てはまるのだ。だからこそ、なおさら始末が悪くなってくる。

属性を議論していれば仕事をした気になってしまう。しかしその実、仕事は止まっている。ただプロフィールを評論しあっているだけだから。属性で商売ができるほど、市場は甘くない。その事を痛感できる本である。

予断を排し、無私へと至る
いくら体験があっても、知識が豊富でも、年齢層がぴたりと一致しても、自分一人で何万人、何十万人のユーザーを代表することはできない。だからこそのヒアリングである。
「嫌いな人」「見知らぬ人」の声も聞かなくてはならないのである。変に自信があるとヒアリングがおろそかになる。オレ自身で十分だ。ま、それでも反省しながら何とか聞きまくった。「声」がたくさん集まり、だんだん核心に近づいてくる。似たような「気持ち」には容易に感情移入できるのに、自分と違うタイプの「不」には腹が立つ。共鳴できない。会議の席上で反論してしまったりする。
「家庭教師のバイトやる奴なんて、お坊ちゃん、お嬢ちゃんだけだろ、どうせ」いや面目ない。きわめて柄の悪い「自分マーケティング」の男だったのである。そんな学習のおかげで、「自分派」の人間がそばにきたら、今はこう言えるようになった。「君の意見はわかった。ところで君って何割のユーザーを代表してるんだい?」P110


■参考リンク
824旅 くらたまなぶ『MBAコースでは教えない「創刊男」の仕事術』



■tabi後記
Mimic Comic Workshopに参加してきた。自分たちの体を動かして、マンガのコマを作成し、10Pのマンガを作成するというものだ。3時間ほどかけて出来上がった作品は、それなりに面白いものとなった。なぜマンガは面白いのか?という問いは、これからの時代において考えなければいけないことの1つであろう。
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tabi0269 中谷宇吉郎「科学の方法」

われわれはただ賭けるだけである。それが生きることだから。
あるところまでは、実験の制度の範囲内でわかる。その先は、実験の誤差である。誤差の範囲内で一致するのだから、これは一致しているといっていたわけである。誤差の範囲内だから、よろしいというのは、法則の方を先に仮定していたのである。何か不変なものがないと、論理の足場がないので、物質不滅とか、エネルギー不滅とかという足場をつくった。今日物質とエネルギーが互いに転換できるということになっても、その和は不変とするのであって、そういうわくを作っておいて、それによって自然界を見ていく。それでやはり人間的要素はいつまでも附随していることになる。P190
中谷宇吉郎「科学の方法」(岩波書店 1958)

小林秀雄「常識」にも登場する中谷宇吉郎の科学哲学エッセイ。統計的手続きによる納得感と誤差に向き合うことが科学哲学の肝であろう。

物質と普通にいわれているものも、またエネルギーといわれている力みたいなものでないものも、本来ともに、自然界の実態ではなく、人間の頭の中でつくられた概念である。そして自然界の実態は、この両者を融合したところにあって、本来互いに移りかわれるものであったのである。P57


ファラデーはクーロムの法則の遠隔作用を否定して、近接作用の理論をつくり、空間のゆがみを電気であるとした。アインシュタインは万有引力の遠隔作用を否定し、近接作用を採用して、重力を空間のゆがみとした。もちろんこれは、人間が見ている世界であり、自然界に眠りし「イデア」を発掘したわけではない。科学とは、先達の信用の上に降り立った上で、その理論における誤差範囲を狭めること、説明範囲の拡張に努めていくのである。
火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。P89

ある現象が再現可能・くり返し可能であると見なせる根拠は何か、それはその社会のあるグループにおける多数派がそう見なしているから、という以上の答えはないように思える。当たり前の結論のように響くかもしれないけれど、ある現象が科学的、確率的に扱えるものであるか否かは、その時代の社会的合意によって凡そ決まってしまう。

もちろん、多数決でそのようなことを決めたりしたわけではなくて、例えば、サイコロ投げは確率的現象だと暗黙裡に刷り込まれているわけのである。これに対しても「現象の一回起性」に固執する立場からすれば確率的現象ではない、と強弁することも可能である。大森荘蔵の「賭け」という言葉にみられるような考えである。

■参考リンク
私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉
第一夜【0001】
第十八夜【0018】
第六百七十夜【0670】
千早振る日々



■tabi後記
Twitter人口が増えてきた。そうなってくると、逃避したくなる。
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tabi0268 渡辺利夫「新 脱亜論」

東アジア共同体は夢物語か
東アジアはその統合度を一段と高めるために、二国間、多国間でFTA・EPAを積極的に展開し、この地域を舞台に自由化のための機能的制度のネットワークを重層的に張りつめるべきであろう。しかし東アジアの統合体はFTA・EPAという機能的制度構築を最終的目標とすべきであって、それを超えてはならない。共同体という「共通の家」の中に住まう諸条件をこの地域は大きく欠いており、また共同体形成の背後に中国の覇権主義が存在するとみなければならない以上、東アジア共同体は日本にとってはもとより、東アジア全体にとってまことに危険な道である。P286
渡辺利夫「新 脱亜論」 (文芸春秋 2008)

「不条理に満ちた国際権力世界を生き延びていくためには、利害を共有する国を友邦として同盟関係を構築し、集団的自衛の構えをもたなければ容易にその生存をまっとうできない。叶うことであれば同盟の相手は強力な軍事力と国際信義を重んじる海洋覇権国家であって欲しい。」これを渡辺氏がイギリスへ送ったラブレターとして読むのもよいが、このような感慨をもたざるを得なくなったことに注目したい。つまり「なぜアジアではないのか?」という問いへの応答である。

大雑把に言えば、渡辺氏は「EUのまねをして東アジア共同体をつくろうというのは幻想である」という主張をされている。そして、この主張を支える点として1.経済発展段階の相違,2.政治体勢の相違,3.安全保障枠組みの区々,4.日中韓の政治関係における緊張状態,5.中国の地域覇権主義の5つを上げている。

渡辺氏の思考前提には、西洋と東洋、ヨーロッパとアジアという従来の思索軸はない。梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」によるユーラシア大陸中心部と大陸周辺部国家群という対比的分類を基礎にされている。「ヨーロッパ的普遍主義」に対して「アジア的特殊性」を対置し、後者によって前者を超克しようするパターンをとるのではなく、日本はむしろ「ヨーロッパ的普遍主義」の一員として国家戦略を立てたほうがよいというのが著者の結論である。

■参考リンク
「文明の生態史観」と東アジア共同体
【正論】「新脱亜論」で訴えたかったこと
池田信夫 blog
文明の生態史観



■tabi後記
「文明の生態史観」と東アジア共同体に渡辺氏の主張がまとめられている。
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tabi0267 高山宏「近代文化入門」

「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる
何となくいろいろとつながってひとまりと意識される世界が、主に(1)戦乱その他の大規模なカタストロフィーを通し、かつ(2)世界地図の拡大、市場経済の拡大といった急速に拡大する世界を前に一人一人の個人はかえって個の孤立感を深めるといった理由から、断裂された世界というふうに感じられてしまう。その時ばらばらな世界を前に、ばらばらであることを嘆く一方で、ばらばらを虚構の全体の中にと「彌縫」しようとする知性のタイプがあるはずだ。それがマニエリスムで、十六世紀の初めに現れて一世紀続いたとされる。P62
高山宏「近代文化入門」(講談社 2007)

王立協会成立から300年(1660年-1960年)が、高山氏における近代300年である。その300年は、脱魔術化-魔術化の系譜であり、1660年以前-1960年以後において魔術(マニエリスム)が公然と扱われていることを示すための区切りである。

1957年に出版された「迷宮としての世界」ホッケは、次の2点を主眼にしてマニエリスム論を行なった。

1 つなげることで人を驚かせる技術論
2 つなげる方法として魔術的なものをいとわない

それは「分け」ないでワカルことを目指していたのだ。「わけず」に「つなぐ」ことによる理解である。駄洒落がつなぐことの低いレヴェルであるとすれば、魔術思考、魔術哲学が一番高いレヴェルであるとしたのである。このような研究を始動していったのが、1960年代に成熟していくワルブルク研究所(ウォーバーグ研究所)であった。ここからホッケイエイツスタフォードが生み出された。

マニエリスムを振返る
この本なりのマニエリスムの定義をもう一遍整理してみると、それは三つの条件からなる文化相だった。

(1)認識論的な哲学
(2)光学を中心とする自然科学
(3)幻想文学といわれる文学

この三つ組がたえず繰り返されている。引き金になるのはいつも、人間の置かれた不安な状況である。ソリッドなものが成り立たなくなり、固定されたものや足を置ける地盤がなくなったとき、こういったタイプの文化が登場する。
(中略)
「ファンタジー」とは元々はギリシャ語の「ポス」という言葉で、正式には"Phos"と綴る。「光」という意味であった。ギリシャ人が考えていた幻想とは、つまり光あっての幻想である。であるなら、非常に飛躍した比喩を使うと、「光の世紀」たる十八世紀は壮大なファンタジーの世界だったことになる。

「見える」こと即ち「わかる」こと。見えないものは断面にしてでも切り割いてでも何でもいいから、とにかく「見える」ものにする。これはこれで合理という名の狂ったファンタジアなのだ。幻想とは、光の対蹠地にあるものではなく、光そのものが何かの形で変質していくものである。ぼくは光のパラダイムとして近代を考えようとして、合理<対>幻想という批評的バイアスを棄てた。P293-294
高山宏「近代文化入門」(講談社 2007)

本書で紡がれる歴史
1525年 再洗礼派トマス・ミュンツァー処刑
1527年 サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠事件
1532年「ガルガンチュアとパンタグリュエル」フランソワ・ラブレー
1534年 ミュールハウゼンの反乱
1564年 シェイクスピア生誕
1570年 ユークリッド「原論」英訳 ジョン・ディー序文
1592年 ヨハン・コメニウスウス生誕(ボヘミア 薔薇十字団
1601年 「ハムレット」,リアルの誕生(OED)
1603年 エリザベス一世没
1608年 ジョン・ディー没
1616年 シェイクスピア没,セルバンテス没
1617年 「両宇宙誌」ロバート・フラッド(薔薇十字団)
1618年 三十年戦争始まる
1631年 ジョン・ダン没(英文学 マニエリスム)
1632年 ファクトの誕生(OED)
1637年「屈折光学」デカルト
1642年 ニュートン生誕
1645年「アリストテレスの望遠鏡」テサウロ(アナモルフォーズ:多は一の中にある)
1646年 劇場封鎖令,ライプニッツ生誕
1648年 三十年戦争終わる
1649年 ピューリタン革命
1651年「リヴァイアサン」ホッブズ
1654年 ヨハン・コメニウス ロンドンへ亡命
1658年 レキシコグラファー(辞書編集者)の誕生
1660年 王立協会(自然知を促進するための王立協会),「世界図絵(オルビス)」
1667年「王立協会史」(初代総裁 トマス・プラット),リプリゼンテーション(表象契約)の誕生。(1966年 フーコー「言葉と物」)
1667年「失楽園」 ミルトン
1670年 ヨハン・コメニウス没
1671年「光と陰の大いなる術」キルヒャー
1678年「天路歴程」 バンヤン
1704年「光学」ニュートン
1707年 リンネ生誕
1709年 コンポジション(構図),ピクチャレスクの誕生
1716年 ライプニッツ没
1719年「ロビンソン・クルーソー」,デフォー(知の商人)
1720年 南海泡沫事件
1727年「四季」ジェイムズ・ワトソン,ニュートン文学
1728年「サイクロペディア」チェンバーズ
1757年「美学」バウムガルデン
1753年 大英博物館条例(ミュージアムが始まり、ヴンダーカンマー(驚くべきものを集めた部屋)の終焉)「植物の種」リンネ,「美の分析」ホガース
1762年「崇高と美の観念の起源」エドマンド・バーク
1775年「観相学断片」ラファーター
1852年「ロジェのシソーラス」(ロングマン)ピータ・マーク・ロジェ(王立協会員)

■参考リンク
近代文化史入門 超英文学講義/高山宏



■tabi後記
昨日から半藤一利「昭和史」を読み始めていたところ、ライフネット 出口治明さんが紹介されていた。
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2009年08月27日

tabi0266 菅野覚明「神道の逆襲」

嘆息によって道が開かれる
私たちの眼前に、普段通りの変わらぬたたずまいを見せている山や川。そこで営まれる、働き、子を育て、食べ、休息する、私たちの当たり前の暮らし。見慣れた景色と当たり前の暮らしを、私たちは変わることのない自分たちの世界のありようであると信じている。私たちは、普段、そうした見慣れた日常を、あらためてそれが何であるかを問うことはない。しかし、神はある日突然に出現する。景色は一変し、私たちの生は動揺する。一変した風景が元に戻り、私たちが「記憶と経験」とを回復するまでの時間こそが、私たちの神の経験である。P37
菅野覚明「神道の逆襲」(講談社 2001)

今回は、佐藤弘夫「神国日本」(筑摩書房 2006)を交えながら論じていきたい。神道について考える際は、神道を天皇とナショナリズムへ結びつける常識を捨てることが大切になる。

神道は、常民の日常的な習俗とともに培われてきた民俗的な信仰やトーテミズムを含むものの、それをもって神道と言うわけではない。だが、両部神道や伊勢神道や唯一神道のように、独自の教説によって成立したものも神道の本来というものではなく、それらは広い意味での神道の一部にすぎない。

神道は民俗的な習俗をふまえながらも、伝統的な神に対するある自覚にもとづいたものであって、誰もが「それが神道である」と言えない領域に発達していったものなのであろう。その理由はイデオロギー的には説明がつかない。むしろ、日本の歴史の一つずつの「事件」に応じて形成されていったものだった。

これらの認識を踏まえた上で、菅野は、純粋経験に神を捉え、佐藤は、神道にへばりつく誤解を解きほぐすことを目標とする。

佐藤氏から得られた視座は、神道と音楽の根源が絡むところであった。それは引用部の「記憶と経験」の箇所、そして宣長の「もののあはれ」について論じている箇所から得られたことである。
物のあわれというのは、簡単にいえば、事物に出会ったときに「心が動く」ということである。人が事物に触れるとき、心はそれに反応して嬉しい悲しいとさまざまに揺れ動いている。このアナログメーターの針の動きのような心の動揺における事物の感知が、物のあわれを知るということであるとされる。

そして、この心の動揺が著しく大きいときには、その動きは声となって表にあらわれる。この嘆息の言葉もまたあわれとよばれる。あわれとは元来、「ああ」という嘆息の声である。この声は、心の動きそれ自体の表現であり、動きの大きさ、すなわちあわれの深さを表示するものである。あわれが深ければ、それはおのずと声となってあらわれる。この歎息が歌の根源なのだと、宣長はいうのである。P224
菅野覚明「神道の逆襲」(講談社 2001)

カミは、風景としてみずからをあらわしている「裏側」の何ものかなのであろう。それがカミ隠しであり、カミの表出は嘆息にありとする。嘆息は人間と自然の協同作品であり、その作品こそが音の根源であると考えるのは面白い。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future
Goodpic.com
第四百九夜【0409】
第六十五夜【0065】
第九百十夜【0910】





■tabi後記
松岡正剛氏はどこかでこう語っていた。われわれは、結局、こう答えるべきなのかもしれない。「あなたの宗教は何ですか」「われわれはそのような質問に対する回答をもたないような日々をこそ送ってきているのです」と。
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tabi0265 マルセル・モース「贈与論」

我々は何を受領してしまったのか?(返報性の起源)
現在では、われわれは以前ほどポトラッチの存在に否定的ではなくなってきている。第一に、サモア島における契約的贈与体系は婚姻の時以外にも広がっている。それは、子供の出生、割礼、病気、娘の初潮、葬式、商取引に伴って現れる。第二に、いわゆるポトラッチの二つの本質的要素が確認されている。一つは、富が与える名誉や威信や「マナ」であり、もう一つは、贈与のお返しをすべきであるという要素である。返礼をしないと、このマナ、権威、お守り、そして権威そのものである富の源泉などを失う恐れがある。P30
マルセル・モース「贈与論」(筑摩書房 2009)

モースは、伝統社会においては「贈与」「受領」「返礼」の三つの義務が存在すると考えた。この3プロセスは伝統社会においてだけ見られるものではない。そのようにモースの研究は現代でも脈絡をもっている。

私が気になるのは「返報性の原理」が生まれた地点である。モースの理論を理論の拡大解釈をしてみるなら「受領」が生まれた場所である。恐らく、我々が贈与をしたことは「神」への返礼であったのだろう。

それは、生命が生まること、生きるだけの動植物、自然環境を受領してしまったからだろうが(原罪や業と云えるのか)。であるならば、なぜ「神」は宇宙を贈与したのだろうか。それは誰に対する返礼なのか、想像が働くところだ。

■参考リンク
池田信夫 blog
前回紹介したマルセル・モースの『贈与論』の続き
1205旅 マルセル・モース『贈与論』



■tabi後記
更に想像すると「神」が受領してしまったものは何か?になるだろうか。
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tabi0264 道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」

只管打坐・止観駄坐
六ノ二十四 学道の最要は、坐禅これ第一なり
禅師の御教示。
悟りの道を学ぶ上で最も重要なのは、坐禅が第一である。大宋国の人が、多く悟りを得るのも、みな坐禅の力である。文字一つ知らず、学才もなく、愚かな鈍根の者でも、坐禅に専心すれば、長い年月産学した聡明な人にもまさって、出来あがるのだ。したがって、悟りの道を学ばんとする者は、ひたすら坐禅して、ほかのことに関わらぬようにせよ。仏祖の道は、ただ坐禅あるのみだ。ほかのことに、従ってはならぬのだ。P337
道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」(講談社 2003)

この言葉に続いて懐奘(えじょう)は、禅師に坐禅と看語(古人の語録を読むこと)について問う箇所がある。それは、語録や公案を見ている場合、百千に一つくらいは会得できたと思われるときがあるが、坐禅にはそういったものが一切ない。それでも、坐禅を心掛ける方がよいのだろうか?という問いである。

それに対して道元禅師は、少し判ったような気がすることが、仏祖の道から遠ざかることなのだと教示される。人とおしゃべりせず、聾唖者のように、常に独り坐禅することを心がけることを強く説くのだ。

私は、只管打坐という言葉を、止観駄坐であると思っていたことがある。もはや坐ることもなく、万物流転のなるがままに世界を止観せよと受けとっていたのだ。

■参考リンク
懐奘 finalventの日記
426旅 懐奘『正法眼蔵随聞記』



■tabi後記
D・ロッシ「バフチン以後 <ポリフォニー>としての小説」を読んだ時に思ったのは、公案や問答をポリフォニーとして扱うことは可能か?という問いであった。本日、書庫籠り2日目である。
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2009年08月26日

tabi0263 四方田犬彦「先生とわたし」

わたしと後生、先生となった「わたし」
師は弟子の前で知的権威として振舞いながらも、その一方で、年齢的にも若く、新進の兆をもった弟子に羨望を感じている。条件の整わなかった時代に自分が行なわざるをえなかった試行錯誤を、弟子はしばしば解決してしまう。彼は新しい方法論をもとに、師には思いもよらなかった道に発展してゆく。弟子が自分の道の領域に進出して自己を確立し、かつて自分が教えた領域からどんどん遠ざかってゆくのを、師は指を銜えて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を率直に口にすることを拒む。屈折に強いられたこうした感情は、ときに怒りに、ときに悲嘆に、道を見出す。だが彼は自分のヴァルネラビリティーを公にすることができない。どこまでも師として振舞わなければいけないのだ。その内面の脆さに気づく者は少なく、たとえ誰かがそれに気付いても、畏怖感が前に立ってまず言及しない。P215
四方田犬彦「先生とわたし」(新潮社 2007)


師と弟子が織りなす共同体について綴られたエッセイである。由良君美を起点にしながら、先生の先生、先生としてのわたし・・など複合的に「先生とわたし」を論じていく。その共同体を育むのは、書物のユートピアである。書物は質量をもったオブジェであり、整理カードや検索機に還元できるものではない。書物を情報の集積物としてのみ遇することはなく、非能率的な何物かでなければならなかった。
由良君美はそうした制度的思考の裏をかき、漫画であろうが実験小説であろうが、等しく文化的テクストとして分析の対象とできるような柔軟な思考の学生を、ゼミ生に期待していていたのである。後に繰り返し聞かされたことであるが、ロシア・フォルマリズムの泰斗であるシクロフスキーが説いた、「高位文化が誕生するためには、低位文化の絶えざる振幅が条件である」というテーザが、彼の方法論の根底にはあった。P18

そのユートピアが織りなしたものは、オルタナティブな視点、議論の深化、解釈共同体の構築、要するに熱い諧謔に裏打ちされた人文教養主義である。

■参考リンク
由良君美と四方田犬彦



■tabi後記
師弟論として読むならば内田樹「先生はえらい」、坂口安吾「教祖の文学」、山折哲雄「教えること、裏切られること」などを勧めたい。
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tabi0262 湯谷昇羊「立石一真「できません」と云うな」

「しってます」と云うな
「こんなふうに、科学、技術、社会の間には二方向の相互関係があって、お互いが因となり果となって社会が変貌し、発展していくんや。つまり、サイクリック・エボリューション、円環論的なツー・ウェイの関係があって、常にサイクリックに流れている」
「何で人間だけが常にそういう新しい技術や商品、システムを求めて進歩を図ろうとするんですか」
「それはなあ、人間の一種の業や、常に進歩したいという意欲が元になってるんや」P244
湯谷昇羊「立石一真「できません」と云うな」(ダイヤモンド 2008)


人間を最も人間らしく遇する道は、その介在をなくすことのできない仕事だけを人間に残して、機械にできることは機械にやらせることである。これはサイバネティックス創始者ノーバート・ウィーナーの言葉である。オムロン(立石電機)創業者の立石一真は、この言葉を地で行なっていた。



ウィーナーの言葉を復誦するだけなら誰もが出来るが、立石氏はそれを事業として表現していった。そして、彼の行動と思考の連続によってSINIC理論というものが生まれた。SINIC理論(Seed-Innovation to Need-Impetus Cyclic Evolution)とは、立石氏が1970年国際未来学会で発表した未来予測理論で、科学と技術と社会の間には円環論的な関係があり、異なる2つの方向から相互にインパクトを与えあっているとする見方である。

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未来を描く「SINIC理論」

ひとつの方向は、新しい科学が新しい技術を生み、それが社会へのインパクトとなって社会の変貌を促すというもので、もうひとつの方向は、逆に社会のニーズが新しい技術の開発を促し、それが新しい科学への期待となるというもの。この2つの方向が相関関係により、お互いが原因となり結果となって社会が発展していくという考えがSINIC理論である。

■参考リンク
教師が教わる生徒 - 書評 - 立石一真『できません」と云うな



■tabi後記
遅咲きの人を見ると、塩谷賢さんの話を思い浮かべる。茂木さんがブログで書かれていたことだ。ソクラテスより引用。

ボクは、塩谷と深夜の牛丼屋に
たどり着いて、本当にうれしかった。

塩谷には、57歳まで、
社会的身体をまとうことを
猶予してもいいよ。

「どうしてだい」と塩谷が
聞くから、
「カントが純粋理性批判を出版したのは
57歳」
と呪文のように答えた。
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tabi0261 小泉文夫「音楽の根源にあるもの」

リズムが生み出すネットワーク
これまで芸術音楽すなわち職業音楽家の音楽と、民俗音楽すなわち素人の音楽という区別は、その中間的なものが多く存在しているが、やはり音楽の分野で最も大きな段階的区別だと考えていたが、実はリズムなどの点からすると、むしろ芸術音楽も民謡も大したちがいはない。それより民俗音楽の中で、芸能化した民謡と、「音楽以前の歌」との間にこそ、最も大きな溝があり、そこに発達段階の上で飛躍があるように思えてきた。P32
小泉文夫「音楽の根源にあるもの」(平凡社 1994)


音楽以前の歌とは何だろう?それはリズムだろうか。そう思うと同時に沸き起こるのは、リズムは歌の前に存在するのだろうか?という問いである。これらの問いへの答えが本書にのっているわけではない。だが、大きな問いをもらうことは出来た。今まで意識していなかったが、私の周囲は様々な音楽が溢れている。そして、溢れていたのだ。相撲の呼び出し、数のかぞえ方、仕事の掛け声、芸能の中のセリフ、BGM、CM、童歌・・・。

「いい調子」という言葉には「調べ(key)」が関係している。身体、他者、風、日、地球、宇宙・・あらゆるリズムの中で、息づく(リズム)私たちを探究する上で、音楽の根源への探究は必要なことであろう。小泉氏は、生活に溶け込む音や、その音を呼び起こすリズム感を起点にしながら比較音楽論を成立させようとしている。その中でも興味深かったのは、日本音楽に見出した「追分形式」であった。

■参考リンク
第六百一夜【0601】
小泉文夫氏の「音楽の根源にあるもの」から〜西洋音楽は絶対で無い!



■tabi後記
朝から晩まで書庫に籠っていた。
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2009年08月25日

tabi0260 金子光晴「絶望の精神史」

絶望の傍でみる絶望は絶望だったのか
これからの日本人の生き方はむずかしい。一口に、東洋的神秘とよばれていた不可解な部分を、日本人もたしかにもっていた。腹切りだとか、座禅だとか、柔術だとか、芭蕉の境地だとか、それに、なにかの実用価値か芸術価値があるにしても、それ以上に神秘な、深遠なものと解釈し、日本人の精神的優位を証明する道具に使われたりすることは、日本人自身としても警戒を要することだ。それは、日本人を世界からふたたび孤立させようとする意図にくみすることにほかならない。日本人の無邪気な微笑とか、わからぬ沈黙とか、過度な謙譲とか、淫酒癖とか、酒のうえのことを寛大にみるへんな習慣とか、それがみな島国と水蒸気の多い風土から生まれた、はかない心象とすれば、日本人がしっかした成人として生きてゆくために、自ら反省し、それらの足手まといを切り払い、振り捨てなければならないのだ。そのためにこそ、日本人の絶望の症状を、点検してみなければならない。P32-33
金子光晴「絶望の精神史」(講談社 1996)


金子氏は、自らの海外体験によって日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかを、明らかにしていく。彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じていた。そして、その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別していったのだ。だが、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえなかった。彼らは、サディズムの甘渋い味を知ったのである。

所感としては、金子氏の主張が了解レベルまで落ちなかった。伝わったのは、金子氏はkireているということだけだ。日本人は、どうして下らねえ輩になっちまったのかと。なんでそうなっちまったんだ。その原因はどこからきやがった。それが分ったなら、そのままででいいのかよ?と。そう静かにkireながら、その「根源」を突き止めようとしていく。もちろん、それは簡単ではない。金子氏自らが、実人生を通じて、その生き方を問わざるをえなかったからだ。根源を突き詰めるための自己言及問題である。

問われているのは、液状化する日本を「どのように」述語化するということだろう。河合隼雄さんが仰っている「中空構造」というものが、まざまざと垣間見えてくる。この代替となるのは「アジア統一」的な固体を用意することではない。むしろ液状化する国家と気体化する個人の調整であろう。ノマドのための借国という考えではないかと思う。

■参考リンク
第百六十五夜【0165】
金子光晴『絶望の精神史』を読む
309旅 『絶望の精神史』 金子光晴



■tabi後記
前回参加できなかった座禅会。あれから半年経過し、ついに参加する機会を獲得した。
posted by アントレ at 21:07| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0259 高山宏「アリス狩り」

若い日の自分は本当に面白い他人
ヴィクトリア朝英国への総批判としてひっくり返っていくのも、遅れて来すぎたのか早く来すぎたのか、ともかく「人類の進歩と調和」の社会風潮に置き去りにされた男の、置き去りにされることによって初めてものが見えるようになる、その視のすごみと怨みが深く根づいているがためなのである。誰もが軽薄にしゃべり散らしている傍らで、キャロルはどもるよりなく、やがて赤面して黙りこむしかなかったが、それ故にこそ、「不具の肉体が、その不具性のゆえに他に先立って見なければならない肉体や社会のさまざまな背理や暴力を言葉として対象化するとき、リズムの音楽性によってかろうじて生の恐怖として堰を破ることを耐えているナンセンス詩」、見かけの数学的論理学的に潔癖な言語宇宙の皮膚の下に言わく言いがたい怨嗟と狂気のよじれを秘めた作品ー『アリス』ーを生んだのであった。P24
高山宏「アリス狩り」(青土社 2008)


超人の処女作が新版になっていた。高山氏の研究は、ルイス・キャロル「アリス」に始まり、メルヴィル「白鯨」へと発展していく。そして本書には、彼の学士論文、修士論文が収められているが、既にして超人の様相が垣間見える。

その様相とは、テキストから醸し出されるアイロニカルライフ(隘路似加流来歩)の臭気である。氏のように博物学的知性を持つものは、澁澤龍彦が言うように、イデアに生きず、イコンに生きてるいるように感じる。

言語やカタチの束によって紡げないことを誰よりも了解しながらも、その矛盾へ言葉やカタチ投企していく。直線的ではなく、円環的な振舞いであることを分りながらも尚、関係の糸を紡ぎ合っていく。

その地平において読み手は無事ではいられない。その行為を虚しい感じるとのか、「必死だなおい」と嘲笑するのか、隘路に活路を見出すのか、「そのまま」で居続けるのか、居直るのか。ここには、どうする「の」かを問う切迫性が内在されている。だがしかし、その切迫性に焦せる「の」はイマイチだと感じている。まずは「乗」っからないことだ。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】
■[書物]高山宏「アリス狩り」
あらゆる知がネットワーク状に連鎖する――高山宏さん



■tabi後記
もはや、何を書いているか分らないくらいが楽しいかもしれない。「江戸はネットワーク」ならぬ「シャレはネットワーク」。笑
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tabi0258 高山宏「超人高山宏のつくりかた」

学魔を飼いならせ
まさしくパラッドクスそのものの構造。人間の頭脳また一個の図書館(究極的には四つのアルファベットの順列組み合わせで死ぬまで情報を発生させ続けるアーカイブ)なのだから、要するに人間が何かを知るとはどういうことで、それがパラドックスにならざるをえないのは何故で、たとえば文学と呼ばれている世界とそれが触れた時、確実にメルヴィルのアメリカン・ルネサンスが、ジョン・ダンの醇乎たるマニエリスムが、そして誰もが知るパラドクシスト、ルイス・キャロルがうまれざるをえまい。P33
高山宏「超人高山宏のつくりかた」(NTT出版 2007)


「超人」ができあがるまでの行程をしるした書籍。その中身は知の編集術の公開であり、汎知学の目覚めであり、学魔へいたるための「ブックス・イニシエーション」である。高山氏の本を手に取ったのは、昨晩、藤沢さんと話した内容が起点となっている。

その内容とは、井筒俊彦さんについて話す中で出現した「形而上学者と生きること」、「神秘主義者として生きること」というテーマであった。

僕は、話の枕として、この数週間は驚くほどに「主語(自我)」が欠如しているという話をした。私へ突きつけられる「最近、何をやっているの?」という問いは、非常に答えにくいものとなっていったのだ。もちろん、このような違和感は初めてではない。幾度もあったことだが、この時期ほど言葉にならない時はなかった。

言葉に詰まるというよりは、問われていることが了解できない、意味が明瞭ではないという状態であった。このように記述する方が正確であろう。そして、このような心境とは裏腹に、周りからは存在感があるように思われていた。この「開き」は何なのだろうか?それが、僕にとっての問いでだったのだ。

一つ確かだったことは、「最近、どうあろうしているの?」という問いには応えられそうという気分だった。そして、その思いが昨日頂点に達した。私が言葉に詰まっていた理由は、「無境界」という考えに根付いると直覚したからだ。

人は、深く深く思考をしていくにつれて、無意識、統合意識の領域に足を踏み入れていく。そして、深海領域で浮遊、苦悩している際に、自我(境界領域)としての振舞いを求められるのことは、気持ちが悪くなってしまうのだろう。その「開き」を理解することが出来たのは、非常に大きかった。幸いなことに、周囲からの要請に安易に飛びつくことはなく、焦りの兆候もない。

では内田は、そのまま探究を続ける形而上学者(学魔)なのか、それとも神秘主義者として、無境界のまま境界に出現する者なのか(あ、これが無相の自己か!)は定かではない。

おそらく神秘主義者であろうと思うが、今はまだまだ学びたいと考えている。飽きる果てまでやり抜きいてみたい。それが、半期留年というギフトだと考えている。通俗的な意味で「社会人」として思われるまでの時間は、あと半年間。私の場合、この間に決着がつきそうな予感がしている。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】



■tabi後記
高山氏は、首都大学東京を離れ、明治大学に籍をおかれている。何度か授業を聞きにいったことがあるが、実に悪魔的な授業であった。後期からの授業には出来るだけ出てみよう。
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2009年08月24日

tabi0257 ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」

することなく、あるように。
誰もが正当なものとして受け入れるもっともありふれた境界線は、有機体としてのからだ全体を取り囲む皮膚の境界だろう。これは普遍的に受け入れられている自己/非自己の境界線のようである。この皮膚の境界の内側にあるものは、ある意味ですべて「わたし」であり、その境界の外側にあるものはそのすべてが「わたしではない」。(中略)だが、「あなたは自分がからだだと感じますか?それとも自分がからだをもっていると感じますか?」と聞いたとすると、ほとんどの人が車や家やほかの物と同様に、自分はからだをもっていると感じる。P18-19
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


こういった状況にの下では、からだは「わたし」というより「わたしのもの」として存在する。「わたしのもの」とは定義上、自己/非自己の境界の外側にあるものである。そして人は、自らの有機体全体の一局面に、より基本的で親密なアイデンティティを感じる。それは、心、魂、自我、人格などとして知られている「小さな自己」なのである。

ウィルバーは、往々にして人は、原初の境界を探究し、破壊しようとすると語る。それは、臭いのモトを断つ!という姿勢のあらわれだろうか。だが、原初の境界は存在しないのだ。

なぜなら「自分」と呼ばれる内なる感覚と、「世界」と呼ばれる外なる感覚は、同じ一つの感覚の二つの名前だからだ。これは、そう感じるべきというものではなく、そうとしか感じられないことだと、ウィルバーは語る。なぜ、そう感じざるを得ないのだろうか?

統一意識は真の自己には境界がないという認識であり、鏡がその対象を抱擁するようにあらゆるコスモスを抱擁する。前章で見たように、統一意識の最大の障害は原初の境界である。原初の境界は外の世界の体験者としての内側の「小さな自己」という空想を生み、われわれはまちがってその「小さな自己」にのみアイデンティティをもってしまう。だが、クリシュナムルティがしばしば指摘しているように、個別の自己、「内なる小さな人間」は、すべて記憶によって構成されている。つまり、いま、このページを読んでいるあなたのなかの内なる観察者は、過去の記憶の集合体にすぎないのだ。P125
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


このあたりのウィルバーの論運びは、カウンセリング体験を漂わせる。もちろん、ウィルバーやクリシュナムルティは、過去を記憶していることが悪いとはしない。彼らが問題とするのは、そういった記憶がいまの瞬間の「外」に別個に存在しているかのように、すなわちそれらが外の現実の過去の知識を含んでいるかのようにとらえ、それらの記憶との同一化してしまうという事実である。

その事実は、記憶=自己もまた同様に、現在の体験の外にあるように思わせてしまう。そうなると現在の体験である自己が、現在の体験をするようになる。これが「原初の境界」なのである。

■参考リンク
74旅 『無境界』ケン・ウィルバー



■tabi後記
この2日間で松岡正剛、久松真一、岩田寛、鈴木大拙、ドーキンスを読んできたが、今ここでウィルバーによって繋がれた。内震えるような体験が音読の響きと共に去来してきた。これから友人を連れ立って、藤沢烈さんにお会いしにいく。今日は、僕にとって素晴らしい日になりそうだ。
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tabi0256 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」

利今的な遺伝子
本書の全体を通じて私は、遺伝子を、意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた。しかし、遺伝子は、盲目的な自然淘汰のはたらきによって、あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている。そこで、ことばの節約という立場からは、目的意識を前提にした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった。たとえば、「遺伝子は、将来の遺伝子プールの中における自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合、実際の意味は「われわれが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は、将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させることのできるような挙動を示す遺伝子だろう」ということなのだ。P303
リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(紀伊國屋書店 2006)

ドーキンスは、進化論の誤解釈自然主義の誤謬について触れながら、自身の著作が何を意図していないかを述べている。この部分を読み過ごすと、「ドーキンスは、生物は遺伝子のためのサバイバル・マシンであるとみなした」という予断がかかってしまうのだ。

確かにドーキンスは、生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎないと言っている。そして、このキャッチフレーズが、人々の「ドーキンス像」にいくぶんかの「まやかし」が入ってしまったのだろう。盲目的にプログラムされているのはわれわれだけではなく、地上の生物のすべてであると彼は説明しているが、ドーキンスがこの本で一番説明したかったことは「協力はいかに進化したのか」ということなのである。遺伝子が利己的であることなど、ドーキンスにとっては当然すぎることだったのだろう。

ドーキンスは、第三版のまえがきに、「人生を生きるに値する温かさを、科学が奪い去ると言って非難するのは、途方もなく馬鹿げた間違いである」と言う。彼はその後に、こう説明する。

おそらく、宇宙の究極的な運命には目的など実際に存在しないだろうが、われわれのなかで誰であれ、人生の希望を宇宙の究極的な運命に託す人間など本当にいるのだろうか。もちろん、正気であれば、そんなことはしない。われわれの生活を支配しているのは、もっと身近で、温かく、人間的な、ありとあらゆる種類の野心や知覚である。
 
■参考リンク
第千六十九夜【1069】
分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」



■tabi後記
ドーキンスを問いとして捉えるのは、本来の意図とずれるのであろう。問いとしてもつのなら、「あなたは一個の生命ですか?」になるのでしょう。
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tabi0255 松岡正剛「遊学の話―すでに書きこみがある」

未分化の復権を願いて
一本のカラスムギの根毛の総長は地球を一まわりするという。おそらく朝顔とて同じだろう。そのような朝顔というたったひとつ現象から、われわれは何を語りうるかといえば、きっと何もかもを語りうるにちがいない。植物学はむろんのこと、生物や生命について、土や地質学について、さまざまな化学反応について、ゲーテが全力を傾注した原植物と形態学について、そこから文学史や形態学の発展史に広まることなどについて、また、花の文化史や色の文化史について、朝顔を詠んだ多くの俳人について・・いくらだって、ある。僕が「遊学」と呼んでいるところのものは、このように一本の朝顔でさえ全宇宙を必要としているということだ。これを別の言い方にすれば、宇宙を語るのに天体望遠鏡がいらないこともあれば、朝顔を語るのにも天体望遠鏡が必要だということでもある。P271
松岡正剛「遊学の話―すでに書きこみがある」(工作舎 1981)

私たちは、太陽を肉眼で見て、ゆっくり動いているとおもっているが、太陽は実はものすごい速さで動いている。地球ですら毎秒30kmの猛スピードですっ飛ぶ球塊である。見えているものを見ないこと、そして見えていないこと見えていることの繋がりに敏感でいたい。地球が自転・公転していることが、私のサーカディリズム、心臓・呼吸のリズムへの影響に多感であるかもしれない。

話しは飛んでしまうが、日本人の宗教意識について触れてみたい。一般的に日本人は、「あなた宗教は何ですか?」と問われて、神道か仏教か儒教かと答えることは出来ない。この事態は、宗教的混乱なのだろうか?私はそう思えない。むしろ、どこかで「何かが合成されてしまっているのではと思うのであろう。

私は、その何かを探究し、深化していくことに「東洋的見方」のアプローチがあると考えていたが、松岡氏はこのアプローチの深化には難しさをみている。まず、岡倉天心や鈴木大拙のように「東洋のイデア」という統一性をもつには、政治形態の違いに留意する必要がある。そして、この方法は挫折していくと、カリフォルニアが騒ぎ立てた「東洋への道」に堕ちていった事へ繋がっていくからだと語る。



■tabi後記
更に気になることは、日々、ハトやカラスを多量に見ているのに、彼らが大量に死んでいるのを見たことがないことだ。これは一体なぜだろうか?と考える。

一体、彼らはどこで死んでいるのか!
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tabi0254 鈴木大拙「東洋的な見方」

妙なるもの
東洋の人は、すべて何ごとを考えるにしても、生活そのものから、離れぬようにしている。生活そのものに、直接にあまり役立たぬ物事には、大した関心をもたぬのである。そうして、その生活というのは、いわゆる生活の物質的向上ではなくて、霊性的方面の向上である。
それゆえ、この方面を離れないように、物事を考えて進む。庭を作るにしても、何か心の休まるように、品性の高まるようにと構想を立てる。音楽を学ぶにしても、それがどれほど、その人の霊性的面に利することあるか否かと考える。絵をかくにしてもまた然りで、古人は胸に万感の書を収めておかぬと、ほんとうの絵はかけぬといった。美というものは、霊の面から見るべきで、単なる抽象的美をのみ云々すべきでないのである。P29-30
鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波書店 1997)


「東洋的」という言葉を聞くと「西洋的」を想起しています。まず行なわなければいけないことは、この想起の基になっている「地理・風土」という分節単位を滅することであろう。大拙が用いる「東洋的」という言葉は、その実践であろう。彼が示したのは、人に内在する思考形式の1つの形である脱思考の現れである。

それが、大拙は世界の只なかで「無分別の分別」を説いたことになる。彼は、西洋世界に対しては、「分別ではない無分別の分別」を挙揚し、翻って伝統世界に対しては「無分別ではない、無分別の分別」と強調するのである。限りなく相反する概念の中で、のたうち回りながら、圧倒的な実在感を感得すること。それこそが「自由」であると、大拙は語る。

■参考リンク
275旅 『東洋的な見方』 鈴木大拙、上田閑照(編者)
半死半生というより六死四生
松岡正剛の千夜千冊『禅と日本文化』鈴木大拙



■tabi後記
ICCにてグループワークをした際に起点となったのは、参加者と切り離されたところでRTDやらないでよー、でした。RTDに気をとられるあまりにワークへ没頭できない不満。RTDに参加したいのに出来ない不満。この2つが出ましたが、これらはRTDへ主眼があてられすぎた余りに起きたのかもしれません。
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2009年08月23日

tabi0253 久松真一「東洋的無」

精神的東洋を索めて
仏教の本質的関心は、人間界がいわんや国家がいかに向上発展するかにあるのではなくして、人間界がいかに棄揚されるかにある。したがって、ここにまた、仏教的批判の根本義がなければならぬ。すなわち人間棄揚の立場から、人間が解脱的であるかどうかを批判するのが、仏教的批判の本質でなければならぬ。ただ、人間の立場に立って、人間の歴史的発展を顧慮し、批判するのみならば、仏教的批判とはいわれない。もしそのような批判ならば、道徳的批判となんら択ぶところないであろう。P208
久松真一「東洋的無」(講談社 1987)

「絶望した私が私自身を救う」ということがある。久松はこのようなプロセスを通れば、無は複雑性であることすら感じられるようになると見た。それが「無相の自己」(formless self)というものがあらわれる瞬間であろう。

無そのものが相貌をあらわして、それを自己とみなせる気分に包まれる。これは主体的無ではなくて、無的主体なのであろう。自身が無の底を割って出湧した自己なのである。それゆえそこには、深さ、広さ、長さの次元が同時にあらわれてくる。

「無相の自己」(formless self)は、近代的自己像と闘いつづけてきた西の哲学の成果に、いまなおクサビを打ちこみうる数少ない「東の溌無」なのだろうか。

■参考リンク
第千四十一夜【1041】



■tabi後記
ICC「学びのテクノロジーとデザイン」に参加してきました。農業の領域では、地産地消に拘りすぎることが、コスト高や環境負荷の悪循環へ入ってしまうことがある。リアルタイムに拘りすぎることにも類似するものが見えた。逆に言えば、そこから、解消のアナロジーも同時に見える。
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tabi0252 岩井寛「森田療法」

生の欲望こそ自由
「あるがまま」とは、事実をそのままの姿で認めるということである。たとえば、苦手な上司と面接をしなければならないときに、会って自分の構想をよりよく披瀝しようと考える一方で、あの上司は苦手だからなんとかその場を繕って逃げてしまいたいという考えも浮かぶ。これは両者ともに、その現実と直面している人間の欲望なのであって、一方では、苦しくても自己実現をしたいという欲望と、他方で、苦しいから逃避をしたいという欲望と、両者ともにその人に付随する人間性なのである。P13
岩井寛「森田療法」(講談社 1986)

神経質(症)者は、理想が高く、"完全欲へのあらわれ"が強いために、常に"かくあるべし"という理想的志向性と"かくある"という現実志向性が衝突してしまう。そして、その志向性が乖離するほど、不安、葛藤が強くなってしまうのだ。

森田療法はこのような状態に対して、心の不安を「異物」として除去しようとせず、そこに日常とのおおらかな連続性を容認するところを基礎とする。よく知られるフロイディズムとは、依って立つところが大きく異なる。

岩井氏の考え方は、森田療法にすべてに一致しているわけではないが、「あるがまま」の気持ちこそが不安の異常な増幅を解消しうるとする。"かくするしかない"という低きにつことする欲望を"そのまま"にして、もう一方の"かくありたい"という自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考えるのである。

■参考リンク
Report 本に溺れて浮いてみる



■tabi後記
本書は、岩田氏が死の間際にいながら口述で完成したもの。終末に出てくる「生きることの自由とは、意味の実現に賭けることなんです。」という言葉の重さを感じる。

周りからは「無理をしないで辞めたほうがいい」という心配の声、「そこまでして名誉がほしいか」という非難の声があったようだ。しかし、どの言葉も岩田氏にとって「あるがまま」ではなかったのだろう。
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2009年08月22日

tabi0251 松岡正剛「神仏たちの秘密」

マレビトは目撃されるのか。
誰だって、好きなものがいろいろあります。きっと、たったひとつのジャンルのものを限定して好むということは、めったにないと思います。でも、「たくさん」という状態をそのまま保つことは案外難しくて、たいていそれらはジャンルというものに分けられて、「どういうジャンルの音楽が好きだ」とか「これこれのジャンルのアートが好きだ」といったところに追いやられていってしまう。
そこをそうしないで、なんとかもう一度述語化してみる。好きなものがあれば、それをさまざまに言い換えてみる。そこからもう一度主語に戻していったときに、今度は沢山の主語が騒然と立ちあらわれていくはずです。P83
松岡正剛「神仏たちの秘密」(春秋社 2008)


松岡氏は、日本には「アワセ・ソロイ・キソイ」という方法があると話します。「アワセ」(合わせ)は二つのものを合わせること、「ソロイ」(揃い)は合わせたものを揃えていくことをあらわします。さらにそこに比較がおこると「キソイ」(競い)になるのです。

この方法で大事なことは、最初に競争や闘いがあるのではなく、まず「アワセ」のための場があるということでしょう。逆に、「アワセ」がないと、場が成立しない。そこからキソイが生まれ、同型・同質ではなく、不揃いでありながらソロイ(揃い)をしていくのが日本流なのでしょう。

追記
本書収録の3回は、それぞれこんなタイトルで開催されたそうです。

第1講 笑ってもっとベイビー 無邪気にオン・マイ・マインド
第2講 住吉四所の御前には顔よき女體ぞおはします
第3講 重々帝網・融通無礙・山川草木・悉皆成仏

本書では、さらにそれぞれの回にサブタイトルがつけられています。こっちをみると、それぞれの回でどんな内容が話されたか、すこし想像できるようになってきます。

第1講 外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか
第2講 日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係
第3講 仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」

■参考リンク
シリーズ「連塾…方法日本」:『神仏たちの秘密』特集ページ|春秋社
松岡正剛の千夜千冊『てりむくり』立岩二郎
松岡正剛の千夜千冊『神々の猿』ベンチョン・ユー
連塾・方法日本1 神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く/松岡正剛
864旅 松岡正剛『神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く』
華厳の思想/鎌田茂雄



■tabi後記
無事NewRINGへの提出が終了した。
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2009年08月20日

tabi0250 高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」

神秘は降りぬことなく、傍らにあり。
松岡:なるほど。その「外にあるものと一緒に走ろうとする覚悟」ですか、それはすごくよくわかる。大切ですね。自分一人で自己瞑想の中で突進してしまうのではなくて、たまたまそこにあるモノたちや気配たちを伴って走る。決して簡単なことではないけれど、それができないとメディテーションという営為はふたたびフロイトの"エス"に戻ったりしてしまう。(中略)

高橋:場所から見離されてしまう。

松岡:まったくそういうことです。自身の心的瞑想状況が「場の濃度」としてスタートせずに、最初っから「場からの自立」になってしまう。いま、大変なヨーガ・ブームや密教ブームが押し寄せつつあるけれど、この「場との同時的伴走力」がだんだんと軽視されているようにおもう。今日の話のはじめの方でも出たけれど、いわゆる"サイキック・マスターベーション"に陥りかねない。P94-95
高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」(工作舍 1979)


笑いについて。本書を読みながら考えたのは、笑いは間に合わせであるということだ。一体何の間に合わせなのか。笑いは、ある人物(ヒトモノ)が、自らの内側(本質/実存/恥部・・)を外側に開いている(曝している)にもかかわらず、私は、その「内側のはかなさ」に答えられないでいる事態への応対、つまり、答えたい何かが裏返って表出してしまったもの。それが、笑いではないかと思うのだ。

アンドレ・ブルトンが「ナジャ」の最終行で「美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」と語っているが、この表現には目眩はあるが、儚さが存在しない。しかし、人はブルトン以上の事が上手く言えないのだ。その時に起きるのが笑いではないか。「そうではなく・・・」の「・・・」が表出された結果であろうと考える。この文章が「神秘と冗談」に結びついているかは定かではない。



■tabi後記
アルファベット27文字で構成される宇宙に甚だ驚きをもつのだが、母語がもちあわせる表意+同音異義語という構成にも同様の驚きがある。そして、いささかの執着がある。
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tabi0249 佐治晴夫/松岡正剛 「二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑」

一メートルで一挙に宇宙を
佐治:たとえばご飯を食べると、口の中にいれて噛むのは自分なんだけど、喉を通ったら私はコントロールできないわけです。誰もが喉を通してご飯を食べ、おいしかったといって生きている。でも、自分ひとりで生きているわけではないということは、もう当たり前のことなのに、「生きるぞ、生きるぞ」と歯を食いしばっている姿は間違っていると思うんですね。

松岡:そうですね(笑)。もうひとつはね、やっぱりこれは現代病だなという気はしてるんですけど、「全体」について何か研究すればすむという病気がはやってるように思うんです。

佐治:安心するんでしょう、「全体」を見ることでね。

松岡:ええ。日本のいまの病気も「グローバリゼーション」とか「国際化」とかいう言葉を使いますが、これはちょっとダメだと思いますね。そうじゃなくて、ちょっと個別でフラクタルで、フラグメントなものひとつで、十分に「全体」と拮抗するものを見出さなければいけない。それが宇宙論であり、生命論だと思うんですね。

佐治:おっしゃるとおりです。だからそこで考えると、どちらかというと東洋的な考え方の中に、そのひとつのヒントがあるということになりますね。

松岡:そうですね。「路傍の石でも語れる」というところ。P312
佐治晴夫/松岡正剛 「二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑」(雲母書房 1999)


目、鼻、耳、口、首、腕、足・・・といった単位で私は形作られない。私は、自分の顔さえ見ることは出来ない。常に「あなたに対してのあなた」であり続ける。

佐治氏と松岡氏には、そのような剛質なフィジカルイメージを破棄したがる。そして、よりナイーブなフィジカルイメージを追求していく。それが面影であり、片割れであり、ウツロウものであろう。このような追求の根底には、「困惑に対する喜び」があるのだろう。

それは「あなたは一個の生命ですか?」という問いを楽しむことと同義である。木を切ることは、人の肺を切ること。自己という一つの束に過ぎないことを「感じてるか」だろう。生命はひとつではない。

あなたの体内に大腸菌が何億いるのだろうか?サナダムシだっているかもしれない。そして、いろんな微生物が生きている。ひとつひとつの細胞だって生きている。それでも尚、自分に拘らせるものは何か?あなたをそうさせるものは一体何にか。そこから探究ははじまる。

■参考リンク
二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛
アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?



■tabi後記
半径一メートルで一挙に宇宙を語ること。確かに容易なことだ。
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tabi0248 タモリ/松岡正剛「愛の傾向と対策」

思想の猫背をやっつけたい
セイゴオ―今日、どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きるんだな。

タモリ―かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう。それと、コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命感に燃えましてね。

セイゴオ―苦しめられた経験とは?

タモリ―ものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいと思いながらも行くと、そこにシュールレアリスムなんかがあって、落ち込んだりする。何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている。

セイゴオ―そうね、最初にシンボル化が起こっていて、言語にするときは行きすぎか、わきに寄りすぎてしまってピシャッといかない。ぐるぐる廻る感じです。ヴィトゲンシュタインがそれを「コトバにはぼけたふちがある」と言った。

タモリ―純粋な意識というのがあるかどうかは知らないけど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを「不思議」と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね、そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた。

セイゴオ―なるほどねェ。遊ばせていくしかない。P20-21
タモリ/松岡正剛「愛の傾向と対策」(工作舍 1980年)


本書は、ネクラがネアカへ挑戦し続ける軌跡である。タモリは、意味レスとプロレスしてきたのだ。フロイトもニーチェもブルトンも、何もかも暗い。このような「思想の猫背」を退治するために、タもリは意味レスを追求していく。

時が経つにつれて、その営みは「芸」と呼ばれるに至ったが、タモリは、芸自体が意味的に捉えられぬようにしている。そして、そのように予防すること行為からも解放することを目論んでいるように思えた。複雑な構図(実はシンプルすぎる)の中で楽しんでいく人間を垣間みることが出来た。

タモリの多国語 アフリカ編


■参考リンク
愛の傾向と対策って
イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽
寿司とタモリ



■tabi後記
1つ迷言を発見した。言葉は口から出る糞である。手に唾をつけて擦ると臭いのはその証拠である。(松岡正剛)
posted by アントレ at 08:13| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月19日

tabi0247 マーク・ベニオフ/カーリー・アドラー「世界を変えるビジネス」

横並びCSR(責任)から戦略CSR(機会)へ
企業は事業を行う地域社会に対して惜しむことなく継続的に、支援しなければならないということである。この要求に対して多くの経営者は、それは理想主義だと反論する。彼らの考えをまとめると、企業は効率的に事業を行い、無駄なく経営資源を活用し、雇用および商品・サービスを提供することで、健全な経済を支えている。それだけで十分社会に価値を提供している、というのである。(中略)世の中はもはやそれほど単純ではないということである。(中略)企業の社会貢献活動が、企業収益という点からみて正しいかどうかという議論は、すでに終わりました。それは市場が証明しています。市場、企業が善良な市民かどうかを重視しています。P8
マーク・ベニオフ/カーリー・アドラー「世界を変えるビジネス」(ダイヤモンド 2008)

06年にマイケル・ポーターが「“Strategy and Society: The Link Between Competitive Advantage and Corporate Social Responsibility”」という論文を出したことから、本書に登場するような流れが一層強まった。とはいえ、Corporate Social Responsibilityという言葉を聞いて、嬉々と行なう人はいないだろう。そこでポーターは、責任を「義務」と捉えるのではなく、「機会」としての責任と捉えようと提案する。

企業の責任は「よい製品・サービスの提供」することに尽きる。独自のポジションを築き、市場競争に生き残ることが目的となる。それがあって「雇用創出・維持」「税金の納付」などが行なわれるのだから。「地球環境への配慮」は製造過程における環境負荷の削減であり、「適切な企業統治と情報開示」「誠実な消費者対応と個人情報保護」などは「よい製品・サービスの提供」に内包さてる事項である。CSRというのは経営概念の拡張なのであって、ことさらに強調するまでもないのではないかと考える。

今の時代は「ボランティア活動支援などの社会貢献」「地域社会参加などの地域貢献」「安全や健康に配慮した職場環境と従業員支援」といったものが、拡張概念になっている。こういった活動を行う組織に、セールスフォース、パタゴニア、ホールフーズマーケット等が存在するが、企業人を社外ボランティアに行かせることが、どのように本業に結びつくかどうかは、頭を使って検証していく必要があるだろう。

■参考リンク
Days like thankful monologue



■tabi後記
「驚かすこと」と「意表をつくこと」の区別は、人を聡明にすると考える。
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2009年08月17日

tabi0246 ジョン・エルキントン/パメラ・ハーティガン「クレイジーパワー」

Boys be Crazy
グローバル企業は今、影響力のある社会・環境起業家を血眼になって探している。なぜだろうか?理由はおもに三つある。一つ目は、マーケット情報を得るためだ(社会・環境起業家は、市場のリスクと機会を測る敏感なバロメーターとなる)。二つ目は、人材の維持と開発に役立つからだ(成功した起業家とともに仕事をさせることが、社員の定着率や能力開発の向上につながると考える企業が増えている。たとえば、大手コンサルティング会社のアクセンチュアなどがそうだ)。三つ目は、最近の世界経済フォーラム(ダボス会議)で、あるCEOが率直に言ったように、「人気のある人と協力していることを世間にアピールしたい」からだ。P21
ジョン・エルキントン/パメラ・ハーティガン「クレイジーパワー」(英治出版 2009)

本書は、劇作家のジョージ・バーナード・ショーの言葉から始まる。

「常識のある人は、自分を世間に合わせようとする。非常識な人は、世間を自分に合わせようとする。ゆえに非常識な人がいなければ、この世に進歩はありえない」

この言葉に従って、本書で取り上げる社会・環境起業家は「非常識」な人間ばかりだとしていく。その代表例として上がってくるのが、ムハマド・ユヌスである。

彼は、2006年にノーベル平和賞受賞であるが、数年前、自分を含めた社会起業家のことを「70%クレイジー」だと言ったという。実際、他の起業家の多くも、友人や家族にさえ「クレイジー」呼ばわりされている。クレイジーとは有能の裏返しだ。

彼らは、解決困難なことに(解決する事とも思われていないことに)ソリューションを模索し、見つけてくる。普通の人ならリスクの大きさに怖気づく状況の中で、成功と失敗という対義語はなく、両方とも学習であると考えるのだ。つまり、学ぶ人がいるか、学ばない人がいるか、その違いでしかないのだろう。起業家は、生まれながら起業家である。という言葉には、ウィルソン・ハーレルを彷彿させるものがあった。

■参考リンク
753旅その1 ジョン・エルキントンほか『クレイジーパワー』
753旅その2 ジョン・エルキントンほか『クレイジーパワー』
海外MBAの新しいマネジメント教育、志向性の潮流@WSJ



■tabi後記
久々に大学図書館へ行ってくる。僕が借りようとする本の書庫率が増してきた。開架で借りれるような書籍を選んでいるようじゃ「まだまだ」なのかもしれないなあ。
posted by アントレ at 20:03| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月16日

tabi0245 松岡正剛「日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか」

多様の一途、一途の多様な国のこと
ようするに、ひとつのものから二つの相反するものや相対するものが出ているのです。いわば「一」から「一、一」が出ているのです。これはまさに日本流です。
(中略)
こうした一対の発想を進めるにあたって最初にヒントになったのは、私の母の学校の先生であった美術史家の源豊宗さんと親しく話せるようになったときに、「あはれ」と「あっぱれ」というのは公家と武家とが一対であるように、もともとは一対の言葉なんだよということを教えられたことです。
ここから先は一瀉千里というほどではないですが、次々に日本にひそむ一対が見えてきた。人々の生活にさえ「ハレとケ」があったということ、文字には「真名と仮名」があったということ、宮廷建築には「唐様の朝堂院と和様の清涼殿」があったということ、こういうことがやっと目の前を横切りはじめたのです。P234
松岡正剛「日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか」(朝日新聞社 2000)

まず、日本は多民族国家であり、大きく分けて空間的には東西二つの(あるいは琉球、アイヌも含めて四つの)文化圏と、時間的には縄文、弥生、古墳、平安、鎌倉・・・などの文化が複合的に組み合わさった立体的な文化の座標軸があり、その上をネットワーカーと呼ばれる、例えば出家者・遁世者、職人・芸能者などの遍歴民、遊行者などが動き回ったことで文化が混ざり合って出来ているという考察がある。

この考察に基づいた上で、日本における「多様の一途、一途の多様」と称する姿が起ち現れてきたようだ。松岡氏が、一対の構図を捉えた契機、「この一対を生み出す元々の分光器は何のなのか?」という問いをもちはじめた起点が記されている。その問いに対する思考は、「遊行の博物学―主と客の構造」でみてとれる。

「序章 歌を忘れたカナリヤ」で参照されている童謡






■参考リンク
Kousyoublog



■tabi後記
代々木公園で「新たなプロボラの形を提案する」というグループワークを催してきた。出会い系にインセンティブを求めるプランが多かったが、いくつかのアイデアは思考を刺激するものとして参考になった。個人的には、もう少し準備しておけば良かったなあと。
posted by アントレ at 19:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0244 道元「典座教訓・赴粥飯法」

食の根拠を問うていくこと。
十五 五つの瞑想

遍槌を聞くを候ち、合掌し揖食して、次に五観を作す。
一つには、功の多少を計り彼の来処を量る。
二つには、己が徳行の全欠をはかって、供に応ず。
三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四には、正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり。
五には、成道を為の故に、今此の食を受く。P193
道元「典座教訓・赴粥飯法」(講談社 1991)

訳文:

食事が全員にいきわたった合図の遍食槌が聞こえたら、合掌し、食事に対して頭を下げ、次に五つの事柄について心にえがき反省する。

一つに、目前に置かれた食事ができ上がってくるまでの手数のいかに多いかを考え、それぞれの材料がここまできた経路を考えてみよう。

二つに、この食事を受けることは、数多くの人々の供養を受けることにほかならないが、自分はその供養を受けるに足るだけの正しい行いができているかどうかを反省して供養を受けよう。

三つに、常日ごろ、迷いの心が起きないように、また過ちを犯さないように心掛けるが、その際に貪りの心、怒りの心、道理をわきまえぬ心の三つを根本として考える。食事の場においても同様である。

四つに、こうして食事を頂くことは、とりもなおさず良薬を頂くことであり、それはこの身が痩せ衰えるのを防ぐためである。

五つに、今こうやって食事を頂くのには、仏道を成就するという大きな目標があるのである。

以上が、引用文の訳(P194)である。

近藤正晃ジェームスさんのインタビューを聞き直すと、精進料理の話しが出てくる。近藤さんは、学生時代の座禅体験が食への意識を問いなおす契機になったという。

そこで問われた事は、

・あなたのために植物を殺してきました。
・この植物が喜んであなたに命を捧げたいと思うことをしていますか?
・もしそれだけの価値を出しているなら、堂々とお食べ下さい。
・ところ、あなたは、他の命の食べ物になる気はありますか?
・肉を食べたいなら、せめて自分で殺して下さい。

というものであった。これは本書の内容に通じる内容である。

私は、ベジタリアンでも、マクロビオティックの実践者でもないが、周囲がそのように変化してきていることをヒシヒシと感じる。「食」への態度を確立することは、生命哲学を持論化することと類似するのだろう。もちろん、哲学を重苦しく考えずに、単純に実践している人こそが、長続きするのかもしれません。

食事五観之偈
gokannoge.jpg
過を離るることは貪等を宗とす

■参考リンク
tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」
新社会人が読んどけと思う本のリスト
風を待ちながら・・・



■tabi後記
Twitterでつぶやきをすると「朝トモ」がいることに気がつく。AM4-5時に起きている人は、意外といるみたいだ。
posted by アントレ at 06:38| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月15日

tabi0243 十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」

ゆるい因果律・にじんだ対称性
松岡ーただ、僕がこれ以上説明できないのは、エピクロスのイメージが、あまりにも凝縮力が強くって、いろいろなものに応用できない。ふつう、僕の思考方法というのはグラフィク・デザインを見ようと、映画を見ようと、物理学を見ていても、それが直ちに他のものの良さに繋がるというので「ほうっ」と感心できるわけね。一人で悩まないで済んだ、解き放たれたなと思う。エピクロスにはなかなか他のものが棲みつかない。だから少し時間がかかると思っている。
実感としてはね、ミシンの先のようなものが「チュチュチュッ」と、細くて覚束ないながらもシャープにキックするようなフィジカル・イメージがある。さっきの喩えでいえば、ミルクのパックのような量子の中で「チュチュチュッ」とキックしている。こんなでたらめな印象だったら言えるんだけれども。(笑)P94
十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」(工作舎 1979)

・科学には厳密がお似合いだ。
・厳密の裏側には不思議が眠っている。
・愉快な科学を巡るため、不愉快な科学を裏返えそう。

このような企図がそこかしこに潜んでいる。

私にとって科学は愉快なものだったか?それが最初に浮かんできた問いである。

科学との出会いは、理科の授業だろうか。僕はこのあたりを想起することが出来ない。いささか想像力にかける。

私が今でも覚えていることは、小学校低学年のことだ。そのときの私は、ガスコンロでトイレットペーパーを燃やすという「偉大なる実験!」をしていた。何度も、何度も燃やしてみたが、一向に燃えない気配がない。僕は「燃えないことがあるのかもしれない!」と言っていた気がする。

その時に声をかけてくれた方は誰だったろう。担任、教頭、校長だろうか。ここは全く思い出せない。声の主は不在である。だが、声だけは私の中にのこっている。

「いや、燃えないということもある」

誰も聞き取っていなかった言葉だけれど、僕の中では確かに残っている。そして幾分か救われた気がした。

僕が、公教育へお願いがあるとすれば、科学哲学と歴史哲学とゲーデル数学の基礎を教えてほしいくらいだ。それを聞かないと、目が輝けない子供がいるはずだから。

■参考リンク
MILBOOKS
第一夜【0001】
第五十四夜【0054】
第六百六十夜【0660】
第八百二十八夜【0828】



■tabi後記
改めてSkypeが便利だと思う。私のSkype IDは「uchida0917」です。
コンタクトとれていない方、気軽に申請下さい。
posted by アントレ at 22:56| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0242 W・チャン・キム/レネ・モボルニュ「ブルー・オーシャン戦略」

Shape!Shape!!Shape!!!
差別化と低コストのトレードオフを解消して、価値曲線を刷新するためには、次のような四つの問いを通して、業界のこれまでの戦略ロジックやビジネスモデルに挑むとよい。
●Q1 業界常識として製品やサービスに備わっている要素のうち、取り除くべきものは何か
●Q2 業界標準と比べて思いきり減らすべき要素は何か
●Q3 業界標準と比べて大胆に増やすべき要素は何か
●Q4 業界標準でこれまで提供されていない、今後付け加えるべき要素は何か P51
W・チャン・キム/レネ・モボルニュ「ブルー・オーシャン戦略」(ランダムハウス講談社2005)

ブルーオーシャン戦略(バリュー・イノベーション)を実現するためには「低コスト」と「差別化」が同時に実現することが大切になる。

ピクチャ 1.png
BOS Concepts, Tools & Frameworks

それを実現するためのフレームワークとして「戦略キャンパス」、「四つのアクション」、「6つのパス」が用意されている。引用で取り上げた「四つのアクション」は、仕組みはモノやサービスに対して、

1. すっかり取り除く要因は何か?(Eliminate )
2. 大胆に減らす要因は何か?(Reduce)
3. 大胆に増やす要因は何か?(Raise)
4. 新たに付け加える要因は何か?(Create)

という問いをもつことが、戦略キャンバスを描く上での助けになります。

ピクチャ 3.png
BOS Concepts, Tools & Frameworks

人は、青い鳥と青い海を求めて旅立っていくのだろうか。コップ一杯のインクを海にたらし、均一になるよう海をかきまぜて、海の水をコップ一杯取り出したときに、もとのインクの分子は何個コップに入っているだろうか?という問いがある。

この比喩を青い海にも適応してみよう。青い海には、赤いインクが入ってくる。それは、気づかぬ内に一滴ずつ入ってくるのだろう。その気配を察知するためには、海の水をかきまぜ続けることと、海を泳ぐの止め、コップを取り出し、海を掬うことが大切になってくる。ここで考えられたのは、変化と止観という相矛盾する2つの視点である。

■参考リンク
戦略的コスト構造を武器に
不況は起業に有利か?/哲学的起業家の可能性
ブルーオーシャン戦略の4つのアクション
厳選書評ブログ



■tabi後記
午前は上野公園、午後は清澄庭園でお話をする。合間合間に溜まっていた物事をこなすことができた。TODOリストは、HAVE TO DOリストではなくWANT TO DOリストとしてこなしくのが大事。
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2009年08月14日

tabi0241 松岡正剛 「遊行の博物学―主と客の構造」

風のスサビ(荒び/遊び)。凝固と気化を反復するように。
私が本書のそこかしこで考えてみたかったことは、こうした主客の構造が、日本においてはしばしば反転や転移、あるいはソラリゼーションをおこしているということである。それは「手前」という自分をあらわす卑下した言葉が、急に語調を荒げた「てめえ!」という相手をあらわす言葉になってしまうという、この日本人ならたいがいが知っている逆転用法に顕著にあらわれている。あるいは、先にのべたような大事な客が来ると、自分の席をゆずって勧めるという行為によくあらわれている。P409
松岡正剛 「遊行の博物学―主と客の構造」(春秋社 2000)

本書は、遊びやスサビの奥にウツという考えがあること。それが現実になって、うつろっていくことに注目しています。

「アソビ」というものの奥には「スサビ」(遊び→荒び)があり、「スサビ」が「アソビ」をつくって日本を動かしたという点がユニークです。さらにそのアソビが「数寄(スキ)」という考えへウツっていくことを示唆しています。

また、さまざまなところにムスビをつくり、そのムスビ同士を結んで全体として動いていたことを「中世ネットワーク社会=贈与経済」と記している箇所は、現代へのアナロジーとして捉えられることも多いと思います。

このような思考を辿るにつれて、人々はそういった文化を持ちながら、頭巾をかぶり、杖を持ち、箱を持ち、そして江戸社会になれば印籠を持って動いていたのか?と問うようになった。

いやむしろ、ここにはコトバの用法を考える必要があるのかもしれない。◯◯風や風土,風味,風俗は、文化を規定するコトバとして用いられているが、「風のようにウツろいゆくこと」自体を捉えるのは如何にして可能なのか。

ウツ(ウツツ/ウツロウ)をウツワ(コトバ)へ入れるというより、ウツがウツワへ隠れてゆく、逃げてゆくプロセスとして捉えながら、問うていくのが気分的に良い。

■参考リンク
[第10談]「ここから日本文化論が出遊する−本書の位置と意味」
[第11談]「遊行を語るマルチメディアへ−本のかたちを手法とアイテムで超えていく」
遊から遊へ



■tabi後記
以前から企画されていた、安斎ゼミ秋月電子通商フィールドワークが実行されることになった。メイドカフェへのフィールドワークも行なわれようなので、楽しみにしている。
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2009年08月13日

tabi0240 杉浦康平 「文字の美・文字の力」

人々が気づかぬ場所にひっそりと現れ、棲みつく文字
いま、多くの文字は、パソコン、携帯メールやTVの画面…などの中に収まり、書くものから見るものへ変わりつつあります。
だが文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものでした。漢字は象形文字だと言われますが、その成立過程を考えてみても、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現する…といった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、文字に生気をあたえています。
(中略)
もう一つ、文字にとって大事なことは、「声の乗り物」だということです。ただ単に目で見るだけでなく、人間の音声をも写しとるものでありました。
文字は黙っていない。叫びを発しています。P4
杉浦康平 「文字の美・文字の力」(誠文堂新光社 2008)

手足をのばし、声をのせて踊り出す文字。

呪力あふれ、霊気をはなつ文字。

本書は、思いがけないふるまいで、眼に見えない力をたぐりよせ、日々の暮らしを活気づける文字たちの、予想をこえた変幻の妙、魅惑にみちた姿・形に眼をこらしていく。

私は、キーボードの上にある指を左右上下に動かすことによって、大半の文字を生み出している。近年は、全くもって形/サイズが身体次第の文字を生み出せていていない。

もちろん、その状態を問題であると言うのは易しい。その問題だと思ってしまったことを「伝統」帰りの論理に用いるのではなく「伝統」を創るための論理として思索していきたい。

豊穣を生む「山水」の絵文字 芹沢_介
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いのち宿る墨汁の「心」字
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sugiura-moji.jpg
idea-mag.com

■参考リンク
それでも、デザインの核は装飾である。
生きた文字が溢れている
芹沢_介の文字絵・讃/杉浦康平
杉浦康平先生のトークショウ「壽字爛漫(じゅじらんまん)に行ってきたよ



■tabi後記
識が熟し爆発しそうである。この動力をもちいながら、様々なことへ決断をくだしていこうと思う。
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tabi0239 ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」

自由の極北としての遊び
カイヨワは、1競争と2運の組み合わせと3模擬と4目眩の組み合わせのみを根源的、あるいは本質的とし、しかも3と4の組み合わせから1と2の組み合わせに移行するところに、近代社会への決定的な道程を読み取っているのである。彼はじつに慎重な表現をえらびながらも、目眩の支配する混沌の領域(3,4)から、競争の支配する計算の領域(1,2)への社会と文化の移行を、人類の歩みとして当然、かつ支持しうるものとしている。P355
ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」(講談社 1973)


本書の訳者解説には、ホイジンガ,カイヨワ,訳者(多田道太郎)の思考が結晶化されている。カイヨワは2つの「遊」をみたのではないだろうか。

1つは、目眩の支配する混沌の領域(聖)から、競争の支配する計算の領域(俗)への移行に「遊」であり、もう1つは競争の支配する計算の領域(俗)から、目眩の支配する混沌の領域(聖)への移行(逆行くにみた「遊」である。

tabi0235A.jpg

カイヨワは、目眩の支配する混沌の領域が「聖なるもの」であり、競争の支配する計算の領域が「俗なるもの」でする。そして、それを往還するのが「遊び」であるとするのだ。混沌から計算へというのは、ミクロコスモスからマクロコスモスの統合過程に似ている。

ホイジンガは、客観科学主義時代への移行に伴って喪失してしまった「聖なるもの」を「遊び」の中に残存していることを突き止めたのだ。そして、カイヨワは、ホイジンガの視点を正当に引き継ぎながらも、その概念を発展させていく。

計算と混沌という軸だけでなく、意志と脱意志の往還があることを突き止めたのだ。この4方向の移動に自由論(遊び)を絡めて壮大に論じていく。

一般的に見方では、聖と遊は、生活を軸として対照的な位置を占めている。遊びは、当然生活を恐れる。生活は、一撃にして遊びを打ち砕き、消滅させるからである。反対に、生活は聖なるものの持つ至高の力に対して不安なまま依存している。

聖なるものからの「脱却」として俗があり、俗生活からの「脱却」として遊びがある。そのように考えられている。そして自由とは、歴史的にみて、何からの束縛からの自由であった。聖から俗へ、俗から遊へ。このようなヒエラルキー構造をカイヨワは指摘しながらも「遊」という概念のもつ「浮遊性」にも注目した。その浮遊性というのは、最初に指摘した往還としての「遊」であろう。

遊びの定義と分類
1.自由な活動
すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2.隔離された活動
すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3.未確定の活動
すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
4.非生産的活動
すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5.規則(ルール)を持った活動
すなわち、約束事に従う活動。この約束ごとは通常法規をを停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが適用する。
6.虚構の活動
すなわち、日常生活対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。P39
ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」(講談社 1973)


tabi0235B.jpg

■参考リンク
第八百九十九夜【0899】
第七百七十二夜【0772】
アクスラインの遊戯療法の8つの基本原則とロジェ・カイヨワの『遊びと人間』に見る“遊び”の本質
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
【遊楽せし魂を】 内田洋平

真に美を見出すは、退屈也

善に美を見出すは、窮屈也

美に美を見出すは、偏屈也

真善美

この3対関係を考察せすもの、いづこにもおる

いづこの中で光るには

真善美より遊離すること


遊離するとはいかなるか

つまりは疑悪醜を察し

行いしめること


ひねりのさきに真善美をあらわし

そこで落ちつく

振り切るのは控えること

ひねりの構造にすら

飽きをもてめてしまう

その心的性向がある

それを弁えること


弁えるとはいかなるか

弁えの連続性のなかに佇むことである

遊楽せし魂を習熟すること
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2009年08月12日

tabi0238 トム・ケリー 「発想する会社!」

ブレスト。それは、礼拝のように。
「あなたがたはブレインストーミングをしていますか?」という質問に「イエス」と答える人の目には、「そんなことはとっくにやっている」と言わんばかりの独りよがりが見てとれる。実際、ビジネス・コンサルティング会社のアーサー・アンダーセンによる最新の調査では、七◯パーセント以上のビジネスマンが自分の組織でブレインストーミングを活用していると答えている。
(中略)
同じアーサー・アンダーセンの調査で、ブレインストーミングをしていると答えた人の七六パーセントが、回数が多くても月一回だと認めている。多くても月一回。私は映画ファンを自認していて、たいてい年に三◯本から四◯本の映画を映画館で観る(そして同じくらいの数をビデオで観る)が、それが多くても月に一本になったら、以前は映画ファンだったと言わなければならないだろう。
トム・ケリー 「発想する会社!」(早川書房 2002)


・その場所から飛び出して、市場、顧客、製品を観察しよう!

・狂ったようにブレインストーミングをしよう!

・山のようにプロトタイプをつくろう!

これが本書のメッセージである。

IDEOで日々行われているという「観察」「ブレインストーミング」「プロトタイプづくり」は、個人間の知識移転を促進させ、暗黙知の広がりを可能にするのでしょう。そこからイノベーションが生まれてくる。核となる3つの手法の中で、「ブレインストーミング」における秘訣と落とし穴を列挙しておこう。

■よりよいブレインストーミングのための7つの秘訣

1. 焦点を明確にする
2. 遊び心のあるルール
3. アイデアを数える
4. 力を蓄積し、ジャンプする
5. 場所は記憶を呼び覚ます
6. 精神の筋肉をストレッチする
7. 身体を使う

■ブレインストーミングを台無しにする6つの落とし穴

1. 上司が最初に発言する
2. 全員に必ず順番がまわってくる
3. エキスパート以外立入禁止
4. 社外で行う
5. ばかげたものを否定する
6. すべてを書きとめる

これらはどれも当たり前のことで、なんら特別なルールがあるわけではない。そう、大切なのは、方法論でなく回数なのだ。IDEOでは「ほぼ宗教みたいなもので、ほぼ毎日、礼拝のように」行われている。創造性は、日常の連続から生まれてくるものであって、そのための習慣・雰囲気・空間を組織が担う必要があるのだろう。

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IDEOで使われている、イノベーションを起こすためのステップは、理解、観察、視覚化、評価と改良、実現の5つからなる。

■参考リンク
100%のなかの確率を高めるのではない。その外の世界を発見するのがイノベーション
ユーザーに尋ねても必ずしも正しい答えは返ってこない
IDEOが教える「イノベーションを生む秘けつ」



■tabi後記
開高健「人とこの世界」が文庫化されたので、久しぶりに手にとってみた。もし、本書を読まなかったら、広津和郎,大岡昇平,武田泰淳,きだみのる,金子光晴,今西錦司といった方々と向き合うことはなかったんだろう。

本書は「対談→作品論→人物」という型が3,4回転して1対話の構成になっているため、不思議な読書体験ができます。ちなみに、開高さんは父方の実家近く(井荻)に住んでいました。
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2009年08月11日

tabi0237 津島秀彦/松岡正剛 「二十一世紀精神―聖自然への道」

たまに地球のことを想い出してみるのもいい
▲-なぜ、自然的な一日があるか。もちろん、そこには地球が廻っているということがある。われわれは地球の回転とともにある。
★-したがって、われわれは何もしていなくても、畳の上に寝ころんでいても、地球とともに、全宇宙の事態とかかわっているということです。
▲-すべては関係しあっているのです。それが存在の内容でしょう。
★-われわれの内部でも同じ事態がおこっています。血液はぐるぐる廻り、分子は廻り、原子も廻っている。その最小単位である素粒子もスピン(旋転)しています。
▲-われわれは、さまざまな「回転速度」の中にある、と言っていいでしょう。
★-ミクロコスモスとマクロコスモスは、同じ夢をみているのです。そうであるならば、われわれもまた、その夢の世界を知らなければならないし、その夢とともにあることを知らなければならない。P20
注:▲津島秀彦★松岡正剛
津島秀彦/松岡正剛 「二十一世紀精神―聖自然への道」(工作舍 1975)


1日を考えることは、地球を通して全宇宙を考えることである。こう初めから迫ってくるのだから、面白くないはずがない。両氏は、1日を考えるとは「起きること」と「眠ること」であると納得していく。

両氏は、重力観念との闘いこそが人の歴史であるとする。それは、大地にへばりつくのをやめて立ってしまったということ、一切はここから始まるからだ。立ち上がったから手が自由になり、粘土版に文字を彫ることも道具をつくることもできた。

私たちにとっては、何のそのと思われる「起き上がる」という動作は、重力への抵抗する驚異的な習慣であるのだ。次に来るのが「おやすみなさい」という地球への挨拶である。

私たちは、重力からの自由のために「眠る」のである。そして「座る」(禅)という方法まで編み出した。夢をみること、禅的体験にいたること。この体験的時の最中において、重力との闘いは終止符を打とうとされる。

■参考リンク
イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽



■tabi後記
80年代のニューアカデミズムには想像力が及ぶが、70年代の工作舍は異常な雰囲気を朧げに感じられる程度。この10-20年の知的変遷が綴られた資料はあるのだろうか。
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tabi0236 市村浩一郎「日本のNPOなぜ不幸なのか?」

Non-profit organizationという言葉が生み出した不幸 -
いつの間にかNPO法の取り組む本質的課題が、日本社会の仕組みを変革することから、本人格という権利を獲得するということにすり替えられてしまった観がある。だからあえて繰り返すが、私は特定非営利活動促進法の制定は、失策であると考えている。そもそも「NPO法」とは私が作った造語であるが、特定非営利活動促進法を私はNPO法だとは思っていない。P221
市村浩一郎「日本のNPOなぜ不幸なのか?」(ダイヤモンド 2008)

著者らが構想したNPO法案は、NPOの法人格取得手続きを定める法律のみならず、税制上の優遇措置を規定する諸税法の改正を含むもので、ひとつの体系としてのNPO法を志向していたようだ。それとは異なる現在の特定非営利活動促進法については5つの問題を指摘している。

1. NPO法人の活動領域を17項目に制限されていること

2. 寄付税制の不備

3. NPOを「不特定多数の利益」の増進を図る活動をするものと規定されているため、特定少数のサービスが行ないづらくなっていること

4. 無償労働要件:役員のうち報酬を受ける者は3分の1以下でないといけない、という無償労働条件と10人以上の社員を有する者ものであるという条件があること。

5. 監督制度:行政の関与は、登記または登録などが正しく行われているかという点に留まるべきで、何か問題が発生した場合は、司法で解決を図るのがセオリーである。お上意識が招く設立認証の煩雑さを回避しなければならない。

NPOが含有する意味は、たかだが「分配のあり/なし」という意味でしかなかった。

その意味が、「収益追求あり/なし」と誤解されてしまったことに不幸のはじまりがあるだろう。意識せずとも、結果的として「経営不在」という事態が生じている。これが、日本のNPOの課題である。

現在は、Not for Profit(収益は酸素である)という意識を持つ方も増えている。これを意識だけで終わらせないためにも、実際にProfitをあげられる商才ある人が、NPOセクターへ参入したくなる制度設計が必要であろう。

■参考リンク
tacanoblog
TABLE FOR TWO小暮真久氏×チャリティ・プラットフォーム佐藤大吾氏×ETIC.宮城治男氏「社会起業はとにかく面白い」〜あすか会議2009レポート〜



■tabi後記
体調ももどってきたし、そろそろ運動を再開しよう。

「たい・ない」

人は何者かでありたい。
人は何者にでもありたい。
人は何者でありたくない。
人は何者にでもありたくない。
人は何者かにあれない。
人は何者にもあれない。
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tabi0235 鈴木一誌「ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン」

書体、文字、ページのむこうにいる「あなた」
ひとつずつの活字を拾うことで行になり、行が集まってページとなる。ページが累積して書物ができる。この過程を、ページネーションと言う。ページネーションとは、本の一ページを生み出していく行為でありつつ、同時にページ相互の連続性を誕生させていくことだ。
(中略)
ページは、相互にあらわれとして共通したものをもっていなければ、視覚的な連続性を読者に伝えれない。また、何時をもって一行とするか、行がどのような書体によって形成されるのか、行と行のあいだの余白はどのくらいかなど、ページを発生させるルールが必要となる。そのルールの束をフォーマットと呼んでおく。
(中略)
垂直に累積するばかりでなくズレながら水平にも伝播していくページのフォーマットは、われわれを何重にもとり巻いている文字やことばと干渉しあい、われわれの生活環境そのものとなっているにちがいない。P9-10
鈴木一誌「ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン」(青土社 2002)


鈴木氏は、デザインは、ときには「情報を公開する技術」をあつかうのではなく、つねに「情報を公開する技術」なのだろう。と語りながら、デザインが既に隠してしていることがあることも認める。テクストが裸の状態で提示されることは滅多にないからだ。

デザインが見る者の行動に関与しているという意味での政治性は、すでに発動している。その事態をあらためて対象とすることでしか、つまりは対抗的にしかデザインは政治性を取りもどせないことを深く自覚しているのだ。このような自覚から、最大の観察対象となるの自分を思索していくのである。

書体、文字、余白、ページ、装幀のむこうがわにいる「あなた」とこちらがわにいる「あなた」、それを取り持つデザイナーは開かれたデザインをしながらも、閉じられたデザインをする。このアンビバレンスな存在であり続けるには、深い哲学が必要であろう。本書では、その一端を垣間みることが出来る。

■参考リンク
文字の官能性、書物としての身体
デザイン:情報を公開する技術
解釈を代行するのが道具



■tabi後記
「身体」や「他者」という言葉に重きをおきすぎる時流には乗りたくない。
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tabi0234 藤井直慶「つながる脳」

我慢の表と我慢の裏が社会をつくる
それでは、強いサルから弱いサルに移行したときに発現される機能とは何でしょう。それは今回の実験の見えてきた通り、行動の「抑制」であると僕は考えます。強いサルに対して、自己の欲求を抑制することが彼らの行動から私たちが見ることができる最大の変化です。ということは、抑制の形をとって表現される弱いサルの行動は、非言語的なメッセージとして私たちが理解できるように、強いサルにも間違いなく伝わっているはずです。つまり、抑制というものが社会性の根本にあるのではないかというのが、この実験を通じて到達した僕の考えです。P128
藤井直慶「つながる脳」(NTT出版 2009)

「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」

一読後、小林秀雄「常識」の会話を思いだした。

抑制(我慢)が社会性の本質であるというメッセージに驚きを持つ者は多くないだろう。この常識から推論できることは、社会契約の合理性(我慢の表)とそれに伴う革命の論理(我慢の裏)である。

「リヴァイアサン」に見られるように、自分も他人も自己保存権を優先するという現実を認識したからこそ、それを調停するための社会契約がつくられた。人は、競争や憎悪や対立や摩擦や侵犯を積極的に予防するために我慢をしたのである。それが社会性という名をもったのである。

一方で、我慢に裏がある。我慢を消極的予防(保留)とするのが革命の論理である。我慢の背後に、社会の安定は実は下が決めているという心が含まれているのだ。

下位のサルは常に上のサルに従っているのではなくて、相手の力を常に観察し、隙があれば上手く上のサルの餌をちょろまかす。このような生物としての図太さが、革命の論理になっているのだろう。

■参考リンク
勢川びきのX記:4コマブログ
下位の「したたかさ力」



■tabi後記
天気/天災を意識的に感じられる期間は、人にいかなる影響を及ぼしているのだろうか。実家のマンションは11Fであるが、昨年に耐震工事が行なわれたので、以前よりも強い揺れを感じない・・。
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2009年08月10日

tabi0233 松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」

トレース・クリエイターとしての編集者
そのままではいっしょにしにくいものや、それまで誰も関係があると思っていなかった現象や情報に、新しい関係性を発見をしたり、もう一つ別な情報を加えることによって関係線を結んでいく。新たな対角線や折れ線を見つけていく。このときに、編集工学が大事にしているのが「方法の自由」ということなんですね。方法を自由自在に使うことで、どんな大胆な編集をすることもできる。それは、この講義の最初でのべた「関係の発見」ということです。P310
松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」(春秋社 2008)

本書には数多くの編集者があらわれる、その編集者自体を編集することによって、我々は「見方」というものを体験的に獲得していくように構成されている。

紀元前6世紀から5世紀にかけた宗教編集者、三位一体の編集者、ミクロコスモスとマクロコスモスを並走させたバロック時代の編集者、関係性自体を具象化する編集者・・。松岡氏が用いる「編集」という概念は多義に及ぶ。このような状態にある概念を、厳密性という名の下に評価することは容易い。

深沢直人氏が、「すばらしいものはもう過去に達成されていると思います。すべて完璧に達成されてしまっている。」と語っていることを思い出すにつれ、私たちは過去を完全にトレースすることすらも出来なくなってきたと考えてしまう。

このような事態は、職人技法が語られる際によく取り上げられるテーマだ。僕がテーマとしたいのは、もっと生活的なこと、かつ非生活的なこと。五感や運動や喜怒哀楽といったものから、論理・情理の構成や感動・畏敬の対象といったことである。私は三浦梅園のような思考表現・編集方法がしっくりきそうだ。

■参考リンク
まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!
17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡正剛
146旅 『17歳のための世界と日本の見方』 松岡正剛
ワニの脳とネズミの脳と



■tabi後記
amzonから本が届くまでに「読みたい」気持ちがなくなってしまう。奇跡的に立ち会われた「欲」が喪失してしまうことを、「読みの保留」というコンセプトで認めていたが、この欲を救済するコンセプトも必要であると感じている。方法的に解決したい。
posted by アントレ at 19:26| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0232 竹田青嗣「中学生からの哲学「超」入門」

世界像の崩壊が人を聡明になる
だいたい高校までは、ふつうの人は誰でも、自分の家族、学校、友人などから自然に受け取ったはじめの「世界像」を育て、これをまわりの人間と共有している。これが一枚目の世界像です。ところが、大学などに入ると(もちろん大学だけとはかぎらない)、言葉の力がたまってきて、本とか耳学問で、突然新しい世界像が開かれることがある。世界と人間についてのまったく新しい観念、考え方です(宗教の形をとるこもある)。

これが二枚目の世界像で、これが入ってくると、なかなか強い力を発揮する。というのは、二枚目の世界像は、これまで自分が持っていた考えはみな間違ったもので、ここにこそ「ほんとうの世界」の姿がある、といった一種の世界発見の魅力をもって現れるからです。ちょうど、恋をすると、相手の美質について結晶作用が起こるのと同じく、世界についてのロマン的な結晶作用が起こるのです。P46
竹田青嗣「中学生からの哲学「超」入門」(筑摩書房 2009)

竹田現象学をシンプルにまとめ上げた1冊となっている。

竹田氏は、この引用文に続けて、「二枚目の世界像がさらに相対化されて三枚目の世界像を得たとき、われわれは、世界経験というものの全体像をはじめてつかむのだけれど、そのためには、この二枚目の世界像がなんからの仕方で挫折する必要があるのです。」と語る。

ヘーゲルは、二枚目の世界像に欺瞞に気がつきながらも、それに拘泥することを「不幸の意識」と呼んでいたが、私は、この世界像崩壊にともなう自己修復能力こそが、人を聡明にすると考えている。

客観主義にも懐疑主義にも寄り添わない現象学を目指して
世界の意味の秩序は中心点なる目標を失うと、いったん壊れてばらばらになる。ちょうどクモの巣の真ん中を破ると、全体がばらけてしまうように。しかししばらく存在の重さに堪えていると、世界は不思議な自己回復力で、もういちど意味の秩序を少しずつ張り巡らそうとする。クモが破れた巣を編み直すのと似ている。つまり深刻な挫折を体験すると、人は、世界がいったん壊れ、また自分を編み直してくる、という過程を必ずたどることになります。でも挫折がそれほど深くないと、人はそれに気づかない。挫折が深く、とことんまでいかない場合、根本的な世界の再構成ではなく、いわばつぎはぎ的な修復が起こるのです。P55

竹田氏は、自我の崩壊を夢判断で修復しようとしたが、ついには真の意味を獲得出来なかった。しかし、そこで獲得したのは「自己確信」という所作であった。

「自分の感情の海の中に、絶対的にそうだと思えることと、この先はもう何とも確信をもてないことと、そしてその中間地帯との、三つの領域の境界線がはっきりある、ということが分かること。」という態度を手に入れた。それが現象学研究のはじまりであった。

「世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません」と竹田氏は語る。

神は存在するのか、人間と世界の存在の意味はなにか。これらの問いに決定的な答えは誰も出せないという、形而上学の不可能性の原理は理屈では理解できる人も多いでしょう。しかし、このことがいったん深く腹の中におちれば、人間は本当に聡明になります。

この原理(カントによる原理)がわからないと、「人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです」と氏は語る。

■参考リンク
[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)
社会システムとルール社会を越えていくもの
哲学は哲学者より簡単 - 書評 - 中学生からの哲学「超」入門



■tabi後記
妥当性の強度を欲望相関性で区分したモデルのver0.1が出来上がる。世界像崩壊パターンを区分することで、その人の世界像=疑団=業を知りたいという思いがあるからだろう。
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tabi0231 ジャック・ワース「売り込まなくても売れる! 」

最高の営業は、生涯の付き合いとなる出会いとなること
サム:セールスが「説得」でないなら、いったい何なのでしょう?
VP:見込み客と《合意を重ねていく》のがセールスなのだよ。見込み客というのは、まず商品に対するニーズがあり、商品を希望し、資金があり、こちらが【満足条件】を満たせば一定の時間で購入契約をする意志のある相手のことだ。P45

われわれは反論の「処理」はしない。【高確率セールス】の環境では、買い手はセールスパーソンとの《合意に達するプロセス》の途中にいるのであって、無理に勧めれられたら抵抗しようと身構えているわけではない。「反論」は、買わない理由や言い訳になって表面化するのではない。検討し、話し合い、交渉すべき課題として出てくるのだ。P54
ジャック・ワース「売り込まなくても売れる! 」(フォレスト出版 2002)

■セールスは売り込みではない
この一言が世に通じれば、どれだけ素晴らしくなるだろう。そもそも、「売ろう」とし過ぎることはセールスではないというメッセージから本書は始まる。

■プロセス全体がクロージング
そして、セールスは客に買わせることではなく、双方向のビジネスの下地があるかを見ることである。満足条件を満たすためのヒアリングを行なうプロセス全体がクロージングになるのであり、それが満たされれば相手からYESという声を引き出せる。

■顧客志向は、顧客の意図を裏切ることも包含する
そのためには、相手のニーズを引き出す必要があるだろう。良く言われる例えであるが、顧客はドリルではなくドリルの穴がほしいのだ。大切なのは、ウォンツを見ずに、ニーズを捉えるということ。

■顧客は良い提案が欲しい。私は良い提案がしたい。その下地を築くこと。
「今回○○なわけですが、いまの××に何かお悩みでもおありですか?」 という質問からニーズ探索の旅ははじまっていく。

決して表面的なウォンツに食らいついてはいけない。顧客の成功に貢献するための本質的な経営課題を抽出する必要があるのだ。そのためには憚らずに理想(満足条件)を聞こう。

「良いご提案をさせて頂くために、○○のことをいくつかおうかがいしてもよろしいですか?」

「今回○○なわけですが、どのような××になれば、ご満足にほんの少しでも近づきますか?」

顧客は良い提案が欲しい。私は良い提案がしたい。その下地を築くことである。

■「良いものがわかるあなた」のために、顧客は何でも話してくれる
ヒアリングを許可をとることの裏には「私は良いものが分かる人間である。」という社会的証明が隠れたメッセージとなっている。

ヒアリングが承認されるなら、何を聞いてもいい。聴きにくいことでも何でも。「良いものがわかるあなた」のために、顧客は気づかずうちに普段なら答えないことでも聞かれると答えてしまう。

■顧客のために影に隠れるキーマンを特定せよ
満足条件が確認され、その条件にあなたが貢献出来ることが明らかになったとしよう。しかし、そこでセールスは終わらない。影に隠れるキーマンを特定する必要があるからだ。

「お客様が、この人の意見も尊重した方がいいと思われる方は、他にいらっしゃいませんか?」

という質問が大切である。

この問いで相手に「失礼」なく、キーマンを特定できる。セールスは、ヒアリングしたこと(満足条件)にズレがないかを「確認」していくプロセスである。その中で、安心感は形成されていく。

■再現性のある教え
人間は、自分の話を聞いて貰うだけで満足はしていない。それが本当に伝わったか、それが本当に共感されているか、行動レベルで落とせているかが確認できて、満足をする。

その作業を怠って、信頼関係を手に入れるのは難しい。人間的な魅力や説得の話術で信頼関係が手に入ることもあるが、それは仕組みではなく才能と個性であり、普遍的なものではない。再現性を確保した教えを頂いた。



■tabi後記
昨日参加させて頂いた李英俊さんの「セールスプロフェッショナル講座」の内容をブレンドしながら書評をしました。
posted by アントレ at 15:46| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月08日

tabi0230 小林弘人「新世紀メディア論」

Publiserは「そんなコミュニティー」が存在したことを公にする
特定の読者に対して情報を提供し、コミュニティーを組成し、そのコミュニティに価値が宿るのではないでしょうか。つまり、メディアビジネスとはコミュニティへの影響力を換金することであり、自動車販売や家電製品のようにすっきりしないのは、1台売っていくら、という商行為ではないからです。メディアという言葉のうさん臭さと高貴さは、コミュニティの価値を自らプライシングしているからであり、その価額と価値については厳密な物差し(発行部数やページビュー数)以外に上乗せされる部分ーブランド価値ーが付随するからです。P22
小林弘人「新世紀メディア論」(バジリコ 2009)


この本を読んで改めて確認することは、ブログパブリッシングをするうえでもっとも大切なことは、ほかの人じゃなくて、あなた自身がそれを読む事に興味があるかどうかということだ。

販促のボトルキャップを収集している人たちがいて、すごくレアなキャップがあるとする。(製造不良がプレミアムになったりね)もしあなたが、そのレアキャップ持っている収集家ならば、それらの美しいキャップを写真にとったブログを始めることだろう。しばらくすれば、ほとんどのレアキャップコレクターたちがあなたのブログを訪れることになる。

ラージ・フォーカス、スモール・プロフィットの時代から、スモール・フォーカス、スモール・グループ、ラージ・プロフィットの時代の中では、ブロード・ファーカスではなくて、ターゲット・フォーカスこそが価値がある。

■参考リンク
グーグル「ブック検索」和解は作家と出版社の関係を見直す好機
【必読!】「新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に」小林弘人
ブロガー必見!新世紀メディア論



■tabi後記
昨日は、カリエール:ポール・ヴェルレーヌにやられてしまったのだ。ハンマースホイ:ピアノを弾く妻イーダのいる室内の油絵の具の重なり方。あの襞感覚もスゴかった。そして、ポロック:ナンバー8, 1951 黒い流れの余白づくりに興味をそそられた。
posted by アントレ at 16:59| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0229 樫尾直樹「スピリチュアリティを生きる」

開花する明日の能力が文化をつくる
中牧:やっぱり上田さんのやってることは教育じゃない。
上田:何なんでしょうね。
中牧:梅棹忠夫先生のテーゼのひとつに、「教育はチャージで、文化はディスチャージである」というのがある。これまでの議論はその線に沿ってもいたわけですが、上田さんが考え、実践していることは、教育の現場にいるから、教育と間違いやすいけど、まぎれもなくクリエイティブな文化活動ですよ。
上田:なるほどクリエイティブな文化活動か。僕はポエティックス・オブ・ラーニングというか「学びをつくる」っていう言い方がわりと好きなんです。共につくっていくという共同性、楽しい仲間といっしょに、わいわいがやがや言いながらつくっていくというプレイフルな姿勢、これですね。
中牧:それこそ文化の創造ですよ。過去の出来事や伝統をたたき込むのとわけがちがう。
P101
樫尾直樹「スピリチュアリティを生きる」(せりか書房 2002)


本書内「スピリチュアルな場をつくる」の「プレイフル/ピースフルからスピリチュアルへ」という対談から引用しました。

教育という言葉は、「目指すべき姿と現状の姿にギャップを見出し、それを埋める手段である」と考えられることが多いだろう。しかし、そもそも目指すべき姿が教育者に見えていることは少ない。たとえ、見えていたとしても、それを教えるのは教育の使命だろうか?

Jean Piagetは「教育の使命は、子どもから創造者をつくることにあるので、世の中に適合して、よろしくやっていく人間をつくることにあるのではない。そのためには、子どもに教えてしまってはならない。子どもが自分で考え、自分でつくっていくように助けるべきである。」と語っている。

私は学習者に「もう教えられたくない!自分で学ぶ!」という気持ちをつくるために、「あえて教えにいく」という自己撞着な態度をもつことこそが教育者の姿勢だろうと考えている。学びたいだけではたりず、学び合いの促進や、学びほぐしの仕立てなども大切であろう。このように、問いは深まるばかりである。

■参考リンク
私のワークショップ未来図
上田信行 インタビュー 教育って、面白くていいんだ!
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!



■tabi後記
昨日、東京大学総合研究博物館で行なわれている「鉄 - 137億年の宇宙誌」にいってきた。入口には、「そもそも鉄という元素が、いかにして誕生したのか?」という問いがある。地球の重量の1/3は鉄。それならば「地球は鉄の惑星」と名づけてみるのはどうだろう?と提案してくるのだ。このような小粋さがあった。
posted by アントレ at 13:24| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月07日

tabi0228 池田洋一郎「ハーバードケネディスクールからのメッセージ」

ボランティアをOJT研修/CSRと最解釈したビジネス
営利と非営利の垣根をまたいでNPOと企業をつなぎ、双方の強みを活かし、弱みをサポートし合いながら相乗効果を発揮する手助けをしながら恊働へと導いていく、そんな「触媒(Catalyst)」の役割を果たすプレーヤーが必要であり、それが僕のPAEのクライアントとなったコモン・インパクトなのだ。具体的には、

・潜在力はあるけれどスキルのある人材(とそういう人を雇うお金)が足りないためマネジメントの問題に直面しているNPO

・企業経営と社会の両方に実質的なインパクトを与えるCSR活動に取り組もうと考えているが具体的なアイディアが浮かばず悩んでいる大企業

という二つのプレーヤーとの間に、「Skill based volunteering(スキル・ボランティア)」という架け橋をかけてマッチングするというサービスを展開している。P295
池田洋一郎「ハーバードケネディスクールからのメッセージ」(英治出版 2009)


彼のブログを始まりから終わりまで付き合っていた私は、本書をブログ読者の延長として楽しませてもらった。

今回取り上げるのは、Skill based volunteeringである。この考え方は、Probono,Professional Volunteer,Service Grantとも称されている。

私がこのコンセプトを知ったのはコンサルティング会社のプロボノ活動であった。しかし、プロボノを研修/CSRとして再解釈してプロボノの規模を増加される流れを知ったのは、このブログを通じてだった。

プロボノは、ロールとセルフのつながりをつくっていると思う。ロールはビジネスパーソンという仮面であり、ビジネススキルという提供技術だ。そのロールが、セルフ、一人の人間として捉えられることによって、原初的な承認欲求が満たされるのだろう。

本書にも「自分の持っているスキルが社会の中でこんなに役に立つものと知らなかった"ありがとう"と人から感謝されることがこんなにすばらしいものだとは、長年その感覚を味わっていなかった。」と描かれている。

この欲求は、バックオフィスなどのストレスフルな環境下にいる方に潜在しているのではと思う。ストレッチされた環境下では、多くのスキルが身につけると思うが、スキルを得て、「成長」した後が問題となってくる。そのスキルの宛先が中々見えないのである。

それは、顧客から直接感謝の欠如や、高度専門人材が周囲にいることによる相対的な劣等感があるためだろう。こういった環境下での不満足観が、自分自身にも及んでしまうのがメンタルヘルスなのだろう。

プロボノを行なう組織は、たいてい小さい。そういった場所では、オーナーシップをもって仕事をしなくていけない。また社外に出ていく事は、リフレクションを行なう絶好の時間なのだろう。

■参考リンク
全ての官僚の皆様に読んでもらいたい本
Key Considerations for Launching a Skills-Based Volunteer Program
PDF:Skills-based volunteerism at Deloitte
PDF:Skills-based Volunteerism Presented by: Juliana Deans–Deloitte



■tabi後記
国立西洋美術館にいってきた。何がすごかったかというと、ロダンとカリエールに壮絶したこと。そして、そして2人が繋がっていたこと。この心情は、関連書籍を読む中で記していきたい。

ロダンは、既知から未知へという驚きだった。まあ、これは良くある。しかし、カリエールはスゴい。これは何だろう。もうドカンと稲妻がおちてくるような感じだった。というよりも、稲妻をつくった自分に驚いた自分という思いだった。
posted by アントレ at 17:56| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0227 武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」

音楽の起源的な構造を想像的に志向する
<音>が肉体にならずに観念の所有となるのは音楽の衰弱ではないだろうか。この私の原則はたぶん変わるまい。が、これはあくまで観念であって、私はこれを具体的な方法に置きかえなければならない。民族学的な面から、その手段を発見するのも一つの方法にちがいない。民謡には美しいものもあるし力あるものもあるだろう。しかし私はそれに素直にはなれない。私は、もっと積極的に現代を音楽の手掛かりとしたい。現代の視点から民謡を・・・などというただし書きはまやかしにすぎない。なぜなら作者はあまりに現代を客観視しすぎる。作者が相手にすべきは真に同時代の思想や感情である。この激しいウズのなかで、おのれをいかし、それを証すことだけが正しく伝統につらなることにはならないか。P35
武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」(新潮社 1971)


武満は、<音>というものに対しては、標本箱の昆虫のように、外部の体裁だけをととのえた安直な秩序に魂を売らなかったのだろう。人間というものは何でも無いわかりきったことを疑問にしてその葛藤に巻きまれてどうにもならなくなってゆく。言うまでもなくそれは、愚かの骨頂なのであるが、この愚かさそのものが人を人たらしめている。それが、好奇心というものであろう。

彼も、既知の分類表にしたがってそれぞれ「概念」の運命をふりあてていけばよかったのだが、ふと立ち止まってしまった。そして、その立ち止まりの原因をも安易に分類しない。分類しないで居続ける「様」が、その応えになっているのだろう。彼の生活/文章がそれを物語っている。

■参考リンク
第千三十三夜【1033】
どうであれ



■tabi後記
山中俊治さんがディレクションする、「骨」展にいってきた。音の中に潜む「骨」を見出すことは、構造把握という生易しいものではないだろう。構造の裏に潜む構想。それを突き詰める精神を垣間みることができた。
posted by アントレ at 07:48| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0226 ニコラス・P・サリバン「グラミンフォンという軌跡」

ベーシックライツ・ベーシックニーズ
ある日、コンピュータのネットワークがつながらなくなって困っていたカディーアの胸に、ふとバングラディッシュの田舎にある祖父の家の記憶がよみがえってきた。戦争を逃れてひっそりと暮らした村の記憶だ。電話がなかったので、弟の薬を探すため一日かけて10キロの道を歩いたことがあった。ところが薬局に行ってみると、薬剤師は薬を入手するために村を離れており不在だった。なんというムダだ。カディーアはマンハッタンのオフィスで数時間仕事ができなかっただけで、イライラした。だがバングラディッシュは、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明して以来ずっと、電話によるコミュニケーションができず骨抜きになっている。
「私は、<つながること>はすなわち生産性なのだと気付いた。それが最新のオフィスであろうと、発展途上国の村であろうと」P42
ニコラス・P・サリバン「グラミンフォンという軌跡」(英治出版 2007)

私は、グラミン・グループが単に貧困を解消する組織とはとらえていない。グラミンフォンをはじめとする企業によって「貧困解消」が行なわれる可能性はあるだろうが、私が興味をもつのはそこではない。途上国と呼ばれる国に住む人々が、モバイルバンキング、モバイルコマースという地点から技術的な生活を送っていることに興味がある。

これからバングラディッシュは、技術的には先進国、生活的には途上国という状態が続いていくだろう。私は、このような時代に生きている・生きてしまう人間が何を考えるているかを対話してみたかった。

■参考リンク
書評『グラミンフォンという奇跡』
グラミンフォンが営利事業として成立する理由
愛の手より種籾 - 書評 - グラミンフォンという奇跡



■tabi後記
僕がバングラディッシュで問いたかったことは、すでに退屈時代における遊びとして問われていた。問いは深まっていく。
posted by アントレ at 06:22| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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