2009年08月07日

tabi0227 武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」

音楽の起源的な構造を想像的に志向する
<音>が肉体にならずに観念の所有となるのは音楽の衰弱ではないだろうか。この私の原則はたぶん変わるまい。が、これはあくまで観念であって、私はこれを具体的な方法に置きかえなければならない。民族学的な面から、その手段を発見するのも一つの方法にちがいない。民謡には美しいものもあるし力あるものもあるだろう。しかし私はそれに素直にはなれない。私は、もっと積極的に現代を音楽の手掛かりとしたい。現代の視点から民謡を・・・などというただし書きはまやかしにすぎない。なぜなら作者はあまりに現代を客観視しすぎる。作者が相手にすべきは真に同時代の思想や感情である。この激しいウズのなかで、おのれをいかし、それを証すことだけが正しく伝統につらなることにはならないか。P35
武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」(新潮社 1971)


武満は、<音>というものに対しては、標本箱の昆虫のように、外部の体裁だけをととのえた安直な秩序に魂を売らなかったのだろう。人間というものは何でも無いわかりきったことを疑問にしてその葛藤に巻きまれてどうにもならなくなってゆく。言うまでもなくそれは、愚かの骨頂なのであるが、この愚かさそのものが人を人たらしめている。それが、好奇心というものであろう。

彼も、既知の分類表にしたがってそれぞれ「概念」の運命をふりあてていけばよかったのだが、ふと立ち止まってしまった。そして、その立ち止まりの原因をも安易に分類しない。分類しないで居続ける「様」が、その応えになっているのだろう。彼の生活/文章がそれを物語っている。

■参考リンク
第千三十三夜【1033】
どうであれ



■tabi後記
山中俊治さんがディレクションする、「骨」展にいってきた。音の中に潜む「骨」を見出すことは、構造把握という生易しいものではないだろう。構造の裏に潜む構想。それを突き詰める精神を垣間みることができた。
posted by アントレ at 07:48| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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