2009年11月21日

tabi0321 内田樹「子どもは判ってくれない」

開かれた身内

タイトルは「子どもは判ってくれない」にしましたが、以下は「大人は愉しい」と「知に働けば蔵が建つ」からも抜粋しています。

「街場の教育論」,「14歳の子を持つ親たちへ」,「ビジネスに「戦略」なんていらない」なども関連する書評となっていると思います。

今回は保留にしましたが、「日本辺境論」を読んだ際には「内田樹」さんについては論じてみたいと思います。

鈴木さんと話していていちばんスリリングなのは、私が「自分の個性」であると信じていたもののうちのかなりの部分が、「同時代的状況のしからしむるところ」であり、それに含まれないものだけが、ぎりぎりの「自分のユニークさ」だということが分かるからです。
(中略)
「おれはだんぜんこう思うんだよね」と断言するときの「思い」のうちの、どれほどのものが「状況」や「風土」や「階級」や「ジェンダー」や「ハビトゥス」に起因するものであり、どれほどのものが「おれ」自身に由来するものであるのか。それを考えると、なかなか「論争」なんかできやしません。P27-8
内田樹/鈴木昌「大人は愉しい」(筑摩書房 2007)


「他者の痛みを知れ」というような言葉は、いま政治的な場面においても一種のクリシェとなっています。「おまえは他者の痛みが分かるのか?」というようなかたちで政治的恫喝を加える人に出会うと、私はいらだちを覚えてしまいます。「他者の痛み」はその前ではいかなる政治的な大義名分も無効になるような、ある種の「逃れの町」のような原理として語られるべきものではないでしょうか?
(中略)
私が戦後責任論者に対していだく違和感は、「他者の痛み」から政治的価値を演繹するという手法そのもののうちにある種の「倒錯」を感じるからなのです。むしろ「他者の身体の痛み」は政治的価値を相対化してしまうものではないのでしょうか?P50


同学齢かどうかをモノサシにして、江口は「ホッと」したり、「シット」したり、態度を変えている。つまり、学齢が違う集団は、彼が自分の仕事の質を査定するときの参照項としてあまり意味を持っていないのである。
(中略)
自らの位置を知るために、もっぱら同学齢集団を参照し、年齢が上下に離れている人々は「競争」の対象として意識されない傾向。私はこれを「江口寿史現象」(勝手に名前を借りてすまない)と名づけることにする。P42
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


正論家の正しさは「世の中がより悪くなる」ことによってしか証明できない。したがって、正論家は必ずや「世の中がより悪くなる」ことを無意識的に望むようになる。
「世の中をより住みやすくすること」よりも「自説の正しさを証明すること」を優先的に配慮するような人間を私は信用しない。
私が正論を嫌うのはたぶんそのせいである。P81
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


人間の多面的な活動を統合する単一で中枢的な自我がなくてはすまされないという考えが支配的になったのは、ごく最近のことだ。「内面」とか「ほんとうの私」とかいうのは近代的な概念である。
知られるとおり、「内面」は明治になってはじめて出現した。(文学史の教えるところでは国木田独歩の「発明」である)。だから、江戸時代の侍にはもちろん「内面」なんかなかったし、当然にも「アイデンティティ」なんかありはしなかった。P89
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


「今の自分の考え方」は「自前の道具」のことである。ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。P104
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


例えば、「国家は幻想である」と断定する人々がいる。まことにご高説のとおり、たしかに国家は幻想である。しかし、「国家は幻想だ」と説く思想家も、その理説をアメリカの大学で講じるために飛行機に乗るときには「菊のご紋章入りのパスポート」を携行することを忘れない。
「貨幣は幻想だ」と断定する人々もいる。まことにご高説のとおり、たしかに貨幣は幻想である。しかし、そう書いたはずの思想家が、ご高説を開陳した書物の印税収入の受け取りを拒否したという話を私は寡聞にして知らない。
「幻想である」と言うことは簡単である。
しかし、「幻想である」とこちらがいくら断定しようとも、当の「幻想」は何の痛痒も感じることなく、相変わらず繁昌し続けるのはいったいどうしてなのかという、より困難な問いに答えることはたいへんにむずかしい。P131
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


Kさんの要約によると、「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
(中略)
それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。P194
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。P330
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


おおかたの人は誤解しているが、ニートは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。彼らは資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。
あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義的思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが、資本主義の名において、論理の経済に従って、「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するように至ったのである。P33
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


私たちが問題を立ててそれに解答するというのは「問題を解決できることが暗黙裏にはわかっているが明示的にはわかっていない」状態から「明示的にわかった」状態への移行という時間的現象なのである。
私たちは「解答できることがわかっている問題」しか取り扱うことができない。けれども「解ける」ということは飽くまで「暗黙裏に」わかっているすぎないのであって、解いてみせるまでは解けるということは明証的にわからないのである。P159
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


■参考リンク
横浜ほんよみ生活
体系的な知識とは
愛読書・・・内田樹氏「子どもは判ってくれない」







■tabi後記
今夜は、渋谷慶一郎 × 平野啓一郎対談を聞きにいってきます。
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2009年11月20日

tabi0320 小島寛之「使える!経済学の考え方」

数学を信じられるか、ではなく、数学に信じられるか
ぼくは次第に、彼らとの議論を時間の無駄だと感じるようになりました。彼らの希求する「自由」や「平等」というもの自体は、とてもうるわしく、手放しで「入信」してしまいたい気持ちにはなるのですが、頭の別の側では、何の論理的な支柱もない議論への警報が鳴り響きました。論理なく無批判に信じることを自分に許すと、危険で暴力的なでたらめな思想によってマインドコントロールされてしまうことになりかねない、高校生ながらそういう強い警戒心が芽生えたのです。

それ以来、ぼくは「自由」、「平等」、「正義」といったものを議論することを自分に封印してきました。封印していることさえも忘れるほど長い年月にわたって遮断していました。ところが、プロの経済学者として、ピグーやハルサー二やセンやギルボアやロールズの議論に出会って突然、心に貼られた「魔よけのお礼」がはがれることになったのです。とりわけ、ハルサーニやギルボアのように、完全に数理的な研究者だとみなしていたい学者が、その背後で「平等」の問題を解こうという気概を持っていたことは、新鮮な驚きでした。P232-233
小島寛之「使える!経済学の考え方」(筑摩書房 2009)


・なぜ経済学を学ぶ者が、数学を学ばなくてはならないのか?

その問いに対する真摯な応答が示されている。そして私は、この真摯なる応答によって経済学を学ぶことを辞めようと(とりあえず)決めた。何も私がやる必要はない、という積極的な意味においてである。

経済学は、GDPを「幸福」そのものと捉えていると思われている(思われがちである)。けれど、私が知る経済学者たちは(少なくとも書物においては)、そのような安直姓をもちあわせてはいない。

彼らは、幸福=お金ではないことを当然視したうえで、この2項においてオーバーラップする「部分」もあるので、一旦は代理品としておこうというコンセンサスを持っているのである。(とはいえ、そのコンセンサスが一旦の留保であることを絶えず参照することは、多大な認知的負荷がかかるので、留保は忘却の彼方にいってしまったりもする・・)

このような前提を持った上で、経済学は幸福を効用で測ることにしたのである。効用関数とは「特定の個人の内面」に依拠するものであって、すべての人間に共通のものだとは仮定されていない。効用という概念が発生したのは、19世紀後半にメンガー,ワルラス,ジェボンズらによって「モノの価値とは何か」という問いが発せられたからであろう。

それまで、この問いに対しては、労働価値説や生産費説などがコンセンサスとなっていた。彼らはそのような環境下で、限界効用(及び、限界効用逓減の法則)を見出したのである。

限界効用とはもう一歩外に踏み出すと仮に想定したときに消費が与えるはずの効用のことである。もちろん、限界費用逓減の法則が、効用の個人主義性に関しては保留とされているが、それを差引いたとしても発展モデルを提供したという意味で「歴史」がはじまった。

いささか回り道となってしまったが、私が経済学を学ぶことを辞めようと思ったのは、著者が「なぜ、経済学では数学を用いなければならないのか?」という問いに対して書かれた3つの理由に全面的に同意したからである。そして、納得感をもってしまったからこそ、辞めようと思った。

・数学は、非常語(情緒性の低い)を用いるので、人の情動のようなものを適度に遮断し、冷静な思考を促す。

・数学は、少なくとも理想状態では成立するような例を与えることができる。

・数学は、論証されれば、形式論理上では誤りがないことが確認される。

私には「形式論理上で」という箇所に違和感がある。ゲーデル,ヴィトゲンシュタイン,クリプキなどの仕事を参照するまでもなく、私は数学というものへ信仰を持ち合わせることはできていない。この部分は、岡潔・小林秀雄「人間の建設」,野崎昭弘「不完全性定理」,十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」にて多少の体験的告白をしているので参照頂きたい。

■参考リンク
数理は有利 - 書評 - 使える!経済学の考え方
小飼弾さんの書評に恐れ入るの巻
恐怖のリフレー・ザ・グレートの巻



■tabi後記
久々に安斎ゼミに参加してきた。発想が湧き上がる。6章/最終章が必見である。貨幣保有から得られる効用は、モノを買うことに対して、買うタイミング、何を買うといったことを留保することができるという効能、それが流動性の効用である、と解釈した。
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2009年11月18日

tabi0319 茂木健一郎「脳の饗宴」

統計描写に誠実であること/現象への補助線/前提原理のメス
「反応選択性」の概念は、ニューロンの活動の特性を特徴づける上では、それなりの有効性を示してきた。その一方で、そもそも、神経細胞の活動からいかにして意識を生まれるのかという第一原理にかかわる問題においては、「反応選択性」とその背後にある統計的アプローチはほとんど有効性を持たない。
その本質的な理由の一つは、統計的手法の基礎となっている「アンサンブル」概念が、意識を生み出している神経細胞ネットワークの構造的、因果的な拘束条件を反映していないという点にある。P21
茂木健一郎「脳の饗宴」(青土社 2009)


港千尋、渡辺政隆、布施英利、池上高志・郡司ペギオ-幸夫との対話が纏められている。茂木氏のラディカルな問題意識が存分に展開されている。中でも、茂木健一郎/池上高志/郡司ペギオ-幸夫「意識とクオリアの解放」が刺激的な対話だった。

池上氏がリベットの実験(触覚刺激のほうが脳への直接刺激よりも先に感じること)を例に挙げて「物理学で言うところのエンピリカル・サイエンスと脳科学で言うところのエンピリカル・サイエンスというのは違うね。カウンター・ファクチュアル(反事実的)なものを扱えるところとか。」という提起から、生命/意識の本質へ迫り始める。

茂木 世界がどうしようもない形で進行してしまっているという事実はあって、それを記述するのは物理主義でかなりうまくいっている。だからどうしようもない形で世界が進行してしまっているという事実を、どういう風にお前のモデルが引き受けているのかがわからない。P218

郡司 留保というのは、さっきも言ったように、ある個物を自明な個物であると知ることと、「わたし」が指定しているんだということとが、両義的にあること。前者をaと書くと、後者は{a}と書けて、つまり要素と集合の混同を意味している。でも両者の差異は、決して要素を集めるという複数性に依拠しているわけじゃない。複数性や別の可能性、他でもあり得たという提示の仕方ではなく、個物を指しながら、個物の外部に言及すること、それが留保だと思う。P222


郡司氏は、外部が(別の可能性が)、アクセスしやすいという問題と、常に問題を解決する方法がアクセス可能(オープンエンド)というのは次元の違う問題で、後者は生命の本質だと語っている。

統計的描写に限界を感じながらも、その記述された現象をどのように還元するか(補助線)を引くかという「ダーウィン的」仕事や、「留保性」という際と際の中に潜みながら構造把握につとめていく姿勢を垣間みることができた。

■参考リンク
茂木健一郎 クオリア日記
Another Heaven



■tabi後記
先週からプログラミング(PHP/Processing)を習い始めた。これが最後の挑戦になると思う。
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tabi0318 若松英輔「井筒俊彦-東洋への道程」

地球化における円柱たりえる思考
プラトンは『国家』で詩人を追放した。芸術を憎んだからではない。哲学の祖が拒んだのは悪意ある虚構だ。詩人は啓示の通路でなくてはならない。詩人が自分を語り始めるのに忙しく、天啓の伝達者という任を忘れたとき、詩人は「共和国」から追放された。
現代、追放されるのは詩人ではない、哲学者ではないか、『神秘哲学』を読むとそんな作者の声が聞こえてくる。古代ギリシアにおいて「彼らはいずれも哲学者である以前に神秘家であった」と井筒俊彦はいう。彼がいう神秘家とは、瞑想者のことでも神秘論者のことでもない。啓示と理性の間に生き、自らを世界に捧げ尽くす人間にほかならない。
そんな彼が、詩霊の声に耳を傾けることなく、哲学者を研究しているというだけで、ためらいなく自分を「哲学者」と呼ぶ人々と同じ意味で、自身を哲学の徒だとは認識していなかったとしても、超越との繋がりを遮断した営みを哲学だと認めていなかったとしても訝る必要はない。P105
若松英輔「井筒俊彦-東洋への道程」(「三田文学」2009冬季号)


三田文学の井筒俊彦特集が入手困難のため、藤沢さんにお借りして読了しました。井筒氏のエッセイも関心をそそられたが、「読むと書く」の編者をつとめられている若松英輔氏の文章には刺激を受けた。

グローバリゼーションというワードを「地球化」という言葉に翻訳し、その言葉を井筒氏の文脈に落とし込むと、新たな地平が開けるような思いがした。引用文でいうところの、啓示と理性の間の生きるための言葉として解することが出来たからだろう。

短期間ながら東南アジアに「武者修業」に行き、表層面における普遍性/異質性を存分に感じた。しかし、私が切実としたかったのは旅の行程で何度も読んだ「意識と本質」と、この目の前に立ち上がっている「どうしようもない存在分節」との重ね合わせであった。重ね合わせでも無いか、溶け合わせであろうか。そもそも、この違和感の解消方法自体への模索であり、その方法を希求する構造への関心であった。

これから「意識の形而上学」「読むと書く」を創造的に誤読していきたいと思う。その後に、私法による私見を示してみたいと思う。本書は、そのための契機を与えてくれる冊子であろう。

■参考リンク
839旅 井筒俊彦『語学開眼』



■tabi後記
本業と副業(明日の夢/今日のパン)に曖昧ながらも分別を持てるようになったのは大きい。
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2009年11月17日

tabi0317 阿部公房「他人の顔」

仮装と仮想
人間の魂は、皮膚にある・・・文字どおり、そう確信しています。戦争中、軍医として従軍したときに得た、切実な体験なんですよ。戦場では、手足をもぎとられたり、顔をめちゃめちゃに砕かれたりするのは、日常茶飯事でした。ところが、傷ついた兵隊たちにとって、何がいちばん関心事だったと思います?命のことでもない、機能の恢復のことでもない、何よりもまず外見が元通りになるかどうかということだったのです。P29-30
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


45年前に突きつけられたテーマは今もカタチを変えて伏在している。心理的/社会的アイデンティティーとなるものは、脆いものか、操作性があるのか、適応されるのか、いかにして飼いならすのか。これはZEN/SEX/LSD/BMIと連環してくれるテーマであろう。

むろん能面に、ある種の洗練された美があることくらい、ぼくにだって理解できないわけではなかった。美とは、おそらく、破壊されることを拒んでいる、その抵抗感の強さのことなのだろう。再現することの困難さが、美の尺度なのである。P82
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


1つの方途として「美」へ着目しているのだが、よくある「美の礼賛」とは違った視点を与えているように思われた。その差異は、礼拝性から破壊性へのずらしであり、浸透性から弾力性へのずらしもであると思う。

でも、もう仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。とうとう尻尾を出してしまいましたね。仮面のことではありません、あなたのことです。仮面は、仮面であることを、相手に分らせてこそ、かぶった意味も出てくるのではないでしょうか。あなたが目の敵にしている、女の化粧だって、けっして化粧であることを隠そうなどとはいたしません。けっきょく、仮面が悪かったのではなく、あなたが仮面の扱い方を知らなさすぎただけだったのです。P267
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


表皮における「仮」性と「真」性の対比から、裏皮における仮と真へ移動していることは着目したいが、私の中で妻のメッセージは「No meaning」である。理由を語れる地点は立てていない。無意味なのではなく、無・意味なのである。

■参考リンク
Taejunomics 安部公房、他人の顔。



■tabi後記
このBlogは「言語スタイル」を試行するための場所にしようと思っているので、しばらくは「分かりやすい」とは到底言えぬ記事が多くなると思います。
posted by アントレ at 22:19| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0316 プラトン「国家」

彼は望んだ。思惑を排した真実を観る者を。
人々はこう主張するのです。― 自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。

これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは、けっして積極的な善としてではなく、不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。げんに、それをなしうる能力のある者、真の男子ならば、不正を加えることも受けることもしないという契約など、けっして誰とも結ぼうとはしないであろう。そんなことをするのは、気違い沙汰であろうから。P106-7
プラトン「国家(上)」(岩波書店 1979)


永井均「倫理とは何か」で言及されていた「国家」を読み通した。トラシュコマスとグラウコンとソクラテスの対話には「幅」がある。この振り幅をプラトンが演出していると考えると、彼の記述技術への関心が湧き上がってくる。

上下巻を通じて「正義とは何か?」という論点について対話がなされていたわけであるが、その論点は政治的主張の中に立ち消えになってしまったと思われる。プラトンが政治的身体をまとってしまった背景には「ソクラテスの死」という壮絶な思考要請が潜まれているのであるが・・。やはり、その経験が残ってしまっている。思惑として。

ギュゲスの指輪に対する応答の弱さに比して、哲人政治の教育プログラムへの熱の注入から、社会契約の根拠と哲人が政治家にならねばならぬことへの論理的な徹底が不足しているように思われるのだろうか。

そこでもし彼が、ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして、もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら、どうだろうーそれは彼の目がまだ落着かずに、ぼんやりとしか見えない時期においてであり、しかも、目がそのように馴れるためには、少なからぬ時間を必要とするとすれば?そのようなとき、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上へ登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を開放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?P100
プラトン「国家(下)」(岩波書店 1979)


彼が背負った「ソクラテス」はここに表出する。洞窟の比喩。これは自らの体験的告白でらい、洞窟自体への嘆きでもあったのではないだろう。

洞窟は常識であり、識を常としてしまう、人間の恒常的認知性への承認と伴に、そこを逸脱したいという哲学的反逆心の萌芽であろうか。

■参考リンク
ITTOKU TOMANO’s Website
第七百九十九夜【0799】
永井俊哉ドットコム





■tabi後記
2400年前に使われていた「イデア」は、4段階くらい底が深いのかもしれない。彼は観えていたことは想像できるだろうか。
posted by アントレ at 13:17| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0315 中村元「龍樹」

相依性という企画
縁起は常に理由であり、空は常に帰結である。無自性は縁起には対しては帰結であるが、空に対しては理由である。すなわち縁起という概念から無自性が必然的に導き出され、さらに無自性という概念からまた空が必然的に導き出される。「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけの順序は定まっていて、これを逆にすることはできない。P242
中村元「龍樹」(講談社 2002)


著者は、従来西洋の諸学者はこの「中論」第二章をみて、ナーガールジュナは運動を否定したと評し、ギリシアのエレア派のゼノンの論証と比較をしていたことを紹介する。そして、両者の論理を詳細に比較するならば、類似を認めることは困難であると語る。その根拠として、ナーガールジュナは自然的存在の領域における運動を否定したのではなく、法有の立場を攻撃したことをあげている。

龍樹(龍猛菩薩)は、法有(説一切有部)ではなく法空を説き、無常の中に潜む恒常(形而的有)をも攻撃の対象に当てていった。

我々は「〜がある(ない)」という形式の規定と、「〜である(ない)」という存在の規定を、言語志向性としてもちあわせている。形式/存在、肯定/否定を連立させていくと、「がある(ない)」こと「がある(ない)」、「である(ない)」こと「がある(ない)」、「がある(ない)」こと「である(ない)」、「である(ない)」こと「である(ない)」という16種類の規定がある。私は、このマトリクスをどのように扱っていくかが、1つの言語技術であると思ったのである。

■参考リンク
第千二十一夜【1021】
414旅 中村元『龍樹』



■tabi後記
旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのであろう。
posted by アントレ at 12:43| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

tabi0314 岩田慶治「道元との対話」

自分の中の秘密を点検していくこと
自分自身にとっては、人類学のフィールドワークと『正法眼蔵』の探究とは、やはり、別のことではなかった。私にとっては、異民族と異文化のなかで経験をつみ、それらについてしらべることが、もう一冊の『正法眼蔵』を読むことであった。フィールドワークがそのままで私の座禅であった。(中略)私はフィールドワークにしたがいながら、異国の山河大地、草木虫魚が、そして人間生活の諸相が語りかけてくる問題を、自分で納得のいくように解こうとしただけである。P7
岩田慶治「道元との対話」(講談社 2000)


23日間の東南アジア生活の最初3日間をこの本で過ごしていました。

手足などの「かたち」にこだわらずに、闇となっていく自分を座禅と人類学の視点から内省した本となっている。

つい最近まで、調査地でのベットの具合など考えたこともなかった。しかし、心身のやすらぎ、やすらぎのなかでの発想ということの問題性に気づいた途端に、さまざまな民族のなかでの経験が、一挙によみがえってきたのである。昼の、右往左往している自分ではなくて、夜の、しずけさのなかの自分。あれも知りたい、これも知りたいと知の探究にまぎれこんでいる自分ではなくて、自分自身の内部に自己解体をとげて自分というものの輪郭を失おうとしている自分、その自分の方がほんとうの自分に近いのではなかろうか。そこからの発想の方が、机を前にして、ねじり鉢巻で、無理矢理に考えだされた理屈よりも真実に近いのではなかろうか。そう気づいたのである。P24
岩田慶治「道元との対話」(講談社 2000)


このような発狂と興奮の最中に知が萌芽してくるのだなあと我事ながらに読み込むことが出来た。Blogにしたためるほどに言葉が浮かんでこないでいる。

私が本書から得られた視点は、私の秘密を点検していく作業には幾多の道筋があること。その道筋に真実になること。そして「而今の山水は、古仏の道現成なり」という言葉において生活するということ。この3点であると思う。

■参考リンク
ぼくらは少年演出家



■tabi後記
地理的に移動することが「他人の関心(一番インパクトあったことは?,カルチャーショックは?といった質問群!)」を集めるのはなぜなのか?そして、日常から、そのような関心を集めていないのは何故なのかということだろう。
posted by アントレ at 15:00| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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