2009年05月28日

tabi0179 吉本隆明,糸井重里「吉本隆明の声と言葉」

なぜ吉本隆明/糸井重里に出逢ったのか?

吉本さんの仕事をみていると、私はこの人を避けては通れないなあーと思ってしまう。それは、「言語にとっての美とは何か」「日本語のゆくえ」「共同幻想論」といった吉本の著作に反応するという意味でもあるが、私におとずれる「この避けられなさ」は、彼(ら)との出逢いが影響していると思っている。その出逢いは10年前、つまり中学時代に遡る必要がある。

私が吉本隆明を知ったのはいつだったろうか。それは恐らく「ほぼ日」ではなかった。
糸井重里を知ったのはいつだったのか。それも「ほぼ日」ではなかった。

大学に入ってからは「ほぼ日」を筆頭に吉本隆明/糸井重里の言葉にふれることが多くなってきた。彼らの言葉に触ればふれるほど、彼らの言葉を以前から知っているように、自分で考えた言葉であるように思えてきた。

それからというもの「彼らとの出逢いはいつだったろうか」という問いがやんわりとまとわり付いていた。

私にとって吉本隆明/糸井重里は2人で1人である

先の問いは「悪人正機」という文庫本を手に入れたときに氷塊することになった。

というのも、私がこの本を手に取ってパラパラと読み進んでいくと「私はこの本を読んだことがある!」という強烈なデジャブを抱いたからだ。

それは今まで2人の本に対して感じてきたものとは大きく異なった。ロジック上でのデジャブではなく「本当に再読したことがある」という経験であった。

そのデジャブを遡っていくことで、吉本隆明/糸井重里との出逢いの場所に舞い戻る事ができたのだ。その場所で私は、吉本隆明/糸井重里という1組の存在と出逢ったのだ。

その場所は99年5月中旬から00年1月中旬まで「週刊プレイボーイ」において連載されていた「悪人正機頁」であった。およそ10年前の出来事である。(詳細時期はこのページで判明)

どうしてプレイボーイを立ち読みしていたのかは読者の類推に任せるが、当時「悪人正機頁」を必死に読んでいた記憶は朧げながらのこっている。そして彼らが話していたことは、自らの思考の源泉、いや元ネタになっていることが多分にあるのだ。(気付けばレビューする本とは関係ないところへ突き進んでいるが、それもいいだろう。笑)

言葉の一番の幹は、沈黙です。言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人は関係ありません。P31
吉本隆明,糸井重里「吉本隆明の声と言葉」(東京糸井重里事務所 2008)


吉本が語ることに依拠するならば、私はこの書籍(というよりもCD)に対して「とりあえず聴いてみなよ」としか言うことはない。

であるなら「沈黙」となっていたこと、いや「沈黙」しようと思っていたことを言葉に表出してみることにしよう。今回は「悪人正機」というネタ元を参照しながら、私の思考を探っていきたい。


辿り着いたのは、「死」は自分に属さないという考え方

この考え方は12歳の私には幾ばくかの影響を与えた。祖父が亡くなってからしばらくが経っていたが、私の中では依然と「死」がマイブームになっていたことも関連するだろう。私の関心事は「死ぬこと」と「眠ること」の違いであった。

今、睡眠をとってこのまま起きられなかったらどうしようか?今、いる世界が眠っているときの夢でないといえるのだろうか?という問いが僕を躍起にさせていた。

そのようなマイブームをもつ私に「死が自分のものじゃないってことが言える」という語りかけが到来したのだ。そして、それは十分生きるための「抜け道」になってしまった。(ある意味で、この地点で私の哲学は死に絶えたのだろう)

彼の言葉を聞いて、じゃあ結局、生きる価値はどこにあるんだ?と問いたくもなったが、私はそのように問いはしなかった。というのも、その問いは本当に分からない問いだったからだ。だからこそ気軽に問う事も出来なかった。「悪人正機」の中で吉本はこう語っている。

何で価値があるかなんて、分かんないですよ。分からなくても、ある場合には何かに夢中になってるから、その時間があるから、まあ、間に合っているというか、生きてるほうにいるわけだけれど、生きてどうするんだなんて言われても、そんなの何もないですよね。そんなものないし、あるぞ、みたいなことを言うのはおかしいんじゃないかと、逆にそう思いますよね。P23
吉本 隆明,糸井 重里「悪人正機」(新潮社 2004)


あと2つ。

吉本隆明/糸井重里からもらったことを紹介したい。

1つ目は「根底では普通の人をバカにしないほうがいいということ」。
2つ目は「純粋ごっこはもう仕舞いだ」ということです。


人は「自分は、このようにちゃんとしたことを考えているんだ」と強く思えば思うほど、周りの他人が自分と同じように考えていなかったり、全然別のことを考えていたりすると、それが癪にさわってしょうがなくなることがあります。(私はそうでした。そして、そうなることは今もあります。)

でも、それはやっぱりダメなんだと。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、あっち向いてホイで遊んでいたりするってことを許せなくなってくるっていうのは、何かが間違っていると思えることの大切さ。(この訂正感情の先に政治的次元がまっているわけではない)

2つ目の「純粋ごっこ」というのは、この世は全部ひとりひとりであることである。

中学や高校時代の友人とは疎遠になっていく。それは環境下や志向が大幅に変わるのだから仕方がないことだろう。私は「友だちがたくさんいるよ」と安易に発言する人をあまり信用しない傾向にある。

それは根本的には純粋ごっこは終わっているのであって、純粋ごっこで知り合った「友人」が、現在も「友人」として1人以上いる人間は早々いないと考えているからだ。1人以上いる方は、相当に運が良いのだと思います。

デフォルトはゼロだと私は考えている。社会的関係によって自らは創られ、承認され、形作られるが、結局は人は孤独であるというのが芯にある。12から13才にかけて「週刊プレイボーイ」で学んだのは、「結局、人生というものは孤独の闘い」であるということ。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - テレビと落とし穴と未来と。
ほぼ日刊イトイ新聞 -吉本隆明 「ほんとうの考え」
人間が投影された“話し言葉”を聴く悦び
極東ブログ
A man I love to hate - 吉本隆明の声と言葉





■tabi後記
読自の結果がこのような形に逢着することもあるんだと。
posted by アントレ at 18:52| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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