2010年02月25日

tabi0341 ハワード・ジン「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」

負の伝統を鮮やかに暴き出すことにより、英断は下されていく
もしも政府を<改変もしくは廃止>することが国民の権利だとしたら、当然政府を批判することも、国民の権利にふくまれるだろう。

また、昔からの国民的英雄の過ちを指摘しても、若い読者を失望させることにはならない、ともわたしは考える。英雄だと教えられてきた人物のなかにも、尊敬に値しない者がいるのだという真実を語るべきなのだ。P8
ハワード・ジン「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」(あすなろ書房 2009)

本書は1492年のコロンブスのアメリカ発見から2006年のブッシュ大統領の時代までの裏アメリカ史である。アメリカに憧れている人々はもとより「アメリカ人」自身が衝撃を受ける内容であった。しかしそれは、まさしくもう一つのアメリカの顔であり、強者からだけ見ていては歴史の真実は分からないことを私たちに教えてくれる。

コロンブスのアメリカ大陸到達は、先住民族(インディアン)の虐殺と、白人による領土拡大の始まりであり、それに伴う労働力の不足を補うためにアフリカから黒人を奴隷として連れてきたことが、その後アメリカ社会をゆがめ蝕み続ける人種差別問題の発端となった。

また、アメリカ独立宣言は人間の平等と生命、自由、幸福の追求の権利を謳い、民主主義の勝利宣言だと考えられているが、実は少数の富裕層の既得権益を守る宣言であり、先住民、黒人、女性は守るべき対象とされていなかった。

アメリカ史の実態は国内的にはインディアン迫害と奴隷制と身分差別を機軸とする暗黒、対外的には覇権国家として侵略という暗黒の歴史の連続だったのだ。

著者のハワード・ジンは世間的に人気があるから、個人的に溺愛しているからアメリカを研究対象と選んだのだろうか?いや、そうではない。むしろその対象を批判的に再検討すれば自分自身の思考を深めることができる。そのような確信があるからこそ、その対象を選び取ったのだった。

そして、負の伝統を鮮やかに暴くことによって後世の人々に適切な知識を与え、それを基にした判断力を養ってもらいたい。この2つの思いが、彼の研究生活を支えてるのだろうと思うような内容であった。

■参考リンク
"westory" - 書評 - 学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史
弱者が見たアメリカの本当の歴史書評





■tabi後記
今年中にアメリカを経験してこようと思います。
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2010年02月24日

tabi0340 今福龍太「群島ー世界論」

「大陸」という概念に対抗する「群島」というわけではない。その語り方。
いまを覆う、外なる、内なる廃墟。海洋交通によって開けた「近代」という前進する歴史の逆説。海を統括することで大陸原理による世界支配を数世紀にわたって続けた国家の逆説。それらを痛苦とともに負って、歴史を海の姿に反転させること。陸上に具現された秩序や体系ではなく、海面下に沈められていた統一と共鳴関係を歓喜の記憶の波打ち際に浮上させるために。海の凡例
今福龍太「群島ー世界論」


大陸島と大洋島という地理学的イメージは、想像力の場においては、分離と再創造という運動性として認識される。島は、大陸からみずからを分離することで「無人島」として生まれ出、その島の創造のエネルギーを繰りかえす力が、より独立した始原的大洋島の出現を促す。すなわち、「島についての想像力の運動は、島を作り出す運動をやり直す」のである。P79
今福龍太「群島ー世界論」


インディアンや琉球の民における世界は、所有という観念が、無私の贈与がもたらすコミュニケーションへの信頼によって裏打ちされていた。そこで所有することは、寄りつくものをいただき、ふたたびそれをどこかに向けて与えてゆくという行為の連鎖にほかならなかった。

群島世界では、異人はその世界に神話的贈与をもたらす「寄留者」であり、汀に流れ着く異物もまた異世界からの神秘的な「寄留物」「寄物」として深い信仰と崇拝の対象にさえなった。茅ヶ崎をはじめとする日本の「浦」という地勢には、海上の道などの考察がある。

■参考リンク
森のことば、ことばの森
今週の本棚:沼野充義・評 『群島−世界論』=今福龍太・著



■tabi後記
海から陸をみつめるという視点はとても面白い。

坐禅会(3/6 17:00-3/8 11:00)の申し込み完了。起床午前4時 朝晩坐禅 昼は作務、提唱、入浴有り 午後9時消灯。無言の空間にて己から湧き上がる声を聴く時間になりそうです。http://bit.ly/aEfKrr

フリード/ハンソン「小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則」計画はただの予想。利益を上げる方法はあとから見つけるのはNと。ワーカーホリックはヒーロー感覚を楽しんでいるだけ。などの経験談を語る。昼間の仕事を副業にし、平日の数時間/週末を本業にする術も説かれている。
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2010年02月22日

tabi0339 小坂井敏晶「責任という虚構」

規範という錬金術
責任という虚構。大切なのは根拠の欠如を暴くことではなく、無根拠の世界に意味が出現する不思議を解明することだ。どうせ社会秩序は虚構に支えられざるをえないから、より良い虚構を作るよう努力すべきだという意見もある。しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは私の方なのだ。道徳や真理に根拠はない。しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活はありえない。虚構としての根拠が生成されるとともに、その恣意性・虚構性が隠蔽される。人間が作り出した規則にすぎないのに、その経緯が人間自身に隠される。物理的法則のように客観的に根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。これが本書の自らに課した問いだった。P257
小坂井敏晶「責任という虚構」(東京大学出版会 2008)


我々は結局、外来要素の沈殿物だ(と言い切れるときもある)。私の生まれながらの形質や幼児体験が私の性格を作り行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず外部にすり抜ける。犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないか。どうして私に責任が発生するのか。(と問いたくなるときがくる。)

アイヒマンリベットも知ってはいました。人間の自由意志に関連する書籍も幾多と読んできましたが、それらの書籍をベースにした上で世の中と「必死」に接合しながら思考する著者に感銘した次第です。

■参考リンク
障害・介助・ベーシックインカム
翻訳・戦略ブログ
arsvi . com



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

ヴェルナー「べーシック・インカム 基本所得のある社会へ」必要最低限の所得をすべての国民に支給し、人はそれぞれが意義あると観る仕事をする、という構想。労働と所得の切り離しが消費と創造の世界を生み、労働/雇用創出至上主義からの脱却が「不安のない社会」を形成すると説く。

ヴェルナー「すべての人にベーシック・インカムを―基本的人権としての所得保障について」前著は対談本で、本書が単著となっている。財源(付加価値税)や移行過程における社会福祉の扱いなどについて精緻に論をすすめている。

山住勝広/エンゲストローム 「ノットワーキング 結び合う人間活動の創造へ」活動システムにおけるコラボレーションの創発を促すために「結び目づくり(knotworking)」と名づけることが出来る、新たな活動の形態やパターンに焦点をあてた。http://bit.ly/cISNCW

フルフォード「世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン」ベンさんの本を立ち読む。彼はキャラ立ちしてるよね。amazonをみて、09年も精力的に活動されていることを確認。これからもスコトーマ外しに尽力してもらいたい。http://bit.ly/avLjnl

高城剛「オーガニック革命」何を食べるかは単なる趣向やライフスタイルを超えた、アイデンティティの根幹に関わる問題であるとし、自分の健康の先に、自然環境の健康があることを説く。ファーマーズマーケットと出る度に @yusuke51 かあと思いながら読んでました。侵入された!
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2010年02月21日

tabi0338 今福龍太「身体としての書物」

メディアとしての身体、書物としての身体
「書物というイデア」という言葉で、われわれは事物と精神性の統合体としての本というものを想像してみたい。それこそ、書物の本質的な存在様態にちがいない、という直観があるからです。「身体としての書物」というテーマは、「書物というイデア」というテーマと表裏一体のものだと言っておきましょう。P20
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


今福はイデアとは形而上学的な観念や理念ではなく事物と精神性が等号で結ばれるような何かを指す用語であると提示する。その上で「書物」の「BODY」(本質/身体)を探求していく。

持続の書物という言い方で、川を下り、川の流れに全身を浸すようにして『水滸伝』やエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、E・R・クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』といった大部の古典を読むことの根拠を問いかけている。グリッサンは、我々はそこでは霊媒状態にあるのだと思う、と言っています。
(中略)
そして、我々がそこに求めるのは、なによりもまず、今日我々に必要な全体性(トタリテ)の先駆的徴候である。我々はそこに不変数をマークし、どうしてこれらのテクストがそれを予兆したのかを知りたいと思う、とあります。「不変数をマークする」とは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ということでしょう。さらに、それは自分自身の言葉の占いと呼ぶ行為だ、つまり自分自身の言葉の前兆を読む行為だ、ということ。持続の書物を読むことの意味をグリッサンはそのように考えるわけです。P303
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


私が解釈したことは。今福の仕事が辿り着いたのは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ための予行訓練が「書」で行われていたこと!を発見した営みであったいうことである。この点において、素晴らしいさを感じる。

■参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE 身体としての書物/今福龍太



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

松岡正剛「侘び・数寄・余白 」「文」は記憶する 目の言葉・耳の文字・舞の時空・音の記譜-インタースコアとインタラクティブシステムの歴史/日本美術の秘密 白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし/「負」をめぐる文化 正号負号は極と極。いづれ劣らぬ肯定だ-引き算と寂びと侘び

竹沢尚一郎「社会とは何か―システムからプロセスへ」タイトル負けしている。しかし、社会の発明/社会の発見/社会学の発展を網羅し、「世界システムの中で相互規定しあう存在が、自律的に内的に発展している構造とみなされるようになったのは何故か?」という問いへ移行する様は面白い。

関根 康正 (編集) 「<都市的なるもの>の現在」:社会の<中心>に位置する都市と<境界>に位置する都市。過ごす場所としての都市と生きられる場所としての地域。

シリングスバーグ 「グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学」主訳者の明星聖子(カフカ研究者)の解説が面白い。彼女にとっては、嬉しくも悲しい予言の書となった。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。という意味において。外国文学研究者は文学作品の理解が主目的であって学術版編集行為という「文化のエンジニアリング」には関心がない。その無関心さが編集文献学の空洞化に寄与したと言う。明星は解説においてすら「この仕事を好きでやったのではない」と語る。では、何故が彼女を駆り立てたのだろうか。

田坂広志「企画力」人間と組織を動かす力。立案ではなく実現を志向とする営みであり、一人歩きする紙(推理小説)を創ることの気概を説く。具体的には、掴みの起動、ビジョンの追い風、戦略/戦術/行動計画による構造を要件とする。

アレクサンダー・ゲルマン「ポストグローバル」私たちはこれから、『遅くなっていくこと』に慣れていかなければならないのではないか。能、文楽、花火、武術、香道、染織、流鏑馬、日本酒造り……と好奇心に赴くままの体験報告。
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2010年02月20日

tabi0337 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

他者とは「異なる論理空間」の別称にほかならぬか
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえわれわれは、論理の限界にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
5.62 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語れられえず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
5.621 世界と生とはひとつである。
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)P115-6
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(岩波書店 2003)


論理空間とは、現実世界をそこに含むような、可能な状況の総体である。『青本』にはウィトゲンシュタイン哲学の根本洞察が垣間見える。

「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」

また、『論考』以前に書かれた『草稿』において独我論はすでに芽を出している。

歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。
世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。人間の体
はしかし、とりわけ私の体は、世界の他の部分、つまり動物、植物、岩石、等とともに、世界の一部である。


本書の訳者でもある野矢は「『論理哲学論考』を読む」において、現象主義的独我論と存在論的独我論という言葉を用いている。

そして、存在論的独我論について一歩足を踏み込むのがこの問いである。

「いま現在の論理空間において構成された動作主体としての私の通時的同一性と、論理空間の変化に応じて寸断される存在論的経験の主体たる私との関係」

記憶。

その1単語において、自我の同一性を担保できると思える方も少ないだろう。

ここでも立ちはだかるのが「時間」という事態である。

永井均の「独今論」や入不二基義「時間論」に興味をもつのは当然のことなのだろう。この2名もウィトゲンシュタイン哲学に「支配」された者であるのだから。

■参考リンク
第八百三十三夜【0833】03年08月07日
続:同一性・変化・時間
341旅 『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均
342旅 『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン






■tabi後記
Twitterに没頭した数カ月であったが、そろそろBlogに戻ってこようと思う。そして、次は「アナログ」へ向かっていこうと思う。
posted by アントレ at 23:47| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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