2009年10月03日

tabi0301 堀井憲一郎「落語論」

読書もまた落語ではないだろうか
落語はきわめて個人的な体験である。これがどうしようもない出発点である。そこにいろんな可能性が秘められており、絶望的な評論の限界がある。落語の評論は、すべて嫉妬から生まれる。落語は音楽である。また落語は言葉で綴られる芸能である。(中略)落語を評論するものにとって、落語は言語になる。演者にとって落語は音であり、観客にとっても音である。でも、ごく一部の「落語を家に持って帰って振り返りたい"執着する者"」にとってだけ、言語なのだ。ここのところにまず評論の悲しい出発点がある。P160-161
堀井憲一郎「落語論」(講談社 2009)


堀井氏の語り方は、実に巧みである。語りの隘路を提示しながらも、自らも語りの世界に身をおいている。言語的執着で抜け落ちるもの示しながらも、己の執着(嫉妬)をあらわにしていく。このような自己撞着な態度が落語なのかもしれない。

確かに落語は言葉だけに絞り込むと論じやすい。だからほとんどの落語論が、『落語で語られたこと』をもとに展開されているのだ。(みなさんがお気づきのように、それは落語だけに言えることではない)

そして残念なことに、その方向で精緻に語られれば語られるほど、落語の根源からずれていく。落語は、常にそういう“近代的知性の分析”の向こう側にいると著者は語る。ではその向こう側とは何だろうか?

堀井氏は、落語は“厄介な存在である人間”をそのまま反映したものであると語る。そもそも矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語であると。その矛盾の中に、或る種の「系」を発見してしまい(勘違いをしていまい)、その概念的魅力を執筆まで忘れない人間が「論」をするものなのだろう。ロゴスへのパトスと、パトスへのログスが垣間見える書籍である。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
このブログをどうしようか考えている。僕は、1日1~3冊読んでいることを表現したかったわけではなかった。読書家と思われる事が最も避けなければいけないところだから。
posted by アントレ at 00:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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