2009年06月30日

tabi0206 デカルト「方法序説」

モウラアウラ

本書の正確なタイトルは、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(序説)、加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」である。

全体で500ページを超えるこの大著の最初78ページが「方法序説」であり、3つの科学論文集の短い序文となっている。

デカルトは、ありとあらゆる書物を読むことで、真理を獲得できると考えていたが、それによって多くの疑いと誤りに悩まされ、自分の無知を知らされることになってしまった。

デカルトは、この旅にあまりに多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまうと考えていた。それは、過去の世紀になされたことに興味をもちすぎると、現世紀におこなわれていることについて往々にしてひどく無知なままになるということであろう。

以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。

旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこに何らかの利点をひきだすことだ。

というのは、各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。P17
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


モウラになるか。アウラになるか。更に言葉遊びをするならば、「モアウラ(More裏)」という言葉生まれてくる。「ヨリウラ」とは「何より」なのか、「ウラ」は何を示すか。メタファーとして思索してみてほしい。

世界が欲する自分の秩序という視点

「餅は餅屋」を感じきったデカルトは、自分の仕事を「全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できうるかぎり真理の認識に前進していくことである」と確信している。
わたしの第三格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。

したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分だと思えた。P38
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


デカルトを還元主義者の一言で片付けられるだろうか?いや、そういう問いではないかもしれない。

私は彼の著作を読むことで「自身にあるデカルト」を気づこうとてもしたのではなく、デカルトが見ていた地平は「還元主義」だったのだろうか?という違和感があるからだ。

もちろん、問いは謎のままである。

■参考リンク
方法序説×方法叙説
哲学書を無心に読むこと……的
困難は分割せよ・・・ルネ=デカルトの教え



■tabi後記
どうも近音異義語(韻)が引っかかるらしい。
posted by アントレ at 22:35| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。