2009年05月19日

tabi0162 井筒俊彦「神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開」

言詮不及。それが神秘家の我々にたいする最後の言葉である。このような体験の内実が哲学の対象となり得ぬことはいうまでもない。人間的ロゴスが思惟となり言語となって発動するところ、そこにはじめて哲学は成立するのであるから。しかしながら、その反面に於いて、哲学と神秘主義とは互いに断ちがたい宿命のきずなによって固く結ばれているのである。おもえば人間とはまことに逆説的な存在である。黙々たる瞑想の秘境に帰融しきることこそ神秘家本来の面目であるのに、そしてこの幽遂な境域に於いて直証された事柄が絶対に言詮不及であることを知りすぎるほど知っているのに、それにもかかわらず、彼はあえてこの言詮不及なるものを知解によって論考し言語によって詮表せずにはいられない激しい欲求に駆られることがあるのだ。人間がもって生まれた形而上学的衝迫の不気味な力がここにある。思惟すべく、かつ思惟し得るものごとを思惟するのみでは足りず、かえって絶対に思惟すべからざるものを、絶対に思惟すべからずと知りながら、しかも止むに止まれぬ衝動に駆られて思惟しようと切なくも焦心する、ここに人間的ロゴスの世にも不思議な運命の道があるのだ。P194
井筒俊彦「神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開」(中央公論社 1991)


第一部に続いて、プラント、アリストレス、プロティノスを神秘主義的観点から捉え直す。ギリシア的思惟の底には、密議宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いてるという直覚のもとに書き上げた論考となっている。

井筒氏は、このパトスの地下の声に耳を傾けることを通じて、神秘主義的実在体験の哲学化を意図している。井筒氏の仕事を俯瞰できる者にとっては、大乗仏教/スーフィズムといった歴史的具体例を通じた「神秘主義的実在体験の哲学化」を把握している。

しかし、「井筒的方法論」なるものが確立される前において彼の仕事は奇妙この上ない視点であったのだろう。本書の言葉をつかうなら、井筒氏は「私のギリシャ」(東洋のギリシャ)を見いだしたということである。彼にとって思想とは永遠不易・唯一普遍な哲学的組織体系してではなく、言語や風土や民族性を軸としてその周囲に現象し結晶する流動的な実存的意味構造体として措定されていたのである。

この多用多彩な各言語文化組織を、つまり言語意味構造体を、形成する無量無数の一語一語こそが例外なく一語の意味単位であり、この意味単位が、対象認識の鋳型として働くことによって、存在単位を(一切の存在者を一切の機能)を鋳造し分節するというものであったのだ。

■参考リンク
1005旅 井筒俊彦『神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開』



■tabi後記
今日は、美と言語の分節関係について思索をしていた。
posted by アントレ at 00:15| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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