2010年01月18日

tabi0336 伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」

旅は日常か非日常か、それとも。
世界一周をよく「自分探しの旅」などと表現する人がいる。
私はこの「探す」という言葉が女々しく嫌だった。

「自分探しするくらいなら、理想の自分を思い描いて、それに向かって『自分作り』したらいいのに」などと、屁理屈をいつも頭の中でこねていた。

そんなアンチ・自分探しの私でも、この旅行で新たに自分の嫌な部分や、逆に柔軟な部分を発見したのかもしれない。

不本意ながら、世界一周は究極の自分探しだったんだと思う。自分を探していたというよりも、自分自身とずっと対話していた。P214
伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」(ポプラ 2009)


コンテクストが変わることによって開示されるコンテンツに察知しやすい体づくりが最近の関心だったりします。〈変化〉は巨視、微視、意識、無意識に起こり続けていますから(その「起こり続け」もまた同様である)、彩度/精度/強度をもった<思考>をしていくために旅というものを活用している。さて次は自分の体をどこへ投げやろうか。

本書をこのような文脈で読みすすめていったときに思ったのは「自分」が限定的な世界にいること(そして「いてしまったこと」)の自覚と、◯◯としてもあれたかもしれない自分の自覚(とはいえ、◯◯としてあっていることの自分)、この2つの振り子の中に佇む「自分」を探求することが旅なのではないかということです。

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3ヶ月前に旅にまつわる10の名言(といわれるもの)に対峙することで、「旅」という言葉にチューニングテストを行っていました。

以下には、納得するもの、首をひねるもの、理解不能なものがあると思いますが、各自で「旅」という言葉と距離感をはかってみてほしい。その立ち位置を記憶し、半ば忘れ去りながら考えてみるといいかなと思います。

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人生とは旅であり、旅とは人生である
中田英寿


旅というものには、条件があるんです。それは「戻ってくる」ことです。戻ってこなかったら、「蒸発」と呼ばれてしまうでしょう。ですから、「どうやって戻ろうか」をずっと考えながら旅をすること、それが旅なんですよ?
三浦じゅん


旅するおかげで、われわれは確かめることが出来る。たとえ各民族に国境があろうとも、人間の愚行には国境がない。
ブレヴォ


旅の最大の悦びは、おそらく事物の変遷に対する驚嘆の念であろう。
スタンダール 


辛い時もあるさ。でも独りになるには、旅が一番だからね。この間も話したように、僕は孤独になるために旅をするんだ。長い間の孤独の生活から、春、このムーミン谷に帰って来た時の喜びは…なにものにもかえがたいものだよ。
スナフキン


旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
ブッダ


ウチは田舎だったから郵便局にハガキを買いに行くのさえも『旅』だったよ。
リリー・フランキー


ロバが旅に出かけたところで馬になって帰ってくるわけではない。
西洋のことわざ


「旅」にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと。
リルケ


旅の本当の意味は、俗な言葉だが「自分を発見する」ことにある。
山下洋輔


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10月に1ヶ月ほど東南アジア(タイ/カンボジア/ベトナム/ラオス)へ、先日まで2週間ほど上海近郊(上海/南京/蘇州/杭州/紹興)へ足を伸ばしていました。時折考えていたのは「旅」に非日常性をもたせることでも「日常」を美化するためでもなく、自然なものとして旅をとらえたいということです。

中田さんは、人生は旅という非日常性を醸し出しながらも、その旅は人生であるという日常への着地を表現されています。そこに「人生/旅」の二重性をみるのは難しくないでしょう。

三浦さんの言葉には、童歌「とおりゃんせ(通りゃんせ)」にある「行きはよいよい 帰りは怖い」に類似する趣きを感じます。

「どうやって戻ろうか」というのは、どこに戻ろうかという話しではなく、どのような体裁をつけようか/どの面下げて帰ろうかという話なのかもしれない。バックパッカーが背負っているのは、荷物ではなく出発としてきた場所/関係なのだろうか。

ブレヴォ/スタンダールは、文化,言語,時代が異なるにつれて普遍性と特殊性への嗅覚が鋭敏になることを強調しているのだろうか。これは旅の非日常化を試みているように思う。

スナフキン/ブッダは、旅をある目的にしている。前者は一人になるためであり、後者は師をみつけるためであると。私には、一人になることと師をみつけることは表裏にあると思っている。それは、無私になるというコインにのせることによって。

リリー・フランキー/西洋のことわざには、旅の日常を垣間みることができない。リリーさんには、距離/無人という変数が組み込まれると旅が成立するという前提がある。

そしてことわざには、何が人を変化させるのか?という逆説的な問いと、そもそも変わったというための「差分」どり自体に不可能性をみているのではないか?これは時間という概念への問いであろう。

リルケ/山下洋輔は、シンプルであるが、一定の納得を得られる言葉ではないだろうか?

■参考リンク
本当の修学旅行
【必見?】はあちゅうの世界旅行記が半端ない件



■tabi後記
そもそも「旅」という言葉をチューニングしようと思ったのは、

・旅で一番のトラブルは何だったか?
・旅で一番インパクトのあったことは?
・旅でカルチャーショックだったことは?
・旅が終わって、次に何をしていくのか?
etc..

そもそも「旅」にいくと、こういったことが問われるのは何故なのか?と思いはじめたことが契機でした。そして結論をいってしまえば、こういった質問を浴びることが常であるような生活をする必要があるなあと思いはじめたのです。

それは、他人のアテンションを振り向ける言動や情報発信をしていくということではなく(結果的にそうなってしまうのだろうが)、旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのでしょう。
posted by アントレ at 16:54| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月13日

tabi0335 クリス・アンダーソン「フリー」

有料からの逃走、およびフリーのコストについて
ほとんどの起業家は、需要な価格弾力性が常に存在することを前提にしています。つまり、売るものの価格を下げれば下げるほど、需要が上がるはずだと考えます。これが罠なのです。彼らは、「月々わずか二ドル」というビジネスプランを用意すれば、収益チャートが右肩上がりになるはずだと期待するのです。

しかし、実際は売上げを五ドルから五◯◯◯◯万ドルに増やすのは、ベンチャー事業にとってもっともむずかしい仕事ではありません。ユーザーになにがしかのお金を払わせることがもっともむずかしいのです。すべてのベンチャー事業が抱える最大のギャップは、無料のサービスと一セントでも請求するサービスとのあいだにあるのです。P84
クリス・アンダーソン「フリー」(日本放送出版協会 2009)


クリス「フリー」は商売根性を奮い立たせるという意味において良書であり、無料の正当化に与する書ではない。社会に新たな価値/文化を問いながら持続性(収益性)から逃げずに事業運営をしたい方は読んでみてほしい。

ここでいう「フリー」というのは、マネタリーコストにおける無料であり、心理コスト、エネルギーコスト、タイムコストなどが「フリー」になっていると主張するわけではない。

非貨幣市場における「フリー」は評判と注目を得るために行為する人々にもとに成立している。個人的には「「有料」であったという知覚態度を獲得するためにどうするか?」という視点を深掘っていく契機になりました。

■参考リンク
価格を捨てる勇気
「無料」だからこそ「最高品質」になりえる<無料>の逆説





■tabi後記
南京、蘇州、杭州、そして紹興と移動してまいりました。到るところにマクドナルド、KFC、スターバックスが待ち構えています。
posted by アントレ at 19:30| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0334 ロン・ロバート「ダイアネティックス」

ロン・ロバート「ダイアネティックス」(new era 2000)の要約を掲載する。

存在のダイナミック原則とは、生存せよ!である。

生存には4つの領域が存在し、これらの領域は生存のダイナミックと抑制力の比率によって左右される。

生存のダイナミックは、自己(とその共生体)、セックス、集団、人類によって規定されており、これらは生存的な行動様式という。

生存の絶対的目標は、不滅、すなわち無限の生存である。

人間はこの目標を、さまざまな形で追い求める。一個の有機体として、または精神、名前、子供、自分が属している集団を通じて、あるいは人類と子孫、自分の共生体、さらには他の人々の共生体を通じて追い求めるのである。

人間の心は、四つのダイナミックのすべてにのっとて知性を発揮する。
知性は問題を認識し、提起し、解決する能力である。

しかし、ダイナミックと知性は、エングラムによって抑制される。

エングラムとは、肉体的な苦痛あるいは感情的な苦痛と、その他すべての知覚を含む「無意識」の時間であり、分析心が経験として利用できるものではない。

再刺激とは、現在の状況がある状況と似ているために、その過去の記憶に対する反応が引き起こされること。リターンという想起能力(反応心)が分析心を乱しているとするならば、その乱れている「7」を取り除く必要がある。(この「7」の意味することは本書で確認頂きたい)

それが反生存と同情のエングラムである(ソニック、ノンソニック、ダブインによるチェーン)、この逸脱された状態からクリアになることを目的とされた思考の科学がダイアネティックスである。



■tabi後記
80%書き終わっている書評が何個かあるので、それをアップしていこう。
posted by アントレ at 16:47| Comment(1) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0333 ジョナサン・コット「奪われた記憶」

私たちの記憶はなぜ存在するのだろうか?
あなたはなぜ、私たちが本来の真の自分を忘れているとお考えなのでしょうか。また、どうしたら私たちはそれを思い出せるのでしょうか。

M(トマス・ムーア)グノーシス主義的な質問ですね。グノーシス主義者たちは、心は彼方から地上にやってきた後、自分たちがどこからやってきたのかを忘れてしまうと言っています。ですから彼らはこう問います。私たちはどうしたら思い出せるのか?どこに兆候があるのか?グノーシス主義者たちは、私たちは時どきメッセージを受けとると言います。夢は、私たちの記憶の、私たちが本質的に何者であるかということの源であるという人もいます。そして、それは何千年もの間、問われてきた問いなのです。P178
ジョナサン・コット「奪われた記憶」(求龍堂 2007)


「ショシンタブレ - 0からやりなおしたろう - 」

planA-syosinsya.jpg

こんなタイトルで妄想企画書もどきを書いたがことがありましたので添付しておきます。

概要:

この習慣っていつ身についたのかな?

あなたは、そんな思いを抱いたことがあるだろうか。


どうして歯を磨けるようになったのだろう?
どうしてがゴミ箱にゴミを捨てるようになったのだろう?

ショシンタブレは、あなたが抱いた問いにこたえてみせます。

そのためには、
あなたにとって当たり前になっていることを消してしまう必要がある。


それがショシンタブレが提供するサービスです。

詳細:

ショシンタブレは、記憶をリセットするのではありません。

習慣消去によって生じるであろう、初心。


その初心がありもしない方向へ帰着するのを見守るサービスです。

私たちは初心者志望の味方です。

歯をみがけなくなったら、あなたの生活は歯みがきに挑戦する生活にかわります。人は習慣に飼いならされ、それが出来なかったときへさかのぼることが出来ないようです。

ショシンタブレはそれを可能にしようと思うのです。

あなたが歯みがきだけが抜け落ちた生活をするとどうなるのだろう?

記憶は消しても、体が覚えているかもしれませんだがそれもまた新たな発見でしょう。
そのような発見こそが、ショシンタブレたる者の試みなのです。


開発責任者談話:
情報を蓄えることによって選択の習熟・成熟を計っていこうとする世の中の流れにのりたくない。この天の邪鬼さだけが開発の起点でした。MIB社が志しているのは未熟への道です。もはや未熟でもないのかもしれない。行為が欠落したまま生活は行なわれるかもしれないから。

■参考リンク
極東ブログ [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)



■tabi後記
MIB社は粛々と成長しているようです。21日のゼミには潜ってみよう。
posted by アントレ at 15:58| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

tabi0332 レーニン「帝国主義論」

「帝」「国」の止揚。帝はどこへ?国はなにへ?
一般的に、あらゆる定義の意義は、条件付きで相対的なものである。したがって、定義に頼るばかりでは、ある現象が完全に熟した段階で周囲とどのような結びつきをもつかを全面的に把握することはできない。そのことを承知した上で、帝国主義の五つの特徴を含んだ定義をすればよいだろう。

(一)生産と資本の集中化が非常に高度な発展段階に到達し、その結果として、独占が成立していること。
(二)銀行資本と産業資本が融合し、その「金融資本」を基盤として金融寡占制が成立していること。
(三)商品輸出ではなくて資本輸出が格段に重要な意義を帯びていること。
(四)資本家の国際独占団体が形成され、世界を分割していること。
(五)資本主義列強が領土の分割を完了していること。

帝国主義とは、特殊な発展段階に達した資本主義のことである。その段階に至ると、独占体と金融資本の支配が形成され、資本輸出が際立った意義を帯びるようになる。また、国際トラストが世界分割を開始し、資本主義列強が地球上の領土の分割を完了する。P175
レーニン「帝国主義論」(光文社 2006)


93年前に本書が予言したことは現在の世界で起きているようにみえる。内容を一言でまとめるなら「肥大化した金融資本が世界を分割支配し、国家を動かす」というもの。

だが、レーニンがみていた20世紀初頭の帝国主義は、産業資本主義によって蓄積された資本が工業や農業として植民地に投資されるもので、そのためには領土の再分割が必要だったが、現代の帝国循環はアウトソーシングなどの形で行なわれるので、領土を奪う必要はない。この意味で、ネグリ=ハートのいうように、現代は帝国主義ではなく「帝国」なのかもしれない。

この新しい「帝国」の特徴は、資本が工場のような直接投資に限らず、投資ファンドによる企業買収のような形で、収益最大化を求めて世界中を駆け巡ることだ。日本の資本効率の低い企業がねらわれるのは典型例である。

■参考リンク
レーニン『帝国主義論』と現代世界
産業資本主義と金融資本主義
なぜ資本主義はいつも国家独占的なのか
新帝国主義論



■tabi後記
上海日誌:

初日の昼は、ステイ先の近くの韓国料理(ING)へ行きました。復旦大学と上海財経大学の学生が頻繁に利用するお店で、25元で豚肉の甘辛炒め+白米を堪能した。375円なので結構高めでした。同様の物はコンビニ(LAWSON)で8元です。

この近辺は何千人規模で留学生寮があるため、彼らをターゲットにした商売が盛んである。例えば、 MTB/ロードバイクを販売する店が構えてある。

ボロい商売の構造へ迫っていきたい。GIANTが一台2000元ほどで売られている。原価70%と仮定すると、1日3台/30日営業で54,000元の粗利になる。賃貸料は8000元ほど、人件費は2名を10時間常駐させても6000元の人件費(10元/H)なので、40,000元の利益になる。

この形式で3店舗経営をすれば、15万元ほどの月間利益になる。商材を化粧品やバックを変えて、月に3-5万元ほどの収入を得る中卒や高卒の方々が相当程度いると考えられた。3万は日本円で45万円、物価を反映させると120万円/月くらいの感覚であろう。

上海市内の主要大学は、復旦大学と上海財経大学と上海交通大学と上海大学であるが、他にも専門学校のような大学が20個ほど出来上がってきている。中国の大学進学率は20%であるから、大卒者は珍しいことになる。

ただ、中国人の見方としては「大学生は将来有望ですね!」というものではなく、新卒でも5000元ほどの収入しか得ることができなく、就職口が確保するのも危うい状況なので、中学/高校を卒業し引越業者/タクシー運転手などの職で7000元ほどの収入を得ている者が多くいると聞く。

上記重労働の旨みについて考察してみる。中国のタクシー運転手は、タクシー会社から1台を2名でレンタルする。24時間勤務を交代交代でこなしてく勤務体系だ。営業費用は、1日あたり420元で、ガソリンと洗車は個人負担であるから、損益分岐は500元あたりである。

初乗りが12元なので、50人(平均20元)ほど接客をすれば500元/日ほどの利益になる。月15日勤務で7500元の収入である。客数でいくか、単価でいくかは運転手次第であるが、上海浦東空港から市内まで150-200元なので、往復3回こなせば7500元は稼げることになる。

次は風俗のケース。サービス体系は本番あり/なしの2ラインになっており、価格は150元/50-100元と分かれている。多くの方は150元コースを採用していますが、売春がバレたら重罪は必至である。店主と公安で取引関係が出来ているので、摘発されるずに済んでいる。

私が取材をしたところは、取り分は店主が6割、女性が4割になっていた。私が話しをした店主は人柄が大変良い方だった。収入を推察してみよう。仮に4割の取り分だとしたら1行為で60元になる。

20日勤務で1日5人の相手が出来るとすれば6000元の収入になる。生活する上で、ギリギリのお金である。私の友人が「あなたを買うとしたら、いくらでいいですか?」と聞いたところ3500元/月で十分ですと答えたという。過酷な労働環境における嘆息をきいた気がする。

タクシーと地下鉄を駆使し、様々なところに行ってきた。中でも印象に残ったのは、新天地と田子坊である。両者とも数十店舗が密集した1つの「町」のようになっている。前者は、欧州資本が主導で、後者は日本資本が主導である。

田子坊は密かに有名になりつつあって店の半分以上が日本人オーナーである。前者は観光スポットと非常に有名であり、新天地周辺の土地価格の高騰ぶりがすごかった。恐らくオフィス用だと思うのだが、200平米で1000万元ほどであった。

5年で投資コストを回収するには16万元(240万円)/月で貸さないといけない。現地でお会いした学生は、6000元で同じ広さのマンションをシェアしているらしいので、外資系企業をそそのかさないと難しい価格帯かもしれない。

次は中国の大学入試です。大半は、高考の点数で決まるといっていい。日本でいうセンター試験のようなもの。この点数は後々まで影響を及ぼすようです。彼は◯◯省で3番の成績だったなど、まるで日本の国家公務員1種試験のようです。

中国の大学(復旦大学しか存じないが)は記憶重視型のテストが多いため、地名や人名などを中国語で覚えることに留学生は苦労する模様。反対に、記述型のテストになると、物事を考えるという側面で留学生が優位になるようです。

北京、清華、復旦の学生は中国語、英語、第二外国語(日本語が多い)のトリリンガルが大半です。文理を問いません。これから会う子も三ヶ国語に、高度なプログラム技術を持ち合わせています。背景としては、卒業要件としてTOEIC900クラスの英語が必要とされていることが挙げられます。

日本では詰め込みの是非が問われることが多いですが、主体性なき詰め込みのおかげで、数百万人のトリリンガルが出来上がっていることの脅威を感じました。創造性の重要さを噛み締めながら、私が中国語/英語に十分な能力がないことに多少苦渋しております。

話しは戻りますが、ここ最近の復旦大学留学生でも、MARCHを辞退して、こちらへ留学するケースは2,3人のもようです。大学から海外留学をするとなると、80%程度はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどの英語圏への留学でしょう。

その中で私は、非英語圏への留学が高まることのではと考えています。フランスやドイツや韓国などではなくインド(英語)や中国(中国語)やアフリカ諸国(フランス語)、南米諸国(スペイン語)などです。

日本の大学に進学する時点で将来は危険である。日本の大学は内容ないのに、学費や生活費は高いから行きたくない。どうせ留学するなら成長が期待できる新興国/途上国へ早期関わっていきたい。日本語と英語は出来て当然であり、もう1つの言語を身につけるために留学をしていく。このように思っている高校生がいるんじゃないかと思いつつあります。

最後に日本人留学生についてです。彼らの98%は消去法で中国へ留学に来ているようです。主観的統計なので、信憑性は期待しないで下さい。主に、ISI国際学院や鴎州などが斡旋をしているため、中国/九州地方(山口、福岡、広島など)から上海に来ている学生が多いです。関東出身者は長野県の子がいたくらい。

3年前までは、日本人で復旦大学に入るのは偏差値50前後の人たちが主だったようです。当然ながら大学の勉強についていくことが出来ずに、基本的には5-6年間通う人が大半のようです。

蛇足ですが、海賊版DVD(24やプリズン・ブレイク)が格安で手に入るため、生活リズムを崩してまでDVD中毒になってしまう人が多いとか。また、東京のように学外活動をする人がとても少ないようです。

そもそも中国の学生は勉強(GPA)が第一のため、単位で必要なインターンシップを除いて、外部で自己研鑽するという習慣がない模様です。さて、話しは戻りますが、ここ最近の復旦大学留学生は、MARCHを辞退して、こちらへ留学するケースが多くなっているといいます。

大学から海外留学というと、80%程度はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどの英語圏への留学でしょう。その中で私は、非英語圏への留学が高まることのではと考えています。

フランスやドイツや韓国などではなくインド(英語)や中国(中国語)やアフリカ諸国(フランス語)、南米諸国(スペイン語)などです。日本の大学に進学する時点で将来は危険である。日本の大学は内容がないのに、学費や生活費は高いから行きたくない。

どうせ留学するなら成長が期待できる新興国/途上国へ早期関わっていきたい。日本語と英語は出来て当然であり、もう1つの言語を身につけるために留学をしていく。このように思っている高校生がいるんじゃないかと思いつつあります。

以上、色々と雑記しましたが、みなさまの知識/経験に照らし合わせて訂正/追加すべき箇所がありましたら、教えてください。それでは出掛けてきます。
posted by アントレ at 12:26| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月02日

tabi0331 竹内靖雄「国家と神の資本論」

「無」政府(政府を感じさせない)のために何ができるか
文明にふさわしい「良い政治」は、「民の害にならぬことをする政治」であり、もっと正確にいえば、それは「民の害になることをしない政治」を意味する。民主主義であるというだけの理由ですぐれた政治であると思うのは根拠のない迷信であろう。P51
竹内靖雄「国家と神の資本論」(講談社 1995)


オバマ氏は大統領就任演説で「我々の政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、それが上手く働いているか」という表現をされていたが、上手く働くというのは、ある事業仕分け人の力が優れていることでもなければ、戦略提示することでもない。さも「無」政府(政府を感じさせない)かのように振舞うことである。それがWorkしている証拠。

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話しは変わるが、日本は高齢者比率25%(4人に1人)という社会が実現されようとしている。平成20(2008)年では高齢化率が最も高いのは島根県で28.6%、最も低い沖縄県で17.2%となっている。このまま、医療技術の進歩と過剰医療で寿命がさらに延びると、やがて高齢者の割が3人に1人(2035年)、2人に1人(2060年)となる時代が来るだろう。

社会はこのような老人大国が到来することに憂鬱になっているようだが、どのようにして問題を先送りせずに解決/予防するかが大切である。対処する変数としては、もっと人がたくさん死ぬようにして平均寿命を大幅に引き下げるか、子供をたくさん生んで若年人口の比率を高めるかする以外にない。前者は論外であるとされ、後者も非現実的であると思われている。

では、この課題にアプローチしていくか。以前このテーマを考えていたときに浮かんだのが、「死を受け入れる欲望をもちやすい社会」という前者へのアプローチであった。そこで「楽死」ということ概念が考案された。

詳細は機会があれば話すが(それは、関連する書に出会ったときであるが)、この言葉で私が提案したことは「高齢者」のパラダイムを変換ということであった。後期高齢者という年齢による「老」のズラシではない。愛され老人になることでも、要介護認定されることでもない。介護と育児の同時性、介護と学習の同時性という一石二鳥の仕組みをつくることであり、医療行為の尊さを消失させることであった。

ここで考えたことは、先日話題になった琴坂さんの記事に色濃く反映されている。この記事では「では、どうするのか?」というところは書かれていないが、その問いにこそ起業家は応えるべきなのだと思う。それは政策でも言論でも構わないけれど、事業をもってして応答する者が待たれている。

国という固まりの上に存在する、企業という固まりに取って有益な人材は、国ではなく企業に優遇される。強い国に所属しそれに認められ続ける人材は生き残る。世界に認められる「お金」という力を持つ人々は、それが世界の成長にあわせて成長していくことで、特に日本の衰退に影響される事は無いのである。かれらにはそれほど大した問題(少なくとも死活問題では)ではない。
構造的に不可能に等しい挑戦


そもそも、日本に生まれただけで、大した努力もせずに楽しく暮らせると思っている若者は、世界を見て、貧困を肌で感じて、そこから這い上がろうとしている自分たちと同年代の若者の力と、情熱と、信念に触れるべきとも言える。

毎日15時間労働して、ろくに楽しみもせずに、月に5万円もかせげず、しかもその半分以上を家族に送金しているような若者が、世界には五万といる。ニートが出来るような日本は、まだまだ皮下脂肪の固まりであり、それに安住してしまっているのである。
構造的に不可能に等しい挑戦


■参考リンク
ローカル化する日本〜日本が“アジアの辺境”になる日
日本の強みは東京にある
小浜逸郎ライブラリ



■tabi後記
3日夜まで栃木 宇都宮へ農作業や温泉を堪能していきます。4日から16日までは上海近郊へ旅立ちます。
posted by アントレ at 06:52| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月01日

tabi0330 マキアヴェリ「君主論」

まきゃべりずむ?
17 冷酷さと憐れみぶかさ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか
たほう、人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち絶ち切ってしまう。P99
マキアヴェリ「君主論」(中央公論新社 1995)


25 運命は人間の行動にどれほどの力をもつか、運命に対してどう抵抗したらよいか

わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。P147
マキアヴェリ「君主論」(中央公論新社 1995)


目的のために手段を選ばないでいい。マキアヴェリズムという言葉ほど誤解されてきた言葉はめずらしい。マキアヴェリは「目的のために手段を選ばないでいい」などと一度も書いておらず、『君主論』のどこを読んでもこのような論旨が展開されていない。

むしろ本書を読む限りでは、マキアヴェリは徹底した手段志向であると感じる。彼の論理階層に徹した文章を読めば理解出来る。君主をターゲットにしたビジネス書を読み終えた気分です。

■参考リンク
第六百十夜【0610】2002年09月02日
390旅 マキアヴェリ『君主論』



■tabi後記
入不二さんの書籍あたりから運命論を押さえてみようかな。
posted by アントレ at 17:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0329 岸田秀「ものぐさ精神分析」

幻想と現相の調停をはかる源層はあるか、もしくは原装か
突然奇妙な言動をしはじめるとはたの者には見えるが、発狂した者の主観としては真剣なのであって、これまで無理やりにかぶせられていた偽りの自己の仮面をかなぐり捨て、真の自己に従って生きる決意をしたときが、すなわち発狂なのである。外的自己と内的自己との分裂が悪循環的に進行し、外的自己が内的自己にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達したとき、それまで内奥に隠されていた内的自己が、その圧迫を押しのけて外に表われたのである。内奥に押しこめられて現実の世界との接触を絶たれていた内的自己は、当然のことながら、現実感覚を失っており、妄想的になっている。だから、当人が真の自己と見なしている内的自己にもとづく行動は、はた眼には狂った、ずれた行動と映る。逆に内的自己から見れば、現実の世界に適応し、妥協しようとする外的自己の行動は真の自己を敵に売り渡す行為である。P24
岸田秀「ものぐさ精神分析」(中央公論新社 1982)


本書内で唯幻論を明快に説明しているのが「国家論」「性的唯幻論」「時間と空間の期限」の3論考であると思う。岸田氏は動物と比べて人間の本能はどこか歪んでしまい、補正して生きるために文化や自我が作られた。そして、補正のために幻想を作り出す機能は今でも続いていると語る。

■参考リンク
1086旅 岸田秀『ものぐさ精神分析』



■tabi後記
posted by アントレ at 16:23| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0328 河合隼雄「中空構造日本の深層」

中空は骨抜きにあらず、中空は円環にあらず、中空は・・・
文化比較を行う上で重要なことと考えてきた、父性と母性という観点に焦点をしぼること、多くの対象者に接して統計的な結果を基礎とするのではなく、少数の人にできるだけ深く接して、そこから得た自分自身の感覚を大切にすること、というものであった。そして、自分のいわば主観的体験を大切にしながら、それを補填したり、是正したりするものとして、既にフィリピン文化の研究として出版されている文献を参考にすることにした。それと、文化の底層をなしているもの知るために、フィリピンの神話や民話を読むことにしたのである。P237-8
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)


本書のメインは1章にある。ここで行われている河合氏の考察は『古事記』の冒頭に登場する三神タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、イザナギとイザナミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、神話の中でほとんど無為の神としてしか扱われていないということである。

アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在になっている。これはいったい何なんだ?という疑問であった。

その疑問が立ち上げる前に、河合氏は科学知と神話知がどのように織りなされてきたかを思索しており、そこで感じたことが中心の欠落である。河合氏がこのような認識をもった上で、取り組んだ仕事が中心を埋める作業ではなく、むしろ徹底して中心を「空」にしてく作業/確認であった。

フロイトは、よく知られているように、自分の精神分析学上の発見を、コペルニクス、ダーウィンのそれと類比している。つまり、彼の考えが世に受け入れられないのは、「人間の自己愛に対する重大な侮辱」を意味しているからであると考える。まず、コペルニクスは、地球が宇宙の中心に位置しているという人間の信仰を破壊し、従って人間がこの世界の中心に存在する主人であるという自負を破壊した。続いてダーウィンは人間が動物以外の何ものでもないことを明らかにすることによって、人間のみが他の生物と異なるという考えを破壊してしまった。これに加えて、フロイトは先に「エス」について彼の意見を紹介したように、人間は実のところ「エス」によって生かされているのであって、自分自身の主人公さえもあり得ないと主張したのである。これら三人の天才の力によって、人間は自分を世界の中心におく世界観をまったく打ち壊されてしまったのである。P15
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)


天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三神は、海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の海幸・山幸のことはよく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話にはほとんど語られない。

このことから河合は日本神話は中空構造(中ヌキ)をもって成立しているのではないかと推理し、である。河合は『古事記』の叙述にひそむ神話的中空構造としてズバリ抜き出したのだった。

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河合氏は日本の深層が中空構造をもっていることを、必ずしも肯定しているのではない。そこには長所と短所があると言っている。そこでこんなふうに説明した。

[1]中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。

[2]日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存しうる可能性をもつのである。

河合氏はこのような推理のうえで、日本が中空構造に気がつかなかったり、そこにむりやり父性原理をもちこもうとすることに警鐘を鳴らした。

■参考リンク
第百四十一夜【0141】2000年10月2日 
199旅 『中空構造日本の深層』 河合隼雄
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
日本の神話では、正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで『合』に達することがない。あくまでも、正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっていると考えられるP46-47
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)
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tabi0327 川島武宜「日本人の法意識」

所有と共有の合間に在する、資本を飼い慣らす作法
もちろん、西洋の諸社会においても、道徳や法が社会の現実の圧力に抗しきれず、これに対応して調整をおこない妥協する、という現象は、実際には不可避である。それにもかかわらず、意識や、思想の上では、当為と存在との二元的対立が絶対視され、したがって現実への妥協ないし調整は、日本社会におけるように「なしくずし」にではなく正当性の信念をつくりだすための種々の操作をともなって、抵抗ののちに、断続的な形態をとってあらわれるのを常としているように思われるのである。P45
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


本書において「近代化」という言葉は、支配=服従的な社会関係(或いは集団)の解体と「自由平等」な個人のあいだの社会関係(或いは集団)の成長を意味している。別の表現をもちいれば、特定個人的且つ情動的な制裁の退化と非特定個人的且つ理性的なサンクション(特に、法的サンクション)の成長ということである。

川島氏は、「文字の次元における法」の近代性と、「行動の次元(法の機能)における法」の前近代性とのずれを認識した上で、どのような制度設計が可能となっていくかを提案していく。

日本の伝来的な権利意識のもっとも基本的な特色は、その内容の不確実性・不定量性ということ、および、それと関連しているところの・権利をめぐる規範と事実の分裂・対立が稀薄であるということ、であった。いま、以上に述べたような所有権の意識を、そのような権利意識の基本的特質に照準点をおいて再構成するなら、次のように言うことができる。すなわち、右のような所有権の意識においては、その時その時の事実の状態が権利の規範的内容に影響を及ぼすのであり、したがって、そこでは事実と規範とは明確に分裂し対立しておらず、事実と規範とは、はじめから妥協することが予定されており、言わば「なしくずし」に連続しているのである。P85
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


川島氏は「入会(いりあい)」という概念の重要性についてが指摘している。
入会とは地域住民が一定の範囲の森林や原野や漁場について、そこから発生する資源(木材、薪、魚など)を共有することである。
川島氏は「入会権」の研究をつうじて、それが日本人の共同体構築技術の根幹にかかわるものであることを解明した。この箇所に、ソーシャルキャピタル/パブリックドメインといった概念を連関させてくる人もいるのだろう。

所有物についてどのような行為もなし得るということは、現代においては、所有者である以上当然であるように見える。しかし、このことは近代法(資本制社会に固有の法)の歴史的特質にすぎない。近代以前の社会では、土地、山林、原野、河川等については、それぞれの『物』の性質・効用に応じて、またそれぞれの主体に応じて、限定された異る内容の権利が成立したのであり、(・・・)そうして、それらの権利は言わば並列的に、ひろい意味での『所有』と呼ばれていた(たとえば、地代徴収権者は上級所有権 Obereigentum 或いは直接所有権 dominium directum をもち、地代を払う耕作権者は下級所有権 Untereigentum 或いは利用的所有権 dominium utile をもつというふうに)。だから、一つの物の上に重畳して、いくつもの『所有権』が成立し得たのである。P65
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


このようなあいまいな所有権意識というのは、私的所有権を「所有の原基的形態」とする社会においては、原理的に排除されている。私たちの社会はすべてのものが「個人の所有物」で埋め尽くされている。個人が私的に所有することができないし、するべきでもないものをどのようにして他者と共有するか、その「やりくり」の技術を錬磨してゆくことを通じて、ひとは市民となっていくと考えられている。

■参考リンク
第二百六十七夜【0267】2001年4月10日
仕事納めはラジオ
tabi0010 青木人志「「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人」
313旅 『日本人の法意識』 川島武宜
日本人の法意識について〜21世紀の日本法は如何にあるべきか〜



■tabi後記
入会に付随する「技術」に前近代的を覚えてしまうのは、私たちがネットワーク技術に包囲されているからだろう。単なる「入会(いりあい)」の提唱ではなく、「入会2.0」を実装することが急務となっているのだろう。自身が出来る範囲で実装に励んでいく。
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tabi0326 P・F・ドラッカー「仕事の哲学」

仕事/経営/歴史/変革の哲学を10の言葉に編み直しました

変化を観察しなければならない。その変化が機会かどうかを考えなければならない。本物の変化が一時の流行かを考えなければならない。見分け方は簡単である。本物の変化とは人が行うことであり、一時の流行とは人が話すことである。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


社会生態学の仕事とは何か。それは、通念に反することで、すでに起こっている変化は何か、流行の言葉で言うところのパラダイム・チェンジは何かを問いつつ、社会とコミュニティを観察することである。次に、その変化が一時的なものでなく、本当の変化であることを示す証拠はあるかを問うことである。そして、もしその変化に意味と重要性があるのであれば、それはどのような機会をもたらすのかを問うことである。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


我々は、どこに最終的な問題解決への道があるかを知らないという前提でスタートしなければならない。したがって、不統一、多様性、妥協、矛盾を受け入れなければならない。我々は、一つのことだけは知っている。計画屋の絶対主義的二者択一からもたらされるものは、専制しかないという事実である。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


現存する仕事はすべて正しい仕事であり、何がしかの貢献をしているはずであるとの先入観は危険である。現存する仕事はすべて間違った仕事であり、組立て直すか、少なくとも方向づけを変えなければならないと考えるべきである。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


あらゆる活動にリスクが伴う。しかも昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが、明日をつくることよりも大きなリスクを伴う。イノベーションに成功する者は、保守的である。保守的たらざるをえない。彼らはリスク志向ではない。機会志向である。成功したイノベーションは驚くほど単純である。イノベーションに対する最高の賛辞は、「なぜ、自分には思いつかなかったか」である。
P・F・ドラッカー「変革の哲学」(ダイヤモンド 2003)


優先順位の決定には、いくつかの重要な原則がある。すべて分析ではなく勇気にかかわるものである。第一に、過去ではなく未来を選ぶ。第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。第三に、横並びではなく独自性をもつ。第四に、無難で容易なものではなく、変革をもたらすものを選ぶ。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


現代社会では、もはや直接的な市民性の発揮は不可能である。我々が行えるのは、投票し、納税することだけである。しかし、NPOのボランティアとして、我々は再び市民となる。社会的秩序、社会的価値、社会的行動、社会的ビジョンに対して、再び直接の影響を与えられるようになる。自ら社会的な成果を生み出せるようになる。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


経済開発こそ、我々の時代の中心的課題である。だが今日にいたってなお、我々は誤解したままである。経済開発とは、貧しい人を豊かにすることであると思い込んでいる。我々の課題は、貧しい人たちを生産的にすることである。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


今から二〇年後あるいは二五年後には、組織のために働く者の半数は、フルタイムどころか、いかなる雇用関係にもない人たちとなる。とくに高年者がそうなる。したがって、雇用関係にない人たちをいかにマネジメントするかが、中心的な課題の一つとなる。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


人口が減少する豊かな先進国のすぐ隣に、人口が増加する貧しい途上国がある。人の流れの圧力に抗することは、引力の法則に抗することに似ている。それでいながら大量移民、とくに文化や宗教の異なる国からの大量移民ほど、危険な問題はない。最も深刻なのが日本である。定年が早く、労働市場が硬直的であり、しかも大量移民を経験したことがない。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


■参考リンク
「経営者の条件」まとめ







■tabi後記
経営の未来を予見するドラッカーは自身の思想が衰退期に入ったことを宣言したのだろう。
posted by アントレ at 11:10| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0325 池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」

初心か欲望のエデュケーションか、それとも・・・
人間はオリンピックで世界新を出したり、月にはじめて行ったり、科学的新発見をしたり、新技術を発明したりすることに、実に過大な評価を付ける、ヘンな動物なのである。ほとんどの動物にとっては、新しいことは善い生涯からの逸脱である。P28
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


人はエクスタシーをもとめ、そしてそこに帰着すると満足して安住せずに、飽きる動物である。

規範力が弱くなれば、それから逸脱することは容易である。しかし容易に逸脱できれば、逸脱によるエクスタシーは弱まってくる。だから、あなたがエクスタシーを感じるためには、社会的な規範はもう当てにできず、自分で自分固有の規範を作る他はないのである。P36
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


やがて、規範は形だけものとなり、誰もが信じることができる(できた)物語は消えてゆく。いな、はじめからそんなものはなかったのだ、と立命することによって生じてくるのが「我」というものではないだろうか。

嫉妬を正当化するために道徳をもち出すのは、どんな場合でもつまらぬことだ。あなたはどんな規範でも選ぶ事ができる。それはあなたの恣意的な権利(勝手)である。しかし、他人があなたと異なる規範を選ぶのを阻止する、超越的な(絶対の真理としての)根拠はどこにもないのである。P109
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


基準設定までの修行として今を捨てる者にとって「我」眩しい。その光に鏡をあてるか、合成素材として用いるかが態度といえるものであろう。

所有は一見、人と物の間の従属関係に見えるけれども、実は人と人の間の物をめぐる排除関係なのである。他人がいない所では、所有という観念は発生しない。他人とはもちろんコミュニケーション可能な何らかの規範を共有した他者のことである。全く規範を共有しない人々の間では、所有などという観念は無意味である。P200
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


ここには著者の意図しないところで「我」の一貫性を転覆させるような文言が隠されている。私的所有という神話が解体された世界において、思想とビジョンを設定できるのだろうか。設定するという未来への所作に変更企てることが必要であろうと思っている。有り体に言えば、編定するか。

■参考リンク
モノクロ珈琲:『正しく生きるとはどういうことか』



■tabi後記
2009年は素敵な読書年度でした。そして、元旦から読書会をはじめています。2010年は更新頻度を若干減らしながら、再読した本や、長く付き合えそうな本を公開していきたいと思います。
posted by アントレ at 10:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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