2009年07月08日

tabi0220 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」

Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen !
メフィスト
どんな快楽にも どんな幸福にも満足せず
次々と移り変わる姿を追って 挑み歩く男だったが
哀れなことには最後になって 何ともつまらぬ
空っぽの瞬間を わが手に握っておきたがった。
随分と俺に手を焼かせたが
時間には逆らえず老いぼれて ついに砂の上で往生だ。
時計は止まった

合唱 
時計は止まった! 真夜中のように黙り込んだ。
針は落ちた。

メフィスト 
針は落ちた。<事成れり!>

合唱 
事は過ぎたり。

メフィスト 
過ぎた? 馬鹿な言葉だ
何で過ぎるのだ?
過ぎたも 初めから無いも 完全に同じことだ!
それでは われらが<永遠の活動>はどうなるのだ
造られたものを無へと帰する活動は?
「これにて事は過ぎたり!」ーいったいどんな意味だね?
それならもともと無かったと同然で
その癖 結局は輪を描いて 有ると同じということになる。
むしろそれより俺の気に入るのは 永遠の空虚という奴なのだ。P475-476
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」(講談社 2003)


ギリシャに関するパートでは少々つまづいてしまったが、この本は何度も読むことにしようと決めたときに、全てがスッと入ってくるように感じた。引用したのはファウストが絶命した後、作品も終盤にはいった場面である。

このシーンは、メフィストが契約通りと判断しファウストの魂を奪おうとするが、合唱しながら天使達が天上より舞い降りてくるところだ。その後、天使は薔薇の花を撒いて悪魔を撃退しファウストの魂を昇天させる。

私にはこのシーンが未だに理解出来ていない。一般的な理解は、ファウストが「憂い」に視力を奪われても尚、その意思を捨てずに新しい土地に新しい人々の理想郷を作るおとを惜しまなかったことが救済に値する行為だったという判断です。もちろん真理は闇のなかである。

だが、第一部にも書いたように、ゲーテが対峙したのは「全て」である。その「全て」がこれなのか?と思う。考えとしては、華々しい結末を期待する心性にこたえないということや、メシア的救済といった理解もできるであろう。

しかし、それでいいのか?と思う。私が今のところの理解しているところでは、「それいいのか?」と読者へ想起し続けるための「開かれた結末」だったということだろう。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
Wikipedia ファウスト 第二部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! における「dU」が大切であろう。
posted by アントレ at 20:10| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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