2009年07月04日

tabi0214 木下是雄「日本語の思考法」

語尾に苦しむ緩衝人
論文のなかで、「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くけれども、じつは「であろう」、「と考えられる」とふくみを残した書き方をしたいのである。これは私のなかの日本的教養が抵抗するのであって、精根において私が逃れるすべもなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう。P105
木下是雄「日本語の思考法」(中央公論新社 2009)


もちろん英語にだって主張の強さややわらげる叙述法はいろいろある。

perhaps,probably,presumably,...というような副詞もあるし、would(やwill)を推量や遠慮の意をこめて使う可能性もある。It seems to me thaat...,I suppose...などという言い方もできる。

だが、欧米人には、論文のなかの推理や主張のような場で、日本語の「であろう」、「と思われる」、「と見てもよいのではないか」に相当する緩衝性のある表現を使う心的習性がないようだ。

こういった推論から、論文などの場で使われる「であろう」は翻訳する手段がない。形式的にぼかした言い方をしてみても<場ちがい>で著者の気持ちは伝わらないーという考えた生まれている。

翻訳不可能性についての話しよりも、自分自身が引用文にある経験をしていることが興味深かった。それは「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くという行為である。まるで「語尾に苦しむこと自体が、ニホンゴを話者の制約である」と宣言されてしまったようだ。

■参考リンク
youngblood


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■tabi後記
八重樫さんとお会いし、彼女が去年書き記した「みること」という論文について話をしました。

論文の流れとしては「なぜ人はモナリザをみたときに「意外と小さかったね」という言うのか?」という問いを起点にし、ベンヤミン(アウラ)→高山宏(ピクチャレスク)→スタフォード(身体の疎外)→荒川修作(建築的身体)を援用しながら、「今・ここ」を論じていている。先験的体験にも、神秘的体験にも回収されない確かな「実感ある見る体験」を探究した素敵な論文だった。
posted by アントレ at 22:06| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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