2009年09月10日

tabi0285 宮本常一「忘れられた日本人」

深層としての異型
こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易ではないという感慨を述べると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌を歌うのだ。歌を歌っておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどなぁと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。P24-25
宮本常一「忘れられた日本人」(岩波書店 1984)


一般的に、村里生活者は個性的でなかったといわれている。だが、現代のように口では論理的に時代や自我を語るけれど、私生活や私行の上では、むしろ類型的な者を多く見られるのに比べて、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が多かったのではないか?著者は、そのような「忘れられた異型」に気付かさせてくれる。

本書が描いている世界は「無文字社会の日本」である。つまり、語られてきた日本、あるいは記憶の中の日本といえるだろうか。文化には「記録の文化」と「記憶の文化」という分け方がなされることがおある。

記録の文化は文書・絵巻・建築となり、しっかりと歴史の一時期を告げているものをいう。それは、解読可能な文化である。一方で記憶の文化は、語り継がれ、身ぶりとして継承されてきたものである。漠然とし、語りをする者たちのあいだには食い違いがあったりする。したがって、様々な語りをつなげ、そこからある種の「流れ」を引き出してくる必要がある。著者はそういった語りの束を、1つの「生活誌」として編集することが民俗学のつとめであると考え、実行にうつされたのだろう。

■参考リンク
第二百三十九夜【0239】2001年2月28日
解雇されたので起業します
DESIGN IT! w/LOVE 忘れられた日本人/宮本常一
[掲載]誠Biz.ID書評23号は『忘れられた日本人』



■tabi後記
文字にはなっていない異型の振舞いは、どこにあるのだろうか?この国にはないかもしれない。この球の陸や海やネットワークの中に潜んでいるのだろうか。この時代における「世間師」は実体をもちあわせていないのかもしれない。
posted by アントレ at 13:25| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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