2009年09月23日

tabi0300 傳田光洋「第三の脳」

皮膚に魅了されて・・それはヒフミと一二三
視覚と聴覚の世界がテクノロジーの発達で無限に広がっても、私たちは皮膚が感じる世界から逃れられない。(中略)視聴覚が築き上げた人間の社会でも、皮膚感覚は暗黙知として大きな意味をもっています。眼で見た世界では説明がつかないことが、皮膚から考えると理解できる。皮膚が見る世界に思いをはせ、皮膚が語ることに耳を傾けることが、今の私たちに必要だと信じます。P217
傳田光洋「第三の脳」(朝日出版社 2007)


子どもの頃からタオルケットやガーゼの肌感覚が忘れられず、未だに愛用しているものが何点かある。そのような生活的事実を思うにつけ、皮膚が生命と環境との物理的境界ということを超えているのでは?と思うようになってきた。

また、DID・触覚的自我タッチアートのワークショップ経験を通じる中で、思考する素材としても「皮膚/触覚」というものへの魅力も湧き上がってきている。

書籍においても、肌感覚の良い本,悪い本が存在する。ページのしなやかさや、古本にみられる独特のやわらかさ、大型本固有の重量感など。視覚を引き算したあとに足し算されてくる感覚がある、その感覚は脳に思考だけは追いついていけないところが間々あるような気がしている。その気は、どのように思わされてしまったのか。なぜ芽生えてしまったのかと問われると、いささか言語化に苦労する。

■参考リンク
手作りスキンケアから現代思想まで
MyPlace
BOOK LOVERS Vol.250 神田昌典



■tabi後記
細々とはじめて300記事に到達しました。tabi300と「第三の脳」は若干かけてみた。笑
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2009年09月22日

tabi0299 プラトン「メノン」

「◯◯とは何か?」とは何か?
ソクラテス:とすると、君みずからの認める事柄から帰結するのは、結局、いかなる行為でも徳の部分をともなえば、それがすなわち徳にほかならないということなのだ。なぜなら、正義をはじめ、そういったひとつひとつのものは、徳の部分であると君は主張するわけだからね。
ーなぜぼくがこういうことを言うかというと、つまり、全体として徳とは何かを言ってくれというのが、僕の要求だったのに、君は徳そのものが何かを言うどころか、どんな行為でも徳の部分をともないさえすれば、それが徳であるなどと主張する。あたかもそれは、徳とは全体として何であるかを君がすでに言ってしまっていて、君がそれを部分部分に切り分けても、ぼくにはすでに理解できるはずだといったような調子だからだ。

だからね、親愛なるメノン、ぼくは思うのだが、君はもういちど振り出しにもどって、徳とは何であるかという同じ問をうける必要があるのだよーもし徳の部分をともなうすべての行為は徳であるということになるならばね。なぜならこれこそ、すべて正義をともなう行為は徳であるとという主張の意味するところなのだから。ーそれとも君には、もういちど同じ問が必要だと思えないかね?ひとは徳そのものを知らないのに、徳の部分が何であるかがわかると思うかね?P40
プラトン「メノン」(岩波書店 1994)


学習想起説に紙幅をとられており、徳の考察、及びそこから派生するイデア、イデアへ到達するための道筋については生煮えとなっている。「国家」への布石となる書籍として読ませて頂いた。

学習想起とは「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」という考えで、魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのであるというものである。

徳は教えられるものか?資質として得られるものか?というメノンの問いに対して、ソクラテスは「そもそも徳とは何か?」という問いを発していく。確かに大切な問いである。だが、この問いによってソクラテスが探求しようしたのは何だったのか?と考える。それはイデアである。この一言で片付けるのは見当違いであると思う。

そもそも「◯◯とは何か?」とは何か?、◯◯に入るのが徳にせよ、創造性にせよ、リーダーシップにせよ、本書でいうところの「たまたま降りてきたもの」なのだろうか。その事を「天啓」や「神の導き」ともいえば、「ひらめき」や「まぐれ」という言葉も宛てがわれている。

■参考リンク
メノンの問いとソクラテスの問い
プラトン「メノン」におけるメノンのパラドックスと想起説
407旅『メノン』プラトン



■tabi後記
10月はアウトプット月間にしてみようか。そのための読みだめをしておこう。
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tabi0298 ダニエル・ピンク「ハイコンセプト」

紙ナプキンに書き殴られたアイデアは掘り起こされるか?
電気照明は一世紀前には非常に珍しいものだったが、今ではごく当たり前のものである。電球は安い。電気はどこにでもある。ロウソク?誰がロウソクを使うのだろう?しかし、使う人はたくさんいるらしい。アメリカでは、ロウソクは年間24億ドル(3000億円弱)規模のビジネスである。照明用という論理的な必要性を超えたところに、最近の豊かな国々で見られるようになった「美しさや超越への欲求」があるからだ。P78
ダニエル・ピンク「ハイコンセプト」(三笠書房 2006)


本書は、左脳/右脳という分類ではなく、左脳主導思考/右脳主導思考という傾向性を提示する。そして、これからの新しい時代には一人ひとりが自分の仕事を注意深く見つめ、次のことを問う必要があると提案している。

1.この仕事は、他の国ならもっと安くやれるだろうか?
2.この仕事は、コンピュータならもっと速くやれるだろうか?
3.自分が提供しているものは、豊かな時代の非物質的で超越した欲望を満足させられるだろうか?

ピンク氏は、この三つの質問が成功者と脱落者とを分ける指標であるという。海外のコストの安い労働者にはこなせず、コンピュータが人よりも速く処理できないような仕事に集中し、繁栄の時代の美的・情緒的・精神的要求に応えられる個人や組織が成功することになる。本書は、全脳思考とも通底するテーマであり、これからの働き方にも影響を及ぼした内容であろう。

■参考リンク
雇われない働き方とは?米国にみる企業とフリーエージェントの新たな関係
『フリーエージェント社会の到来』要約
zuKao Daniel H.Pink著「ハイコンセプト」



■tabi後記
本書を読んだ頃は、イノセンティブ(Innocentive)が話題に上がっていた。アイデアと自分自身をさらけ出し、影響力と資金を受け取れるようなスポットは意外に少ない。
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tabi0297 キャロル S.ドゥエック「やればできる!の研究」

学びはギフト、それは自己を手放すことの返礼。
問題なのは、そのこしらえようとする自己ー全能で、強くて、良い自己ーがこちこちマインドセットになりがちなことだ。だんだんと、そのような固定的な資質を本来の自分であるかのように思いこみ、それを確認することで自尊心を保とうとするようになる。マインドセットを変えるにはまず、その自己を返上する必要がある。P239
キャロル S.ドゥエック「やればできる!の研究」(草思社 2008)


本書は、「自分の能力や知能に対する信念」(知能観/マインドセット)こそが、後続する学習のあり方、その後の人生のあり方を決めてしまうという説を展開する。

本書で扱う知能観は、「FixedMindset」(こちこちマインドセット/固定的知能観)と「Growth Mindset」(しなやかマインドセット/拡張的知能観)の2種類に分かれている。

「Fixed Mindset」を持つ人は、自分の能力は固定的で、もう変わらないと「信じている人」は、努力を無駄とみなし、自分が他人からどう評価されるかを気にして、新しいことを学ぶことから逃げてしまう。

それに対して「Growth Mindset」は、自分の能力は拡張的で変わりうると「信じている人」 は、人間の能力は努力次第で伸ばすことができると感じ、たとえ難しい課題であっても、学ぶことに挑戦する。

Mindset Schoolを主催する安斎さんは、Fixed Mindset(こちこちマインドセット)を「うぬぼれマインドセット」と「あきらめマインドセット」とFixedする場所によって分類されていた。

私が興味を持ったのは「本気で努力するのが怖い」という表現である。Growth Mindsetの持ち主は、潜在能力が開花するのには時間がかかるのを知っているが、Fixed Mindsetの持ち主は、一発/一瞬で「成否」を決めてしまうがあまりに、物事に本気で取り組むことを避けるという指摘である。ここには、鷲田氏が書かれている「「待つ」ということ」に関する論考と通底するものがあるだろう。

■参考リンク
キャロル=ドゥエック著「やればできるの研究」を読んだ!
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!



■tabi後記
未来が出現する瞬間を、刻々と待ち仰せている。
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2009年09月21日

tabi0296 重松清/茂木健一郎「涙の理由」

視覚を奪う涙。その危険をさらすことによって、私は何を得ようとしているのか?
茂木:今日、重松さんとお話しして、インターネットに象徴される日本、現代の流通や情報化、そういうものに対する対抗軸が涙であるという、大切な発見をしました。しかも、その涙は、安易な借り物ではなくて、自分の人生の一回だけの、生の奇跡の中で、命のパズルがカチッとはまった瞬間に流れる自分だけのかけがえのない涙です。
(中略)
重松:涙は、平穏なもの、平板なものに、突発的に生まれる、風穴みたいなものです。その風穴にも、さまざまな風穴がある、俺は、この対談で辿り着いた、「自分だけの涙」というものに、ものすごく惹かれました。小説は、宿命的に、一人でも多くの人に届けるためのものだから、最大公約数的な涙を作ったほうが、もしかしたら流通しやすいかもしれない。けれど、少なくとも物語の中の登場人物に流させる涙は、その登場人物にとっての「自分だけの涙」を流させなければいけないし、「自分だけの涙」は、読者自身の自分だけの涙にも届くんじゃないかなと、改めて信じる。信じたくなった。P248
重松清/茂木健一郎「涙の理由」(宝島社 2009)


物理学者のリチャード・ファインマンは、妻のアイリーンを亡くした時に涙が出なかったという。しかし、それからしばらくして、街中を歩いていて店のショウウィンドウの中にきれいな服が飾られているのを見て、「ああ、アイリーンだったらこんな服を着たがるだろうな」と思った瞬間に、もうこの世にはアイリーンがいないのだと気づいて、号泣したと、自伝『ご冗談でしょうファインマンさん』にある。

すぐれた映画や小説もまた、私たちを泣かせるが、自分自身の人生のさまざまな要素がそろって凝縮した時に流れる涙は、天からの贈り物であって、一つの奇跡である。それは、一生に一回訪れるかどうかもわからない不意打ち。このように語る茂木氏はこの対談の過程において、ずっと「インターネット」への対抗軸を探していたようです。

もちろんインターネットはすばらしいものであり、これからもヘビーユーザーであり続けると思う一方で、それだけでは危うい、なにかが失われると感じていた。そして、その対抗軸が、単に「身体に還れ」とか、「自然に親しめ」ではいけない、とも思っていたと語っています。

茂木氏は、カウンターポイントはそんなに簡単には見つからないと思っていたが、重松氏と向き合っている中である感触を得た。それが、さまざまなものがはまることによって初めて流される、「私の人生だけの涙」というものだったのだ。



■tabi後記
TOKYO FIBER '09 SENSEWARE展に参加してきました。
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2009年09月20日

tabi0295 中沢新一「三位一体モデル」

少子化してしまった現代
ひとつには、安定した同一性をおびた秩序をつくりだそうとする「父」の原理。もうひとつは、「霊」という増殖原理。そして、それらを媒介する「子」の原理。キリスト教では、以上の三つの原理をを組み合わせ、しかも、それらが絶対にはずれないようにした。そのうえで、この構造を、世界で起こることを理解するためのモデルにしようと考えたのです。P50
中沢新一「三位一体モデル」(東京糸井重里事務所 2006)


増殖し、不安定で予測不能な「霊」は、私たち人間の世界にかならずつきまとっています。そして、これを「神(父)」がコントロールしようとしている。神は、安定性や予測可能性の原理によって霊のはたらきを管理しようとする。

そのさい、人間の世界に、神の意思を媒介する原理が必要となってきますが、それが「子」の原理となります。科学は「父なる真実」を実験や試行錯誤をつうじて伝える「子=科学者」たちによって、「知(霊)」が知を生んで増殖してゆく。

このように、現代の「父」(超国家,宇宙)において増殖する「霊」(科学的知と貨幣(信用))を媒介する「子」が(トランスヒューマン)となっていかなければいけないのだろう。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - 『三位一体モデル』を読んだ人たちに聞きました
1048旅 中沢新一『三位一体モデル』



■tabi後記
未だ、霊と子の取り扱い方が理解出来ていない。私には、次の時代の父や霊はすでに語られているように思う。であるならば、今の時代では「悪霊」と取り扱われていることを「聖霊」と見立ててしまう「子」が必要だと思う。
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2009年09月19日

tabi0294 神田昌典「全脳思考」

新たな時の駆け抜け方-逆算から夢中へ-
私の見解では、情報社会とは、情報を収集・整理することが付加価値となる社会。それに対して知識社会とは、収集・整理された情報から生み出された新しい気づき・アイデアを実際に、行動に移すことが付加価値となる社会だ。P28
神田昌典「全脳思考」(ダイヤモンド社 2009)


逆算思考では心からの行動は生まれにくい。あなたの行動も、そして顧客の行動も。たとえ行動が発生したとしても、それは比較型の行動になってしまう。この世界に必要なのは。絶対的に指名(使命)されるような行動である。本書は、どのようにしたら心からの行動、真実の行動が発生していくのかを突き止めていく。

このような思考/発想プロセスを事例を交えて解説されているとこから読み取れるのは、真実の行動は、逆算的(数値/直線的)に現実と未来を繋ぐのではなく、夢中的(物語/曲線的)に現実と未来を混合していくことから生まれるということである(もちろん併用である)。

amazonを見ると様々な視点から評価がなされているが、私は☆が1つだろうと5つだろうと、それは重要ではないと考えている。なぜなら「評価」という行為自体をメタに見ているからだ。そのメタ視点は、本書でも紹介されている4つの思考レベル(U理論)を応用することである。

2.jpg

レベル1や2の段階(Downloading(コピペ的)Factual(事実的))でないと「量的な評価」というのは出来ないものだろう。このような視点をもつことが本書の「評価」と付き合う事であり、「評価自体」と付き合うことなのだろう。Empathetic(共感的)Generative(創造的)として理解をしている人間と付き合っていくことが、行動としての知識社会を生きていけるのではないだろうか。

■参考リンク
【スゴ本】「全脳思考」神田昌典
1247旅 神田昌典『全脳思考』




■tabi後記
今から、日本教育工学会 第25回全国大会 ワークショップ(6)障害を乗り越える(造形)ワークショップと身体・メディアの可能性:光島貴之のタッチアート・ワークショップ- 見えない学びを見えるようにするに参加してきます。
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2009年09月18日

tabi0293 ジョナサン・D・モレノ「操作される脳」

1人2役の複雑な対話 -神経科学者と神経倫理学者-
長期的に見るならば、人類がこれから辿るべき道筋は、人類の繁栄を妨げる問題の打開に向けて、建設的な手法や技術を大幅に増やし、無差別的な破壊力の増大にそういった手法や技術で対応していくというものだ。人類の合わせ持つ、破壊と建設という一見したところ相反する特質を、神経科学の力をもって、なんとかして関連づけなければならないのだ。神経系は耐え難いほどに複雑ではあるが、それをもっと深く理解することができれば、私たちは心の戦争への向かうのをやめ、魂の平和を目指せるのではないだろうか。P359
ジョナサン・D・モレノ「操作される脳」(アスキーメディアワークス 2008)


本書が紹介していくDARPA(米国防総省国防高等研究計画局)の最先端脳科学研究は、人間の脳を意図的に操作する可能性を探っている。

(1)相手の思考を読み取る、(2)思考だけで物を動かす、(3)記憶をすべて完全に残す、(4)恐怖や怒りや眠気を感じなくする、(5)外気に合わせて体温を変動させて冬眠する、(6)炭水化物型代謝を脂肪分解型代謝に切り替えてダイエットする、(7)傷を急激に治す自己治癒力を高める、(8)他人をロボットのように自在に操作する―といったこと脳科学の可能性を示す、興味深い研究事例が次から次に出てくる。

このような可能性を示しながらも、神経倫理における問いを混入させている。BMIが浸透していくことは止まる事はないだろう。反社会的な技術や思考を用意するということは、われわれ自身が技術に飼いならされないための予防的対抗措置であるのだろう。

■参考リンク
事実はSFよりも奇なり「操作される脳」
『操作される脳』――ビジネスパーソンは管理される
764旅 ジョナサン・D・モレノ『マインド・ウォーズ 操作される脳』



■tabi後記
このような本をどのように生活に反映させるかを考えている。
posted by アントレ at 22:59| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月17日

tabi0292 マンフレッド・クリューガー「瞑想 芸術としての認識」

美は思考内容・思考活動にも宿っていく
ルドルフ・シュタイナーの意味においての瞑想は、3段階に分かれています。意志を強くする沈思は、思考的な感情を取り入れた構成が前提条件になっています。つまり、意志自体には直接語りかけません。そうではなくて意識を通して語りかけるのです。意志は自我(Ich)に導かれています。それと全く同じように感情も自我(Ich)に導かれているのです。(中略)思考、感情、しそして意志はこのようなやり方で高次の認識器官へと高く変容しました。ルドルフ・シュタイナーはそれをイマジネーション、インスピレーション、イントゥイション(直観)と表現し、さまざまなやり方でそれについて詳しく明らかにしています。P16-17
マンフレッド・クリューガー「瞑想 芸術としての認識」(水声社 2007)


本書における瞑想は、只管打坐・止観駄坐することではなく、沈思、沈潜することと捉えられている。

芸術としての認識という副題にみられるように、アイデアのつくり方内面の道をミックスするような内容となっている。ミックスする際の素材になっているのがシュタイナー思想である。

彼は、思考は動きと内容によって構成されていること、それを統合するのが直観であると語る。直観は動きと内容の両輪が熟したときに花開くのだろう。そして本書では、この思考の並列的特性を練習する方法(複式練習法)が紹介されている。「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の副読本として位置づけられる。

イマジネーションは、思考の活動ではなく思考の内容に注目し、インスピレーションは
思考の内容ではなく動きに注目する。思考の動きというのは、像と像の空間の中で生じる
ものである。その後に本質が本質の中で本質自身をとらえる、イントゥイションという事象が立ち現れるのであろう。

■参考リンク
風のブックメモ
第三十三夜【0033】



■tabi後記
誕生日ということもあって、1986年9月17日の新聞を一通り眺めてみた。当時の書籍ランキングには堺屋太一「知価革命」、大前研一「世界が見える日本が見える」であった。唯一見ているテレビ番組の放送大学では、私が生誕した15:45から「日本語の語源」が放送されていた。この作業に因果めいたものをみてもいいだろうし、1つの遊びとして行なってみるのもいいだろう。
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2009年09月16日

tabi0291 ベン・コーエン /マル・ワーウィック 「ソーシャルビジネス入門」

経済活動は交換ではなく交歓ではないか
アメリカ人のほとんどが、人生にはスピリチュアルな側面があると信じている。人々が集まって企業になったとたんスピリチュアルな面は突然消えてしまうのだろうか。私たちはそう思わない。「与えたものには与えられる。種を撒けば芽が出る」という教えは、個人の生活だけでなく、ビジネスにも当てはまるはずだ。P38
ベン・コーエン /マル・ワーウィック 「ソーシャルビジネス入門」(日経BP 2009)


本書の原題は「Values-Driven Business: How to Change the World, Make Money, and Have Fun」である。「バリュードリブンビジネス」として出版をすると、「一瞬で」内容を伝えるのが出来ないと思われるが、私には原題のタイトルの方が的を得ているように思う。ここが訳書の悩ましいところなのだと考えさせられた。

さて、世の中で取り上げられる「企業」の大半が「大企業」である。それらの中には、経営の未来に取り上げられるような企業や、地球システムにおける人間圏という価値観、思考をもってビジネスを行なっているところも多少はある。では、実際のビジネスにおいて多数を占める「中小企業」は、大企業の模倣をして上手くいくのだろうか?スモールビジネスにはCSRなど関係ないのだろうか?著者は、それが違うと言う。そして、スモールビジネスだからこそ「価値観主導型のビジネス」を行なえるということを多数の事例を用いて説明していくのである。

ここで取り上げられる組織は、仕事を「志事」と捉え、バリューチェーンに志を入れることでプロフィットの先にあるものを見つめていく。彼らは、商品,サービスの交換関係だけで経済活動が終わりになるなど微塵も考えていない。人間的、精神的なつながりを取引先、顧客、パートナー社員、地域コミュニティーなどに希求するような存在なのである。

ドライな関係をビジネスに求める人にとっては、一見、暑苦しく、教条的な聞こえてくるソーシャルビジネスであるが、本書で取り上げらる事例は、クールとウォームの二面性を持ち合わせたプロジェクトデザインの集積である。

■参考リンク
社会起業に目覚める【ほぼ日読書日記 2009年8月6日】





■tabi後記
昨今、見えていないことが見えているんだよ、ということを伝えてあげるのは大切な気がしてきている。
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2009年09月15日

tabi0290 松井孝典「われわれはどこへ行くのか?」

地球に所有されるということ
たとえば太陽光の入射により海が暖まるから水の蒸発が起こります。太陽の熱を吸収し暖められて、その熱の一部を大気に運ぶわけですね。その際、大気中で水蒸気が凝結し、そのときにまわりの熱を奪って冷えて、というぐあいに、エネルギーの受け渡しもやっているのです。ですから、関係性は物質循環であると同時に、エネルギーの移動でもあるわけです。循環というか、エネルギーの流れというかは、何に注目するかの違いで、関係性という意味では同じことです。
モノが移動するわけですから、何か駆動力が必要です。その駆動力は何かというと、ここでの例の場合は明らかに太陽のエネルギーです。P34
松井孝典「われわれはどこへ行くのか?」 (筑摩書房 2007)


ASIA INNOVATION FORUM のトップバッターとして松井さんが講演されていたのが印象に残っている。彼が提起する「地球システムにおける人間圏」というコンセプトは2日間に渡って参照されていたからだ。

著者の根底には「地球システムをつくって生きているわれわれとは何なのか?」という問いがある。この問いこそが、「われわれとは何なのか?」という問いの本質に迫るものとかんがえているからだろう。そして、地球システムにおける構成要素と駆動力と関係性を明確にしながら、1つの「部分」である人間圏について論じていく。

「人類を救う「レンタルの思想」」にて、生物圏から人間圏へ移行していったプロセスを知ることが出来たが、本書は「地球環境」というものを「地球環境問題」としてではなく、1つのシステムとして冷静に論じている。

Oil Based EconomyからSun Based Economyという考え方が、ASIA INNOVATION FORUM におけるコンセンサスとなっていたが、松井さんの視点を取り入れると、人間圏が太陽系に拡張したところと見る事ができる。次はプラズマ圏や銀河系といったところへ人間圏はシフトしていくのだろうか。もしくは人間概念を変更していくのだろうか。

■参考リンク
書評 - われわれはどこへ行くのか?
2旅 松井孝典『われわれはどこへ行くのか?』



■tabi後記
未来を創る者は、いわゆるなマクロトレンドによって内的直観の優先順位を騙されていけないのだろう。そこの耐性がクリエイターには求められる。
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2009年09月14日

tabi0289 ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン(上)」

そしてブラックスワンもプラント化された
この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりする。P4
ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン(上)」(ダイヤモンド 2009)


タレブ氏は「Platonicity(プラトン化されたもの)」という用語を用い、過度に単純化させるあまりに、しばしば本質まで削ってしまう科学的なモデリングに対して批判をおこなっている。帰納にまとわりつく誤謬について何年も頭を抱えてきた人には、一般ビジネス書でこの類いの本が売れるのは嬉しいことかもしれない。

著者が指摘するように、確かに過度の単純化はモデリングにおいては致命傷である。そして、ソ連の崩壊はBlack Swanだから予想できない、911はBlack Swanだから予想できないとするのも、Black Swanの定義が「予想不可能だが、一度起きるとそのインパクトが強大で、起きた原因を後知恵解釈しかできない事象」なので、そう考えるのもありだと思う。

一方で、ベルカーブ(正規分布)批判における「単純化」という概念の「程度」について、ほとんど言及していないのが喉元を引っかかる原因となった。彼の言うBlack Swanは定性的な話で「Black Swanってあるよね、あるある」だけで終わってしまう。飲み屋において「人生って予想できないことが多いよねえ」と言っている学生の人生哲学と変わらないところが多々あるように思う。(古典的教養と文学的な表現で目を眩まされていけないのだろう)

■参考リンク
wrong, rogue and log The Black Swan
wrong, rogue and booklog
Sceptical Positivism
「ブラック・スワン」、読んだ。
ブラック・スワンとレバノン
「黒鳥」の正体 - 書評 - ブラック・スワン
ナシーム・ニコラス・タレブ「まぐれ」を読んで





■tabi後記
今日、明日とASIA INNOVATION FORUMに参加しています。
posted by アントレ at 05:58| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月13日

tabi0288 ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」

関係ないことなんてない
既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。アイデアを作成する際に私の心のはたらき方が最も甚だしく異なるのはこの点であると思う。個々の事実がそれぞれ分離した知識の一片にすぎないという人もいる。そうかと思うと、一つの事実が一連の知識の鎖の中の一つの環であるという人もいる。この場合一つの事実は他の事実と関連性と類似性をもち、一つの事実というよりはむしろ事実の全シリーズに適用される総合的原理からの一つの引例といった方がよさそうである。P28-29
ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」(阪急コミュニケーションズ 1988)


ヤング氏は、アイデアが生み出される原理として、次の2点を挙げています。

1.アイデアは既存の要素の新しい組み合わせでしかないということ
2.その新しい組み合わせを発見する才能は、事物の関連性を見いだす能力に依存すること

この原理は様々な方が述べているので、人口に膾炙している感がある。しかし、それを地で行い、アイデアメタボになっている人は稀である。著者も、この方法論を公開したからといって「世界総アイデアマン」になることはないと断言されている。

そして、以下の5ステップがヤング氏が提案するアイデアの創られる過程と方法である。当たり前を当たり前としてとらえずに熟読してみてほしい。

意識的な活動:
1.資料収集の徹底:対象に関係する特殊知識と、世間のできごと全般の一般知識を、常日頃からファイリングする。

2.嫌になるまで資料を咀しゃく:集めた事実をさまざまに組み合わせ、頭に浮かぶことを紙に書いていく。アイデアが出なくて絶望的な気分になるまで続けるのがポイントだ。

無意識的な活動:
3.問題を意識から外す:音楽を聴いたり、映画に出かけたり小説を読むといった、想像力や感情を刺激することに心を完全に移す。

4.アイデアの誕生:すると、ひげをそったりシャワー浴びているといった期待していない時にこそ、突然アイデアがひらめくという。

意識的な活動:
5.人に話しながら具体化:アイデアは心にしまわず、理解ある友人に伝えることでさらに形になっていく。

この当たり前のステップをどれだけ高速、繰り返し行なっていけるかが「アイデアの神様」と付き合い続けられる秘訣なのだろう。ポアンカレは「これまでは無関係と思われていたものの間に関係があることを発見することが美的直観である」と言っているが、この考えが具体化されたのが本書であり、その具体化したプロセスに自らを寄り添わせていくためには、自らのテーマとリラックスのポイントを実験を繰り返しながら開拓することが必要になってくると思う。

■参考リンク
アイデアのひねり出し方
意識的にアイデアを見つけ出すための5ステップ
『アイデアのつくり方』と図書館



■tabi後記
TSUTAYA TOKYO ROPPONGIに来ているが、このようなサードプレイスストアが増えていくと面白くなりそうだ。
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2009年09月12日

tabi0287 永井均「子どものための哲学対話」

遊生における指南書
人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。P63
永井均「子どものための哲学対話」(講談社 1997)

結果から逆算することで、行為決定するものには鉄槌がくだされるかもしれない。意味の追求を排し、意味から本質的に逃れるための指南であろうから。私たちは、未来の遊びための準備それ自体を、現在の遊びにすることもできることを示されている。

仕事や遊びは、ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることは一番大切だというのは、まちがった信仰なのではないだろうか。他者からの承認によって、自らの存在を規定する者は弱いものである。もちろん、他者からの承認を簡単に無視する事ができないから、難しいところである。誰しもが、心の安定所を持ち合わせながら学問をしているわけではなく、自己を直観しているわけでもない。それを嘆いても仕方がなく、自分がそうあればいいのだろうと思う。あとは流れに身を任せるのみであろうか。

■参考リンク
クオ・バディス?


■tabi後記
自由を鎖とも感じないように遊んでいけばいいのだろう。
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2009年09月11日

tabi0286 鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」

「自分」を捨てないコミュニケーション
「問題所有の原則」を心して、相手の問題を相手の中にとどめることは、本人が問題の本質の探究を推し進めていくことを可能にすると同時に、本来、自分が解決するべきではない問題を背負いこみ、ピントの外れた対処策に頭を悩ますという無駄を避けることができる。P69
鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」(文芸春秋 1999)


著者は、賛成でも反対でもない、沈黙という受容感覚にもといたコミュニケーションを示されている。それはシュタイナーが言うところの「自分自身の内なる者が完全に沈黙するような習慣」であろう。本書がユニークなのは、私たちの常識とする「コミュニケーション観」を創造的に破壊しているところだ。なぜなんら、私たちの常識とする「コミュニケーション」の大半が「非受容の態度」で成り立っていると示されるからだ。

例えば、「命令・指示」「注意・脅迫」「訓戒・説教」「忠告・解決策などを提案」
「賞賛・同意」「解釈・分析・診断」「激励・理解・同情」「探る・質問・尋問」・・・このような数々コミュニケーション態度は「非受容的な態度」なのである。なぜこれらが問題なのか?それは、このような態度には、相手を変えようとする意志が内在化されているからだという。そして、これらの言葉を発してしまう背景にある「人に対する恐れ」、この深層背景に対して著者は分析をされていく。

人に相談をするということは、少なからず相手へ依存をし、協同して問題解決をしてもらおうとする心的傾向があらわれている。そして、相談を受ける者も、共に解決をしようという態度が出てしまうものである。本書が提案するのは、それを停止することなのである。それは、相手を1人に突き放すことではなく、相手を1人の問題解決者として尊重し、それに対して「あなた」がどのような相談空間を誘うことができるか?という「愛」(成長へと誘う)の実践することなのだ。

■参考リンク
心のおもむくままに



■tabi後記
Soul Village Philosophia(ソウルビレッジ・フィロソフィア)の説明会に参加する。自分が考えていることが、当たり前のように話される環境には早々出会う事はできない。僕は自分でそういう環境をつくってきたけれど、このような学習環境が「パッケージ」として提供することは滅多にないだろう。

木戸さんをはじめとする講師陣の方々は、徹底した本質思考と言語ゲームとの戯れの中で「自己」を見出し、その探究から表出してきた内なる創造性を、ソーシャルデザインとして「企画」をされている。宇宙の根っこをとらえながら、地球の地に足をつけている人は早々いない。このような方々が存在していることを知っておくだけでも、人生は面白くなっていくだろう。笑

農と脳(生命神秘、宇宙の根源へのアクセス)(自由とは何か、平等とは何か、意識と自己とは何か、能力とは何か)支配と組織、マネーと信用、創造と企画。このようなテーマに関心があれば、講座に出るといいかもしれない。
posted by アントレ at 23:32| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月10日

tabi0285 宮本常一「忘れられた日本人」

深層としての異型
こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易ではないという感慨を述べると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌を歌うのだ。歌を歌っておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどなぁと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。P24-25
宮本常一「忘れられた日本人」(岩波書店 1984)


一般的に、村里生活者は個性的でなかったといわれている。だが、現代のように口では論理的に時代や自我を語るけれど、私生活や私行の上では、むしろ類型的な者を多く見られるのに比べて、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が多かったのではないか?著者は、そのような「忘れられた異型」に気付かさせてくれる。

本書が描いている世界は「無文字社会の日本」である。つまり、語られてきた日本、あるいは記憶の中の日本といえるだろうか。文化には「記録の文化」と「記憶の文化」という分け方がなされることがおある。

記録の文化は文書・絵巻・建築となり、しっかりと歴史の一時期を告げているものをいう。それは、解読可能な文化である。一方で記憶の文化は、語り継がれ、身ぶりとして継承されてきたものである。漠然とし、語りをする者たちのあいだには食い違いがあったりする。したがって、様々な語りをつなげ、そこからある種の「流れ」を引き出してくる必要がある。著者はそういった語りの束を、1つの「生活誌」として編集することが民俗学のつとめであると考え、実行にうつされたのだろう。

■参考リンク
第二百三十九夜【0239】2001年2月28日
解雇されたので起業します
DESIGN IT! w/LOVE 忘れられた日本人/宮本常一
[掲載]誠Biz.ID書評23号は『忘れられた日本人』



■tabi後記
文字にはなっていない異型の振舞いは、どこにあるのだろうか?この国にはないかもしれない。この球の陸や海やネットワークの中に潜んでいるのだろうか。この時代における「世間師」は実体をもちあわせていないのかもしれない。
posted by アントレ at 13:25| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月09日

tabi0284 佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」

IC(Interdependent Creator)というワークスタイル
ノマドについて、ここでいったん整理して定義し直してみましょう。

第1に、ノマドは本質的にフリーランサーです。会社と社員の契約を結んでいるかどうかという形式的な問題ではなく、その精神において。自宅にいようが、カフェにいようが、あるいは公園のベンチであっても、どこでも仕事ができるからこそノマドなのです。

第2に、ノマドは、パーマネントコネクティビティで動いています。オフィスという場所に押し込められているから仕方なくつながっているのではなく、自分から望んで仲間や友人、家族、同僚たち、そして仕事ともしっかりとつながっているのです。

第3に、ノマドはアテンションをコントロールする人たちです。セルフコントロールができてこそ、ひとりの場所でも仕事を完璧に仕上げることができるようになります。

第4に、ノマドは鍛え上げられた情報強者です。顧客や同僚とのメールやメッセンジャーのやりとり、そして業務分野における膨大な専門情報まで、こうした情報を自由自在にコントロールする力を持ってこそ、自由なワークスタイルを実現させることができます。P30
佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」(光文社 2009)


今までは、IC=Independent Contractor(独立請負人)という言葉が主流であった。だが、この言葉を嫌悪する人もいた。

そこで「請負ではなく、創造する人なんだよ」という意味を込めて、IC=Independent Creator(独立創造人)という言葉を用いる人もちらほら出てくることになる。フリーエージェントやクリエイティブクラスも、そのような流れではないかと理解していた。そして、本書で扱われる「ノマド」というスタイル。

この言葉には「Independent」(独立)ならぬ「Interdependent」(共立:オープンコラボレーションという意味をのせて)というニュアンスが込められています。Independent Contractor(独立請負人)からInterdependent Creator(共立創造人)へ。

このようにまとめてしまえば、ただの言葉遊びに過ぎない。本書で紹介されているガジェットやアプリケーションをつぶさに観察/実験することで、自らにマッチするスタイル(アテンションコントロール法)を紡ぎ上げていく。それこそが大切になってくる。

■参考リンク
Be Free, at Home - 書評 - 仕事するのにオフィスはいらない
明日のノマドに開放された窓〜ノートPCとiPhoneで自立と自律を手に入れる
フリーランスはどこへ向かうのか? - 僕のフリーランス学



■tabi後記
21世紀の歴史」に言及しているのも興味深かった。それにしても早朝のスターバックスは快適である。Mac Bookはバッテリーの持ちがいまいちだけれど、電源がない環境では、それが制約になって作業がはかどります。
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2009年09月08日

tabi0283 竹村真一「地球の目線」

たまたま(球・魂)この星に生まれて
グローバリズムとは、国際社会が一つに結ばれることではなく、宇宙のなかの一個の球"globe"として地球を認識し、その一つの球体をシェアするコミュニティの一員として自「分」を認識することだ。(中略)そして、ここでの主題はメディアでもコンピューターでもなく、あくまで「人間」ーすなわち私たち自信のあり方、私たちが地球やそこに住む他者とどんなコミュニケーションを持ちうるか?という「関係のデザイン」である。P228
竹村真一「地球の目線」(PHP研究所 2009)


私たちは地球の上に立っている。だが、少しだけこの「球」の目線に立ってみれば、この球は「地」よりも「水」によって覆われているがわかってくる。この球が自己を称するとしたら、地球よりも水球と呼ぶのではないだろうか。

earth-1.jpg

そして、この膨大な水が優れた地に暮らす者にとっての保温材となり、緩衝材となり、生命を育む稀有の安定した環境を創出しているのである。

竹村氏は、水に祝福された惑星としての「チキュウ」とそこに暮らす「ニンゲン」との関わりを、水/エネルギー/食料という視点から提案している。そして、本書に含まれる提案には、この惑星には本来エネルギー問題など存在しないという前提が存在している。

なぜなら、この惑星には膨大な自然エネルギーが潜んでいるからだ。そして、その自然エネルギーの元手は太陽にある。(ここで、この惑星は太陽系に存在していることに視点が移行される)

Sun_in_X-Ray.png

800px-Solar_sys8.jpg

上昇気流生み、その空隙にまわりから空気が流れ込むことで風が吹く(風力発電)も、地表の水を山の上まで空輸され、雨が降り、川が流れる(水力発電)のも、海洋温度差、光合成(バイオマス)なども、この無料の自然サービスの賜物であるという。このような好都合な真実に気がつくことから、新たな未来が想像されるのだろう。

■参考リンク
Earth Literacy Program
東京も適度に水没して自然に返るくらいが丁度いいんじゃあないかって思っているんですけれど。笑
地球大学 第93回最終回「地球環境とグローバル・メディアの未来」村井純



■tabi後記
globeの認識として、触れる地球地球時計などが登場してきたのだろう。
posted by アントレ at 12:56| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

tabi0282 アニリール・セルカン「ポケットの中の宇宙」

宇宙は馴染みのもの
いま日本に暮らしていて、僕がラクにしていられるのは、日本人が宗教をあまり問題にしないからです。これは大事なことで、世界の中で日本が最も心地よく感じる理由で、それが間違いなく日本のよいところです。もちろん、日本人にしても宗教心が薄いわけではなく、人々の気持ちの中には仏教や神道の教えがあるようです。とはいえ、それは人の邪魔をしないものなです。P18
アニリール・セルカン「ポケットの中の宇宙」(中央公論新社 2009)


あなたのポケットの中には何がありますか?

家の鍵、免許書、iphone、財布などなど、色々なものが入っていると思います。著者は、はじめの中で「わたしたちにとって宇宙はいかに馴染み深いものなのか?」と語ってくれます。それが「ポケットの中の宇宙」というタイトルに結びついたのでしょう。

本書は、宇宙に関する話題だけではなく「水」と「エネルギー」と「食料」をメイントピックとして論じています。そして、彼の自伝を交えながら、空気スタンド、爪携帯、IT戦争、ゴミ問題というアイデアをエッセイとしてまとめているのです。

私が、このエッセイを読みながら感じるのは、「無」と「唯今(ただいま)」という考え方です。(これは彼が好きな漢字のようです。)セルカンは「無」と「唯今」という言葉に、ラッセルの世界五分前仮説、エヴェレット多世界解釈で論じられているような背景をこめているように感じました。

■参考リンク
アニリール・セルカン
アニリール・セルカン特別講演、世界にはおもしろい人っているもんですなあ。



■tabi後記
20年後はすぐにやってくる。振返ればとてつもない変化をしていると思うが、変化のただ中にいる者には、それが馴れになってしまう。クレイジーパワーが必要なのかもしれない。
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2009年09月06日

tabi0281 ヘッセ「シッダールタ」

汎知の鼓動を確かにするとき
「おん身は賢い、沙門よ」と世尊はいった。おん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きいに賢明さを戒めよ!」仏陀は歩み去った。そのまなざしと半面の微笑は、永久にシッダールタの記憶に刻みつけられた。P39
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


読自者の記した書物である。それは「ヘッセの読書術」を実践していった者の記録である。

自分を読もうと欲する者は、あらかじめ予想した意味のために、記号と文字を軽蔑する。そして、彼らにとって悩ましきは「時間」であった。
よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい!私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びととはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない!罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほかしかたがないとはいえ。ーいや、罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンだよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。P142
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)

一回性への賛美に寄り添ってしまう、一瞬という忘却性。それは記憶となり、文字となり、言葉となり、己を周囲を縛っていく。それが記憶というものに付帯する拘束性と影響力であろう。覚者が悩むべきは時間であった。その悩みから解脱することこそが、読自の旅なのである。
それは知っている、ゴーヴィンよ。気をつけるがよい。その点でわれわれは意見のやぶの中に、ことばのための争いの中に巻きこまれている。愛についての私のことばがゴータマのことばと矛盾していること、一見矛盾していることを、私は否定できない。だからこそ私はことばをひどく疑うのだ。この矛盾は錯覚であることを、私は知っているからだ。私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあろう!いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦にみちたながい生涯をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあろう!P146
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


シッダールタとカマーラとの対話では、静かな避難所を自身の内部にもちあわせてることが、賢き者の条件とされているが、本書の最後には、その避難所すら消えていることに気がつくだあろう。それは「全て」が避難所となされることと、避難をする必要もない心性をもつことの同時性の確保といえるだろう。

■参考リンク
50歳までに読んでおいてよかった本?
230旅 『シッダールタ』 ヘッセ
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
有機的なつながりとは何か?接触時間、頻度、対話の質、いずれでもない気がする。一度たりとも会ったことがなくとも、互いが何をしているか知らなくても、感じてしまう情報はあろうだろうか。我々は、何につながれていないのか、そして、何がつながれる必要があるのだろうか。
posted by アントレ at 20:19| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月05日

tabi0280 ブラフマン/ベックストローム「ヒトデはクモよりなぜ強い」

頭を殴ったら死ぬか?
クモの頭を切り落としたらそのクモは死ぬ。企業の本社機能を破壊したら、おそらくその組織は壊滅するだろう。だからこそ、暗殺者は一国の大統領を狙い、軍隊は国の首都を攻撃するのだ。ミズーリ州の平凡な男、ジョーの命が危険にさらわれることはたぶん、ない。
ヒトデ型組織には切り落とすべき頭がないことが多い。スペイン軍がアパッチ族のナンタンを殺すと、次々に新しいナンタンが登場した。ビル・Wなき後も、アルコホリックス・アノニマスは広がり続けた。レコード会社がなんとかイーミュールの創業者をつかまえても、そのサービスにはなんの影響もなく、続いていくだろう。P50
ブラフマン/ベックストローム「ヒトデはクモよりなぜ強い」(日経BP社 2007)


本書に太字で記載されていた箇所を写経する。クリティカルに眺め、自分の言葉へ持っていこう。

「分権組織における8つの法則」

1.分権型の組織が攻撃を受けると、それまで以上に開かれた状態にあり、権限をそれまで以上に分散させる。
2.ヒトデを見てもクモだと勘違いしやすい。
3.開かれた組織では情報が一カ所に集中せず、組織内のあらゆる場所に散らばっている。
4.開かれた組織は簡単に変化させることができる。
5.ヒトデたちは、誰も気づかないうちにそっと背後から忍び寄る性質がある。
6.業界内で権力が分散すると、全体の利益が減少する。
7.開かれた組織に招かれた人たちは、自動的に、その組織の役に立つことをしたがる。
8.攻撃されると、集権型組織は権限をさらに集中させる傾向がある。
 
「ヒトデとクモの見分ける10の質問」

1.誰かひとり、トップに責任者がいるか?
2.本部があるか?
3.頭を殴ったら死ぬか?
4.明確な役割分担があるか?
5.組織の一部を破壊したら、その組織が傷つくか?
6.知識と権限が集中しているか、分散しているか?
7.組織には柔軟性があるか、それとも硬直しているか?
8.従業員や参加者の数がわかるか?
9.各グループは組織から資金を得ているか、それとも自分たちで調達しているか?
10.各グループは直接連絡をとるか、それとも仲介者を通すか?

■参考リンク
ヒトデはクモよりなぜ強い | EXDESIGN
分散化とは「問題にかかわる者を意思決定に参加させること」
『ヒトデはクモよりなぜ強い』 「ヒトデ型」をありのままにとらえる
嫉妬が生みだす公正な社会
書評 - ヒトデはクモよりなぜ強い



■tabi後記
出会うための言い訳(良い訳)をつくってあげるのが大切だなと思う。
posted by アントレ at 08:17| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月04日

tabi0279 老子/小川環樹 訳「老子」

老子とリバタリアニズム
第三章
賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗(ぬすびと)為(た)らざらしむ。欲す可(べ)きを見ざらば、(民の)心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹(ふく)を実(み)たさしめ、其の志を弱くして、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知ある者をして敢えて為さざらしむるなり。無為を為せば、則ち治まらざること無し。


もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるであろう。もしわれわれが手にはいりにくい品を貴重とする考えをやめるならば、人民のあいだに盗人はいなくなるであろう。もし(人民が)欲望を刺激する物を見ることがなくなれば、かれらの心は平静で乱されないであろう。それゆえに、聖人の統治は、人民の心をむなしくすることによって、人民の腹を満たしてやり、かれらの志(のぞみ)を弱めることによって、かれらの骨を強固にしてやる。いつも人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知識をもつものがいたとしても、かれ(聖人)はあえて行動しないようにさせる。かれの行動のない活動をとおして、すべてのことがうまく規制されるのである。
老子/小川環樹 訳「老子」(中央公論新社 2005)


この章は愚民政策を説いているのではない。老子は、徹底した不干渉主義の政治が人民にとって最もよい政治だと説いているのである。

私たちは、中国を理解する際に、やたらと儒教「論語」を重んじるが、訳者の小川氏は「儒道互補」を説かれている。それは、儒教「論語」と道教「老子」をセットにして中国を理解することである。

内面に確立した道に基づき「治国平天下」を目指す儒家思想を理想主義と形容するならば、自己の外側の道に随順することによって、あらゆる境遇を甘受する道家思想は、現実主義と呼ぶことができる。中国の人々は、この両者を自己の中に併存させながら、状況に応じていずれかを依るべき価値観として選びとり生き抜いていてきたことを理解する必要があるのだろう。

■参考リンク
『老子』老子 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
In Defence of Negative Value



■tabi後記
無事、大学卒業が決まりました。とらわれものなく「道」に従っていこう。
posted by アントレ at 13:59| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月03日

tabi0278 澁澤龍彦「胡桃の中の世界」

ミクロコスモス・スコア
実際、『胡桃の中の世界』はリヴレスクな博物誌のようなもので、私はここで、幾何学的なイメージや石や動物や各種のオブジェや、あるいはシンメトリーや螺旋やユートピアや庭園や小宇宙などといった、気に入りのテーマを飽きもせずに語っている。(中略)ひたすら原型を求め、イメージの結晶を求めていた私だったが、いまや、それをロマネスクにふくらませることに楽しみを味わっているというわけだ。P283-4
澁澤龍彦「胡桃の中の世界」(河出文庫 2007)


本書は「人類の〈結晶志向〉の夢の系譜」を一冊に封じこめた奇想の博物誌と評されている。冒頭には「石の夢」というエッセイが収められており、プリニウスの「博物誌」からはじまり、ガストン・バシュラール「大地と休息の夢想」、ロジェ・カイヨワ『石の書』、さらには『和漢三才図会』まで渉猟し、興味深いエピソードを掘り起こしていく。

その中でも印象に残るのがアタナシウス・キルヒャーの『地底世界』である。

6059287.jpg
地球の断面図 A・キルヒャー『地底世界』1664年

この図について澁澤氏は、以下のように説明している。

一六六四年にアムステルダムで刊行された『地底世界』、それまでの多くの資料を集大成しているが、それだけではなくて、広範囲な一つの宇宙開闢説となっているところに第一の特徴があった。キルヒャー独特の筆触で描かれた地球の断面図が挿入されていて、それを眺めると、地殻の内部で燃えている火は、細い運河のような数多の裂け目を通り、火山となって地表に噴出している。鉱物も金属も、この燃える地殻の内部から自然に生じるということが示されているのである。地球は一個の有機体であり、自然は人間のように考えたり行動したりする。澁澤龍彦「石の夢」


イエズス会士であるキルヒャーは、すべての現象の背後に神の摂理を見いだしている。自然界において奇蹟を起こすのは常に神の力であり、天に新しい星が生まれるのも、石の中に形が生じるのも全ては「神の力」だという。現在の自然科学とは相反するが、このような神秘主義的解釈は中々面白い。

並行してナシーム・ニコラス・タレブ「ブラックスワン」を読んでいる。そうすると「プラトン的知性」という言葉に敏感にならざるを得ない。2つの書籍で、プラスマイナスを往還することになるからだ。

タレブ氏はマイナスの語尾をもって「プラトン的知性」を語っているが、澁澤氏は神秘的な「プラトン的知性」を面白がっている。双方の知性を併せ持ちながら「黒い白鳥」について語っていくことが必要かもしれない。

■参考リンク
[澁澤龍彦]「異端の肖像」「胡桃の中の世界」「エピクロスの肋骨」



■tabi後記
航海には地図がいる。さて、そもそも「その地図」をつくった人は、どうしたのだろうか。おそらく、大まかな予測を片手にもちながら航海をはじめたのだろう。そして、もう一方の手で地図をつくっていった。
posted by アントレ at 23:39| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月02日

tabi0277 池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」

否定する自由 -リベットを超えて-
僕らがいまここで、重要な結論を手にしたことに気づいてほしい。僕らにとって「正しさ」という感覚を生み出すのは、単に「どれだけその世界に長くいたか」というだけのことなんだ。つまり、僕らはいつも、妙な癖を持ったこの目で世界を眺めて、そして、その歪められた世界に長く住んできたから、もはや今となってはこれが当たり前の世界で、だから、これが自分では「正しい」と思っている。そういう経験が「正しさ」を決めている。この意味で言えば、「正しい」か「間違っている」かという基準は、「どれだけそれに慣れているか」という基準に置き換えてもよい。P111
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


人は、錯視をはじめとする錯覚をまざまざと見せつけられると、脳の活動こそが事実、つまり感覚世界の総体であって、実際の世界における実在すると思われている「真実」に懐疑的になっていく。

池谷氏は、そのような脳(人間設計)のでたらめさについて、ゲシュタルト群化原理、パターン・コンプリーション、サブリミナル、方法記憶、バイアス(様々な信念(記憶))といったテーマを用いながら、我々にとっての正しさとは、好きと馴れ程度のものでしかなく、日常生活は作話(意味のでっち上げ)に満ちていると物語っていきます。

そして「我々には自由意志はあるのか?」という問いを高校生に発しっていくのです。池谷氏は、リベットの受動意識仮説を紹介したあとで、自由"否定"論を展開していきます。

手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かしたくなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。この構図は決して「自由意志」ではないよね。自由意志と言ってはいけない。「準備」から「欲求」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。勝手に動かしたくなってしまう。そうじゃなくて、僕らに残された自由は、その意識をかき消すことだから、「自由"意志"」ではなくて「自由"否定"」と呼ぶ。P282
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


私は、ここに、絶対否定即絶対肯定という考えを垣間みた。

■参考リンク
単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイト
池谷さんの本を読む
NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」
「脳をハックする」ための最高の入門書――『単純な脳、複雑な「私」』



■tabi後記
すっかり秋になってきました。
posted by アントレ at 14:08| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月01日

tabi0276 北野幸伯「隷属国家日本の岐路」

脱せず、入らず、いかにして立つか
日本のリーダーたちはすでに、無意識のうちに「次の依存先」を探しているのではないでしょうか?「日本は将来、中国に併合されるのではないか?」日本には現在、二つの道があります。「真の自立国家になるか」それとも「中国の天領になるか」。P23
北野幸伯「隷属国家日本の岐路」(ダイヤモンド 2008)

北野氏は、1980年代末「ベルリンの壁が崩れるのを見て」高校卒業後、モスクワ国際関係大学に入学。それ以来、ソ連崩壊からプーチン時代までをつぶさに見てきたようだ。

本書は、防衛面だけではなく、経済・軍事・食糧・エネルギー・教育というトータルな視点で自立国家への戦略を描いている。そして、日本が真の自立国家になるためには、以下のことが必要であると語っている。

・経済の自立(内需型経済・財政の黒字化)
・軍事の自立(自国は自国で守れる体制つくり)
・食糧の自立(自給率100%)
・エネルギーの自立(自給率100%)
・精神の自立(日本の歴史・文化を重んじる教育)

ルーブル、人民元、ユーロの台頭により、ドル=基軸通貨という常識が綻びをみせはじめている。このままの流れでいくと、中国の国力が世界一に近づき、アメリカの財政赤字も本格化(=基軸通貨でなくなること)すると北野氏は考える。

次に「そのような環境化で、日本の国力(経済力と軍事力)を高めるには、どのような外交(国益の確保)を行なっていけばいいのか?」という問いに対して、国益とは「金儲け」と「安全の確保」であるとした定義し、日本が財政破綻を起こさないための施策を論じていく。

施策内容に慧眼たるものは垣間みることは出来ないが、個人が国家を選ぶ時代 が前提とされているのは興味をもてる。「いかに日本は空洞化を起こさずに、人、企業、金を呼び込むことが出来るだろうか?」北野氏は、法人税、所得税のフラットタックスを提案する。

人の呼び込みというテーマは、少子化と共に語られることが多いが、彼が移民として招くのは、いわゆる「3K移民」ではなく「日本人が尊敬出来る外国人」を対象にされている。もちろん、日本にシリコンバレーをつくろう!という安易な移転構想にも類似するところがあるのは否めない。

■参考リンク
ロシア政治経済ジャーナル
シリコンバレーをはるかに超える、世界一のイノベーション都市を、日本に作る方法



■tabi後記
ポストデモクラシーやソーシャルキャピタルに関する専門書を何冊か読んでみたが、特別な示唆や構想を感じられなかった。あなたが考え出せ、というメッセージだと勘違いしている。
posted by アントレ at 22:34| Comment(2) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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