2009年05月29日

tabi0180 岡本太郎「日本の伝統」

なぜこの本を読むのか?

誰しも青春の書というものがあるだろう。私だったら「自分の中に毒を持て」を青春の書の1つとしてあげる。岡本太郎が晩年に記した著作である。

「何だ、これは!」という彼の咆哮は私をとらえて離さなかった。「何だ、これは!」を駆り立てるモノ、そして「何だ、これは!」に駆り立たされるモノの間に芸術が宿っていると解釈しながら、彼が実践する「自らの命を燃やす実存主義的生き方」に共感していた。

その岡本太郎が、日本、そして伝統と如何に対峙したのか?彼にとって「日本的なモノ」「伝統的なモノ」は如何にうつっていたのか?彼の知見を梃にすることで私の考えはすすんでいくと思ったのだ。


自分の中にドク(読/毒/独)をもて

岡本太郎の生き方はクールであり、セクシーである。ただ留意してほしいのは、一見、実存主義は自分を救ってくれるかのように思える事である。

だが、実存主義ほど苦渋に満ちた生き方は他にない。

なぜなら、実存的に生きるということは、人生の価値を自分の主観で定義するしかないからだ。学歴も、ルックスも、地位も、名誉も、資産も、なにも自分を満たしてはくれない。

他者と比べて「より自分は優れているぞ」という感覚を基底とする相対的なアイデンティティは、どれも偽物とされてしまうのだ。自分自身の命を、自分の手で激しく燃やし続けることでしか、自己の存在理由を確認できないのだ。

これは、ほんとうに孤独で、辛い道である。そして、この孤独な道を選び取った者は、命を激しく燃え上がらせるために、苦境へと苦境へと自らを追い込んでいくしかない。この点は岡本太郎も指摘するところである。

何をすればよいのか、それがわからない、と言うかもしれない。(中略)こういう悩みは誰もが持っている。では、どうしたらいいのか。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生き甲斐がわき起こってくるんだ。情熱というものは、”何を”なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんな力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。失敗してもいいから。何を試みても、現実ではおそらく、うまくいかないことのほうが多いだろう。でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることをすすめる。無条件に生きれば、何かが見つかる。だが、必ず見つけようとガンバル必要もない。(中略)遊び心といってもいい。好奇心の赴くままにといってもいいかもしれない。だが好奇心という言葉には何か、型にはまった安易さを感じる。軽く素直に動けばよいということだ。人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、よろこび、新しくひらかれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。P36-37
岡本太郎「自分の中に毒を持て」(青春出版社 1993)


私は、欺きはかる自分に「毒」を持たせるためには、自分を「読」む必要がある。そして毒により己を殺した後には、「独」が残ると考えている。あなたはそれに耐え続けなければならない。それすらも快感であると思える時まで。


幻としての伝統
伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐しみ、味わうことで終ってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉え返すべきだと考えます。P284
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


実存主義という過酷な精神で伝統を捉えると、そこに己を見いだす事になる。

なぜ肉を食べているのか?なぜ漢字/仮名/片仮名を使用しているのか?今、この地点において私を成立させている生活基盤から伝統を捉えていくという方法である。そして、その地平は「あなた」のものでしかありえない。

むしろわれわれは、近代文化を生んだ西欧によって育てられている。(中略)もし伝統というものが、私が先ほど言ったように現在に生き、価値づけられるものだとするならば、ここでわれわれにとっての伝統の問題はすっかり様相を変えてしまうでしょ。
それは何も日本の過去のあったものだけにはかかわらない、と考えた方が現実的ではないか。なにもケチケチ狭く自分の承けつぐべき遺産を限定する必要はありません。どうして日本の伝統というと、奈良の仏像だとか、茶の湯、能、源氏物語というような、もう現実的には効力をうしなっている、今日の生活とは無関係なようなものばかりを考えなければならないのだろう。P274
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


彼はこのような激烈な意見を述べながら、縄文土器/弥生土器/光琳/庭などを考察していく。それは岡本にとっての伝統であったからだろう。私にとって「縄文土器/弥生土器/光琳/庭」は伝統となりえない。無論、あなたにとってもだ。

だが、私と岡本が共有出来る「伝統」があることも感知出来る。

それは何なのだろうか?それは日本というワードで語れるのか?

しかし、とすると、ちょっとおかしい。われわれにとってアクロポリスも伝統であり、ピラミッドも古代メキシコも神殿も中国・殷周の青銅文化、仏教芸術、ゴシック、バロック、ロマンティスム、すべて伝統であるとするならば、じゃあ、伝統なんてものは無えじゃねえかってことになる。
「伝統」とわざわざ区別してよぶ以上、さまざまある中の、ある一定の何か局限されたものを言うはずで、何でもかんでもみな伝統だなんて、そんなら伝でもなきゃ統でもない。その他のもろもろと区別し、局限する何か、ーそれが何かという問題でしょう。P276
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


松岡正剛は「日本という方法」でこの問題を解消しようとしているが、内田は何と名づけるか?ここは未だ言語化されないでいる。

■参考リンク
306旅 『日本の伝統』 岡本太郎
第二百十五夜【0215】
DESIGN IT! w/LOVE
己の命を燃やす実存主義的な生き方





■tabi後記
言葉にすること、過去をつくること。過去をつくること、現在をつくること。現在をつくること、言葉をつくること。
posted by アントレ at 09:34| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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