2009年08月25日

tabi0259 高山宏「アリス狩り」

若い日の自分は本当に面白い他人
ヴィクトリア朝英国への総批判としてひっくり返っていくのも、遅れて来すぎたのか早く来すぎたのか、ともかく「人類の進歩と調和」の社会風潮に置き去りにされた男の、置き去りにされることによって初めてものが見えるようになる、その視のすごみと怨みが深く根づいているがためなのである。誰もが軽薄にしゃべり散らしている傍らで、キャロルはどもるよりなく、やがて赤面して黙りこむしかなかったが、それ故にこそ、「不具の肉体が、その不具性のゆえに他に先立って見なければならない肉体や社会のさまざまな背理や暴力を言葉として対象化するとき、リズムの音楽性によってかろうじて生の恐怖として堰を破ることを耐えているナンセンス詩」、見かけの数学的論理学的に潔癖な言語宇宙の皮膚の下に言わく言いがたい怨嗟と狂気のよじれを秘めた作品ー『アリス』ーを生んだのであった。P24
高山宏「アリス狩り」(青土社 2008)


超人の処女作が新版になっていた。高山氏の研究は、ルイス・キャロル「アリス」に始まり、メルヴィル「白鯨」へと発展していく。そして本書には、彼の学士論文、修士論文が収められているが、既にして超人の様相が垣間見える。

その様相とは、テキストから醸し出されるアイロニカルライフ(隘路似加流来歩)の臭気である。氏のように博物学的知性を持つものは、澁澤龍彦が言うように、イデアに生きず、イコンに生きてるいるように感じる。

言語やカタチの束によって紡げないことを誰よりも了解しながらも、その矛盾へ言葉やカタチ投企していく。直線的ではなく、円環的な振舞いであることを分りながらも尚、関係の糸を紡ぎ合っていく。

その地平において読み手は無事ではいられない。その行為を虚しい感じるとのか、「必死だなおい」と嘲笑するのか、隘路に活路を見出すのか、「そのまま」で居続けるのか、居直るのか。ここには、どうする「の」かを問う切迫性が内在されている。だがしかし、その切迫性に焦せる「の」はイマイチだと感じている。まずは「乗」っからないことだ。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】
■[書物]高山宏「アリス狩り」
あらゆる知がネットワーク状に連鎖する――高山宏さん



■tabi後記
もはや、何を書いているか分らないくらいが楽しいかもしれない。「江戸はネットワーク」ならぬ「シャレはネットワーク」。笑
posted by アントレ at 17:17| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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