2009年05月04日

tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」

苦しみの本質が「思いどおりにならない」ことなら、その原因たる欲望の本質は「思いどおりにしたい」ということであろう。当たり前のことだと言われるだろうが、ここは勘所である。私がこだわるのは、欲望は単に、言わば本能的に「したい」ではなく、「思いどおりにしたい」ことなのだという一点なのだ。食欲と人は言う。腹が減ったから食べたい。よくわかる話である。では、これと「おいしいもの」が食べたい、ということとは同じことなのだろうか。違うであろう。(中略)ここで仮に「腹がへったので食べたい」を食・欲求と言うとすれば、まさしく「おいしいと思うものを食べたい」こそ、食・欲望と言うべきであろう。(中略)「根拠」として絶対者も自己決定も置けないなら、別のもので根拠を代用にする。これがすなわち物の所有である。つまり所有の本質は、物を「思いどおりに、好き勝手に処分できる」こと、つまり自己決定できることなのだ。とすると、こういうことになる。欲望の核心が所有で、所有の実質的意味が自己決定であり、自己決定が「自分であることの根拠」とされうるなら、欲望と所有と自我(自分であることの根拠)は、三位一体のトライアングルを形成する。P50-52
南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」(講談社 2001)

私にとって、この視点は新鮮だった。「食べる根拠はどこにあるのか?」という問いをもつことで根拠づけとしての欲望の扱いを問い直す。問いをもって生きることによって、自我の肥大を抑えつつ、非己との関係をもち自我を薄くしていく。この2つの視点が欲望を飼いならす術(修業)であると。

tabi0126.jpg
根拠付けの分類と仏教(根拠の外部へ)について思索した軌跡

■参考リンク
合田さんの言葉
Argue
何も死ぬことはない



■tabi後記
断絶した未来はタブー(違法・恥・無理)の先にある未来である。
posted by アントレ at 16:03| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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