2009年09月06日

tabi0281 ヘッセ「シッダールタ」

汎知の鼓動を確かにするとき
「おん身は賢い、沙門よ」と世尊はいった。おん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きいに賢明さを戒めよ!」仏陀は歩み去った。そのまなざしと半面の微笑は、永久にシッダールタの記憶に刻みつけられた。P39
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


読自者の記した書物である。それは「ヘッセの読書術」を実践していった者の記録である。

自分を読もうと欲する者は、あらかじめ予想した意味のために、記号と文字を軽蔑する。そして、彼らにとって悩ましきは「時間」であった。
よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい!私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びととはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない!罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほかしかたがないとはいえ。ーいや、罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンだよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。P142
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)

一回性への賛美に寄り添ってしまう、一瞬という忘却性。それは記憶となり、文字となり、言葉となり、己を周囲を縛っていく。それが記憶というものに付帯する拘束性と影響力であろう。覚者が悩むべきは時間であった。その悩みから解脱することこそが、読自の旅なのである。
それは知っている、ゴーヴィンよ。気をつけるがよい。その点でわれわれは意見のやぶの中に、ことばのための争いの中に巻きこまれている。愛についての私のことばがゴータマのことばと矛盾していること、一見矛盾していることを、私は否定できない。だからこそ私はことばをひどく疑うのだ。この矛盾は錯覚であることを、私は知っているからだ。私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあろう!いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦にみちたながい生涯をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあろう!P146
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


シッダールタとカマーラとの対話では、静かな避難所を自身の内部にもちあわせてることが、賢き者の条件とされているが、本書の最後には、その避難所すら消えていることに気がつくだあろう。それは「全て」が避難所となされることと、避難をする必要もない心性をもつことの同時性の確保といえるだろう。

■参考リンク
50歳までに読んでおいてよかった本?
230旅 『シッダールタ』 ヘッセ
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
有機的なつながりとは何か?接触時間、頻度、対話の質、いずれでもない気がする。一度たりとも会ったことがなくとも、互いが何をしているか知らなくても、感じてしまう情報はあろうだろうか。我々は、何につながれていないのか、そして、何がつながれる必要があるのだろうか。
posted by アントレ at 20:19| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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