2009年05月23日

tabi0173 多木浩二「雑学者の夢」

われわれの読書とは記憶や想起のみならず、忘却をも構成要素とする経験ではないかと考えるようになる。忘却とはわれわれが現実の世界を生きている証拠なのかもしれない。しかし最初に読んだときの理解や感動、あるいは理解の困難を克服しようとした経験は無意味だったのか。そうではないということが、読書という経験の不思議なところだ。たしかに細かい意味や個々の文章は覚えていなくとも、ある書物という意味の時空間を通り抜けた経験は無意識のなかに沈殿している。書物は物体ではない。生きている人間の経験のなかで変質もし、消滅もするテクストなのである。再読することは、埋もれた記憶を掘り起こす行為である。かつて読んだ書物の内容だけを思い出すのではない。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することなのである。読書とはわれわれの生命と離れがたいものであり、世界を認識とも分ちがたいものなのである。P165
多木浩二「雑学者の夢」(岩波書店 2004)


図書館で「グーテンベルクの森」というシリーズを発見し、興味深い企画だと思ったので、先日読んだベンヤミンの解説をされていた多木氏の本を読ませて頂きました。

面白い,役に立つ,考え込む,癒される,運命が決まる,新しい世界が見えてくる….人は本と出会うことで心を強く揺さぶられ,それまでとは違う自分を見出します.書物が織りなす〈グーテンベルクの森〉とは,どこまで深く豊かなのでしょうか.様々な分野を代表する案内人が,書物との関わりとその魅力を自由に語ります.
岩波書店 グーテンベルクの森


多木氏はバルト/ソシュール/バンヴェニスト/カッシラー/ベンヤミンといった経路で言語観を形成することで、「名づけることが人の本質」という創世記にみられる言語モデルとフロイトや井筒氏に近いスタンスで思索をされているようです。グーデンベルクの森を彷徨い歩いた雑学者が垣間みた夢から、彼の生き方が滲み出てくるようでした。

1つのお話したとして考えられたのが、引用文章の読書観を歴史観と読み替えてみることです。ある人の経験は時空間を通り抜け、共持的無意識のなかに沈殿し、生きている人間の経験のなかで変質し、消滅するテクストのようである。そのテクストを我々が再読し、埋もれた記憶を掘り起こす行為が「歴史を読む」ということなのでしょう。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することが歴史なのである。



■tabi後記
選書が偏ってきたので、そろそろ変えていこう。
posted by アントレ at 19:40| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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