2009年05月19日

tabi0163 入不二基義「相対主義の極北」

クーンのアイデアにも、科学という活動をパラダイムに内在的なものと捉えるという(1)の側面と、パラダイムは転換することによって複数化するという(2)の側面が読み取れる。さらに、通約部不可能性という概念から分かるように、パラダイムは単に複数なのではない。複数のパラダイムは強い意味で断絶している。この断絶性を、相対主義の基本構図の第三のエレメントとしておこう。P24(1)内在化(2)複数化(3)断絶性

ところで、文化相対主義の言説自体も一つの「文化」の内から発せられるし、言語相対主義の言説自体も何らかの「言語」によって表明される。ウィンチの言説自体もある種の「言語ゲーム」に他ならないし、「パラダイム」についての言説も何らかの「パラダイム」において生み出される。相対主義の基本構図には、実はこのようなループが埋め込まれている。つまり、「内在化が行われ、その内在化したあり方が自体が複数化し、しかも互いに断絶している」ことを見て取る視線自体も、さらに何かへと内在化させられて、超越性を否定される。相対化する作業が、ブーメランのように戻ってきて、その作業自体を相対化する。この第四エレメントを再帰性と呼んでおこう。P26(4)再帰性

ヘルダーの場合には、文化や民族による相対性が、神の摂理の絶対性へとつながるという意味で、相対主義は絶対主義へと通じている。一方、認識の「枠組み」の場合には、その無根拠で自律的な絶対性自体が、当の「枠組み」の成立に相対化されるという意味で、絶対主義が相対主義へと通じている。こうして、相対性を追いかけることが絶対性へと、そして絶対性を追いかけることが相対性へと反転する。この点もまた、相対主義という考え方を構成する重要なエレメントである。この第五のエレメントを、相対性と絶対性の反転と呼んでおこう。P32(5)相対性と絶対性の反転

プロダゴラスの相対主義説ー人間尺度説ーは、単なる人間主義ではなく、このような非-知の次元(神的な領域)へと通じていると考えるべきであろう。つまり、彼の「人間尺度説」は、単純に人間を謳歌することや人間の驕りなどではない。むしろ、その非-知の次元こそが、相対主義・懐疑論・ニヒリズムを駆動させているのではないかと思われる。プロタゴラス的な「人間中心主義」は、非-人間主義によってこそ立ち上がる、逆説的な人間中心主義である。これが、相対主義の第六のエレメントである。P36(6)非-知の次元
入不二基義「相対主義の極北」(筑摩書房 2009)


この時に言及してから暫く経ってしまいました。期待どおり、強靭な思考と出逢えた。

入不二氏は「「私たち」は自らを相対化していく無限運動というあり方をしている」という極北を起点にして、「私たち3」と「未生(私たちが未だ生れぬ状態)」という事態を「アキレスと亀とルイスキャロルの三者関係/マクダガードの時間論/クオリア/ネーゲルの実在論」を題材にして輪郭付けをしていく。

まず、入不二氏は相対主義を論じる準備として6つのエレメントを提示する。この6つのエレメントは、相対主義について思考をしたことがあれば考えられるエレメントであろう。ただ、このエレメントに基づいて「アキレスと亀とルイスキャロルの三者関係/マクダガードの時間論/クオリア/ネーゲルの実在論」を論ずることが出来る様に驚嘆してしまった。

私が相対主義を思索するのは些か処方的であった。論が交わされる度に沸き上がる相対主義。痛快な思索をおこなっているときこそ背後から迫ってくる相対主義。深き意味において「一なるもの」を探究する営みに対して、相対主義という道具立てで迫ってくる「安易な知性」に構える必要があると考えているのだ。本書で触れられるところの、未生/運動体/極北は「一なるもの」への探究と通ずるものがあると感じる。

■参考リンク
入不二基義Wiki



■tabi後記
芸大修士生と議論をしているときに時空間が停止した。それは「複製可能性の喚起」という言葉を発話した時だった。その瞬間に全てが停止した。想起するだけで鼓動が速くなる。一体、あれは何だったのだ。本日、調べものをするなかで「アウラ」「複製技術時代」という概念を思い出す。「私のベンヤミン」が生まれるかもしれない。
posted by アントレ at 20:33| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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