2009年08月24日

tabi0256 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」

利今的な遺伝子
本書の全体を通じて私は、遺伝子を、意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた。しかし、遺伝子は、盲目的な自然淘汰のはたらきによって、あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている。そこで、ことばの節約という立場からは、目的意識を前提にした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった。たとえば、「遺伝子は、将来の遺伝子プールの中における自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合、実際の意味は「われわれが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は、将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させることのできるような挙動を示す遺伝子だろう」ということなのだ。P303
リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(紀伊國屋書店 2006)

ドーキンスは、進化論の誤解釈自然主義の誤謬について触れながら、自身の著作が何を意図していないかを述べている。この部分を読み過ごすと、「ドーキンスは、生物は遺伝子のためのサバイバル・マシンであるとみなした」という予断がかかってしまうのだ。

確かにドーキンスは、生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎないと言っている。そして、このキャッチフレーズが、人々の「ドーキンス像」にいくぶんかの「まやかし」が入ってしまったのだろう。盲目的にプログラムされているのはわれわれだけではなく、地上の生物のすべてであると彼は説明しているが、ドーキンスがこの本で一番説明したかったことは「協力はいかに進化したのか」ということなのである。遺伝子が利己的であることなど、ドーキンスにとっては当然すぎることだったのだろう。

ドーキンスは、第三版のまえがきに、「人生を生きるに値する温かさを、科学が奪い去ると言って非難するのは、途方もなく馬鹿げた間違いである」と言う。彼はその後に、こう説明する。

おそらく、宇宙の究極的な運命には目的など実際に存在しないだろうが、われわれのなかで誰であれ、人生の希望を宇宙の究極的な運命に託す人間など本当にいるのだろうか。もちろん、正気であれば、そんなことはしない。われわれの生活を支配しているのは、もっと身近で、温かく、人間的な、ありとあらゆる種類の野心や知覚である。
 
■参考リンク
第千六十九夜【1069】
分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」



■tabi後記
ドーキンスを問いとして捉えるのは、本来の意図とずれるのであろう。問いとしてもつのなら、「あなたは一個の生命ですか?」になるのでしょう。
posted by アントレ at 12:10| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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