2009年05月12日

tabi0147 勝間和代「読書進化論」

私たちの脳は無限の可能性があり、その可能性を引き出すには、自分でいろいろな経験をすることがいちばんであると私は考えています。しかし、ひとりひとりの時間には限界があります。他者の経験を疑似体験することができれば、人生はより豊かになるでしょう。できれば、本当はすべての経験を著者本人の口から語ってもらうのがよいのですが、互いに時間にも、交友関係にも限りがあり、そういうわけにはいきません。しかも、亡くなった人からはそれはできなくなります。(中略)その人が何を語ってくれているのかについて、本のフレームワークを確認しつつ、著者に対して「ちょっと、ここのところを教えてくれる?」「ちょっと、そこは違うんじゃないの?」というような感覚で、いろいろな本を読み進めていけばいいのです。P91
勝間和代「読書進化論」(小学館 2008)


本書にはmixiの勝間和代コミュニティーの書き込みが多く用いられています。そのことに内容の「薄さ」を感じる読者がいたようです。(amazonに評価を書く方々)

私はmixiコミュニティーの書き込みに転載する行為は「社会実験」として興味深く感じた。それは、ファンのロイヤリティーを高める行為であり、Webか本ではなく、Webも本もであるという執筆スタイルである。発信の形とコンテンツの創られ方としてメディアを区切るのではなく、双方の特性を生かして(実験してみることで)新たな跳躍を行おうとしているのではないだろうか。

毒書読自については以前も書いたが、他者の考えに頼らないで読書をするというのは中々難しいものです。それは、目的をもって読むという行為自体が「何かを得たい」という頼りが入ってしまうからです。

そこで取り入れたのが、15分ごとに読む本を変えるという読書法です。これによって、自立的(3冊を組み合わせて考える自由)/自律的(時間によって本を手放す自由)な読書ができるようになってきた。そして、もう1つの視は、自分はこの著者に「何を与えられるか」という視点でしょう。亡くなった著者の場合は難しいので、Blogなどで「宛先の籠った」レビューをするのがいいのではないでしょうか。

突然話は変わるのだが、最近考えていることとして「読み手⇔書き手の歴史性」がある。それは良き書き手は良き読み手であったし、読み手であり、読み手であり続けること。良き読み手も良き読み手であったし、読み手、書き手になり、書き手となるかもしれないこと。そして同時代的に同一書/関連書を読み込んでいる人々の連環をつくりたいということかな。そして、パラレル読書をしていて感じた事は自分の中に潜んでいるいくつもの自分を認識できるようなツールであったり、読自前,中,後にはどのような情報が巻き起こっているのか、それを何かの形で表現してみたいと考えている。まあ非常にざっくりしたものです。

■参考リンク
琥珀色の戯言
All About ...+Me
読書から用書へ - 書評 - 読書進化論



■tabi後記
まだまだ不正確なのだが「発書→読書⇔見書→感書⇔発自→読自⇔見自→感自」といった構造を描きつつある。
posted by アントレ at 07:40| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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