2009年05月15日

tabi0155 釈徹宗「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」

『妙貞問答』の場合、「キリシタンという新しい宗教を理解させるため」と「キリシタンは従来の宗教とは異なったものであり、しかも最も勝れている」ことを語るために、仏教・儒教・道教・神道と比較したのである。しかし、「比較」というプロセスは、ある特定の宗教体系を理解したり説明したりする手法以外にも、意外な機能を果たす。それは、比較する主体の信仰を成熟させるという機能である。
(中略)
中でも、宗教を比較するということは、それ自体、宗教的行為であり宗教体験である。禅僧としてのトレーニングを積んだハビアンにとって、キリシタン信仰を確立するためには、「比較」は避けて通ることができないプロセスだった。そして、間違いなく、彼にとっては他宗教とキリシタンとを比較すること自体が彼の信仰営為だったのである。P112
釈徹宗「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」(新潮社 2009)


禅僧→キリシタンへ改宗→棄教→「野人」という転変を果した不干斎ハビアン。

神も仏も棄てた先にハビアンがみたものは何だったのだろうか。キリシタン時代に護教論として執筆された『妙貞問答』と、転じてキリスト教批判のために発表された『破堤宇子』(はだいうす)。この両書を総合して、神・仏・儒・基の比較宗教学を史上初めて成し遂げた画期的な書として位置づける著者に関心をもって読み始めた。

ハビアンは、仏教の性向である徹底した相対化を体得したうえで、キリスト教がもたらした絶対の神と救済の信仰に魅了されていった。本書でも紙幅を割いて説明されているが、山本七平も不干斎ハビアンに着目した一人である。彼は『日本教徒』の中で「不干斎ハビアンが提示した宗教への態度と感性は、その後の日本人にとって宗教に対するひとつのモデルとなった」と説明している。ハビアンは、キリスト教のうち、自分のその基準に合うものを採用し、基準に合わないものは、実は、はじめから拒否していた。

「聖☆おにいさん」というマンガがある。私は読んだことがないのだが、このマンガがヒット出来ること自体が日本教徒という枠組みに準拠されるのかもしれない。

■参考リンク
「いきなりはじめる」縁起



■tabi後記
的外れだろうが、ハビアンにはパッチワーク/まかない的な精神を感じる。
posted by アントレ at 18:05| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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