2009年08月20日

tabi0250 高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」

神秘は降りぬことなく、傍らにあり。
松岡:なるほど。その「外にあるものと一緒に走ろうとする覚悟」ですか、それはすごくよくわかる。大切ですね。自分一人で自己瞑想の中で突進してしまうのではなくて、たまたまそこにあるモノたちや気配たちを伴って走る。決して簡単なことではないけれど、それができないとメディテーションという営為はふたたびフロイトの"エス"に戻ったりしてしまう。(中略)

高橋:場所から見離されてしまう。

松岡:まったくそういうことです。自身の心的瞑想状況が「場の濃度」としてスタートせずに、最初っから「場からの自立」になってしまう。いま、大変なヨーガ・ブームや密教ブームが押し寄せつつあるけれど、この「場との同時的伴走力」がだんだんと軽視されているようにおもう。今日の話のはじめの方でも出たけれど、いわゆる"サイキック・マスターベーション"に陥りかねない。P94-95
高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」(工作舍 1979)


笑いについて。本書を読みながら考えたのは、笑いは間に合わせであるということだ。一体何の間に合わせなのか。笑いは、ある人物(ヒトモノ)が、自らの内側(本質/実存/恥部・・)を外側に開いている(曝している)にもかかわらず、私は、その「内側のはかなさ」に答えられないでいる事態への応対、つまり、答えたい何かが裏返って表出してしまったもの。それが、笑いではないかと思うのだ。

アンドレ・ブルトンが「ナジャ」の最終行で「美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」と語っているが、この表現には目眩はあるが、儚さが存在しない。しかし、人はブルトン以上の事が上手く言えないのだ。その時に起きるのが笑いではないか。「そうではなく・・・」の「・・・」が表出された結果であろうと考える。この文章が「神秘と冗談」に結びついているかは定かではない。



■tabi後記
アルファベット27文字で構成される宇宙に甚だ驚きをもつのだが、母語がもちあわせる表意+同音異義語という構成にも同様の驚きがある。そして、いささかの執着がある。
posted by アントレ at 20:54| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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