2009年08月24日

tabi0254 鈴木大拙「東洋的な見方」

妙なるもの
東洋の人は、すべて何ごとを考えるにしても、生活そのものから、離れぬようにしている。生活そのものに、直接にあまり役立たぬ物事には、大した関心をもたぬのである。そうして、その生活というのは、いわゆる生活の物質的向上ではなくて、霊性的方面の向上である。
それゆえ、この方面を離れないように、物事を考えて進む。庭を作るにしても、何か心の休まるように、品性の高まるようにと構想を立てる。音楽を学ぶにしても、それがどれほど、その人の霊性的面に利することあるか否かと考える。絵をかくにしてもまた然りで、古人は胸に万感の書を収めておかぬと、ほんとうの絵はかけぬといった。美というものは、霊の面から見るべきで、単なる抽象的美をのみ云々すべきでないのである。P29-30
鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波書店 1997)


「東洋的」という言葉を聞くと「西洋的」を想起しています。まず行なわなければいけないことは、この想起の基になっている「地理・風土」という分節単位を滅することであろう。大拙が用いる「東洋的」という言葉は、その実践であろう。彼が示したのは、人に内在する思考形式の1つの形である脱思考の現れである。

それが、大拙は世界の只なかで「無分別の分別」を説いたことになる。彼は、西洋世界に対しては、「分別ではない無分別の分別」を挙揚し、翻って伝統世界に対しては「無分別ではない、無分別の分別」と強調するのである。限りなく相反する概念の中で、のたうち回りながら、圧倒的な実在感を感得すること。それこそが「自由」であると、大拙は語る。

■参考リンク
275旅 『東洋的な見方』 鈴木大拙、上田閑照(編者)
半死半生というより六死四生
松岡正剛の千夜千冊『禅と日本文化』鈴木大拙



■tabi後記
ICCにてグループワークをした際に起点となったのは、参加者と切り離されたところでRTDやらないでよー、でした。RTDに気をとられるあまりにワークへ没頭できない不満。RTDに参加したいのに出来ない不満。この2つが出ましたが、これらはRTDへ主眼があてられすぎた余りに起きたのかもしれません。
posted by アントレ at 09:06| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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