2009年08月25日

tabi0260 金子光晴「絶望の精神史」

絶望の傍でみる絶望は絶望だったのか
これからの日本人の生き方はむずかしい。一口に、東洋的神秘とよばれていた不可解な部分を、日本人もたしかにもっていた。腹切りだとか、座禅だとか、柔術だとか、芭蕉の境地だとか、それに、なにかの実用価値か芸術価値があるにしても、それ以上に神秘な、深遠なものと解釈し、日本人の精神的優位を証明する道具に使われたりすることは、日本人自身としても警戒を要することだ。それは、日本人を世界からふたたび孤立させようとする意図にくみすることにほかならない。日本人の無邪気な微笑とか、わからぬ沈黙とか、過度な謙譲とか、淫酒癖とか、酒のうえのことを寛大にみるへんな習慣とか、それがみな島国と水蒸気の多い風土から生まれた、はかない心象とすれば、日本人がしっかした成人として生きてゆくために、自ら反省し、それらの足手まといを切り払い、振り捨てなければならないのだ。そのためにこそ、日本人の絶望の症状を、点検してみなければならない。P32-33
金子光晴「絶望の精神史」(講談社 1996)


金子氏は、自らの海外体験によって日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかを、明らかにしていく。彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じていた。そして、その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別していったのだ。だが、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえなかった。彼らは、サディズムの甘渋い味を知ったのである。

所感としては、金子氏の主張が了解レベルまで落ちなかった。伝わったのは、金子氏はkireているということだけだ。日本人は、どうして下らねえ輩になっちまったのかと。なんでそうなっちまったんだ。その原因はどこからきやがった。それが分ったなら、そのままででいいのかよ?と。そう静かにkireながら、その「根源」を突き止めようとしていく。もちろん、それは簡単ではない。金子氏自らが、実人生を通じて、その生き方を問わざるをえなかったからだ。根源を突き詰めるための自己言及問題である。

問われているのは、液状化する日本を「どのように」述語化するということだろう。河合隼雄さんが仰っている「中空構造」というものが、まざまざと垣間見えてくる。この代替となるのは「アジア統一」的な固体を用意することではない。むしろ液状化する国家と気体化する個人の調整であろう。ノマドのための借国という考えではないかと思う。

■参考リンク
第百六十五夜【0165】
金子光晴『絶望の精神史』を読む
309旅 『絶望の精神史』 金子光晴



■tabi後記
前回参加できなかった座禅会。あれから半年経過し、ついに参加する機会を獲得した。
posted by アントレ at 21:07| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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