2009年08月24日

tabi0257 ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」

することなく、あるように。
誰もが正当なものとして受け入れるもっともありふれた境界線は、有機体としてのからだ全体を取り囲む皮膚の境界だろう。これは普遍的に受け入れられている自己/非自己の境界線のようである。この皮膚の境界の内側にあるものは、ある意味ですべて「わたし」であり、その境界の外側にあるものはそのすべてが「わたしではない」。(中略)だが、「あなたは自分がからだだと感じますか?それとも自分がからだをもっていると感じますか?」と聞いたとすると、ほとんどの人が車や家やほかの物と同様に、自分はからだをもっていると感じる。P18-19
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


こういった状況にの下では、からだは「わたし」というより「わたしのもの」として存在する。「わたしのもの」とは定義上、自己/非自己の境界の外側にあるものである。そして人は、自らの有機体全体の一局面に、より基本的で親密なアイデンティティを感じる。それは、心、魂、自我、人格などとして知られている「小さな自己」なのである。

ウィルバーは、往々にして人は、原初の境界を探究し、破壊しようとすると語る。それは、臭いのモトを断つ!という姿勢のあらわれだろうか。だが、原初の境界は存在しないのだ。

なぜなら「自分」と呼ばれる内なる感覚と、「世界」と呼ばれる外なる感覚は、同じ一つの感覚の二つの名前だからだ。これは、そう感じるべきというものではなく、そうとしか感じられないことだと、ウィルバーは語る。なぜ、そう感じざるを得ないのだろうか?

統一意識は真の自己には境界がないという認識であり、鏡がその対象を抱擁するようにあらゆるコスモスを抱擁する。前章で見たように、統一意識の最大の障害は原初の境界である。原初の境界は外の世界の体験者としての内側の「小さな自己」という空想を生み、われわれはまちがってその「小さな自己」にのみアイデンティティをもってしまう。だが、クリシュナムルティがしばしば指摘しているように、個別の自己、「内なる小さな人間」は、すべて記憶によって構成されている。つまり、いま、このページを読んでいるあなたのなかの内なる観察者は、過去の記憶の集合体にすぎないのだ。P125
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


このあたりのウィルバーの論運びは、カウンセリング体験を漂わせる。もちろん、ウィルバーやクリシュナムルティは、過去を記憶していることが悪いとはしない。彼らが問題とするのは、そういった記憶がいまの瞬間の「外」に別個に存在しているかのように、すなわちそれらが外の現実の過去の知識を含んでいるかのようにとらえ、それらの記憶との同一化してしまうという事実である。

その事実は、記憶=自己もまた同様に、現在の体験の外にあるように思わせてしまう。そうなると現在の体験である自己が、現在の体験をするようになる。これが「原初の境界」なのである。

■参考リンク
74旅 『無境界』ケン・ウィルバー



■tabi後記
この2日間で松岡正剛、久松真一、岩田寛、鈴木大拙、ドーキンスを読んできたが、今ここでウィルバーによって繋がれた。内震えるような体験が音読の響きと共に去来してきた。これから友人を連れ立って、藤沢烈さんにお会いしにいく。今日は、僕にとって素晴らしい日になりそうだ。
posted by アントレ at 15:29| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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