2009年06月27日

tabi0198 野崎昭弘「不完全性定理」

ヒルベルトによって映えるゲーデル

いくつかの公理と、その公理によって証明された定理を使えば、どんなものでも証明できるという数学体系をヒルベルトは望んだ。そして、彼はそれを実現しようと努力したのである。

ついでながら、ヒルベルトののロマンチックな標語「われわれは知らねばならない。われわれは知るであろう」は、ゲーデルの定理からそれが不可能とわかっているいまでも、私の好きな言葉である。特に「知る」というのが「何となくそう思う」とか「暗記する」ということではなく「理解する」ということであって、「納得するまで根拠をと問う」知性にもとづいていることに、私は感動を覚える。P270
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006


誰しも、大なり小なり「ヒルベルト欲」と「ゲーデル欲」があるのだろうと思う。ここではゲーデル欲だけを取り上げる。

・すべてのxyzについて、x+(y+xz)=(x+y)+z
・すべてのxyについて、x+y=y+x
・ある特別の対象eがあって、すべてのxに対してx+e=x

例えばこれが、僕らの生きている系の話であるとしよう。ゲーデル欲は、このようなテンションなのだ。常に「であるとしよう」とする。

話をすすめると、このような系だとeというのは0しかありえない。だからと言って、上記三つの公理が、e=0でしか成り立たない、ということにはならないのである。

ある系では「+」という記号が「×」という意味で使われているとしよう。(クワス算を想起してもらってかまわない)そうなると、e=1である。

また「x+y」が「xyの大きいほう」を表わす系が存在するとしよう。するとこちらもe=1となる。

さらにある系では「x+y」というのが「xyのうち辞典のあとに出てくるほう」という意味だとする。するとe=その辞典の最初の見出し語ということになる。

どうだろうか?

公理というのは系の前提を生み出すもので「実際そうであるかどうかは関係ない」というの「ゲーデル欲」をなんとなく分かっていただけたであろうか。

ヒルベルトは死んだのか?隠れただけか?

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


限界を示せぬものを求めるために、不完全証明をおこなっていく。ヒルベルト欲を満たすために、ゲーデル欲を開放していく。どちらにも振り切らずに、その循環自体の新鮮さを楽しむことが、大なり小なり学びには潜んでいるのだろう。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
書評 - 不完全性定理



■tabi後記
最近のキータームであるベタ認知とメタ認知。これは、ヒルベルト欲とゲーデル欲に変換できるだろう。
posted by アントレ at 01:22| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こないだ、野崎さんの『詭弁論理学』『逆説論理学』を読んだ。素敵な文章を書かれる方だと思う。

この本持ってるの?もってたら貸してほしいが。
Posted by nozomu at 2009年06月27日 07:49
コメントありがとう。これは借りものです。「ゲーデルの哲学」をもっているので、それを貸しましょう。こちらのほうが良いと思います。

P.S.
次はBlogをリンクしてくださいね。
Posted by 内田洋平 at 2009年06月28日 18:17
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