2009年03月02日

tabi0085 池上彰「池上彰のメディア・リテラシー入門」

先日、ドイツの児童用の世界地図を入手しました。世界各国の特徴が、可愛いイラストで描かれています。日本はどう描かれているだろうかと思って見ると、そこには忍者、芸者、富士山、お相撲さん、広島のキノコ雲が描かれていました。現代の日本に忍者と芸者!思わず絶句してしまうのですが、私はここで考えました。待てよ。ドイツで日本はそう見られていると知って私たちは憤怒するけれど、では、私たちは、ドイツといったら何を思い出すだろうか、ということです。ソーセージとビールしか思い出さないのではないでしょうか。これが。「ステレオタイプ」な見方というのです。P7
池上彰「池上彰のメディア・リテラシー入門」(オクムラ書店 2008)


リテラシーというのは本来は「読み書き能力」のことを指していました。印刷技術の発達によって、文字情報が多くの人に共有された時代に、情報を正しく受け取るための技術として考えられたのです。

文字に書かれた情報には、直接体験を、いわば完全に離れた形での間接体験として受け取れる特性があります。このような情報を受け取る時に、リテラシーという技術がなければ、部分的な間接経験(さらに編集が行われた)に翻弄され、情報を正しく受け取ることが出来なくなってしまいます。

リテラシー技術の獲得によって「事実は限りない多面体であること。メディアが提供する断面は、あくまでもその一つでしかないということ。」を常に意識すること出来るのです。

 tabi0085.jpg

上記は、いわゆる「リテラシー論」です。世の中の大半はこのような論で満ちており私はその現状に怒りををもっています。笑

リテラシー論はいいます。情報を多面的に情報を捉え、自分が接している情報が部分でしかないことを常に認識しながら情報に接する必要があると。

僕はあえて、「しかし」と言いたい。

なぜ、一面的な情報に頼ってはいけないのか?
そもそも、正しく受け取るとはどういうことか?

こういった論には、相対感/部分感を僕らに与えはしないか?つまり全体があることが前提となった思考である。ある真理が前提とされるメンタリティーが潜まれてはいないかということです。(相対的でしかないのだからというニヒリズムに心を奪われてはしまうかもしれないね)

私はここで、「誰にとって」を考えることが急務であると考える。それが「リテラシーの宛先性」を問うことに繋がる。あなたは、伝える側のリテラシー、受け取る側のリテラシーというものを考えたことがあるだろうか?

相手にとって大事なことは何か?自分の大事なことは何だったか?

各人には、自分の人生を織りなす大事なことがある。あなたにもあれば、私にもある。人は、自分の大事なことを分かってもらいたい、分かってほしい、理解してほしいという欲望がある。

だが、その欲望は聴き手にとっては関係のない話である。それがあなたにとっての大事なことと重なるのか。(大事なことであるかもしれないと思えるか?)この一点が、何にもまして大切なことである。つまり、話し手の大事なこと/受け手の大事なことのお見合いが情報リテラシーの本質である。その擦り合わせには経験と判断基準がいる。好きな女性のタイプがいるように、あなたが好きな/欲している情報のタイプを知ることが最初のステップ。

■ 参考リンク
2chを見る前に、、頭のおかしな人には気をつけましょう
あなたが正しいと思っていることが間違っている26の理由
レポートのコピペがダメな理由とそれを防ぐ意外な方法




■ tabi後記
posted by アントレ at 23:58| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。