2009年07月07日

tabi0217 玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」

見性から性見へ
「形なき純粋生命が、全人格的思惟を営みつつある主体者に顕になるとき、初めて人間自体の根本転換、すなわち目覚めが実現する」このなかで、主体者はなにか。さらに具体的には何を指すのか。それがブッタのいう業熟体であり、いわゆる人格的身体である。唯識思想のアーラヤ識もこれにつながるが、単に識というのみでは不徹底である。識も何もかも呑みこんでいる身体がここに問われている。P306

存在の統括体が、業熟体であり、人格的身体である。それは、自己意識も、無意識も一切が融けこんでいる、自己存在の根源体であり、自己の自己なるものである。同時に、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの交わりにおいてこそ現われているものなるがゆえに、宇宙共同体の結節点である。私性中の私性と、公性中の公性との、二つの同時的極点である。P307
玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」(講談社 1986)


禅では全人格的な推理および体得を「見性」と呼ばれている。性を見るとは、確かに体得することであるのだが、そのことが問題であると玉城氏は言うのだ。

なぜなら、見性ではどうしても見る主体が残ってしまうからだと。

実際に残って、元の木阿弥の日常の自己に戻ってしまう。そこで玉城氏は、瞬発的/一時的な神秘体験ではなく、持続的なこととして見性を取り扱っていくことにする。

すると、仏教の根底が「性見」にあるかもしれないと思いはじめたのだ。それから十年くらい経った時に「性が見われる」ということを原子経典の文献で抑えたのである。それが「ダンマ」であり、「如来」であり、「アーラヤ識(能蔵、所蔵、執蔵)」と「マナ識」の関係である。

このような根底の視点から法然・親鸞・空海・道元を同質的に論じていったのが本書である。今までは、法然・親鸞は浄土教として連続しているが、空海(真言)や道元(禅)は、浄土教とは異質的なものと考えられてきた。しかし根底から見れば、まったく同質的であるのだ。

■参考リンク
仏教の根底にあるもの NHK教育テレビ「こころの時代」
覚醒・至高体験の事例集 玉城康四郎氏


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■tabi後記
実際のところは、全く消化しきれていない。久々にスゴい学者に出会った気がします。
posted by アントレ at 09:15| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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