2009年05月14日

tabi0154 茂木健一郎/黛まどか「俳句脳」

「山路来て何やらゆかしすみれ草」という松尾芭蕉の句には、一瞬の自然の移ろいを感知している芭蕉という人間性の他には何もない。しかし、山道のすみれに己の詠嘆を「なにやらゆかし」と預けたことを起点とし、その背後に芭蕉の人生の映し鏡ともいうべき世界が広がり始める。「何もない」からこそ「全てがある」という反作用の法則が名句においては成り立つというのが、俳句という文学の実に宇宙的なところだ。
(中略)
私にはこの営みが「言語の起源に遡る行為」に思えてならない。言語から日常の意味をいったん洗い落とし、その語が生まれたばかりの場に立ち返り、原初の輝きを求める。そんな仕事に思えてならない。いうなれば俳句とは、「言語再生」の技術である。言語の再生産により、自分が感じていること、あるいはその世界観、宇宙観を短い言葉で提示できるという、「文字による技術」なのである。P15-16
茂木健一郎/黛まどか「俳句脳」(角川書店 2008)


私にとって、反復的な内省をせまってくる書籍だった(反省)。分かることは変わるということであるが、分かるには分けることが大切になってくる。

私が分かるためには、何によって分けられうのかに依存しているとすると、私は言語(日本語)を通じて世界を捉えている(分かっている)。そして分けるためには日本語の語彙数/分節数が大切になってくる。私はそう考えていた。

だが、今回の読書を通じて、語彙数/分節数と言語に対する生き方の反省を迫られた。それが、本書でいう俳句的生き方という可能世界についてである。

ここでいう生き方の反省というのは、「ある出来事を記述する語彙数を増やせ」ということではない、どれだけの存在を無感していたか。日本言語語を発する者からメッセージを捉えることに励みすぎている自分への戒めとなることである。また、単なる自然主義に陥ることではないと付言しておこう。

語彙数を増やすいうことの例をあげると、春という季節に思いを寄せる思いを表現するために、「春立ちぬ」「春兆す」「浅春」「春爛漫」「行く春を惜しむ」と言うことができる。桜にしても「初花」が満開となり「花吹雪」して、散り敷いて「花屑」、散った花びらが水面に浮いて「花筏」といった表現が行える。

このように目の前に現れている出来事の感じを表現する為に語彙が多いほど、豊かに、深く認識することができる。この行いも非常に大切であろうが、そこにはキリがない。キリがある/キリがないという軸の中で世界を捉えることは的を外しているのではと気付かされたことだ。そこから俳句的生き方が立ち上がってくる。

俳句的生き方とは、道ばたの花/木々/虫などに焦点をあてるといった話ではない。僕はそこに大きな転換をみた。それは、私がどれだけの存在を無感していたか。(それが私でもあった/でもあるのに!)この気づきが良かったのは、私が日本言語話者のメッセージを捉えることに励みすぎていることへの戒めとならなかったことだ。全面的に肯定したうえで、尚かつ否定でもあったということだ。つまり、軸が変わったということである。

私を単なる自然主義に陥らせるわけではなく、ウィトゲンシュタイン齧りにさせるわけでもない、キリがある/キリがない、言内/言外という軸で世界を捉えることではなく、余白内/余白外という気づきを得たこと。そこから俳句的生き方が立ち上がってくる。

「言いおほせて何かある」という芭蕉の箴言を思い出す。この文字に「言外の余剰」「語りえぬもの」といったメッセージを想起してはならないのだろう。これより先のメッセージは今後の思索の中で示していきたいと考えている。

古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉

■参考リンク
今週の本棚




■tabi後記
本書は☆☆☆☆☆にしましたが、一般的には☆☆☆の本だったかもしれない。改めて、書籍評価はその人間の抱え込むもの/人間の状況によってブレブレになると感じた。再読に意義があるのも分かってくる。
posted by アントレ at 15:49| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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