2009年06月15日

tabi0185 岡潔・小林秀雄「人間の建設」

小林:わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。

岡:そうなんです。

小林:そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃったのですね。

岡:そうなんです。

小林:わかりました。

岡:裏打ちのないのを抽象的。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない、そういうのを抽象的といったのです。

小林:それでわかりました。P45

岡潔・小林秀雄「人間の建設」(新潮社 1965)


対話は「数学が抽象的になってしまった」という岡潔のつぶやきからはじまっていく。

岡がこの問いをもったのは、マッハボーイの証明と出逢ったからからだそうです。(証明内容を調べようとして分かったのですが「マッハ・ボーイ」は人名ではなく「むちゃくちゃなことをする人」という意味なようです。40年前は注とかないんだなー。)

本書で記載されているところによれば、あるマッハボーイは「アレフゼロとアレフワンの中間のメヒティヒカイト(無限の強さ(濃度))の集合が存在するか」を考察したようです。

「アレフゼロとアレフワンとの中間は存在しない」と「アレフゼロとアレフワンとの中間は存在する」という2つの命題を仮定し、普通にみれば矛盾するとしか思えないことを無矛盾であることをは証明したと。

岡は数学基礎論におけるこの証明に対峙したときに「感情の満足ということ無しには、数学は存在しない」という考えをもつようになったそうです。

そしてこのように語っています。

その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。(中略)だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。P43


彼は「証明は感情の僕であること」を理解してしまった。(そして、そこで歩みをとめてしまったといえるかもしれない)

デフォルトへの怒り・破壊衝動・落ち着き

彼も指摘していることだが、数学は積木細工のようである。いろいろな概念を組み合わせて次の概念をつくる。そこから更に新しい概念をつくるというやり方が、幾重に複雑にんされている。その概念を素朴に観念に戻して、何に相当するのか、ちょっとわからなくなっていると。

私は、このような特殊な体系をもつ数学に好感をもっていなかった。それはゼロベースで参加できることが気持ち良さだと思っていたからだ。

ある対象に気がついた時点で、うずたかく積まれていると、それを崩壊したくなるのは感情としてであるだろう。アインシュタインが「量子」を感情として認められなかったように、私は小学校1年の時に、「加法」を認めたくなかった。しかし「1+1=2がいやだ、いやだ」というだけで代案をもっていない自分が非常に嫌だったことを覚えている。

今も生きるマッハボーイ

「気持ちいい」・「気持ちわるい」ことの汽水域に佇むのが哲学とあると思えてきた。ある人には「気持ちよさ」を哲学にもとめることは「快楽」をもとめることになる。それは科学になる。「気持ちわるさ」をもとめることは「救い」をもとめることになる。それは宗教になるのだろうか。その中間が存在することを証明するのは、もしかしたらマッハボーイなことなのかもしれない。笑

けれど芸術や哲学は域内で息をするという運動であり、脈打つ形式なのであろう。必ずしも「気持ちいい」ものでないことも分かっている。だが、同時に、その木を登ってみたいという感情も生まれる人はいるのであろう。

■参考リンク
第九百四十七夜【0947】
書評 - 春宵十話



■tabi後記
小雨だったので5kmほど走ってきた。身軽になりたい(自分とアイデアを切り離したい)ので自由大学のコンテストに参加しようと思う。
posted by アントレ at 22:34| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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