2009年10月06日

tabi0307 三留理男「悲しきアンコール・ワット」

博物館という権威を壊す事実
一般に、現在のカンボジアとベトナム両国の関係は、これまでになく蜜月関係にあるといわれている。ベトナム戦争時代はともにアメリカと戦った盟友であり、カンボジアのポル・ポト恐怖政治を終わらせたのもベトナムである。歴史的にはそのとおりなのだが、一般のカンボジア人は違った見方をしている。彼らはいまもなお、植民地(フランス)時代と同じように、常にベトナムが上で、カンボジアが下、一番はいつもベトナムでカンボジアは常に二番の位置に固定されているような気がしているらしいのだ。P79-80
三留理男「悲しきアンコール・ワット」(集英社 2004)


カンボジア王国はインドシナ半島にあり、国民の90%以上がクメール人(カンボジア人)である。言語はクメール語(カンボジア語)、宗教は仏教(上座部仏教)である。面積は18万1035km2で日本の約50%、人口約1338万人(2008年)となっている。

1884年にフランス保護領カンボジア王国となり、1953年にカンボジア王国としてフランスから独立する。1970年のベトナム戦争の影響を受けて勃発した内戦は、1991 年にパリ会議が開催されるまでの約22年間の長きに及んだ。

そして、1976年から約3年間に渡って続いたポルポト政権の独裁政治および虐殺という歴史を経て、「東洋のパリ」と呼ばれていたほどのカンボジアの文化や社会は荒れ果ててしまった。

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カンボジア政府によると、カンボジアにはアンコールワットの他にも仏教やヒンズー教の遺跡が1000ヶ所以上あり、文化財がたくさん残っている。しかし、植民地支配や内戦など不幸な歴史が折り重なり合い、盗掘が相次いできたらしい。

古くはタイのアユタヤ朝との戦いに敗れてアンコールワットの美術品が戦利品として持ち去られたし、フランスの植民地支配時代にはアンコールの仏像の美しさに魅せられた不心得なフランス人達が遺跡から仏像を切り取ってフランスに持ち帰るなどした。

第二次大戦後に独立を果たしたものの、貧しさのために盗掘はエスカレートし、内戦期やポル・ポト派が国を支配した時代には公然と文化財がタイへ持ち出され、世界中に密輸された。1993年にポル・ポト派とフン・セン派で停戦合意し、その後はカンボジアに平和が訪れ、遺跡の盗掘も止むかと思われたが、事態はそう単純ではないようだ。

というのも現政権の政府軍は、断続的にポル・ポト派を吸収するかたちで成立しており、軍の要職をポル・ポト派の元幹部が担っているらしい。従って地方によっては政権の力が及ばず、賄賂を握らされた軍人達が盗掘を黙認しているケースもあるそうだ。

ここで考えるのは、文化財があるべき場所は、遠い先進国の博物館のガラスケースの中なのか、愛好家の管理の行き届いた金庫の中か。筆者の三留さんは、違う、と言う。

「その地から出土した物は、基本的にはその地に戻すべきではないだろうか。」P161

仏像は寺に、ギリシャ彫刻はアテネの山に、アンコールの文化財は、アンコールの森のなかに。その情景を守ろうとしている人たちの闘いぶりを伝えて、ルポは終わる。この問いは「博物館」という権威にヒビを入れるものとなるだろう。そして読者は思考を迫られる。

話は転じて、このような内戦からの復興・発展に向けて、社会をリードする役割は若者に期待されている。それは、カンボジアの人口の構造としてそもそも若者が多いことに帰すると考えられいるからだ。

同国の人口の70%は、30歳以下であり、52%は18歳以下である。その中でも、国内で一番歴史が深く唯一の王立大学である王立プノンペン大学(Royal University of Phnom-Penh)と、国内で企業に優秀な人材を輩出している国立経営大学(National University of Management)に在学する人たちが注目に値するのだろう。

■参考リンク
portal shit! : 悲しきアンコール・ワット
窪橋パラボラ
東京外国語大学東南アジア課程
カンボジア地図からの旅行
タグふれんず



■tabi後記
降りしきる 雨をかき分け 見初め合う

最近、俳句を何個かつくっているので、載せてみました。
posted by アントレ at 10:30| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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