2009年08月28日

tabi0269 中谷宇吉郎「科学の方法」

われわれはただ賭けるだけである。それが生きることだから。
あるところまでは、実験の制度の範囲内でわかる。その先は、実験の誤差である。誤差の範囲内で一致するのだから、これは一致しているといっていたわけである。誤差の範囲内だから、よろしいというのは、法則の方を先に仮定していたのである。何か不変なものがないと、論理の足場がないので、物質不滅とか、エネルギー不滅とかという足場をつくった。今日物質とエネルギーが互いに転換できるということになっても、その和は不変とするのであって、そういうわくを作っておいて、それによって自然界を見ていく。それでやはり人間的要素はいつまでも附随していることになる。P190
中谷宇吉郎「科学の方法」(岩波書店 1958)

小林秀雄「常識」にも登場する中谷宇吉郎の科学哲学エッセイ。統計的手続きによる納得感と誤差に向き合うことが科学哲学の肝であろう。

物質と普通にいわれているものも、またエネルギーといわれている力みたいなものでないものも、本来ともに、自然界の実態ではなく、人間の頭の中でつくられた概念である。そして自然界の実態は、この両者を融合したところにあって、本来互いに移りかわれるものであったのである。P57


ファラデーはクーロムの法則の遠隔作用を否定して、近接作用の理論をつくり、空間のゆがみを電気であるとした。アインシュタインは万有引力の遠隔作用を否定し、近接作用を採用して、重力を空間のゆがみとした。もちろんこれは、人間が見ている世界であり、自然界に眠りし「イデア」を発掘したわけではない。科学とは、先達の信用の上に降り立った上で、その理論における誤差範囲を狭めること、説明範囲の拡張に努めていくのである。
火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。P89

ある現象が再現可能・くり返し可能であると見なせる根拠は何か、それはその社会のあるグループにおける多数派がそう見なしているから、という以上の答えはないように思える。当たり前の結論のように響くかもしれないけれど、ある現象が科学的、確率的に扱えるものであるか否かは、その時代の社会的合意によって凡そ決まってしまう。

もちろん、多数決でそのようなことを決めたりしたわけではなくて、例えば、サイコロ投げは確率的現象だと暗黙裡に刷り込まれているわけのである。これに対しても「現象の一回起性」に固執する立場からすれば確率的現象ではない、と強弁することも可能である。大森荘蔵の「賭け」という言葉にみられるような考えである。

■参考リンク
私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉
第一夜【0001】
第十八夜【0018】
第六百七十夜【0670】
千早振る日々



■tabi後記
Twitter人口が増えてきた。そうなってくると、逃避したくなる。
posted by アントレ at 10:04| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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