2009年08月27日

tabi0264 道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」

只管打坐・止観駄坐
六ノ二十四 学道の最要は、坐禅これ第一なり
禅師の御教示。
悟りの道を学ぶ上で最も重要なのは、坐禅が第一である。大宋国の人が、多く悟りを得るのも、みな坐禅の力である。文字一つ知らず、学才もなく、愚かな鈍根の者でも、坐禅に専心すれば、長い年月産学した聡明な人にもまさって、出来あがるのだ。したがって、悟りの道を学ばんとする者は、ひたすら坐禅して、ほかのことに関わらぬようにせよ。仏祖の道は、ただ坐禅あるのみだ。ほかのことに、従ってはならぬのだ。P337
道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」(講談社 2003)

この言葉に続いて懐奘(えじょう)は、禅師に坐禅と看語(古人の語録を読むこと)について問う箇所がある。それは、語録や公案を見ている場合、百千に一つくらいは会得できたと思われるときがあるが、坐禅にはそういったものが一切ない。それでも、坐禅を心掛ける方がよいのだろうか?という問いである。

それに対して道元禅師は、少し判ったような気がすることが、仏祖の道から遠ざかることなのだと教示される。人とおしゃべりせず、聾唖者のように、常に独り坐禅することを心がけることを強く説くのだ。

私は、只管打坐という言葉を、止観駄坐であると思っていたことがある。もはや坐ることもなく、万物流転のなるがままに世界を止観せよと受けとっていたのだ。

■参考リンク
懐奘 finalventの日記
426旅 懐奘『正法眼蔵随聞記』



■tabi後記
D・ロッシ「バフチン以後 <ポリフォニー>としての小説」を読んだ時に思ったのは、公案や問答をポリフォニーとして扱うことは可能か?という問いであった。本日、書庫籠り2日目である。
posted by アントレ at 18:26| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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