2009年09月02日

tabi0277 池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」

否定する自由 -リベットを超えて-
僕らがいまここで、重要な結論を手にしたことに気づいてほしい。僕らにとって「正しさ」という感覚を生み出すのは、単に「どれだけその世界に長くいたか」というだけのことなんだ。つまり、僕らはいつも、妙な癖を持ったこの目で世界を眺めて、そして、その歪められた世界に長く住んできたから、もはや今となってはこれが当たり前の世界で、だから、これが自分では「正しい」と思っている。そういう経験が「正しさ」を決めている。この意味で言えば、「正しい」か「間違っている」かという基準は、「どれだけそれに慣れているか」という基準に置き換えてもよい。P111
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


人は、錯視をはじめとする錯覚をまざまざと見せつけられると、脳の活動こそが事実、つまり感覚世界の総体であって、実際の世界における実在すると思われている「真実」に懐疑的になっていく。

池谷氏は、そのような脳(人間設計)のでたらめさについて、ゲシュタルト群化原理、パターン・コンプリーション、サブリミナル、方法記憶、バイアス(様々な信念(記憶))といったテーマを用いながら、我々にとっての正しさとは、好きと馴れ程度のものでしかなく、日常生活は作話(意味のでっち上げ)に満ちていると物語っていきます。

そして「我々には自由意志はあるのか?」という問いを高校生に発しっていくのです。池谷氏は、リベットの受動意識仮説を紹介したあとで、自由"否定"論を展開していきます。

手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かしたくなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。この構図は決して「自由意志」ではないよね。自由意志と言ってはいけない。「準備」から「欲求」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。勝手に動かしたくなってしまう。そうじゃなくて、僕らに残された自由は、その意識をかき消すことだから、「自由"意志"」ではなくて「自由"否定"」と呼ぶ。P282
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


私は、ここに、絶対否定即絶対肯定という考えを垣間みた。

■参考リンク
単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイト
池谷さんの本を読む
NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」
「脳をハックする」ための最高の入門書――『単純な脳、複雑な「私」』



■tabi後記
すっかり秋になってきました。
posted by アントレ at 14:08| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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