第三章
賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗(ぬすびと)為(た)らざらしむ。欲す可(べ)きを見ざらば、(民の)心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹(ふく)を実(み)たさしめ、其の志を弱くして、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知ある者をして敢えて為さざらしむるなり。無為を為せば、則ち治まらざること無し。
訳
もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるであろう。もしわれわれが手にはいりにくい品を貴重とする考えをやめるならば、人民のあいだに盗人はいなくなるであろう。もし(人民が)欲望を刺激する物を見ることがなくなれば、かれらの心は平静で乱されないであろう。それゆえに、聖人の統治は、人民の心をむなしくすることによって、人民の腹を満たしてやり、かれらの志(のぞみ)を弱めることによって、かれらの骨を強固にしてやる。いつも人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知識をもつものがいたとしても、かれ(聖人)はあえて行動しないようにさせる。かれの行動のない活動をとおして、すべてのことがうまく規制されるのである。
老子/小川環樹 訳「老子」(中央公論新社 2005)
この章は愚民政策を説いているのではない。老子は、徹底した不干渉主義の政治が人民にとって最もよい政治だと説いているのである。
私たちは、中国を理解する際に、やたらと儒教「論語」を重んじるが、訳者の小川氏は「儒道互補」を説かれている。それは、儒教「論語」と道教「老子」をセットにして中国を理解することである。
内面に確立した道に基づき「治国平天下」を目指す儒家思想を理想主義と形容するならば、自己の外側の道に随順することによって、あらゆる境遇を甘受する道家思想は、現実主義と呼ぶことができる。中国の人々は、この両者を自己の中に併存させながら、状況に応じていずれかを依るべき価値観として選びとり生き抜いていてきたことを理解する必要があるのだろう。
■参考リンク
『老子』老子 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
In Defence of Negative Value
■tabi後記
無事、大学卒業が決まりました。とらわれものなく「道」に従っていこう。