2009年05月27日

tabi0178 井筒俊彦「コーランを読む」

なぜこの本を読むのか?

今を逃したら読めそうにないというのが本音である。以前からコーランを読み解きたいという思いをもっていた。その思いに「コーラン」の訳者である井筒俊彦へ関心が高まりが作用したことが、イスラム教の聖典を読もうと思った理由である。


7行に360P

本書は、岩波書店が主催した全10回のセミナーを記録したものである。コーランを読む前に解説書を手に取った理由は、井筒さんであれば「どんな言語テクストに対して、どんな解釈学的操作を加えるか」ということを主眼にしながらコーランと対していると考えられたからだ。その視点をもったうえで「コーラン」に立ち向かってみたいと思うのである。

セミナーを記録したものとなっているためか非常に読みやすいものとなっている。しかし、その内容は恐ろしいほどに深い。

それは「コーラン」を「読む」とはどういうことなのか?という問いを徹底的に追求してくからである。その姿勢は114章ある「コーラン」の中でも1章7行だけを解説するところからも分かるだろう。この7行にコーランの全てが凝縮されている。その7行を360ページにもわたって解説していく。


コーランはいかなるテクストか?- 成り立ちと構成 -

コーラン(クルアーン)は、イスラーム教の信徒が声を出して読むべきものである。コーラン(クルアーン)は、読誦すべき聖典という意味をもっている。

コーランは始めから1冊の本の形になっていたわけではなく、切れ切れの短い文章が方々に散らばって保存されていた。その理由は、コーランに記録されている神のコトバ、すなわち啓示は約二十年間にわたって、少しずつ、断片的に啓示が下ってきたからだ。

二十年間に渡る啓示は、マホメットの付き人が羊皮紙の切れ端、動物の骨、石、岩、椰子の葉などに書きとめていた。また、文字に書かずに記憶の形で保存したものも相当あったそうです。このような啓示の断片を編纂したのが、第三代目の教皇(カリフ)オスマーンである。

つまり、私たちが「コーラン」という名で読んでいるものは、西暦七世紀の末に編纂された「オスマーン本」ということです。(メッカ期/メディナ期,編纂順序/啓示順序の逆転については「イスラーム文化」などに詳しい)


コーランをエクリチュールの次元からパロールの次元へ引き戻す

成り立ちと構成をおさえたうえで、井筒氏は「コーランをエクリチュールの次元からパロールの次元へ引き戻す作業」を行う。私のコトバにするなら、読書から読話への地平展開である。「コーラン」を「読む」とは1章7行を読むという事である。この7行に全てが凝縮されている。

開扉ーメッカ啓示、全七節ー
慈愛ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
一 讃えあれ、アッラー、万世の主、
二 慈愛ふかく慈愛あまねき御神
三 審きの日の主宰者。
四 汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
五 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
六 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
七 汝の嘉し給う人々の道を歩ましめ給え。


1行1行の解説は本書にゆずるとして、私が関心をもったことを記して行く。

1つめは名前を呼ぶということは霊的実体にふれるということであり、危険な行為であったということだ。その雰囲気は1行目にあらわれる。ユダヤ/キリスト教においては無闇矢鱈に神/サタンの名前を呼ぶ事はつつしまれている。なぜなら「名」を発するという事は、その霊的実体にふれることであり、召してしまう可能性があると考えられているからだ。

そして2行目にみられる「慈愛ふかく慈愛あまねき御神」は、イスラーム教には「ジャマール」(美,美しさ)の精神が底流していること。そして「ラフマーン(普遍性)」と「ラヒマーン(勘定性)」という慈悲があるのである。ここで注目したいのは、「ラフマーン/ラヒマーン(慈愛ふかく慈愛あまねき)」が神を修飾する形容詞ではなく、神の名であるということだ。

そして、ジャマールという精神に対するのが3行目にみられる「ジャラール」(威厳,尊厳,峻厳)の精神である。この精神が反応するのは、人のプロソワ(対自的存在)側面に対する者だ。プロソワをアンソワ(即自的存在)にもたらすことをジャラールは担っているのだ。


コーランの著者は誰なのか?

ここで考えたいのは「コーランの著者は誰なのか?」ということです。

井筒氏がいうように、コーランの著者はムハンマドによって1クッションをおいているが、それでも神のコトバであるという。モーセもキリストも神の予言者であったがアラビア語で啓示をうけたのがムハンマドである。

神とムハンマドにおける啓示にはガブリエルが翻訳的仲介を担っている。つまり、三項関係のパロール構造が成立しているのである。

「審きの日の主宰者」ー最初に申しましたように、これは概念的なレベルでの表現です。醒めたる意識でものをいっている。(中略)けれども、その陰には、別に二つの表現(あるいは意識)レベルがひそんでいる。(中略)レアリスティックな表現のすぐ下に、物語的な意識の次元が、そしてまたその下にはイマジナルな意識次元がひそんでいて、この三重構造体の表面に、「審きの日の主宰者」といういかにも冷静を装ったような表現が出てきているのです。そこまで読みとらないといけない。「審きの日の主宰者」、つまり最後の審判の日にこれを主宰する神のことか、という程度の読み方ではだめなのです。P268
井筒俊彦「コーランを読む」(中央公論社 1991)


ここに私は上記にあるコーランのレトリック構成「リアリスティック/ナラティブ/イマジナル」に注目した。私はこのレトリック構成が、啓示の3項関係にみられた「ムハンマド/ガブリエル/アッラー」に対応するのではないかと考える。

■参考リンク
762旅その1 井筒俊彦『コーランを読む』
762旅その2 井筒俊彦『コーランを読む』
『コーラン』と『コーランを読む』を読む



■tabi後記
大学事務室が私の履修申請ミスに気がつくことが出来なかっため、卒業のハードルが一段高くなってしまった。あらら。善処をして頂いたので感謝を述べたい。

いや、人生何がおこるか分からないが、これだからこそおもしろいとも思う。

司馬遼太郎が「世に棲む日々」にて、

おもしろき こともなき世を おもしろく(高杉晋作)
すみなすものは心なりけり(野村望東尼)

という歌を記していたが、まさにその心が試されるのだろう。良いストレッチである。中原淳さんが引用してくれた私の言葉ともシンクロしますね。
posted by アントレ at 20:45| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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