2009年08月26日

tabi0263 四方田犬彦「先生とわたし」

わたしと後生、先生となった「わたし」
師は弟子の前で知的権威として振舞いながらも、その一方で、年齢的にも若く、新進の兆をもった弟子に羨望を感じている。条件の整わなかった時代に自分が行なわざるをえなかった試行錯誤を、弟子はしばしば解決してしまう。彼は新しい方法論をもとに、師には思いもよらなかった道に発展してゆく。弟子が自分の道の領域に進出して自己を確立し、かつて自分が教えた領域からどんどん遠ざかってゆくのを、師は指を銜えて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を率直に口にすることを拒む。屈折に強いられたこうした感情は、ときに怒りに、ときに悲嘆に、道を見出す。だが彼は自分のヴァルネラビリティーを公にすることができない。どこまでも師として振舞わなければいけないのだ。その内面の脆さに気づく者は少なく、たとえ誰かがそれに気付いても、畏怖感が前に立ってまず言及しない。P215
四方田犬彦「先生とわたし」(新潮社 2007)


師と弟子が織りなす共同体について綴られたエッセイである。由良君美を起点にしながら、先生の先生、先生としてのわたし・・など複合的に「先生とわたし」を論じていく。その共同体を育むのは、書物のユートピアである。書物は質量をもったオブジェであり、整理カードや検索機に還元できるものではない。書物を情報の集積物としてのみ遇することはなく、非能率的な何物かでなければならなかった。
由良君美はそうした制度的思考の裏をかき、漫画であろうが実験小説であろうが、等しく文化的テクストとして分析の対象とできるような柔軟な思考の学生を、ゼミ生に期待していていたのである。後に繰り返し聞かされたことであるが、ロシア・フォルマリズムの泰斗であるシクロフスキーが説いた、「高位文化が誕生するためには、低位文化の絶えざる振幅が条件である」というテーザが、彼の方法論の根底にはあった。P18

そのユートピアが織りなしたものは、オルタナティブな視点、議論の深化、解釈共同体の構築、要するに熱い諧謔に裏打ちされた人文教養主義である。

■参考リンク
由良君美と四方田犬彦



■tabi後記
師弟論として読むならば内田樹「先生はえらい」、坂口安吾「教祖の文学」、山折哲雄「教えること、裏切られること」などを勧めたい。
posted by アントレ at 22:49| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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