2009年08月23日

tabi0253 久松真一「東洋的無」

精神的東洋を索めて
仏教の本質的関心は、人間界がいわんや国家がいかに向上発展するかにあるのではなくして、人間界がいかに棄揚されるかにある。したがって、ここにまた、仏教的批判の根本義がなければならぬ。すなわち人間棄揚の立場から、人間が解脱的であるかどうかを批判するのが、仏教的批判の本質でなければならぬ。ただ、人間の立場に立って、人間の歴史的発展を顧慮し、批判するのみならば、仏教的批判とはいわれない。もしそのような批判ならば、道徳的批判となんら択ぶところないであろう。P208
久松真一「東洋的無」(講談社 1987)

「絶望した私が私自身を救う」ということがある。久松はこのようなプロセスを通れば、無は複雑性であることすら感じられるようになると見た。それが「無相の自己」(formless self)というものがあらわれる瞬間であろう。

無そのものが相貌をあらわして、それを自己とみなせる気分に包まれる。これは主体的無ではなくて、無的主体なのであろう。自身が無の底を割って出湧した自己なのである。それゆえそこには、深さ、広さ、長さの次元が同時にあらわれてくる。

「無相の自己」(formless self)は、近代的自己像と闘いつづけてきた西の哲学の成果に、いまなおクサビを打ちこみうる数少ない「東の溌無」なのだろうか。

■参考リンク
第千四十一夜【1041】



■tabi後記
ICC「学びのテクノロジーとデザイン」に参加してきました。農業の領域では、地産地消に拘りすぎることが、コスト高や環境負荷の悪循環へ入ってしまうことがある。リアルタイムに拘りすぎることにも類似するものが見えた。逆に言えば、そこから、解消のアナロジーも同時に見える。
posted by アントレ at 23:23| Comment(1) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
草枕的ですね。非人情の言わんとするあたりもそこなのかと1節ごとに感心しています。
相変わらずの読書量に感服いたしております。
Posted by hamada at 2009年08月24日 00:21
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