2009年07月02日

tabi0211 V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」

意味から意身へ
「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。P27
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


フランクルの名は「夜と霧」で知っている方もいるだろう。本書はフランクルがナチスの強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で自らの体験と思索を語った講演集である。

意味が相対化され、解が納得化された時代において「意」とうのは虚しい。このようなニヒリズムが優勢をしめる中で、フランクルは「意」について探究していく。

「意味から意身へ」というフレーズをつくらせてもらったが、彼が伝えたかったのは「意」を味わうくことではなく、「身」で意することなのだと思う。

つまり色も味もなき「意」(人生=世界)を味わおうとしたり、探そうとしたりするのは笑止千万、荒唐無稽な話なのだ。

未来が無いように思われても、怖くはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのですp28
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


意身とは「私は人生にまだ何を期待できるか」から「人生は私に何を期待しているか」という「イミ論的転回」を遂げたときに生ずるのであろう。

■参考リンク
981旅 フランクル『それでも人生にイエスと言う』


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■tabi後記
つぶやき書評になってしまった。
多くを書くまでもないのだろう。

posted by アントレ at 21:23| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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