2009年05月19日

tabi0165 井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」

「現実」は一つのテクストだ。「現実」は始めからそこにあるものとして、客観的に与えられたものではなく、人間がコトバを通じて、有意味的に織り出していく一つの記号空間である。だが、コトバには、いま述べたようなアラヤ識的基底がある。コトバを、社会制度としての「言語(ラング)」の側面だけに限定して見る人は、コトバの表層構造だけしか見ていない。そこには、慣習的な意味を担う慣習的な記号のシステムがあるだけだ。そしてまた事実、我々は、通常、コトバを主としてこのような次元で使い、理解している。しかし、もし我々がコトバの深層的意味構造に気づき、それに注意を向けるなら、文化の本源的言語性に関する我々の見方は根本的に変ってしまうだろう。(中略)コトバが文化の源であると言う時、我々は、「コトバ」を、このような意味で、社会制度的「言語」表層からアラヤ識的「意味可能体」の深層に及ぶ有機的構造において理解しなければならない。辞書に登録された語の表層的存在分節のシステムが、それだけで直ちに「文化」を構成する、とは考えないのである。P80-81
井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」(岩波書店 1985)


「人間が絶対の事実だと信じて生きている世界は、実は言語によって意味づけられた相対的世界である。だから、言語が違えば生きている世界も変わるのだ。」このような指摘を耳にしたことはあるだろう。例えば、日本語圏では虹は七色だが英語圏では六色であるとら、イヌイットは「雪」というものを100通りの名詞で表現出来るという指摘である。

本書で井筒氏が論じようとしているのはラング/パロールで語る箇所の先。通常の言語学でいう「言語の意味」の外へ出ていこうとしている。井筒氏は「意味の深み」、意味というものがまさに生成する場所を求めていたのだろう。彼が、古今東西の宗教・哲学テキストに光当てるのは、意味生成の現場を見ようとした人々の思索の足跡を探るためである。そこには、空海真言論、易経、ユダヤ教カバラ思想等が含まれている。

■参考リンク
784旅 井筒俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』



■tabi後記
「意識と本質」を読み通せずにいる。井筒氏との並走が終わることに感慨深さがあることや、「彼の仕事から私は何を学んでいるか?」を吟味していることが歩みを遅めている。
posted by アントレ at 23:09| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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