2009年09月22日

tabi0299 プラトン「メノン」

「◯◯とは何か?」とは何か?
ソクラテス:とすると、君みずからの認める事柄から帰結するのは、結局、いかなる行為でも徳の部分をともなえば、それがすなわち徳にほかならないということなのだ。なぜなら、正義をはじめ、そういったひとつひとつのものは、徳の部分であると君は主張するわけだからね。
ーなぜぼくがこういうことを言うかというと、つまり、全体として徳とは何かを言ってくれというのが、僕の要求だったのに、君は徳そのものが何かを言うどころか、どんな行為でも徳の部分をともないさえすれば、それが徳であるなどと主張する。あたかもそれは、徳とは全体として何であるかを君がすでに言ってしまっていて、君がそれを部分部分に切り分けても、ぼくにはすでに理解できるはずだといったような調子だからだ。

だからね、親愛なるメノン、ぼくは思うのだが、君はもういちど振り出しにもどって、徳とは何であるかという同じ問をうける必要があるのだよーもし徳の部分をともなうすべての行為は徳であるということになるならばね。なぜならこれこそ、すべて正義をともなう行為は徳であるとという主張の意味するところなのだから。ーそれとも君には、もういちど同じ問が必要だと思えないかね?ひとは徳そのものを知らないのに、徳の部分が何であるかがわかると思うかね?P40
プラトン「メノン」(岩波書店 1994)


学習想起説に紙幅をとられており、徳の考察、及びそこから派生するイデア、イデアへ到達するための道筋については生煮えとなっている。「国家」への布石となる書籍として読ませて頂いた。

学習想起とは「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」という考えで、魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのであるというものである。

徳は教えられるものか?資質として得られるものか?というメノンの問いに対して、ソクラテスは「そもそも徳とは何か?」という問いを発していく。確かに大切な問いである。だが、この問いによってソクラテスが探求しようしたのは何だったのか?と考える。それはイデアである。この一言で片付けるのは見当違いであると思う。

そもそも「◯◯とは何か?」とは何か?、◯◯に入るのが徳にせよ、創造性にせよ、リーダーシップにせよ、本書でいうところの「たまたま降りてきたもの」なのだろうか。その事を「天啓」や「神の導き」ともいえば、「ひらめき」や「まぐれ」という言葉も宛てがわれている。

■参考リンク
メノンの問いとソクラテスの問い
プラトン「メノン」におけるメノンのパラドックスと想起説
407旅『メノン』プラトン



■tabi後記
10月はアウトプット月間にしてみようか。そのための読みだめをしておこう。
posted by アントレ at 21:31| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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